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源氏物語に登場する、『明石の君』がどうして冬の間にいるのか分かる方がいたら教えてください><

A 回答 (6件)

ほかの3人に春夏秋に入る理由があり、明石の君は空いてるところに入ったってことですかね。


明石の君の身分を考えると六畳低に迎えられただけでも十分ってことでしょうか。

参考URL:http://www12.ocn.ne.jp/~hana37/C7_1.htm
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樺桜の春、橘の夏、秋好の秋ですから、そもそも空いているところは冬しかありませんね。


さらに秋好中宮は別格として、奥さんに順ずる地位の紫の上と花散里とは、身分が違う(下)ということもあるでしょう。
また、このような消去法のような意味だけではなく、万事控えめな明石の君には、冬がぴったりなのだ、とも言えると思われます。源氏は、そこが空いていたからというのではなく、最初から明石上をそこに住まわせる計画だったわけですから、こちらが理由としては近いかもしれませんね。
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私は、NO2の回答、万事控えめな性格からだという


お説に賛成です。それにあえて付け加えて述べます。  明石の君と源氏との間にできた姫君が後宮入りを果たして、帝の寵愛を集めて「明石の中宮」として栄えるこになり、明石の君もそのために幸せを得るという展開が待っており、父明石の入道の悲願も間接的に達成される展開と記憶しております。そして明石の源氏の死後も、幸せな境遇の暗示は、この方だけではありませんか。冬の後には、春が来るのだということでしょうか。
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うろ覚えなのですが、六條院は風水に基づいて、建てられてます。

方角にはそれぞれ、季節や色など、表すものがあって、4人の女性もそれぞれ、特徴で分けてあります。たぶん、大塚ひかりの源氏物語の本に載っていました。
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出家しているということもあるのでは?

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ご質問の「どうして」は、何に対する「どうして」でしょうか?


1 なぜ「明石の御方」のような受領の娘が、天皇の后である「梅壺中宮・秋好中宮」、光源氏の(「乙女」の時点における)事実上の正妻である「紫の上」、桐壺帝の女御・麗景殿を姉に持つ「花散里」と同等に扱われたのか
2 なぜ「明石の御方」=「冬」なのか
疑問点は、上の2つのどちらを想定されているのかな?と思いまして。

1については、やはり光源氏が「明石の御方」を大切に思っていたからでしょう。
平安時代は帝の外祖父になることが権力への近道でした。
帝の外祖父、即ち、娘の子供、自分の孫が帝になることです。
「明石の御方」が「娘を産んでくれた人である」ということも大きいと思います。
確かに明石の御方の父・明石の入道は受領です。
時々、光源氏も受領の身分を見下した態度を取ったり、それを思わせる発言があります(このことから、源氏物語の作者は、自らが受領の娘である紫式部ではないのではないか-という説もあります)。
ですが、元を辿れば明石の入道は、光源氏の母・桐壺更衣の従兄にあたる出自です(ですから光源氏と明石の御方は、ハトコの関係です)。
しかも、明石の入道の父は大臣の位まで上っていますが、桐壺更衣の父は大納言どまり。
明石の御方は、出自の低さを補うためか矜持が高く、同じく気位の高かった元恋人の六条御息所と似ている-と源氏は述懐していますが、実は「美しい」という表現はされていないんですよね。
他の回答者さまが「万事控えめな」とおっしゃっていますが、これは、「分を弁えた」というところからきているのです。

2については、原文から考えても、残っていたのが「戌亥=北西」の一画だったからと読めます。
「八月にぞ、六条院造りはてて渡りたまふ。未申の町は、中宮の御旧宮なれば、やがておはしますべし。辰巳は、殿のおはすべき町なり。丑寅は、東の院に住み給ふ対の御方、戌亥の町は、明石の御方とおぼしお きてさせ給へり。」
まず、六条院の敷地のうち未申(=南西)の一画は、もともと梅壺中宮が母・六条御息所から伝領されたものですからこちらは梅壺中宮の里第となり、梅壺中宮が秋を好むことから、秋に一番美しく見えるような「秋の町」とされています。
辰巳(=南東)は、「殿のおはすべき町」ですから光源氏の主たる住まいです。そこには、光源氏の事実上の正妻で、象徴される色などからも「春」に擬えられる「紫の上」がいます。
そして、丑寅(=北東)は、「橘」に象徴される花散里はイコール「夏」ということになります。
そのように順に書かれて、最後に「戌亥(=北西)の町は…。」となっていますから、残った「戌亥」、残った「冬」ということになってしまいます。
「冬の町」は、『寝殿を設けず、大きな二つの対があるのみ』と解釈され、建物は他の町より小さく、建物の北側には、敷地の半分くらい、松の木の垣を隔てて「御倉町」=倉が並ぶとされています。
建物の大きさも半分くらいで、花の咲かない冬、植物といっても松くらいしかないので、光源氏は、受領の娘である「明石の御方」を見下している-という説もあります。
ですが、「御倉町」に収められている財産の大半は、光源氏のものではなく、(明石の入道から伝領した)明石の御方の財産であり、故に倉に近いところに明石の御方を住まわせた-という説もあるんですよ。

「明石の御方」=冬のイメージだから冬の町-は、微妙に当てはまらないのです。
「明石の御方」は「無季」、でなければ「春以外」が該当してしまうのです。
「明石」で光源氏と出あった季節は秋ですし、「玉鬘」で贈られる衣装は「白」と「紫」。「白」は「西」で「秋」。
生まれた明石は海の近く、都に上っても一旦は大堰という川の近くに住んでいますから、「水」の象徴はありますね。「水」は「北」で「冬」です。
また、「若菜下」の女楽の場面を夕霧が評して「さ月まつ花たちばな橘花もみ実もくしてをしおれるかをりおほゆ」となっていますから、「橘」が象徴する「夏」もイメージされているんですよ。

そうやって考えていくと、この「どうして」は難しい話ですね。

参考までに、明石の御方は、原文中では出家はしていません。
出家したら宮中には上がれませんが、ちゃんと明石中宮(実の娘)のそばで宮中勤めをしています。
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