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お城に関する書物を読んでいると、天守閣とはお城の一部で城主の部屋というような書き方をしているものがありました。これは正しいのでしょうか?
サイト等で調べてみると、天守閣とは領内の中で一番主要な建物と記されているところもあり、少し混乱しています。どなたか分かりやすく教えてて頂けないでしょうか?
できればお城についても、どこまでをお城と言って良いのか教えてください。

A 回答 (6件)

以前、大阪城内で働いておりました。


あくまで大阪城に関してのみ言わせて頂きます。
大阪城で天守閣といえば、

>領内の中で一番主要な建物と記されているところ
です。
つまり、よくTVで映ったりするあのグリーンの屋根のお城ですね。
なので、他のお城の天守閣も後者の方を指すのではと思います。

>できればお城についても、どこまでをお城と言って良いのか教えてください
これは分かりません・・・すいません。
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この回答へのお礼

確かに大阪城の入り口が’天守閣入り口’となっていますね。私は展望できるところが天守閣にあたると思っていました。
それから以前、大阪城へ行ったとき、場内の方に親切にして頂きました。回答を含めてお礼します。ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/14 19:49

そうですね、「天守」は「殿主」とも書かれたりする様に、城主の居る場所でもありました。



しかし本来は「一番主要な建物」の事です。
普段我々が「お城」と言って思い浮かぶのはほぼ全て天守閣です。
物見やぐらとしての意味合い(領土を見渡せる)と城主の居住区としての意味合いの両方があります。
権威の象徴みたいなものですね。

戦国時代~江戸時代の間にも意味合いは変化して行きます。平和な世の中になるにつれ、城は要塞ではなく政庁になって行きましたから、天守閣はより象徴となって行き、同時に二の丸、三の丸を増築して居住の場ではなくなって行った訳です。
(エレベーターの無い時代にいちいち上り下がりしたくないでしょう?)

つまり初期に於いては城主の居住区も兼ねていたが、後期の頃にはすでに象徴と化していた、と言う事です。

城の範囲ですが、本来の要塞としての城は様々な形状がありますから一概には言えない部分があります。
分かりやすく言えば外堀まで、という事になるのですが、この内堀外堀がある構造も中期以降の話であって、いわゆる山城のような自然を利用した要塞の場合は線引きが難しい。
街中に作られた平城でも、城下町の外にさらに塀と堀をめぐらせたりしていると判断が難しくなります。
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この回答へのお礼

外堀→内堀→物見やぐらや城主の居住する場すべてをひっくるめて’城’という事ですよね。
分かり易い回答、有難うございます。

お礼日時:2005/12/14 20:53

私も天守閣について興味がありましたので、以前このサイトで質問した事があります。



http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1381100

その中で回答がありましたように、戦争に備えて堅牢な物見所や指揮所、あるいは武器・食料の保存場所としての役目があったようです。

従って、普段、天守閣の内部で生活する事はなかったと思われます。  お読みになった書物に城主の部屋というような書き方があった、という事ですが、これは誤りでしょうね。

また戦争のための施設ですから、江戸時代に入ってから建設された城には、仙台城のように天守閣が存在しないのが普通のようです。
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この回答へのお礼

同じ質問があったんですね。検索したつもりだったのですが...。
良い回答が沢山届いていますね。勉強になりました。
これも、同じ質問をしていたSea-Breezeさんが、私の質問を見つけてくれたおかげです。有難うございます。

お礼日時:2005/12/14 20:24

最初に天守閣を築いたのは安土城が有名でこの場合は君主の居住所も兼ねた構造で能舞台なども備えたものでした。


勿論それ以前に天守閣に近い観測所兼司令所のような構造をもつ城は信貴山城(松永弾正が築城)などがありましたが本格的なものは安土城が始めてと思います。 その流れをくむ大阪城は居住用の役目もしましたが江戸時代になると居住用として使用される事はなくなりました。
その後は天守閣は居住用でなく、武器弾薬や食料の貯蔵庫として用いられるようになり、戦時の展望台兼司令所のような構造の堅固な作りで最後の守備所の役割を重視したものに移行しました。  この為天守閣内に井戸など給水の設備を備えている城が多いです。

景観上城の中心部に当たりますが普段は無人で守備兵が巡回するだけです。
領主や家族の居住は通常二の丸などに設けられるのが普通でした。
時代の流れで用途や構造も変化したのです。
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この回答へのお礼

なるほど!そういうことですか。
あれ、新たな疑問ができてしまった。
>領主や家族の居住は通常二の丸などに設けられるのが普通でした。
二の丸は居住用に設けられているのですか?本丸は何用??三の丸は???
※自分である程度調べて別途、質問したほうが良さそうですね。
ss79さんぐらい知識があると、お城の見方も変わるんでしょうね。私も勉強します。回答有難うございました。

お礼日時:2005/12/14 20:07

No4の回答で誤解を招く所がありましたので補足します。



江戸城では最初天守閣を備えていましたが落雷などで度々焼失し、再建に莫大な費用を要するので後には再建されなくなりました。
平和な時代なので必要も無くなったためです。

代わりに将軍の居住用の御殿や政治の処理の御殿を建造したわけで、男子禁制の大奥なども付属していました。  将軍の嫡子は西の丸に居住したので「西の丸様」とよばれました。
戦国期の城は戦争の為のものですから、防御を厳重にするためいくつもの櫓や防壁を張り巡らせ主な櫓を本丸、その周辺に二の丸、三の丸などの櫓を建築したのです。
その場合、二の丸には城主の親族(親や息子)を住まわせ守将とすることが多くみられました。

いずれにしても時代の要求により建物の用途も変化したのです。  城の範囲も時代により変化しています。
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信長の安土城だけが「天主」で、他の城は「天守」です。

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