法華経とは何をいっているのですか?
蓮華の花は、開いた時にすでに実を結んでいるものです。また、妙な法であるということです。
また妙法蓮華経の現代語訳が置いてあるページなど、いい所があれば教えてください。宜しくお願いします。

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A 回答 (6件)

 法華経を論ずるに当たっては、すべからく法華経に三種あることを知らなければならない。

第一に釈迦在世および正法時の法華経二十八品であり、第二に像法年間における天台の摩訶止観であり、第三には末法に広布すべき南無妙法蓮華経の五字七字です。
 日本国に御出世の御本仏・日蓮大聖人様が、
 『今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし』
と明らかにお示しのごとく、末法の法華経とは、まことに三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならないのであります。
 したがって、法華経二十八品は、三大秘法の仏法の序文として流通分として用いるのです。
 末法は、白法隠没とされ、釈迦仏法の効力がなくなっております。それなのに、現代語訳を論じ学んだところで、何になるというのでしょうか?

 「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈すれば妙法蓮華経すなわち法華経に帰依(南無)するという意味です。
 日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。
 しかし日蓮大聖人様は、
 「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法禀承事・新編一五九四)
と仰せられ、大聖人様が建長五年四月二十八日に唱え出された南無妙法蓮華経は、いまだ誰も唱えなかったものであると説かれています。
 さらに大聖人様は、
 「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事・新編六八五) とも、
 「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但題目の五字なり」(観心本尊抄・新編六五六)
とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは異ったものであると示されています。
 では南無妙法蓮華経のほんとうの意味はなにかというと、
 「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御義口伝・新編一七六五)
と説かれています。すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう法華経の行者とは日蓮大聖人様にほかなりません。これについて、さらに、
 「本尊とは法華経の行者の一身(いっしん)の当体なり」(御義口伝・新編一七七三)
と仰せられており、法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。
 したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者日蓮大聖人様の当体なのです。
 大聖人様は、
 「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄・新編一二七五)
と私たちに本尊の大切さを教えられています。
 いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派のように、釈尊像を拝んだり、竜神や大黒天あるいは稲荷に向かったり、さらには霊友会や立正佼成会のように死者の戒名に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人様の教えに背く悪業を作ることになります。
 人でも自分と違った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼にあたると同じ理屈です。
 せっかく日蓮大聖人様を崇め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人様の御真意に叶った正しい御本尊に向って唱題すべきです。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

よく来て頂きました。ありがとうございます。
>法は、白法隠没とされ、釈迦仏法の効力がなくなっております。それなのに、現代語訳を論じ学んだところで、何になるというのでしょうか?
 ほんとにそう思います。当時のインドで、仏陀に直接話して欲しいと思います。まぁ無理なんですが、、。古代サンスクリット語で読むのも無理、漢語も無理、累々と時を経て、現代語となったお経に、残る光を読み取りたいのです。日蓮に話をしてもらうことも出来ないし、、、。
>法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。
 日蓮=釈尊 ということですか?それとも日蓮が釈尊の意(法華経)に従っている仏だということですか?
 重要なのは法華経の行者の当体であり、「すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。」ということですか?
 
 つまり、末法の世に、実に生きている仏こそが、南無妙法蓮華経であるということですか?
漢字が読めずに苦戦しましたが(笑)、odd‐artさんの解説をがんばって理解したように思いますがどうなんでしょうか?宜しくお願いします。

お礼日時:2001/12/13 07:45

 見守っていましたが、ご質問に対するストレートな回答が出てこないようですので、書き込みます(部分的にかも知れませんが法華経をお読みのようですので、既にご存じのことかも知れませんが)。


 法華経が何をいっているかについては、古来、「二乗作仏」「久遠実成」の二つがいわれます。前者は、法華経以前の大乗仏教が小乗仏教(=二乗)は成仏できないと非難していたのに対し、二乗でも仏の真実の教え(=法華経)によって成仏できると説くもの。後者は、歴史上の釈尊は八十歳でお亡くなりになったけれど、それは後代の人々を救うための手法であり仏の本当の寿命は遙か昔から今に至るまで継続しているというものです。
 蓮華については「不染世間法如蓮華在水」と経文にあり、泥の水の中から美しい華を咲かせる蓮華のように法華経の菩薩は世間の悪法に染まらない、という意味です(下記URLで解説しています)。「妙法」については一番の方が紹介しておられたURLにもありましたが、現代日本語で言う「妙な」という意味ではなくて、「正しい教え」を意味するサッダルマというサンスクリット語(古代インド語)を中国語に翻訳する際に「妙法」と訳したものです。
 法華経の現代語訳については、残念ながらネット上で公開されている例を知りません(多分ないのでは)。一番の方が紹介しておられた本の他に入手しやすいものを挙げるなら、岩波文庫に全三巻で収録されていますし、もう少しすれば中公文庫の「大乗仏典」シリーズとして全二巻で刊行される予定です。
 以上、お役に立てば(odd-artさんとの会話は興味深く拝見させていただいてます、どうぞお続けください)。

参考URL:http://backno.mag2.com/reader/BackBody?id=200009 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
仏の命が永遠であるということを言っているのはわかったんですが(知ってるだけです。)、小乗も成仏できるということもあったんですね。もとより法華経は、一切衆生を成仏させるものらしいので、小乗も大乗も関係ないですよね。
 しかし、参考URLの蓮華の花のお話はたいへん参考になりました。ありがたい話ですね。その通りだと思います。
>法華経の現代語訳については、残念ながらネット上で公開されている例を知りません
 ついに、「やさしい法華経物語」というのを見つけました。かなり読みやすかったですね。案の定、分からなかったんですが、。(笑
http://www.sunlotus.org/index.html
このページはいいですよ。綺麗でまとまってるし。ここのお話し(tale)というカテゴリにあります。
もしよろしければご一読ください。薬王の話とか、じゆの菩薩の話もありました。
>以上、お役に立てば
非常に参考にさせて頂きました!書籍の方も、機会があれば手にとって見たいです。ありがとうございました。
   

お礼日時:2001/12/19 09:46

 どうも勘違いをされておられるようであります。


 釈尊は、末法に御出現されてはいません。幸福の科学、GLA等では、上手く、自分達を仏陀と称しておりましたが、そのような証拠などはありません。
 仏教では、文証・理証・現証の証拠により論じます。
 末法というのは、釈尊が亡くなってから、五五百歳をいいます。
 何度も述べますが、法華経二十八品は、三大秘法の仏法の序文として流通分として用いるのです。 ゆえに、日蓮大聖人様の「御書」こそ、われわれの正依であり、一切の思想哲学の根本と拝さなければならないものであります。
 仏教は、因果の理法を無視するキリスト教等の造物神を邪宗としております。
 本当に、正法正義を求められるのなら、我見にとらわれず、しっかりとした御指導と御本尊によらなければと存じます。
 もう、この地球上等においても、(法華経というのは)「南無妙法蓮華経」しかないのです。他にあるとしたら、それは邪宗教の教義だからであります。
 日蓮正宗では、他宗教を邪教として破折しております。
 どうも、殆んど御理解されておられないご様子ですが、これは難信難解であり、「信」を持って知るしかありません。
 他宗教を信じられておられるようでは、到底、無理からぬことでありましょう。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

>釈尊は、末法に御出現されてはいません。
 うおーっ!これは僕のすごい勘違いじゃないですか!?
>日蓮大聖人様の「御書」
 これはどうしたら知れるのですか?調べて見ます。
>どうも、殆んど御理解されておられないご様子
 やっぱりそうですよね。真理は深く細かいのです。実に、ほとんど解していません。(笑)
>これは難信難解であり、「信」を持って知るしかありません。
 まさに、その通りだと僕も思います。
>仏教は、因果の理法を無視するキリスト教等の造物神を邪宗としております。
 造物神をダメとしてしまうことはわかります。その考えは、キリスト教の解釈で、異端とされる考えにもあるほどです。
 ここだけはとくに、読んでいただきたいと思います。
 実に、人間のために死んだ、キリストの行為を日蓮が知ったとしましょう。日蓮はキリストを非難するでしょうか?日蓮がキリストを非難しないなら日蓮宗の者もそれを非難しては当然いけません。実に、イエスが、衆生成仏のために生きた、日蓮の行為を知ったとして、イエスが日蓮を非難するでしょうか?イエスが非難しないならキリスト教徒もまた、日蓮を非としてはいけません。
>他宗教を信じられておられるようでは、到底、無理からぬことでありましょう。
 僕は、無宗教です。経文より仏を信じます。聖書より神を信じます。
>本当に、正法正義を求められるのなら、我見にとらわれず、しっかりとした御指導と御本尊によらなければと存じます。
 そのとおりです。ほんとにそうです。odd‐artさんのおっしゃっておられることは正しい。我見にとらわれてはならないのです。odd‐artさんには僕のいっていることが矛盾しているように見えられるかもしれませんが、本当はそうではないことを了解していただけると、うれしいです。僕は、一の言葉を百の言葉で解することが出来ます。千の言葉を一の言葉に解することが出来ます。それは、odd‐artさんももちろんそうです。しかし、たった一つでも、言葉を発する事の出来る者は、世には少ないのです。
>如何でしょうか?
odd‐artさんのご助言、本当にありがたいものでした。感謝しております。日蓮の御書、ぜひ勉強させてもらいます。ありがとうございました。

お礼日時:2001/12/15 05:12

 末法は万年とされています。


 釈尊の仏法は、ここまでです。
 あとは、日蓮大聖人様の教えに従うのみであります。ゆえに、日蓮大聖人様の「御書」こそ、われわれの正依であり、一切の思想哲学の根本と拝さなければならないものであります。
 法華経に関しては、前前回にも述べたのですが、念を押すならば、日本国に御出世の御本仏・日蓮大聖人様が、
 『今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし』
と明らかにお示しのごとく、末法の法華経とは、まことに三大秘法の「南無妙法蓮華経」にほかならないのであります。 

日蓮大聖人様の仏法は今どこに!?

 しかるに、日蓮大聖人様が御出現されてから七百年が経過する今日、世の中に、日蓮宗を自称している宗派の、なんと多いことでしょう。戦後になって、雨後のタケノコのように発生した新興宗教の多くも、ただ南無妙法蓮華経と唱えれば尊しと思ってか、これを看板にして自分勝手な教えを説き、それが、あたかも日蓮大聖人様の教えであるかのごとく装っている、という有り様です。こうした仏法の破壊・混乱が、何故、起きたかと申しますと、それは、すべて「相伝」という重大事を無視するところに起因しているのです。しかして、日蓮大聖人様の仏法における相伝は、日蓮大聖人様から第二祖日興上人、日興上人から第三祖日目上人へと正しく受け継がれ、現在の第六十七世日顕上人に至るまで、「日蓮正宗・富士大石寺」にのみ連綿と伝わってきています。

 付随しておくならば、
 そもそも、仏が世に出現せられるのは、まったく偶発(ぐうはつ)的なものではなくて、一大事の因縁(いんねん)によるのである。「一大事の因縁」とは、『法華経方便品』に、
 「諸仏世尊は、衆生をして、仏知見(ぶっちけん)を開かしめ、清浄(しょうじょう)なることを得(え)せしめんと欲(ほっ)するが故に、世に出現したもう。(中略)舎利弗、是(こ)れを諸仏は唯(ただ)一大事の因縁を以(もっ)ての故に、世に出現したもうと為(な)づく。」(法華経一〇二頁)
と説かれるように、一切衆生を成仏せしめよう、との大目的である。
 これを、インド応誕(おうたん)の釈尊についていえば、釈尊出世(しゅっせ)の一大事因縁は、法華経を説いて在世の衆生を成仏へと導くことであった(これを出世の本懐ともいう)。
 日蓮大聖人様におかれては、『御義口伝』等に、一大事因縁とは事の一念三千・南無妙法蓮華経なり、と示され、さらに、
 「余は二十七年(にして出世の本懐を遂ぐる)なり」(御書一三九六頁)
と仰せられて、弘安二年十月十二日、事の一念三千の当体たる本門戒壇の大御本尊を建立せられた。この大御本尊の建立こそ、大聖人様出世の一大事因縁であり、出世の御本懐に他ならぬのである。
 この本門戒壇の大御本尊は、末法万年にわたって一切衆生を成仏せしめる根源の法体(仏法の本体そのもの)であり、二十六世日寛上人が、「三大秘法を合する則(とき)んば但(ただ)一大秘法の本門の本尊と成るなり、故に本門戒壇の本尊を亦(また)三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(聖典八六三頁)
と仰せのごとく、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目という三大秘法の全てを具(そな)えて、欠けるところのない大御本尊である。
 さて、こうした筋道の上から拝(はい)すれば、御本仏日蓮大聖人様は、末法の世に出世あそばされた大目的(一大事因縁・出世の御本懐)を三大秘法総在の大御本尊として、余すところなく成就(じょうじゅ)され、御入滅(ごにゅうめつ)なさったのであるから、この地球上の末法時代には、二度と再び出世あそばされないのである。
 ゆえに、『法華経方便品』には、
 「諸仏世に興出(こうしゅつ)したもうこと 懸遠(けんのん)にして値遇(ちぐ)すること難(かた)し」   (法華経一二五頁)
と説かれ、御法主日顕上人猊下は、
 「末法万年の間に、御本仏日蓮大聖人様が再び人間の形をとられてお生まれになるということは、二度と再びないのであります。そのかわりに大聖人様は、本門戒壇の大御本尊様として末法万年の闇を照らされるわけでございます。そこのところは、はっきりしなくてはいけません」
と仰せられている。
 したがって、他の人師・論師や大衆であればいざしらず、御本仏に限っては、いったん出世の本懐を遂げられれば同じ時代に再び出世されることはありえない――この道理に違背(いはい)して、もし、大聖人様が再び末法に出世あそばされるというならば、大聖人様は七百年前、出世の本懐を遂げられずに、説き残しをされたまま御入滅された仏、ということになってしまう。御本仏に対する冒涜(ぼうとく)、これに過(す)ぐるものはないということであります。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

ずいぶんお世話をかけて申し訳ないです。odd‐artさんのご親切、たいへんありがたいです。
>現在の第六十七世日顕上人
この人は今生きているんですよね?この方は仏ですか?
>「末法万年の間に、御本仏日蓮大聖人様が再び人間の形をとられてお生まれになるということは、二度と再びないのであります。そのかわりに大聖人様は、本門戒壇の大御本尊様として末法万年の闇を照らされるわけでございます。そこのところは、はっきりしなくてはいけません」
 これは、おっしゃってられることはよくわかります。日蓮が人間として再び現れることはありません。しかし、末法万年のあいだに、仏は少なくとも二度は現れています。釈迦と日蓮です。ここらへんから、もしよろしければ、現代の仏に対するご意見を伺ってよろしいでしょうか。(これ以上のお世話をかけるのは、本当に無礼ですが、お気が向けばお願いします。)
>大聖人様は七百年前、出世の本懐を遂げられずに、説き残しをされたまま御入滅された仏、ということになってしまう。
 そういうことはないと思います。すべてを体現して、南無妙法蓮華経を説いていったのでしょう。無論、本懐をきっちり遂げて、入滅したとおもいます。
>一切衆生を成仏せしめよう、との大目的である。
 法華経に、「私は繰り返し現れる。その寿命は永遠である。しかし、あえて皆前で入滅して見せるのは、あなた方が私に頼りきって、怠けてしまわないためである。仏に出会えるものは少ない。だからこそ、一心に精進しようという心があなた方に起こる。」というようなことが書いてました。法華経は繰り返し現れるのです。もちろん、出会える者は少ないのですが、。だからこそ、釈迦が現れ、日蓮が現れたのではないでしょうか?おそらく、永遠に、あらわれて、入滅する、を繰り返すのでしょう。その偉大な慈悲。
すなわち、法華経は今に見出す事が可能ということです。日蓮にそれを見出すのか、釈迦に見出すのか、キリスト(異教)に見出すのか、おのずの世界に見出すのか、それはドコでもいいのだと思います。なぜなら、法華経は、永遠に繰り返し現れ、また永劫に繰り返し入滅するからです。つまり、いまということです。今、すべてに法華経はあるのです。
 このような結論に至ってしまったのですが、odd‐artさんのご意見を伺えるとありがたいです。しかし、ずいぶんお世話をおかけしました。お気が向けば、お時間あいたときにでも、お返事いただけるとありがたいです。
>如何でしょうか?
 十二分ですよ!odd‐artさんの忍耐ある親切な対応に、とても感謝してます!ありがとうございました!

お礼日時:2001/12/14 13:20

 法華経は、末法の御本仏が予証されております。


 難信難解とされていますから、私達凡人には、なかなか理解することは難しいことなのであります。
 大体、今の宗教家という連中すら理解出来ず、間違えているのですからね。
 末法においては、前回に述べたように、序文の流通分としてしか用いないのですが、釈尊一代五十年の説法のなかで、最高真実の教は法華経です。
 では、何故、法華経が最高真実かといいますと、一念三千の法門といって、老若男女・善人悪人を問わず、一切衆生をその身のままで成仏せしめる大法が説かれているからであります。
 この法華経二十八品には、本門と迹門とがあります。
 まず迹門とは、垂迹・・・仏が衆生を化導するために、迹を垂れる(真実の仏の姿を隠して化身として現われる)こと・・・した仏(迹仏)が説く法門のことです。
 これに対し、本門とは、本地・・・真実ありのままの姿・・・の仏(本仏)が、その真の悟りを説き明かした法門のことです。
 この本門と迹門の関係は、太陽の光が本門、そして太陽の反射した月の光が迹門にたとえられ、ちょうど本体と影の関係にあたります。
 釈尊は、法華経に、末法に日月の光明のごとき大人格者が出現され、経文に示される種々の大法難を体験して、法華経の肝心要の法を説き弘めることを予証しています。
 末法に弘通される法華経の肝心要の法が、すでに白法隠没した釈尊の法華経ではないことは自明であり、釈尊の末法に関する予証も、釈迦仏法にかわる、末法のための最高真実の仏法が出現することを示しているのです。
 しかして、釈尊の種々の予証を寸分違わず身に実証され、末法のために、法華経の文の奥底に秘められた肝心要の法を説き弘められた御方こそ、全世界において日蓮大聖人様ただ御一人であります。このことは歴史に照らしても明らかなところであり、大聖人様の三大秘法の仏法こそ、末法の長い闇を破って民衆を救済する、前代未聞の大白法なのであります。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

>末法に弘通される法華経の肝心要の法が、すでに白法隠没した釈尊の法華経ではないことは自明であり、釈尊の末法に関する予証も、釈迦仏法にかわる、末法のための最高真実の仏法が出現することを示しているのです。
 末法の、その時々に、そのときのために、仏法が出現するということですね。釈迦が言う法難を身で示し、仏法として出現したのが日蓮ということですよね。
 しかし、末法の世はまだ続いています。日蓮の出現した時代から、数百年、日蓮仏法は今の時代において白法隠没してはいないのでしょうか?現代の法華経は日蓮の示した仏法なのか、現代という末法にまた新たな仏法が変わらぬ真実を伝えるために出現するのか、最高真実の仏法は現代において、今においてどのような形であるのか?
 日蓮が今においても法門であるなら、その法門、現代においてどの様にあるのですか?
又、日蓮のひろめた法華経の肝心要は何ですか?何と問うのがおかしい事はわかるのですが、今に残る日蓮の法門、少しでもいいですのでお聞きかせさせてもらえるでしょうか?

お礼日時:2001/12/14 00:13
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この回答へのお礼

ありがとうございます!早速行ってみます!

お礼日時:2001/12/13 07:46

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Qもし10万人の人が一斉に南妙法蓮華経を唱えたなら

 
 

もし10万人の人が一同に集まり、一斉に南妙法蓮華経を唱えたなら、
それはオーケストラをも遙かに凌ぐ大音響を生み出すはずである。

しかし果たしてそれは勝利に向けて大躍進をしたといえるであろーか。
 
 

Aベストアンサー

まず千人で神を称えた例を考えてみたらどうでしょうか。ご存知かもしれませんが、マーラーの「千人の交響曲」など、参考になると思います。以下のラトルの指揮の動画には、日本語の歌詞がついていますので、歌が神を讃えるものであることがすぐに分かるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=-Wi1j-rpcEw

いろいろな指揮者を聞き比べると、まとめることがものすごく難しい曲であるようです。千人でこれだけ大変なのですから、十万人となると、どうなってしまうことやら。しかし卓越した指揮者がいれば、十万人でやることもできるかもしれません。

勝利に向けての躍進かとお尋ねですが、それは、人それぞれの感じ方次第だと思います。マーラーは「神」といったところで、ユダヤ教でもキリスト教でもない、普遍的な神を想定していたようです。私はこの第八交響曲を聴いて、十分に感動しました。すると、十万人のお経が成功したら、勝利への躍進と私は感じるかもしれませんね。何教であるかが問題ではなく、十万人が見事に声を合わせられたということが問題なのですけれども。

ちなみに、千人ですでに、普通のオーケストラの音量は凌駕していると思います。動画で確認できますが、オーケストラも普通の数倍の数がそろっているでしょう。

まず千人で神を称えた例を考えてみたらどうでしょうか。ご存知かもしれませんが、マーラーの「千人の交響曲」など、参考になると思います。以下のラトルの指揮の動画には、日本語の歌詞がついていますので、歌が神を讃えるものであることがすぐに分かるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=-Wi1j-rpcEw

いろいろな指揮者を聞き比べると、まとめることがものすごく難しい曲であるようです。千人でこれだけ大変なのですから、十万人となると、どうなってしまうことやら。しかし卓越した指揮者がいれば、十万...続きを読む

Q《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?

 特には創価学会としての見解をたずねます。

 次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。

  (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。

 ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~
   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512

 (α) 南岳釈して云く

    「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、

 (β) 是の故に法華経に云く

    「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」

 (γ) 文、又云く

   「問うて云く 
    仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、
   答えて云く
   (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして
    清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」

 (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、
   大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり 

 (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり
 
 (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、

 (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、

 (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕・法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、

 (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり

 (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は

    ○ 一切衆生 悉有仏性

 ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。


 (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。

   (ε)  法華経に同共して信ずる者
   (η)  不同共の念仏者等

 すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は

 ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり

 と言います。この一文の意味を問います。


 (3) 《妙経の体に非ず》というのは
 
   (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも

   (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?


 (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?


 (5) この疑問は (κ)の文章につながります。
 
 ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人


 (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。
 けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。
 《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?


 (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる
 ☆ とは どういうことか?
 
 (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。

 (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。

 (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。


 (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・
 ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?

 つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。

 親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。


 (9) すなわち
  ◆ ~~~~
    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして
        清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」
   ~~~~~
  ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?

 (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

 特には創価学会としての見解をたずねます。

 次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。

  (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。

 ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~
   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512

 (α) 南岳釈して云く

    「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、

 (β) 是の故に法華経に云く

    「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」

 (γ) 文、又云く

   「問うて...続きを読む

Aベストアンサー

(1) まづ(α)から順に説き進むその内容は

    ○ 一切衆生 悉有仏性

 ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。

■その通り。


 (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。

   (ε)  法華経に同共して信ずる者
   (η)  不同共の念仏者等

 すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は

 ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり

 と言います。この一文の意味を問います。

■後者は、法華誹謗の者。
前者、後者共に、仏性を有する。⇒《仏性を宿すひと》


 (3) 《妙経の体に非ず》というのは
 
   (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも

   (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?

■法華誹謗の者。⇒地獄の業因を積む、ということ。


 (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?

■真実の神――(μ) 《自在神力》との、解釈が違います。

神力と神を一緒に考えることはない。これは、質問者様の既成概念から出てくる言葉かもしれない。


 (5) この疑問は (κ)の文章につながります。
 
 ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人

■?????

※質問内容と番号の振り方に疑問を感じます。この質問は、、、、??




 (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。
 けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。
 《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?

■浄土真宗は、何を本尊とするのか??
親鸞が、法然を師として浄土真宗を展開するならば、先ずは、浄土宗をもって正邪を判ずるべき。
それとも、親鸞は法然に背く弟子なのか。伝教に背いた慈覚のように。恐らく親鸞は、宗祖の器を持ちえない、いい加減な人間なのだと思う。個人的見解ですが。


 (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる
 ☆ とは どういうことか?
 
 (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。

■南無妙法蓮華経は、神ではない。⇒(4)回答参照。


 (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。

■論法がメチャクチャである。
名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても⇒この時点で、法華誹謗になります。


 (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。

■御本尊を信じ、御本尊に対して(御本尊に向かい合って)、『南無妙法蓮華経』と題目を唱える事。

※次項につぎます。⇒これは、いらないと思います。番号も振り方に疑問が生じる。


 (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・
 ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?

 つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。

 親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。

■親鸞と日蓮の教義は違います。違う教義を話し合っても、時間の無駄。結論は出ない。

■人間の努力だけでは、実現はしない。⇒前回の質問。『われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか』参照。


 (9) すなわち
  ◆ ~~~~
    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして
        清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」
   ~~~~~
  ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?

■それが、御本尊がもたらす縁である。


 (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

■神ではない。仏である。

【御義口伝 下 P.752】

『第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事』
「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」

無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。

(1) まづ(α)から順に説き進むその内容は

    ○ 一切衆生 悉有仏性

 ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。

■その通り。


 (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。

   (ε)  法華経に同共して信ずる者
   (η)  不同共の念仏者等

 すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は

 ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり

 と言います。この一文の意味を問いま...続きを読む

Q創価学会に入信しなくても南無妙法蓮華経を唱えれば・

創価学会に入信しなくても、仏壇を買わなくても、南無妙法蓮華経を唱えれば

状況が好転するのでしょうか?

回数(時間)は皆さん、どの位されるのですか?

沢山唱えれば唱えるほど、御利益があるのでしょうか?

その人は多い日は毎日何時間もやっているそうですが、

確かにやっている知り合いを見ていると、びっくりするような方法で悩み解決が起こっているが・・・

Aベストアンサー

創価学会 壮年部の者です。

>創価学会に入信しなくても、仏壇を買わなくても、南無妙法蓮華経を唱えれば
状況が好転するのでしょうか?

何らかの状況の変化は出るでしょうね。しかし、それが好転かどうかは分かりません。

要は貴方の心の問題なのです。創価学会を肯定するか否定するか。これにより、同じ題目を唱えたとしても、全く違った結果になります。今すぐ御本尊を御安置出来ない場合もあれば、ただ単に創価学会が嫌で入信したくない場合もあるのですから。

どちらですか??

それともう一つ【ここが大事】、『創価学会員にしか出来ない事。』があります。それは、折伏といって『法を広める事』です。実は題目も大事ですが、この『他人に法を広める』事こそ創価学会員にしか出ないことであり、これこそが仏のお手伝いをすることでより多くの功徳を積むことになるのです。



>回数(時間)は皆さん、どの位されるのですか?

私は、1日30分くらいですよ。
多い時で、1時間~3時間くらいです。

>沢山唱えれば唱えるほど、御利益があるのでしょうか?

ありますよ。

Q南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経

 
一方は親鸞の教え、他方は日蓮の教え。
一方は浄土を説き、他方は地獄・餓鬼・畜生を説くのは何故か。
一方は仏に近く、他方は畜生に近いのは何故か。
一方は静けさに調和するのに、他方は太鼓の音によく合うのは一体何故なのか。
 

Aベストアンサー

どちらも仏教の一派ですが、その教義の中で「最高」としている
ものが違ってます。

以下、誤解を恐れず、ぶっちゃけた言い方をします。

浄土宗は、その宗派で最高の仏としている「阿弥陀仏」に、「全て
おすがりなさい」と言うのが基本発想。ですので「南無阿弥陀仏」
というのは「阿弥陀様、救済よろしく」と言っているので、あまり
大声でとなるモノじゃないんです。

日蓮宗は「蓮華経」を最高の経典と考えていて、他の経典は
全てクズ、他宗は全て邪教、というのが基本発想。ですので
「蓮華経、サイコー!」と賛美しつつ、周囲に知らしめるのが
目的なので、大声でリズムをとって唱えるんです。

その辺が、両宗派の違いだと考えられます。

Q創価学会の方、南無妙法蓮華経について教えてください

創価学会の人に、毎日、南無妙法蓮華経を唱えれば道が開けるといわれております。

たとえ意味もわからずとも、ただただ、唱えて行けば御利益があると聞きましたが本当でしょうか?

たくさん唱えればそれだけ効果があるのでしょうか?

その方は「宇宙のリズム」だと言うのですが…・

教えてください。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

創価学会 壮年部の者です。

>たとえ意味もわからずとも、ただただ、唱えて行けば御利益があると聞きましたが本当でしょうか?

本当です。

ただし、邪悪な願いは叶いません。
また、他人の不幸を願えば、返って自分自身に災いが降ってくるでしょう。


>たくさん唱えればそれだけ効果があるのでしょうか?

もちろんです。

しかし、日蓮大聖人は「ただの一遍でも唱える事でも、大きな功徳がある。」と仰っています。
それを沢山唱えれば、計り知れない功徳となるでしょう。


>その方は「宇宙のリズム」だと言うのですが…・

その通りです。
森羅万象の現象を、慈悲の功徳の方向へと導いていく“法”なのです。
これは、釈尊が法華経に現した“法”を、末法の御本仏である日蓮大聖人が、末法の衆生のために『御本尊』として現したものです。

また、日蓮が現したものだから、『日蓮宗』も一緒だと言われる方がおりますが、『日蓮宗』に伝わるものは日蓮大聖人よりの相続を受けておりませんので、同じ『南無妙法蓮華経』だったとしても全く粗法であり功徳はありません。全国には沢山の日蓮宗の寺院がありますが、そこに帰依しても何の功徳も得る事はできません。

では、『日蓮正宗なら良いのか』という事になりますが、日蓮正宗、法華講、妙観講等の信心でも功徳はありません。

細かくなり申し訳御座いませんが、同じ『南無妙法蓮華経』を唱えたとしても、唱えていく題目からして違うのですから、功徳があることはないでしょう。

今、日蓮大聖人の信心というものは、創価学会にしか流れていないのです。ここが大事な点です。

創価学会 壮年部の者です。

>たとえ意味もわからずとも、ただただ、唱えて行けば御利益があると聞きましたが本当でしょうか?

本当です。

ただし、邪悪な願いは叶いません。
また、他人の不幸を願えば、返って自分自身に災いが降ってくるでしょう。


>たくさん唱えればそれだけ効果があるのでしょうか?

もちろんです。

しかし、日蓮大聖人は「ただの一遍でも唱える事でも、大きな功徳がある。」と仰っています。
それを沢山唱えれば、計り知れない功徳となるでしょう。


>その方は「宇宙のリズム」だと言...続きを読む


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