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明治初期~中期において、平民の男性が華族の娘との結婚で華族となること(爵位相続等)は可能ですか?
普通の結婚だと無理そうだとは分かったのですが、一人娘の婿養子に入るとか何か方法はあったのでしょうか?
調べたのですがどうしても分かりません。
ご存知の方、よろしくお願いいたします。

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A 回答 (2件)

華族は原則として男系相続ですから娘と結婚しても家族にはなれませんが、婿養子になれば可能でした。


ただ、家族の家の当主は婿養子でも原則として華族出身者がふつうでしたから、まったくの平民から(もともと華族の家系だが分家して平民になったような場合は別です。)華族になるのはかなり難しい道でした。

この回答への補足

回答ありがとうございました!
難しいとはいえ可能ではあったのですね。

例えば富豪の家から爵位欲しさに華族の家に婿養子に入ったりという様な実例はあるのでしょうか?
またそのような場合は、どちらかの華族と養子縁組をしてある程度身分を整えてから婚姻…というような形を取ったのでしょうか?
ご存知でしたら教えて頂けるとありがたく思います。

補足日時:2005/12/26 17:48
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前例がないので不明、というのが回答でしょうか。



当時も(今も実際は)そうなのですが、華族の系列が途切れた場合の養子などは、ほとんどすべての例が、華族から養子となっていますので、平民は入る余地がなかったと思われます。
特に天皇家につながる華族(宮家など)は、それこそ天皇家の中で補完してしまうので、完全に閉鎖された空間であったと考えられます(またはさっくりと断絶。今も昔も宮家の場合は皇族としてお金がかかるため、存続には積極的ではなかったようです)。

明治になってから華族とされたいわゆる子爵などの武家や公家も、やはりその中の有力な華族の家からとるかでしたから・・・富豪といえど入る余地はなかったかと思います。
特に明治になってから華族は華族、という区分が強くなったため、江戸期よりも平民からそういった位階に入るのはいっそう難しくなったと考えられます(富豪といえど平民は平民。そのため明治になってからは金にものを言わせて養子になるというのは、さらに困難になっていたと思われます)。

たとえば作家の浜尾四郎氏。かれは加藤照麿男爵の4男ですが、浜尾子爵家に養子となっています。そして、どちらの爵家も勲功華族という分類になる華族なので、やはり仲間内で補完しています。

位階を手に入れるために無理やり養子になって得た例は・・・戦国時代の豊臣秀吉が有名でしょうかね。
かれは関白の位を手に入れるために藤原摂関家に金にものを言わせて無理やり養子となっています(当然形だけ。当時は公家はおおむね財政難であったのと、武力を私有化できる時代だったのが大きいのかと思います)。

この回答への補足

回答ありがとうございました!

貧乏公卿華族の娘が実家支援を条件に富豪に嫁ぐとか、平民の娘が(つりあいの取れる家の養子となった後で)華族に嫁ぐという実例が何件もあったので、その逆の養子縁組も可能かと思ったのですが…無理なのですね。

となると富豪ではあるけれども平民の男性が華族となる為には男爵位を(言葉悪いですが)お金で買うという方法しかなかったのでしょうか?
実業界からも授爵した家がちらほらと見られますが(岩崎家など)…これは別の理由があるのでしょうか?

補足日時:2005/12/27 08:23
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私がよく遊びに行く先。
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Q明治時代の婚姻について

先日75歳の女性の方に伺った話ですが、
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彼女は「明治だから」といっていましたが、
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明治でもそういうのあったりしますか?

また、明治時代では読み書きできないのが普通なのですか?
明治でも義務教育はあったようですが、それでも学校に行かないものだったでしょうか?

Aベストアンサー

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性(父親ないし、それに準ずる立場の年長男子)の考えのみで決定されるのが普通だったので。やはり当人の正確な年齢とかどうでも良かったのです。

確か明治30年頃に富国強兵(=徴兵制)と言う事で、特に平民男子の正確な肉体的年齢を国家として管理する必要が初めて出て来たので。慌てて日本でも全国的に「子供が生まれたら正確な誕生日を役所に届けるべし」とのお達しが出され、それ以降から日本人に「誕生日」という考え方が一般的になったのです。

昔から日本人がむしろ記録に残して拘ったのは、生まれた日ではなくて、むしろ「死んだ日」です。お墓とかにも誕生日では無く、何年何月に死んだと書く習慣が昔からありました。昔は乳幼児死亡率が以上に高かったので、いちいち子供の誕生日を記録しても無駄になる事が多かったからかもしれません?一応、身分の高い貴族や皇室の方々、大名クラスの武家だと誕生日を記録に残し現代風に祝う習慣がある地域もあった様です。

また非常に重要な事ですが。江戸時代までは仮に本人が正確な誕生日を記憶していたとしても、今の現代人が言う年齢とは違います。何故なら昔の日本では「歳が増えるのは誕生日の時では無く、生まれて何回目の正月かで計算した」からです。さらにややこしい事に、昔は“生まれた瞬間が1歳”と計算するのが通例なので。冬場、例えば12月31日に生まれた赤ん坊は、翌日の元旦には2歳になる計算でした。

…と言う訳なので、そのご婦人の御祖母様が13歳と言うのなら、それ以上の意味はありません。まあ明治20年代以前に生まれたのなら十中八九、実際の年齢よりは1つ~2つは若い可能性があります(つまり小学6年生で嫁に行った!?)。


>読み書き
江戸時代は「読み書きソロバン」と言うくらいに子弟教育に熱心だったのですが。明治時代になって重工業化は進んだのですが、それまではその地域自治体に当たる藩主大名たちが行っていた子弟教育システムが維新によって崩壊してしまったので。東京などの一部を除けば、逆に教育はほぼ壊滅状態でした。

また個人家庭で勉強させていた場合でも、それまでの学問の筆頭であった朱子学などの儒教の教典を暗記する勉強が。明治になって一転、時代遅れのアジア学問という扱いになったため。富裕層でも子弟教育のあり方に混乱が生じていました。

で、教育に関するお触れは割と早い時期に出されるのですが。それは国民皆教育ではなく、あくまでも国家エリートを養成するための教育令だったので。長らく「義務教育」に関して放って置かれました。その後、やはり前述の徴兵制に関連して、戦場で使い捨てる兵卒候補としての幼年学校が必要と考えられ。え~っと確か明治22年?に「小学校令」というのが発布されます。ここから日本に於ける近代義務教育が始まる訳です。

一応、発足当時から男女共学だったのですが。特に農村部では女子に教育は必要無いという考え方が支配的だったので、例文の御祖母様の様に学校に通わせて貰えなかった女子児童も当時は多く居ました。またいわゆる戦後になるまでは、日本の近代女子教育には高等教育が無かったため(大学とかは男子校だった)。将来性が無い女子教育に金を掛けるのは無駄という考え方も一般的でした(そんな暇があったら針仕事の一つでも覚えさせろ!~的な)。

後、これも非常に重要な点ですが。明治33年(1900年)までは日本では、義務教育と言いつつ“有料サービス”だったので、授業料を払えないorケチな親だった場合は当然ながら男女を問わず学校には通わせて貰えませんでした。当時は毎月25銭~50銭を徴収すべしと法令にありました。昔の貨幣価値を現代に換算するのは非常に難しいですが。大体、月々5000円~1万円程度って感覚でしょうか?

逆に1900年以降は小学校が全国無料になったので、当時の資料でも就学率が90%に達した喜ばしい~と書かれています。

あともう1つ、これまた現代人には理解し難い点がありまして。当時の義務教育制度では修学年齢というモノが決めてなかった!つまり今みたいに満6歳になったら小学校へ~的な制度では無くて。あくまでもそれぞれの御家庭の事情に合わせて、好きな年齢の時に入学すれば良かったのです(一応、6歳~14歳の範囲で)。

なのでピカピカの1年生でも、同じクラスの同級生には6歳の子もいれば、妙にガタイの良い10歳の子も居るのが普通でした。後、今と違って義務教育中でも“落第”がありましたので。もう今年で3回目の1年生だよ!~みたいな落ちこぼれも居ました。

で、落第があると言う事はその逆、つまり“飛び級”もある訳でして。優秀な生徒は小学校を最短で4年で卒業する事が可能で(つまり10歳で中学へ進学可能)。逆に落第ばかりの劣等生だと、単位を取れなくても14歳になった時点で強制的に義務教育は終了させられました。

P.S.
いわゆる「ゆとり教育」という言葉が囁かれて久しいですが。明治時代にも言葉こそ無けれど、同じ様に教育の中身に関しては現代以上に行ったり来たりの試行錯誤だった様で。日露戦争当時には「最近の兵士はちゃんとした教育を内地で受けていないのか!?簡単な足し算引き算さえ出来ない馬鹿が多くて困っている!」と言う様な主旨の報告書が、現場の指揮官から送られています(笑)。

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性...続きを読む

Q明治から昭和初期の住み込み使用人の一生

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの事情で住み込みで働くようになるのでしょうか。
2)どういった仲介などの方法があったのでしょうか。
3)住み込み使用人を求める側は、住み込み使用人が欲しいことをどのようにしてアピールし、実現させたのでしょうか。
4)住み込みで働くとき、藪入りのような形で里帰りするのだろうと思うのですが、例えば5人の住み込みを使用している主家では、全員がいなくなってしまうようなこともあったのでしょうか。日程をずらすのが普通でしょうか。ほとんど主家に住み込んだまま、時々休暇で私用をたすような人も多かったのでしょうか。
5)住み込みで働いていた人が100人いた場合、何人くらいが結婚したのでしょうか。住み込ん後ではもう結婚しないで一生を終えた人はどのくらいいたのでしょうか。 (感覚的な割合で結構です)
6)住み込みを辞めるということもあると思います。結婚してしまうから。通いに変更するから。単に使用人であることができなくなったから。死んでしまった。 住み込みの主家で一生を終えるというケースはどの程度あったのでしょうか。
7)住み込み使用人が事故、疾病、老齢などで死んでしまった場合、主家は葬儀や遺体にどの程度関与したのでしょう。【住み込み使用人に実家や身寄りで遺体引き取りをしそうな類縁がいないケースの場合で、どうだったのか】 主家はどう扱うことが多かったのか。 葬儀、埋葬や墓はどうしたのか。

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの...続きを読む

Aベストアンサー

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられます。

 また身元がしっかりしていることが条件なので、あまり斡旋所(桂庵)などの利用はなかったと思います。

 大家族制で、未婚の弟妹が同居しているのが普通でした。女中が里帰りしていても、家事に差し支えることは少なかったのではないでしょうか。

 詳しいことは、たとえば小泉和子『女中のいた昭和』などがお役に立つと思います。末尾にある読者の書評も面白い。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309727921/chickensoupwi-22/

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられま...続きを読む

Q軍人が気兼ねした時代。

大正軍縮の時代、軍人(兵隊さんと呼ばれる位の人)には嫁の来手がなかったとか、電車に乗っても白い目で見られたとか聞きましたが、ホントですか。
具体的な事例があれば(例えば新聞・雑誌記事)を教えて下さい。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

投書欄が中心のため偏りがあるかもしれませんが、
下記<研究ノート>にて当時の軍人イメージが集約されていますので、
ある程度はそのイメージが捉えられると思いますが、如何でしょうか?
(欄外注記もお見逃しなく^^)

・「<研究ノート>両大戦間期における軍人のイメージ:新聞投書欄を中心として/谷口俊一」
『京都社会学年報第8号/京都大学大学院文学研究科社会学教室/2000.12』(147-165頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000483214

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

Q明治維新後、武士は平民になったというが

明治維新後、武士は平民になり、一般の会社員になったりしたのでしょうか。いろいろ苦労があったと思いますが、
そのあたりのエピソードを教えてください。

Aベストアンサー

維新により、武士は士族(足軽は卒族)という身分になり、秩禄処分で政府から一時金を貰って、以後は自分の才覚で生きていくことになります。
例として、徳川宗家に使えた旧幕臣を上げますと、彼らは徳川家達に従って、静岡に移ります。
ここで牧の原を開墾し、お茶の生産を始めます。
当初は筆舌に尽くしがたい苦労の連続でしたが、明治末に杉山彦三郎氏が新種の開発に成功し、経営が安定します。
旧幕臣たちは苦しい生活の中にも教育に未来を託したため、彼らの子弟は高い教養を身に付け、官吏となった者も少なくありません。
東北諸藩は北海道に未来を託したものも多く、現在北海道に「伊達市」がありますが、伊達邦成が旧家臣とともに開拓した土地で、旧会津藩の余市、旧徳島藩の静内町など、どちらかと言うと、維新の逆賊に回った藩の士族が開墾した土地が多く残ります。
このように、旧藩主(華族)がある程度の援助をして、家臣たちに農業をやらせる例も多くありますが、完全に没落したものも多く出ます。
樋口一葉などもその例に漏れず、士族としての誇りを持ちながら、貧困にあえいだ生活は涙を誘いますね。
総じて、士族は学がありますから、彼らの子弟は官吏、教員などになる例は多いようです。

維新により、武士は士族(足軽は卒族)という身分になり、秩禄処分で政府から一時金を貰って、以後は自分の才覚で生きていくことになります。
例として、徳川宗家に使えた旧幕臣を上げますと、彼らは徳川家達に従って、静岡に移ります。
ここで牧の原を開墾し、お茶の生産を始めます。
当初は筆舌に尽くしがたい苦労の連続でしたが、明治末に杉山彦三郎氏が新種の開発に成功し、経営が安定します。
旧幕臣たちは苦しい生活の中にも教育に未来を託したため、彼らの子弟は高い教養を身に付け、官吏となった者も...続きを読む

Q明治・大正時代の欧米人への庶民感情

日本の外国人差別の歴史について調べています。
明治・大正時代、一般庶民は欧米人に対して差別感情があったんでしょうか?

鎖国中は主に嫌悪(毛唐、南蛮など)、現代は主に憧憬、ということはよく知られていますが、その間にある明治、大正については情報が少ない気がします。

外国人居留地など隔離政策の影響から、100%受け入れられていた訳ではないのでは?と予想がつきますが、一方で「ハイカラ」という言葉が良いニュアンスで使われていたりなど、憧れの気持ちも強かったことが分かります。

「文化には憧れがあるが、肉体的特徴などに嫌悪や恐怖がある」というような微妙な感じかなと思っているのですが。

また、ロシア人とその他の国、オランダやポルトガルとその他の国、などでは違う可能性もありますね。

知識をそのまま教えていただくのでも、それらしき書籍やサイトをご紹介いただくのでもどちらでも構いませんので、お教えください。

Aベストアンサー

庶民といっても都市のインテリ層は、憧れの気持ちを持っていたと思います。
明治時代は政治制度、文化、科学、どんな分野でも欧米から学ぼうという認識からスタートしたのですし。
お雇い外国人は基本的に日本人に教える立場の人ばかりですし、印象として侮蔑ということはなかったでしょう。
もしかしたら夏目漱石のように劣等感が嫌悪に変わる、ということはあったかもしれません。
現代の中国人や韓国人が日本から学びつつも日本を敵対視するような感じで。


隔離政策というのは、所得、生活習慣が違いすぎるというのが主な原因でしょう。
海外の金持ちが六本木ヒルズに集まるような感じで、自然発生的なものでは

Q華族と

戦前、華族が事業の失敗などで破産する事はあったのでしょうか?
そういった場合、爵位は剥奪されたりしたのでしょうか?

華族が犯罪を犯し、有罪が確定した場合は爵位の剥奪などはあったのでしょうか?


今でも旧華族同士、霞会館などで親交があるみたいですが、旧華族の方は英国貴族の様に働かなくても資産が潤沢で、趣味で仕事をしているような方が多いのでしょうか。

Aベストアンサー

破産しなくても華族の体面が保てない場合は自ら爵位を返上したというたくさんあります。(公家出身の興福寺の院家が還俗して男爵位をもらった南都貴族と呼ばれる華族にはもともと財産が無かったために体面が保てず爵位を返上したという何件かの例があります。また清水徳川家も確か爵位を返上しています。)
また、もともと公家や大名だった家では、爵位は家の伝統に与えられているので犯罪を犯した場合でも後継者に爵位を譲って隠居してしまえば家の爵位は残るという例もありますが、明治維新その他の功績で爵位をもらったいわゆる新華族の場合は爵位を剥奪されたという例もあります。
華族といってももとも資産が潤沢ではなかったという例も多いですし、戦後のいろいろなことから没落した家もたくさんあります。ただ一部の大名家はうまく資産を残していまも裕福という場合もありますが。

Q貴族と華族??

爵位についてですが、いまいちわからないので質問します。爵位には五爵ありますよね、貴族の中で・・・これらの違いがよくわからないのでどなたか教えてください。それと、貴族はどのような人々のことを言うのか、お金持ちの人?よくわかりません。
また貴族と華族は何がちがうのでしょうか?
お願いします!!

Aベストアンサー

華族のランク分けですが、明治17年の華族令の叙爵内規に依れば
公爵11家--臣籍になった皇族、摂家(公家)、徳川将軍家
侯爵24家--清華家(公家)、徳川御三家、15万石以上の大名
伯爵76家--堂上家(大納言)、徳川御三卿、5万石以上の大名
子爵327家--堂上家(大納言より下の)、5万石以下の大名
男爵74家--御三家の付け家老、大名・公家の分家・寺社門跡

というのが大雑把な分け方になります。
その後、勲功華族といって維新の功労者、日清日露戦争の軍人、財閥当主や学者などが加わり、これらは大半が男爵になりますが、最終的には913家(酒巻芳雄氏に依れば、再受爵2人を含めて1,016人)が華族になり、終戦を迎えます。
このランク分けですが、大雑把と書いたのはお手盛りがあり、三条家は清華ですから、本来は侯爵ですが公爵に、岩倉家は子爵のはずが公爵、官軍側の島津・毛利家も公爵となり、その後は維新の立役者の大久保・木戸家も侯爵、伊藤博文・井上馨・松方正義・山形有朋なども伯爵になっていきます。
華族の資産ですが、例として賊軍故に華族に成れなかった、1万石大名の林家(請西藩)を見ますと、旧家臣たちの受爵運動に対して、年収500円(明治22年の物価水準で教員の初任給が5円)を得られる資産を確保することを条件に爵位(男爵)を認められています。
戦争による勲功華族を除けば、大名華族はこの程度の資産を持っていたようです。
先に書いた福沢諭吉は、爵位の代わりに5万円(明治33年の教員の初任給11円)を貰っており、勲功華族は財閥当主を除き、明治期を通じ、伯爵35,000円、子爵20,000円、男爵10,000円が公債として天皇から貰って、それを華族としての体面を保つ資金にしてました。

華族のランク分けですが、明治17年の華族令の叙爵内規に依れば
公爵11家--臣籍になった皇族、摂家(公家)、徳川将軍家
侯爵24家--清華家(公家)、徳川御三家、15万石以上の大名
伯爵76家--堂上家(大納言)、徳川御三卿、5万石以上の大名
子爵327家--堂上家(大納言より下の)、5万石以下の大名
男爵74家--御三家の付け家老、大名・公家の分家・寺社門跡

というのが大雑把な分け方になります。
その後、勲功華族といって維新の功労者、日清日露戦争の軍人、財閥当主や学者などが加わり、これらは大半が...続きを読む


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