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今後教師がどういう形かは別として評価され始めると思います。
そういうときに、この生徒がいると授業が成り立たないからとか、この生徒がいない方がと考える教師が出てくるのでは?と思えてきました。
というのも公務員と言うだけでの批判や、教師と言うだけで一括りの報道が多々見かけられるからです(私が感じているだけで、統計を取ったわけではありませんので悪しからず)

で、実際どうなのでしょう?
教師の方の回答が出来れば頂きたいのですが、相手は生身の人間であり、当然合う合わないというものは生徒の側からも出てきて当然だと思います。
生徒が絶対に先生を敵視することはない!と言い切れるのでしたら別ですが、そういうことはないと思います。
そうなると関係が成り立たなくなった場合、最近あった塾事件の二の舞になるのではないかと思ってしまったのです。
まだ人格がしっかりと形成されていない子供数十人を一人の教師が見、そしてそれを関係のない第三者が評価する。(同じ教室にずっといて評価するなら話は別)
こうなった場合うまく機能するのかが心配で仕方ありません。

質問としては教師の評価については問題なく行うことができるのか。
また評価をする場合に、人対人を評価することはできるのか。
この2点が質問になります。

A 回答 (10件)

教育関係者ではありません。


こどもが通学する保護者です。

=========
補足要求させていただきます。

「評価」というところが性格に理解できないのです。
給与?などに反映させる評価と考えてよろしいでしょうか?
教諭などの評価を生徒にだけさせる、または、生徒による評価の重み付けが非常に重い としてゆく学校や教委などがあるのでしょうか?

文部科学省のサイトや いくつかの教委のサイトを見ましたが、生徒の評価を一部(重み付けは不明)としているような説明のものもありますが 重要視はされていないようです。
(メディアに振り回されてはいけません。興味がある分野は とりあえず 調べましょう。)

(大学はご質問の対象外と思いますので)
未成年者の意見をそのまま給与などに反映する評価システムを行政として(私学も含めて)とらないと考えます。
保護者の意見を取り入れるなら まだ 理解できますが・・。

いかがでしょうか?
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約24年間教員をやっていました。


今はもう退職しています。

>教師の評価については問題なく行うことができるのか。

何事につけ、人を評価するのは、色々問題点が出てきています。
イギリスの公立学校ではバウチャー制というのがある程度とられていて、生徒が自治体から学校への一定額の補助金割り当てをもらうのです。そして、生徒は、自分で学校を選び、その結果、多く生徒を確保した学校がより多くの補助金を自治体から得られると言うシステムです。前提として、それぞれの学校の実績(全国統一学力試験の結果とか)が公開されていることがあります。
アメリカでは、日本で最近取り入れられているように、生徒による教員評価が全国的に行われています。

日本の問題点は、第一に、中学から高校への内申書が生徒保護者に公開されていないことですね。学校の意義はまず第一に生徒の教育にあるわけですから、生徒からの評価が公平にされる必要があるのですが、内申書が公開されていないので、うまく行かないわけです。


>評価をする場合に、人対人を評価することはできるのか。

つまり、校長などが評価できるかと言うことですよね。何の利害関係もない場合であれば、ある程度きちんとできるはずだと思います。
もちろん、ある生徒に対してある教員が正しく接しているかどうかと言う点はむずかしいと感じますが、クラス全体にとってどうかというのは、ほんとに、誰が見ても、よく分かります。
ただ、この10年ほどは、非常に政治が学校現場に入り込んでいて、教員評価が、本来の教育活動の評価ではなくて、政治的にコントロールの道具と考えられているようだと感じます。
30年近く前に始まった道徳の時間の導入から始まって最近の「生きる力」とか、推薦入試の大幅導入など、その裏にある政治的な思惑が感じられてなりません。
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いかなるジャンルのものでも、正しい評価を下す事は不可能です。

神はいませんから。人間が正しい評価を下せるという前提の社会主義国家が最も激しく腐敗したことがいい例ですね。
ですから、自然の原理に最も近い市場原理が相対的に有効に機能する評価方法だと思います。
教師の評価も同じですね。サービスを受ける人たちが質の高いサービスを受ける為に行動をおこすと言うことが有効だと思います。
公務員が公務員を評価する仕組みは最も論外ですね。
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評価できるできないはともかく、


教師は志をもってなる職業じゃなくなりましたね。
もはや接客業と言ったほうが適当かもしれません。
それなら全くの第三者に機械的に評価させるほうが先生にとって気が楽でいいんじゃないでしょうか。

海外に範を求めても何も効果は無いと思います。
ダメなのは親ですよ、間違いなく。

先生も割り切らないと。
まじめにやっても報われないのですから。
今後も状況は悪くなるいっぽうでしょうし。

>人対人を評価することはできるのか。
子供の為ではなく学校や教師のために評価すべきです。
それに教師に評価を問うなら権限も持たせないと。
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 こんな事言うと「出羽の守」と揶揄されるかもしれませんが、外国では教師の評価はどうなっているのでしょう?もし外国の評価システムに良いものが有ればそれを取り入れれば良いでしょう。

日本は今までそうやって問題を解決して来ました。

 アメリカでは、イギリスでは、フランスでは、ドイツでは等等、教師の評価システムを検討すれば良いでしょう。そして最も良いものを導入すれば良いのです。

 もっとも教育システムが違うので単純に真似できないかもしれません。その時は教育システムを丸ごと変えたって良いではないですか。常に改革すべきです。今までの議論を聞いていると抽象論が多いようです。もっと具体的に話さないと先が見えてきません。外国に具体的な事例が有るのですからそれを検討すべきでしょう。
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人材を評価するには一般的に


 自己評価(項目に丸をする、定量化することも)
 相互評価(項目に丸をする、定量化することも)
 数値評価(勤務日数などの客観的データ、評定用)
などがあります。いずれも--そんなにあてになりません。
厳密な評価など、許されない世の中です。
それ以外に、授業態度の評価、逆に授業への評価
など、アンケートに近い方法もあります。
 
しかし、個人ばかり評価することは、仮に個人のある実態の把握につながっても、組織の実態は分かりません。事件を個人が起こしたように見えても、組織の責任は重いものです。個人の評価は組織が個人を使うときに参考になるというのが筋ですが、組織の評価は社会が組織を使うのに参考になります。組織の正しい評価ができていないときに個人の評価をする意味はなんでも個人のせいにするという姿勢を見せるだけです。
 
組織の評価では、(まだ未熟ですが形の大きさや設備の整い方をみる)大学の評価機構や、病院機能評価などいろんな機能評価方法があります。本来はそのなかに各階層のスタッフの錬度や使命感や倫理観も問われていいはずです。また、構成要員に問題のあるときの対応は、組織の倫理観や責任感に大きく左右されます。

学童が教師に殺される背景は単なる個人の異常で事故だったとは考えられていないのはこういう背景からです。あとは京進の責任を検察がどうとらえるかです。

こういう評価機能が、まず組織、ついで個人のレベルで本当に正しく行われれば、京進事件もなく、また、教師が評価を気にしておもねることも逆に虐げることもなくなると思います。
もし間違った形で評価システムを導入すると、病気の患者に悪くなる薬を入れるのと同じで、評価される人間に、質問者の方が、ご心配されているような、間違ったモチベーションが生じるでしょう。

荒廃した教育現場にそれらを自分で立て直す力はないので、いずれ政府主導の、あまり正しいともいえないが、ないよりましかもしれない程度の、管理主義的な、あるいは形骸的な評価制度が、とりあえず導入される可能性があります。これは、ポスト子泉のそのまた後でしょう。
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教員です。

教職員の評価については賛否両論あるところですが、その必然性に説得力を欠くため、現段階ではその評価も妥当性という点では疑問符がつかざるを得ないでしょう。生徒の評価と教職員の評価ではまるで出発点が違います。生徒を評価することは教員として当然のことであり、仕事の一部です。それが仕事なのです。ですが、教員の評価はだれがどのように行うのか?なぜその人が行うのか?そこに妥当性はあるのか?など、現在ではまだ納得のいく(=だれもが)説明のつかない問題を内包しています。にもかかわらず、問題教師や不適格教員などマスコミをにぎわす話題が先行する形で(=泥縄式です。私に言わせれば……。)教職員評価が実施されている現実は遺憾に思う限りです。(まあそれだけではないのでしょうが、かなりかみ合っている現実はありますよね。)
ひと昔前のような一斉指導が成立しないのが現在の学校事情です。しかしそれでも「人として」の「人となり」を学校生活と教科教育を通して子どもたちに教授していく立場にあるのが学校教師でしょう。時代がどのように変動してもそこには揺るぎなき「普遍性」が存在しなければなりませんし、それを持たない教師は淘汰されていくべきです。ですから、私は教職員の評価には賛成ですが、教育哲学とそのパフォーマンスが一人ひとり違うのが教員の世界でもあり、数値化して序列化できるほど簡単なものではありません。例えば、40人学級で39人にとって「とるに足らない教師」であっても残りの1人にとって「この先生しか私を理解してはくれない!」場合だってあるでしょうし、そういう先生は職場にとっては戦力でもあるのです。(ただし、周囲の教師がそこまで見ているかどうかは疑問であるが……。)
当たり前のことですが、先生は生徒を殺してはいけません。それはいかなる理由であれです。当たり前ですよね。それが仕事ですから。ですが、生徒は教師を殺してはいけないという理屈は彼らの中では成立しません。なぜなら、彼らの世界では殺す殺さないという事実もバーチャルにしかとらえられないほどまでに麻痺しているのです。現実当たり前のように「あいつ1回殺しとく?」などという言葉を平気で口にする生徒が多いです。それが仲間であったり、教師であったり、自分の親であったりするもんですから、こちらとしては背筋が凍る思いで、注意指導を加えるわけです。本気でこわいです!ですから、これから(明日も)教壇に立つ人々は(わたしもそうですが)殺されたくなければ、「うまくやれ」ということになります。まぁ生徒たちからは無視される存在になるでしょうけど……。逆に自分の教育哲学を貫徹しようと思うなら、「刺される覚悟でがんばろう!」ということになるでしょう。ですが、合う合わないであるとか、恨みを買うであるとか、すべて中途半端に主張したりするからなるのだと思います。「やるからにはとことん!」の精神がなければ「平民教師」をめざしましょう。もしも生徒が先生を評価するならば、後ろから刺されても平気な顔をして怒鳴りつけるくらいでなければ、全員「並教師」ですよ。結局、そこからして彼らは教師にまでバーチャルなものを求め押しつけているのです。まとまらなくてごめんなさい。

この回答への補足

私が教師ではない事と、教師を目指してる訳でもない事だけは補足しておきます。
質問の趣旨は、教師を評価するシステムが普及し出すと、自分の評価のマイナスになる生徒を排除しようという動きが出てくるのではないか?
ということで、私はそれが心配なだけの一般人です。

補足日時:2005/12/18 23:13
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教員です。


教師に限らず、その人の人間性について客観的に評価出来るなんて考えられません。

良い教師(人間)、悪い教師(人間)という分け方もありません。判断のしようがないからです。
企業で営業成績が悪くてクビになった社員は「悪い人間」でしょうか?
極端に言えば、犯罪を犯した人はすべてが「悪い人間」なのでしょうか?

野球のイチローや野茂の、あの打ち方・投げ方は一般には「ダメ」と見られていました。
しかし、亡くなった仰木監督は彼らを捨てませんでした。結果、日本人大リーガーの活躍に繋がったわけです。
営業成績の悪い社員をクビにした経営者は、ひょっとしたら将来の莫大な営利を共に捨てたのかもしれません。

何を言いたいのかといえば、現場の教師は「良い・悪い」を評価される前に、まず自分の力を十分に出せる環境を望んでいます。
「評価」という行為は、ともすれば教師一人ひとりの個性を奪い取り、押し並べてみんな同じレベルにしてしまう危険性をはらんでいます。
プラスにもマイナスにも飛び出て目立つことを嫌う作用が働くものなのです。
結果、教育現場は崩壊・形骸化します。

否、すでに現場は活力を失いつつあります。特に熟年の教師ほど元気がありません。
親の目、子どもの目、世間の目に疲れ果てています。
ご存知のように、近年学校は全面禁煙となりました。
定年間近の先生が、勤務時間を終えて校地外に出てタバコを吸っても、それを見た子どもたちから、
「わーるいんだ~、教師のくせにタバコ吸って!」と大声で叫ばれてます。
休日にパチンコ屋に入るのでさえ後ろめたさを感じています。わざわざ隣町まで行く人もいます。
週休2日になってから、特に休日にまで気を遣うようになりました。
そういう世の中です。

すでに、認め合い、信頼しあう関係の持てていない中で、教師の「評価」が先走りしだしたら、それこそ悲惨な結果が目に見えてます。
すべてが「良い・悪い」の観点でしか見られなくなったとしたら、教師のみならず子ども達にも悪影響を及ぼすことでしょう。

2点のご質問に対して、2点とも「出来ない」または「するべきではない」とお答えいたします。
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教員の評価は必要ですが、評価基準をどうするかによってその結果は異なります。

教員も人間なので好き嫌いは、当然あります。また得て不得手もあります。教員の仕事して、児童・生徒・学生の何を教育すべきでしょうか。

昔と異なり親の教育レベルが上がり、価値観も異なる各家庭で育てられた子供を画一的に教育するという考え自体が難しいのではないでしょうか。先生の職務は、各教科の教育に限定すべきではないでしょうか。生活指導・道徳教育は、家庭の責任も大きいので学校任せは無理だろうと思います。好き嫌いや相性は、教員サイドのばかりではなく子供サイドにもあります。

したがって、教員の評価は、教科の教育に限定すべきだと思います。また子供に人気にあることは、それ自体立派なことですが、評価の対象にはすべきではないと思います。そうしないと、子供の人気を得ようと「ゴマすり」「おべっか」教員が増えてきます。

「教員の職務は何か」ということを考えて各教員の評価をしないと、間違った評価になってしまうと思います。現に大学教員の評価が行われていますが、論文数を数えるだけで研究面の評価ができるので、研究面の評価が先行しているように思います。教育指導の評価は難しく、点数で評価できないので学生の評価なども取り入れています。学生は、甘い先生を高く評価する傾向がありますが、少し間違っているような感じがします。

ご質問の趣旨と異なる回答については、ご容赦ください。
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評価なんてきちんとしたものができるわけがありません。



私は教職課程を取っている大学生です。

まず、人が人を評価する。このこと自体100%正しく行うことはありえません。
これまでは、教師は生徒を評価していました。これも正しいものではありませんでしたが、ほぼ知識という観点のみという状態だったので、テストを基準に評価することができました。しかし、それすらも今はちゃんと評価できません。なぜなら、意欲・関心・態度を重視するように評価方法が変わったからです。これにより、教師は評価に四苦八苦しています。

問題は教師を評価するということでしたね。
現段階では、教師の評価は3段階で行われていると聞きます。つまり、すばらしい教員(スーパーティーチャー)、普通の教員、だめな教員(研修行き)
の3種類です。
この3種類で給料や待遇に若干の差が出ると聞きます。しかし、ほぼ99%近くの人が真中の普通の教員に入ってるのが現状です。

つまり、評価もちゃんとできないから、待遇もあまり変えないでおこうという感じでしょうか。

しかし、評価が始まるようになって変わったことがあります。それは悪い教員の追放です。
以前は懲戒免職がなかなかできずにセクハラなどの問題教員も結局依頼退職という形をとって退職金をもらっていたそうですが、それが懲戒免職できるようになったそうです。
あまり参考にはならないかもしれませんが、とりあえずお答えしておきます。
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