知覚と知識について自分の経験など具体例をあげて論じなさいという、テスト問題がでるのですが、哲学はちんぷんかんぷんで全くわかりません。どうか助けてください。ほかにも、客観性とは何か?知覚をモデルにして論じなさいという問題もあるのですが・・・・。いずれも身近な具体例を挙げてということなんです。もし教えて頂けるならどちらの問題でも結構ですので教えてください!

A 回答 (4件)

 「感覚」と呼ばれるものがあります。

視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚等々。例えば、赤ん坊は色々なものを口に入れたがります。目でみて関心が生じれば、口に入れて味や感触からそのものの性質を知ろうとしているわけです。口に入れた瞬間に苦かったり、不快だと感じられれば、すぐ口から吐き出し、それは口に入れるものではないという知恵が生まれます。しかし、口に入れて不快ではない場合、飲み込んでしまう誤飲ということもままあり、親が慌てたりするわけです。知識がなく、試行錯誤だけで生きている生き物は、こういうことがあるでしょう。

 一方、知識だけあっても知覚がないと、実感をもって実生活のなかで生きた知恵とはなりません。例えば、10mという長さについて、実際にその長さや高さのあるものをみたり、自分がその距離を歩いたりのぼったりしながら体感し、応用できるものになっていきます。

 知覚と客観性の問題は、主観性と、観念論、唯物論の組み合わせがあります。自分に知覚できる範囲だけしか世界が存在しないというのが、主観的観念論です。自分に知覚できない世界でも、誰か他の人、究極には人知を超えた神が知覚していると説明するのが、客観的観念論です。それに対して、神は存在せず、物体だけが客観的に存在していると説明するのが、客観的唯物論であり、感覚によって生じる知覚や感情さえも、人間の体内にある物質の化学的反応の結果にすぎないと説明します。主観的唯物論というのは考えられません。
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はっきり申し上げてしまうとよく分からないのですが、


知覚することと知識とには、密接な関係がありそうな気はしますよね?
(もっとも、「知覚」の定義にもよるのかも知れませんが...)

例えば、ある対象を、一切知識に頼らずに知覚しようとしたらどうなるか?
と考えてみると、両者の関係が何となくつかめそうな気がします。
また、今度は逆に、ある対象を、全く知覚に頼らずに知る(知識にする)
ということはどういうことか? を考えてみると、また、両者の関係が
見えてきそうな感じがします。

こんなのでは、あまり参考にならない感じですが、何かのヒントになればと
思いまして...

# ところで、知識/知覚の最初の一歩って、どんなだったのでしょうね?
# そして、このような知識/知覚に基づく私たちの客観とは...?

講義を受けていないので何とも言えませんが、「認識論」とか
メルロ・ポンティの『知覚の現象学』とかいうのになるのでしょうか?
キーワードがあると、また回答も得やすいかと思います。
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哲学というのは幅が広い学問で、個々で質問されている内容から推測されることは、かなり現代的な哲学だろうと思われることです。


知覚というのは、しばしば「認知心理学」領域で話題になるものです。ことに、モデルというものを考えるのが、かつての行動主義心理学との大きな差違とも言えましょう。
たとえば、キャバクラへときどき行きますが、それが、「自分の経験」というものです。では、この経験から、「知覚」や「知識」ついてどのようなことが考えられるかということですが、最初についた女の子が可愛いと感じたら、それは知覚に関することです。その可愛さの程度を考えるとき、知識が必要になります。キャバクラのグレードや、立地条件、過去に同じような店で、どのような女の子がいたかという知識が役にたちます。それは、その知識に照らして、そのときの知覚がどのように左右されるかという問題につながります。ここで、「可愛さ」の客観性の問題も、知覚モデルの問題も、おなじような課題だと言うことが分かります。「可愛い」と感じても、すぐに指名しないのは、しばらくすると、次の女の子が出てくることを経験的に知っているからですが、これを知識と呼びます。
また、しばらく待てば、次の女の子が出てきますが、これでは、ゆっくりとくつろいで飲むことができません。そこで、可愛さが同じぐらいだとすれば、そのしばしの時間で彼女らが何を話したかを検証します。これも、知覚に関する出来事です。つまり、話している途中で、ひざに手を置いてくれた女の子は、ボディータッチを嫌がらないかもしれないと言うようなことを考えます。このような知覚で得た情報と知識から、総合的な判断をして、キャバクラ嬢を指名しているのです。ここで、指名率がその店で一番の女の子を「ナンバーワン」と呼ぶのですが、アトランダムなお客さんの指名行動という「投票」による結果です。客観性というのは、主観からはなれた性質を言うのですが、個々人の知覚の「集合」が、「ナンバーワン」という存在をもたらしているとすれば、そういう知覚を投票モデルとして考えれば、それも、可愛さの客観性を示すものとなり得ます。
これは、私の身近な例ですが、mi183さんの身近な例を考えられれば、解答がかけると信じています。
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 よろしくお願いします。

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本音と建前と言う言葉こそありませんが、本心をストレートに言わないということは、どこの国でも少なからずあることだと思います。

(例えば彼女が本当に一生懸命心をこめて作ってくれた料理がイマイチ。でも「おいしいね!」と言ってあげる。これは「本音と建前」と言えるかもしれませんが、べつに日本的なものではないと思います。)

ではなぜ日本だけが、「本音と建前」という言い方で言われ、日本的な概念になったのか?

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Q「自我の目覚め」の具体例を教えて

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そうそう
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演繹というのは、普通は「論理的に正しい推論を行って、一般的原理から特殊な原理や事実を導くこと」をいうのですが、実際の場面では前提から結論を見出すのは難しいのです。
たいていの場合はすでに結論があって前提からそれに至る論理が正しいかどうかを検証することになります。

それはともかく、演繹的推論の例を一つあげてみます。
前提a:私は1000円持っていて、1000円までのものが買える。

この前提が正しいとしてそこから演繹できることは、まず
私は1円のものが買える。(論理的に正しい)
私は2円のものが買える。(論理的に正しい)
・・・・
私は1000円のものが買える。(論理的に正しい)
という1000個の命題(結論)が導けます。

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など、(計算する気になれないほど)多くの命題(結論)が導けます。

また、別の推論を行えば
私は1001円のものは買えない。(論理的に正しい)
私は1002円のものは買えない。(論理的に正しい)
と、無数の結論が見出せますが、普通はこれは「1001円以上のものは買えない」と一般的な命題にまとめます。

さらに初めの推論と新たな推論を組み合わせると
私は100円のものは買えるが、さらに付け加えて901円以上のものを買うことはできない。(論理的に正しい)
などこれまた無数の結論が導けます。
----------------------------------
今度は「買う」という言葉に「所有権を獲得し、所有権にはそれを自由に処分する」という意味が含まれる(と一般的には考えられますね)とするならば、
私は100円のものを買ってそれを自由に処分することができる。(論理的に正しい)
という結論を導けます。以下同様の命題が導けることは自明ですから省略します。

また「持っている」という言葉にも自由処分権があると推論すれば
私はあなたに1000円あげることができる。(論理的に正しい)
という結論が導けますし、このことから
前提a1.私は1000円持っている。
前提a2.私はあなたに100円あげる。
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ここで新たに前提を2つ出します。と言っても「100円のもの」、「600円のもの」という抽象的一般的なことに具体的なことを当てはめただけです。
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いかがですか。これは当初の前提aからは想像もできない結論であるかもしれませんが、実際には当初の前提の中に含まれていたものです。このように一般的な命題から特別な命題を引き出すことが演繹です。ただし、いまの場合には元の前提aに前提a2、b、cを付け加えました(とは言え無理な前提を付け加えたつもりはありません)から特殊な命題を引き出せましたが普通は----------------------の上の部分だけが推論としてひきだせるもので、考えてみればこれは当たり前のことなんですね。

演繹推論によって意外な結論が出て来るというのは、いくつかの前提の組み合わせによることが多いし、一般命題の個別命題(特殊命題)化の仕方によって、当初思われていたことよりも意外な結論がでてくるということでしかありません。

あまり良い例では無かったかもしれませんが、asao2345さんが、「演繹」についてある程度のイメージを持てるようになれば幸いです。

演繹というのは、普通は「論理的に正しい推論を行って、一般的原理から特殊な原理や事実を導くこと」をいうのですが、実際の場面では前提から結論を見出すのは難しいのです。
たいていの場合はすでに結論があって前提からそれに至る論理が正しいかどうかを検証することになります。

それはともかく、演繹的推論の例を一つあげてみます。
前提a:私は1000円持っていて、1000円までのものが買える。

この前提が正しいとしてそこから演繹できることは、まず
私は1円のものが買える。(論理的に正...続きを読む

Qアリストテレスの考える中庸の具体例で疑問があります

参考書では、中庸の具体例として

不足←中庸→過度
のようにあらわすと


臆病←勇気→無謀
鈍感←節制→放埒
卑屈←自尊心→虚栄


がありますが
節制は逆じゃないですか?

欲望の制御が不足すれば放埒になって
過度になると鈍感になるのではないのですか?


それとも、この解釈は
節制をしすぎた生き方はかえって大量の欲望をうみだし放埒な生き方をしかねないからよくない、ある程度節制を緩めて、ある程度の欲を満たすような生き方がいい

節制が欠けた生き方では、既存のあらゆる欲が満たされてしまい、新しい欲に鈍感になりがちだからよくない、ある程度は節制して欲を生み出した方がいい

よって中庸が好ましい


…と自分なりに考えましたが
どのように考えるのが正しいのでしょうか?

Aベストアンサー

徳の項目がないからいけないのです。

勇気は、「恐怖と平然」に関する中庸です。
節制は、「快楽と苦痛」に関する中庸です。

ですから問題ありませんね。
「快楽と苦痛の不足」が鈍感で
「快楽と苦痛の過多」が放埓です。
その間の節制と抽象化される状態にするのが美徳なのだと。


しかしながらあなたの説や解釈はなかなかでした。

何事も具体性が大事です。具体性によって思索に節度が伴います。


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