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現在縄文時代と弥生時代の時代区分は主に稲作伝わり、始まったかによって決められています。朝鮮半島から伝来し、九州の一部で稲作が始まったからといって日本全体の時代を縄文時代から弥生時代に変えていいでしょうか?九州の一部では稲作をしているが日本の大部分が縄文時代文化であるのに…。考古学における時期区分の問題点について教えてください。

A 回答 (4件)

>考古学における時期区分の問題点


土器がすべて。これが問題点です。

縄文と弥生時代ですが。この時代は誰が何年に何をしたという文献資料がありません。

弥生時代には文献史料は若干ありますが、それだけで弥生時代の人類の営みをすべて解明する事はできません。

だから、この時代に関しては歴史学は残念ながら無力なのです。そこで物質資料によって人類史を再構成する事を目的とする考古学の出番です。

遺跡を発掘した際に、良く出土するものが石器と土器です。住居址などの遺構も確認できますが・・・。それで、骨角器や木器など、骨や木で作られたものというのは土と同化してしまい、のちのちの時代にまで残らないのです。

出土事例がすくない。すなわち、研究材料となる物質資料が少ない・・・。という事は無理に分類して、無理に論じようとすれば誤認が生じます・・・。

結局土器なのです。たいてい何処の遺跡でも必ずといっていいほど出土するのは土器なので、これを分類して、差異について論じて、時期区分すれば、絶対年代はわかりませんが、相対年代はわかります。

それで、縄文末期と弥生初期の土器が出土する遺跡同士を比較し、縄文から弥生時代への移り変わりをみていくしかないのでしょう・・・。

土器以外でも、住居址などの遺構を分類して、研究し、時期区分をする事ができれば、縄文時代から弥生時代への移り変わりの様相をもう少しは捉えられるようになるのではないでしょうか・・・。

>九州の一部で稲作が始まったからといって日本全体の時代を縄文時代から弥生時代に変えていいでしょうか?

それは誤解ですよ。昭和から平成にかわったように、明日から縄文から弥生になります。とか、そういう事が起こったのではありません。

縄文土器がでるから縄文時代。弥生土器がでるから弥生時代。土器による時代区分と稲作は別です。道具による時代区分と食生活による時代区分はまったく別物です。

主食が木の実から、米になったのと、土器を素焼きからかまどでつくるようになったのは別です。

全国の小学生全員が中学生になったとたんに、食生活が変わる事はないでしょう。(変わる人もいるかもですが。)

食生活の変化については考古学はちょっと、力不足です。っというのも食べ物は残りづらいからです。物質資料が少ないので、言及できないのです。これが考古学の弱点ですね。

最近、江戸考古学なるものがあって、トイレとか台所を研究する事で江戸時代の人々の食生活を再構成しようとしているようですが、興味があったら調べてください。

あっ。ちなみに、米が一般的に主食になったのは弥生時代の後期以降だと聞いた事があります。弥生時代になっても、大部分の人が土器に堅果類の木の実を保管して主食としていたのではないでしょうか。

稲作開始直後は米を食べたのは偉い方だけです。
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現在、歴史的に「日本」として認識されている地域(九州・四国・本州+北海道・沖縄諸島)に初めて弥生式文化(弥生式土器の使用もしくは水稲稲作を判断基準としています)が根付いた時期をもって「日本」の時代区分では「弥生時代の開始」としています。



この辺りは後の遷都(平城京・平安京)や政権の移動(幕府樹立)のように政治史としての時代区分とは違い、文化による時代区分なので明確な西暦○○年といった区分が出来ません。結局、開始された時期を時代区分の先頭にもっていくしかないわけです。
縄文・弥生はもともと土器を基準とする区分でした。最近は稲作を基準とする方向になっていますが、学者さんの間で論争されています。また、石器や青銅器、鉄器の使用をもって時代区分とする方法などもあります。

AMS(加速器質量分析計)炭素14年代測定法と言う方法で、九州の弥生遺跡の年代が紀元前900年~前750年にさかのぼりそうです。ちょうど中国で殷(商)が周に滅ぼされ、大規模な民族移動があった時期に相当します。中国を含めた東アジア全体の中で日本を眺め、最新の成果を得ると歴史がとても面白くなってきますよ。
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従来の区分は一万年続いた縄文時代が大陸からの米作の伝来で終わりを告げ弥生時代が始まったとするものです。

日本全体が稲作をしたかどうかは問題ではありません。当時の稲作は品種と気候の関係で日本列島の
南半分に限定されていたようです。時代が下るに連れて日本列島の気候に合った品種が自然淘汰で生まれ、水田作りや肥料の工夫なども加わり北進して行ったのでしょう。

別の問題もあります。
縄文時代後期には既に陸稲が栽培されていた事が発掘で明らかになり、又国立歴史民俗博物館は新しい測定法で弥生時代が500年早まると発表して議論を呼んでいます。従って弥生時代と縄文時代の区分はこれまでのように単純に決められなくなり流動的です。

考古学は発掘に頼っているのである新しい事実(現象)が確認され学会で承認されれば、その時代にそれが存在したということになります。日本列島の南から
北まで平均して発見されるまで、その現象が列島にはなかったという区分はしないでしょう。

現代でも東京である現象が起これば(見られれば)日本にもその現象があるということになり、九州に未だ
普及していないからその現象はまだ日本にはないということは出来ません。
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要は「変化の始まり」で決めるか「変化の完了」で決めるかということだと思います。


弥生時代は、稲作の始まり(変化の始まり)で定義付けられているということでしょう。
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