「ソフィーの世界」を読んで哲学の概容のようなものを垣間見ましたが、
そんな表面上のものだけでも考えてみると哲学者って
まともに人生歩けるのかなんて思っちゃうんですけど
実際哲学者ってもちろん千差万別なのも分かるんですけど
それでもどんな人がいるんだろうと思ってしまいます。

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A 回答 (6件)

 


  哲学者には、どんな人がいるのか、つまり、哲学者とは、どういう人なのか、という質問と理解します。
 
  普通に答えますと、「哲学者」というのは、特にこういう人だという特徴はありません。無論、様々な根元的問題について思索するのですから、「思索力」がなければなりません。しかし、思索力は、別に哲学者でなくとも、色々な分野、色々な生活の分野でも必要になります。いわば、何を問題にして、思索力を駆使するかの違いです。哲学は多様で、問題も多様で、アプローチも多様ですから、学者的思索の哲学者もいれば、金儲けの思索が得意な哲学者もいれば、世渡りのうまい哲学者もいれば、逆に世渡りの下手な哲学者もいれば、隠者のような哲学者もいれば、大いに社交家の哲学者もいれば、政治に関わる哲学者もいれば、政治とは無関係な哲学者もいれば、金のある哲学者もいれば、貧乏な哲学者もおり、最初に言ったように、特に「哲学者」一般を特徴付ける特徴はありません。
 
  しかし、これでは、あまり面白くない回答ですから、もう少し話を続けます。
 
  哲学には、「人間の生き方」「倫理・善とは何か」という課題も含まれます。これは智慧に関する問題ですが、元々哲学は、「愛智」という意味で、このような智慧に関する論理的思索・実践的思索の探求と、答えの探求が、その課題でした。近世以降になって来ると、このような智慧の問題に関係のない哲学者と呼ばれる人も出てきますが、基本的に哲学にはこの智慧とは何か、善とは何かという問いが含まれます。
 
  そこで、このような「人間の生き方」について探求した哲学者については、大きく分けて二つの類型が考えられます。笑い話ではありませんが、善とは、このようなもので、人間は、このように生きるのが最善であるというような、智慧や倫理に関するテーゼを提示した哲学者で、1)自分の主張通りの「生き方」を実践した人。2)自分の主張とは、反対の生き方(または明らかに主張と矛盾する生き方)を実践した人。3)自分の主張は、哲学の学説で、自分の生き方はまた別だという人。この三種類に分けられます。
 
  1)の典型は、古典ギリシアのソークラテースです。ソークラテースは、知とは何か、善とは何かを生涯問い続けました。この問いの答えは、パラドキシカルなものとなります。それを、ソークラテースのイロニー(皮肉)とも言います。「無知の知」などはイロニーです。ソークラテースは、善とは人間がめざす、かくあるべきこと、かくあること、運命だとも考えました。ソークラテースはそのように人々に説き、弟子に教え、そして、その通りに生き、死にました。従ってソークラテースの「死」は、イロニーになり、パラドキシカルなものとなりました。このソークラテースの「死」は、当時の最高の良心ある知識人たちにとって、大きな衝撃で、また課題となりました。プラトーンは、ソークラテースのこの「死」に衝撃を受け、彼の思索と哲学は、ソークラテースとは、どのような人間であったのか、という根元的疑問から出発しているとされます。
 
  ソークラテースの「死」に似て、人の生き方に大きな影響を与えたのは、イエズスの「死」です。イエズスは普通、哲学者とは言いませんが、人間の生き方、人間のありようを説いた人物として、偉大な、人類の教師だったとも言えます。イエズスは、自分の教えた通りに、自分の生を歩み、そして「死」を迎えました。このイエズスの生き方と「死」が、パウロスなどを感銘させ、衝撃を与え、こうしてキリスト教という世界宗教が誕生したのだとも言えます。
 
  あるいは、これも哲学者とは呼ばれませんが、仏陀釈迦牟尼も、その教えた通りに生き、死にました。人は覚りを開けば「苦」を脱することができると釈迦は説いたのですが、完成された人格で八十歳になるまで、その教えを説き、教えの通りに生き、そして、安らかに死んで行きました。こうして、仏陀の生き方・死に方は、多くの人にとって、模範とする最高の理想モデルとなったのです。
 
  また古典ギリシアからローマ時代にかけ、キュニコス派や、エピクロス派と言った哲学の考えがありました。これらの人々は、物質の外見的豊かさ、財産・富・権力・社会的地位などで、人は幸福になれないと説きました。人の幸福は、その内面的安定と安らぎにあるのであり、乞食であろうと、心で豊かな幸福を得ていれば、権力と富を持つ、帝王よりも幸福であるとし、特にキュニコス派は、乞食のような生活をしました。ディオゲネースというキュニコス派の哲学者は、大きな樽のなかで生活していたという伝説がありますが、当時の世界帝国の帝王アレクサンドロスがやって来て、何か望みがあるかと尋ねた処、彼は、アレクサンドロス大王に、「そこをのいてくれ、貴方が遮っている、太陽の暖かい光が欲しい」と答えたそうです。
 
  説いた教えや思想と、その人の生き方、死に方が一致しない、あるいは逆になっているという思索者は、古代・中世では、稀というか、あまりいないようです。何故なら、歴史的に残っている、名のある思想家は、一応「言行一致」でなければ人々は納得しなかったので、立派なことを説いても、それと逆の生き方をした人の思想には、価値が置かれず、歴史的に淘汰されたとも言えるからですし、また、自分の生き方として探求した生き方・死に方を生き、死ぬのは、ごく当たり前のことだったからでしょう。
 
  ソークラテースが議論した多くのソピステースたちも思想家と言えるでしょうが、彼等は、論理(と修辞)で相手を論駁できる思想が最高であるという思想であり、また、思想はプラグマティックな必要のためにあるという思想でしたから、「貧しくとも、心の平安があれば、人は幸福であり、幸福のためには、むしろ、富は邪魔である」などと、イエズスのようなことを説き、金持ちの子弟に教えて、大金持ちになったソピステースがいても、別に言行不一致という訳でもないことになります。ソークラテースの愛弟子だったアルキビアデ-スは、学問に秀で、政治にも才能のある美青年として有名でしたが、ご都合主義の化身のような人物で、ソークラテースには不肖の弟子でしたが、彼は彼で、それなりに首尾一貫していたとも言えます。「郷にいれば郷に従え」が彼の思想だったのですから。
 
  2)教えや学説と、その人の実際の生き方・死に方の不一致が大きくなるのは、近世・近代・現代の思想家・哲学者と呼ばれる人たちでしょう。ルソーは、啓蒙を説き、人間の自由の価値を説き、新しい自由な人間はどのような教育で生まれるかということで、『エミール』という本を書きましたが、その実際の生き方は、確かに自由で、勝手気ままなもので、そのことは、自由を説き、社会の旧弊な慣習からの離脱を説いたのですからおかしくないとしても、確か、自分の庶子に当たる子供を平気で捨て子にしたという話ですから(ここは、記憶なので間違っているかも知れません。間違っていたら、ルソーにお詫びしましょう)、教育思想を説いた者としては、言行不一致です。
 
  ショーペンハウアは、人生は、権力意志などの人間のエゴが衝突する場にあるので、人生は苦と悩みに満ちていると説き、また、インドのウパニシャッド哲学を知り感動し、これこそ、人間の生き方の答えで、人は、もろもろの自我の主張を離れて、安らかな境地に入れるのだなどと説きましたが、実生活では、かなりな利己主義者で、家の使用人(メイドだったと記憶します)に腹を立て、階段から突き落としたという話が確かありましたから、言行不一致です。(ただ、ショーペンハウアの思想は、この世はエゴとエゴの衝突の場で、人生は苦だというものですから、自己の利己的な行為も含め、この世は苦の世界だということかも知れませんから、それなら一致しているとも言えます)。
 
  論理実証主義のバートランド・ラッセルも哲学者だと呼ばれますが、彼は確か、「若くて頭がよかった時は数学をやり、歳を取って頭が悪くなったので、哲学をし、更に歳を取ると、もっと頭が悪くなったので、文学をした」などと言っていましたから、哲学者としては、どうかとも言えます(ラッセルは、ノーベル文学賞受賞者です)。ただ、ラッセルの思想は、人間いかに生きるかというような問題ではなく、また、ラッセルは、その師ホワイトヘッドなどと比べると思想家として三流という意見もありますから、あまり問題でないのかも知れません。
 
  あるいは、実存主義の哲学者で、こちらはノーベル文学賞を辞退したので有名なジャン・ポール・サルトルは、新しい時代の人間のありようを説き、中期からはマルクス主義実存主義哲学者(変な概念ですが、仕方ありません)となり、例えば、男女のあいだの自由で対等な関係の理想などを説き、当時、彼の事実上の「妻」と見做されていた、シモーヌ・ド、ボーヴォワールとの愛の関係は、彼が新しい人間関係を実際に例示していたのだとも見え、それに感銘した人も大勢いたのですが、後に、ボーヴォワールの手記などが明らかになってくると、サルトルはブルジョワの息子で、わがままで、ボーヴォワールに愛とか慰めとか心の支えなど求めてばかりで、別に愛人を造り、財産も、全部そちらに譲り、ボーヴォワールとその娘には、何も与えなかったということが明らかになっています。かなり勝手な利己主義者だったのです。ボーヴォワールが成熟した女性だったのと比べると、子供と母親のような関係です。
  
  もっと有名な人では、ハイデッガーがいるでしょう。彼は二十世紀最高の哲学者とも、最高の智者とも称されますが、確かに、彼に匹敵する二十世紀の思想家はいないとも言えます。彼の思想は時代と共に変化したようにも見えますが、基本的なテーマは一貫していたとも言えます。彼は、人間の近代的実存は、本来性を失い頽落していると主張し、実存の回復を唱えました。実存の回復とは、そもそも、人間があるべき本来の人間であることを求めるということで、ソークラテース以来の哲学の課題です。ハイデッガーの思想からは、論理的に、ナチスの擡頭や、ユダヤ人の虐殺を肯定あるいは、根拠付けるような思想が導かれる可能性が指摘されますが、ハイデッガーは、ヒットラーに接近し、積極的にナチスの活動を支援し、更にナチスの思想的指導者になろうと意図して行動したことがあります。ナチスは、ハイデッガーを利用したが、その考えを受け入れなかったのと、ハイデッガーの方でも、ナチスに、その「不徹底さ」故に失望したという経緯で、両者の関係は切れます。しかし、ハイデッガーは、ドイツ敗戦後、ナチスの残虐行為に関係した人々が、自分の間違いを認め、多かれ少なかれ、ユダヤ人に謝罪の意を表したのに反し、一切、戦争中の行為については沈黙を守りました。ハイデッガーを尊敬するユダヤ人詩人が、戦後彼を訪ね、一言でよいから、ユダヤ人に謝罪の言葉を欲しいと懇願したことを、(笑っていたかどうかは知りませんが)、無慈悲に拒否し無視します。(また、サルトルは、ハイデッガーを偉大な先達として、尊敬の意を表していたのですが、サルトルの理解は底が浅く間違っていたのを、ハイデッガーは知っていて、指摘せず、嘲笑っていたという話もあります)。
 
  ハイデッガーは、偉大な思想家で、哲学の巨匠でしたが、その思想の偉大さや卓越性が、必ずしも人格の卓越性に一致しないという例でもあるでしょう。ハイデッガー自身が、若い頃、苦労を重ね、社会的地位を手に入れたということも関係あるのかも知れませんが(彼は、若い頃、非常に優秀であったので、大学で哲学を研究したいと思ったのですが、それには財産が必要で、それがなかったので、貧乏な者でも入れる神学校に入りました。ハイデッガーは、神学生として出発し、大学に職を得るにも、色々不運に出会っています)。
 
  偉大な哲学者で、言行不一致の人というのは、なかなかいません。ただし、変人・奇人は大勢います。最初の頃のディゲネースも変人・奇人でしょうし、ソークラテースも変人だと言えます。
 
  3)現代は、大学に哲学の授業がありますから、哲学を教える人が大勢いる訳です。これらの人たちは、哲学者ではなく、哲学を教える者でもなく、大部分は、「哲学史・哲学の色々な説を教える人」です。こういう人たちのなかには、教えている学説と反対の生き方をしている人がいるでしょうし、哲学の教えと、実生活が無関係な人も大勢いるでしょう。
 
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たまにNHK教育で代表作をベースに哲学者の生涯を海外&国内特番で放映してくれるので、もし今度見かけたら、ぜひご覧ください。


ずっと前、プラトンの「国家」の海外特番が放映されていましたが、なかなか面白かったです。
とはいえ、テレビはいつ放映してくれるか分からない。
お勧めする本は「自分を知る哲学入門(ちくま学芸文庫)」です。
この一冊で大物哲学者はバッチリです。読みやすいですよ。
下のURLはアマゾンのサイトです。参考にしてくださいね。
あと、ウィトゲンシュタインというユニークな哲学者を見事映画化した
「ウィトゲンシュタイン」(デレク・ジャーマン監督)も、おすすめ。
哲学者について映像で理解できる唯一の作品かな。
これは現在、ビデオが廃盤なので、大きなレンタル屋なら見つかるかもしれません。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480081 …
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どんな人なんでしょうね。


まず立ち上がり、言葉と論理でガチャガチャやって、鏡を作り、自分の後ろにある世界の一部が映ったその鏡をみて、ニヤニヤ、のように、一喜一憂するような人たちでしょうか。もちろん、人間が作る鏡なので、いがんだり、色がついてたり、曲がったり、間(ピース)が抜けてたり、横向いてたり、米粒の様に小さいうえさらに、曇ってたりするわけです。そして、その虚像から、いろんな認識を得ようとします。じじつ、けっこうなきっかけを得ます。そのきっかけで、後ろを振り向いたりすると、びっくりします。自分が作っていたのが鏡なのですから。
 しかし、立ち上がらず、突っ伏したまま、下を向いて砂粒をいじり続ける人もいるのです。死ぬまでです。空を見ることなく、。です。もちろん、鼻から世界で生きている人もいると思います。たぶん、。そういう人に肩をたたいてもらいたいです。振り向いてその人の顔を見て、後ろに広がる景色を見たいです。しかし、肩をたたかれても、にごった鏡に見入ってしまうのが、苦悩する人間なのです。声でもかけてもらえれば一発でわかるんですが、やはり、耳の聞こえない人が多いのです。
  
 僕は、帰り道の上で、万札を拾って喜ぶよりも、夜空の星をつかんでうなずきたいです。
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「哲学者」と一言で言ってもいろいろな人がいますね。


政治家、自然科学者、革命家、エピキュリアン…。
哲学者の中には、もちろん「まともに人生を歩」いた人も多いです。もちろん、何をもって「まとも」と定義するかは難しい問題ですが。ニーチェやキルケゴールのように本当に悲惨な最後を遂げた人ばかりに目がいくのかもしれませんね。

ドイツの観念論哲学者、ヘーゲルを例に取りましょう。彼の若い頃は家庭教師や大学の私講師(授業はできますが給料はなし! 学生からのカンパのみ)をしたり、ナポレオン戦争のおかげで『精神現象学』の出版が遅れそうになったりと、ろくなことはなかったのですが、のちにはベルリン大学教授(晩年には総長)に就任したり、ゲーテをはじめとしたいろいろな人との交流を深めたりしてきたようです。また、学生からの評判もなかなかのようだったみたいです。
また、古代ギリシアではプラトンの『饗宴』をみると、「哲学」はお酒を飲みながらでも論じられていたようですし。

一般に日本では哲学といえば小難しい、理屈っぽい学問と思われがちで、それが反映して「哲学者」といえば「まともに人生」歩けない人のように考えられがちです。しかし、ヨーロッパ(特にフランス。そういえばサルトルは元々、高校の哲学教師でしたネ)では哲学は高校で習いますし、教養がそれなりにある人にとっては哲学は基本でさえあるようです。
本来哲学とは「フィロソフィー=知を愛すること」なのですから、学問的好奇心さえあれば誰でも哲学者になることはできると思います。
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 ソフィーの世界は未読なので解りませんが、結構哲学者には「いっとる事とやっとる事がちゃうやんけ!」という実生活のダメ人間確率が多いのは確かです。

それを言うと作家もそうですが。何か一つのことに特化して優れた業績をなす人間は、哲学者に限らず違う部分が抜けている…というのはあることだと思います。
 具体例については…「哲学ドリル」(鷲田小彌太/すばる舎)というおバカな本(ホメてます)の哲学者プロフィールを見ると「あーやっぱり」と思っていただけるかと。
 知りたい事はこう言うことで宜しいでしょうか? 違ってたら補足してくださいね。具体例が欲しい場合はおっしゃって下さい。
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日本にも哲学者という肩書きの人は何人かいるようですが、僕はそういう肩書きには興味ありませんし、文面から貴方も同じでしょう。



哲学をじっくりとしようと思えば、やはり毎日のように学校へ行ったり会社に行っていては無理でしょうね。
人から距離を置いて孤独な生活をして初めて見えてくるものがあるように思います。
僕も何年かそういう時期があって、恥ずかしながらこの哲学カテゴリーに回答させてもらっています。

世間から見れば孤独な生活しようとする人は、不登校だとか引き篭りだとか、まともでない人と評価されてしまいますが、僕はそのような人に敬意を持っているし、貧乏してもそういう生活に踏みこんでいく勇気にこそ哲学者の名前がふさわしいのではないでしょうか。
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Q哲学者になる要素

皆さんこんにちは。

「良妻を得れば幸せに、悪妻を得れば哲学者になれる。」
                ソクラテス

悪妻を得ることが、哲学者になる一つの要素ならば、
哲学者になるための、その他の要素は何かありますか?
「疑問を持つ人は哲学者になれる」とか。

私はいつも暇です。
頭は悪いのですが、暇なのでいろいろな事を考えます。
今日も午前中、正義とは何か?を考えていました。
私のような暇人も、哲学者になりやすくはないのでしょうか?

Aベストアンサー

>私のような暇人も、哲学者になりやすくはないのでしょうか?

ただ「暇」で「考え事」してるくらいでは、哲学者に成れないでしょう。
「下手の考え休むに似たり」
と言う言葉も有ります。
(失礼・・・)

哲学は、認識・倫理・存在・美学など、部門が多岐に渡ります。
しかも、先人の哲学者が大勢います。
その先人たちの言葉くらい知らなくては、一角の哲学者に成れないのは明確です。
芸術に例えても、先ずは「模写から始まる」と言います。
「先人に学ぶ」訳ですネ。
その後、自分の「画風」を確立して行き、独り立ちする。

哲学の世界だって、似たようなモノだと思います。
「先人に学び、自分流を確立する」
です。
「最初から独学」タイプも、いるかもしれませんが、こちらは、
「持って生まれた才能」に、よっぽど恵まれていないと、まず不可能でしょう。

Qソフィーの世界に出て来た哲学者の名前をおしえて

ソフィーの世界に、全てを疑い通しても疑いきれないのが神であった。
こんな事をした哲学者として紹介された人物について調べてみようと考えています。
名前や検索キーワードなどをお願いします。

Aベストアンサー

 ヨースタイン・ゴルデルの手になる『ソフィーの世界』に登場する思索家は次の順番で登場します。
(1)タレス
(2)アナクシマンドロス
(3)アナクシメネス
(4)デモクリトス
(5)ソクラテス
(6)プラトン
(7)キュニコス学派
(8)ストア派
(9)エピクロス学派
(10)新プラトン学派
(11)神秘主義
(12)キリストそしてパウロ
(13)トマス・アクィナス
(14)ガリレオ・コペルニクス・ケプラーそしてルター
(15)デカルト
(16)スピノザ
(17)ロック
(18)ヒューム
(19)バークリー
(20)啓蒙主義
(21)カント
(22)ロマン主義
(23)ヘーゲル
(24)キルケゴール
(25)マルクス
(26)ダーウィン
(27)フロイト
(28)ニーチェ
(29)サルトル
(30)シュルレアリズム
(31)エコロジスト
(32)*****
この(32)の人物は「名前だけが具体的な形で」本書に登場しますが、この書物の実際のテーマはこの人物の思索の足跡を辿ることであり、その人物は「M.ハイデガー」です。この中からご所望の思索家を見つけることができれば幸甚ですが。

 ヨースタイン・ゴルデルの手になる『ソフィーの世界』に登場する思索家は次の順番で登場します。
(1)タレス
(2)アナクシマンドロス
(3)アナクシメネス
(4)デモクリトス
(5)ソクラテス
(6)プラトン
(7)キュニコス学派
(8)ストア派
(9)エピクロス学派
(10)新プラトン学派
(11)神秘主義
(12)キリストそしてパウロ
(13)トマス・アクィナス
(14)ガリレオ・コペルニクス・ケプラーそしてルター
(15)デカルト
(16)スピノザ
(17)ロック
(18)ヒューム
(19)バークリー
(20)啓蒙主義
(21)カント
(22)ロマン主義
(23)ヘーゲ...続きを読む

Q哲学者について教えて下さい

哲学者は自然科学の人みたいに実験や観察はしないんですよね。
他の学問みたいに発掘や統計の分析や解剖や意識調査のアンケートとかもしませんよね。
座って考えることだけが哲学的作業なのでしょうか?それとも哲学にも他の学問みたいに研究「作業」があるのでしょうか?
宗教の人達は山林修行とか瞑想とか座禅とか実技をしますよね。
哲学者は宗教的な要素を抜きにしてそういう実技は行なわないんでしょうか?
それとも哲学者が実技を行なうと無条件に宗教家と定義されてしまうんでしょうか?

ただ考えることが哲学なのであれば、その優劣は非常に曖昧だと思うのですが…。哲学者の優劣はどうやって決まるんでしょう?文学であれば、個々人の感性で味わえば良いのでしょうが、哲学は一応真理を追究するんですよね。他の哲学者が評価するんでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ソフィーの冒険をお読みになった事はありませんか。
哲学の歴史をわかりやすく書かれています。
この哲学から、宗教、化学、自然科学、等々が枝分かれしていきます。
数量化できないものが哲学に何時までも残っているのです。
何故人間は異性を求めるのか。しかも何らかの理由を付けて選別するのか。
人間が正確(数量などで)に把握できないことを、何とか説明し理解させられかで優劣が決まるのではないでしょうか。

私が最近感じている科学?哲学?は、この世の物質はすべて光のエネルギー
で造られていると考え始めました。
原子を分解すると、電子、陽子、中性子がありこれらは素粒子から出来ている
事がわかってきました。ではこの素粒子は何から出来ているのか?
私は光エネルギーが何らかの理由で溜めこまれていると考えています。

Q国語の現代文の哲学?みたいなやつが苦手です。 小説とかはかなり得意でほとんどあってるんですが哲学は内

国語の現代文の哲学?みたいなやつが苦手です。
小説とかはかなり得意でほとんどあってるんですが哲学は内容が難しく頭に入ってこないので半分もあっていません。なにかコツとかあるんでしょうか?

Aベストアンサー

評論文ですね。内容が難しいのは読み慣れていないからですよ、普段から論理的な本を読む癖をつけることと、読み方の鉄則に従って機械的に処理すればいいと思います。

Q哲学者の公務

ちょっと意地悪(だけど切実な)質問をさせて下さい.

国内において税金の使途が厳しく問われる昨今ですが,
果たして哲学者(ここでは国立大の哲学科の教官)は
納税者にどのようなメリットを還元しているのでしょうか?

ここでメリットとは
「病気が治る」「危険な作業から人を解放する」などの
「現時点で納税者の多くの人が期待すると思われる便益」であるとします.

私の仮説は
1)哲学者に具体的な何かを期待していると明言できる人がほとんどいないと思われる
2)過去(例えば戦後50年,あるいは,維新後130年)に哲学者がメリットをもたらした具体的実績がほとんどないと思われる(つまり,メリットを供給する能力が哲学者には備わっていない)
ゆえに,哲学者を税金でまかなう時代は過ぎた
というものです.哲学者の人件費を他分野の奨学金にまわしてはどうでしょう?

勿論,哲学自体は否定しません.色々反論があるかと思いますが,哲学の役割を「具体的に」説明できる能力を有す方のみ,ご返答おねがいします.

少々,過激かもしれませんが,お許しください.

ちょっと意地悪(だけど切実な)質問をさせて下さい.

国内において税金の使途が厳しく問われる昨今ですが,
果たして哲学者(ここでは国立大の哲学科の教官)は
納税者にどのようなメリットを還元しているのでしょうか?

ここでメリットとは
「病気が治る」「危険な作業から人を解放する」などの
「現時点で納税者の多くの人が期待すると思われる便益」であるとします.

私の仮説は
1)哲学者に具体的な何かを期待していると明言できる人がほとんどいないと思われる
2)過去(例えば戦後50年,...続きを読む

Aベストアンサー

No.6,No.8の回答者です。
明日から、およそ哲学やネットとかいった文明とは無縁の世界に旅立つので最後にします。

>(1)哲学者には納税者への大きな具体的実績はない
>(2)哲学者には納税者からの具体的期待がほとんどない
>は認めるがこのとき「功利主義かつ民主主義」を前提としなければ,「哲学者の
>存在の否定」は言えないというご意見ですね.
違います。功利主義の論理を徹底されたとき(1),(2)の批判に答えにくいと言うだけです。

>しかし今現在が功利主義かつ民主主義なのですから,言い換えると「功利主義の
>否定または民主主義の否定」がちゃんと成立するときまで,哲学者は自己の存在
>を肯定できない日が続くということです.
今現在は功利主義かつ民主主義ではありません。単に主流派を形成しているだけです。功利主義批判の潮流は哲学上もありますし、一般人の生活感覚にも存在するでしょう。No.9の方も仰るように、哲学への税金は建前上は民主主義的に配分されています。つまり、功利主義の論理に上手く反論できなくても、少なくともNo1-No9の人々は、直感的に「哲学は必要だ」と感じるわけです。
そして、理論化された功利主義の直感と、未だ理論化されない功利主義批判の直感はどちらが正しいかは、直ちには決められないでしょう。

>哲学者は警鐘を鳴らすために…と仰ってますが,なんらかの具体的な破局(戦争
>や大事故や地球環境破壊)から社会を救うという目的を前提としている主張に思
>えます.これは先に仰られた個人の満足のためという主張とは明らかに異なって
>客観的な成果を目的と認めていると思うのですが.
そうです。それは何ら論理的な破綻を意味しません。ある一つの行為に、複数の目的(正確には「効果」)が混在しても問題はありません。
私が、NO.6とNO.8で論理を変えたのは「個人的な満足」はダメとしゃるのでおっしゃるので「社会的な便益」をも指摘しただけです。個人的には、小説家に公的な補助金を出したって良いと思います。小説に税金が使われないのは、歴史的な沿革と、優秀な小説家なら自力で飯が食える、という点にあるのでしょう。

>真に警鐘を鳴らしたいのならば,なぜ「哲学者は納税者のメリットの1つである戦
>争や大事故や地球環境破壊のリスク低下を目的としている」と最初から明示しな
>いのでしょうか?
研究者の主観的な「目的」と社会が期待する(期待し得る)客観的な「効果」は違います。数学者も科学者も、哲学者と同様、必ずしも社会の為に研究をしているわけではありません。単に「楽しいから」「生活の為」という人が沢山います。(もちろん、中には「人類の為」と言っている人もいます。しかし、哲学者にも同様に「功利主義批判」を高々と掲げる人もいます。)
そのような科学者・哲学者を一般国民が食わせているのは、社会的な「効果」を期待するからです。もちろん一般国民は、功利主義批判なんて考えてないでしょう。しかし、同様に科学者の社会的便益ということも、常に考えているわけではありません。突っ込まれたとき、科学者の便益はすぐ答えられるが、哲学者のそれは説明しにくいだけです。

>なぜ「納税者の具体的期待」を得ようとしないのでしょうか?
科学者だって、いつも「納税者の具体的期待」を得ようと宣伝しているわけではありません。研究者は半分変人ですから、あまり社会の目とかは意識しないのです。
ただ科学への期待は一般人にも分かり易いので勝手に目に付くだけです。哲学界では功利主義批判は非常にホットな話題です。ただ、それが国民に伝わってないだけです。新聞の学芸欄とか読んでみてください功利主義に限らず現代の思想に警鐘を発する思想家の主張はよく載っています。

>「現時点で納税者が期待していると思われる便益」∋「功利主義かつ民主主義の
>行き過ぎによる戦争や事故や地球破壊のリスク低下」 は既に成立しているように
>見えます.
ええ、ですから社会は哲学者に税金を払うのです。

>功利主義と民主主義を前提とした社会の構成員として生きるならば,これを前提
>と素直に認めた上で,「功利主義と民主主義を「行き過ぎない」ようにする」こ
>とを素直に目的として掲げればよいのに…と思うのですが.
つまり、skistrさんも「哲学者の便益」を認められたわけですか?だとしたら、問題は解決ですよね。哲学者自身の「目的」と社会が期待する「効果」は一致しないのはすでに説明しましたよね。
哲学者をはじめ研究者には、変人が多いのです(実感)。でも、社会は彼らのワガママを多少は我慢して、その社会的な「効果」を得ようとするのです。

>数学者が数学の自己進化を目的として許されているのは「具体的実績がある」か
>らでしょう.哲学者にはそれが無いのですから,警鐘を本当に鳴らしたいのなら
>ば,数学の真似など止めて「具体的期待がある」状況にもっていくしかないので
>はありませんか?
哲学に具体的実績はあります。例えば功利主義それ自体もその実績の一つです。功利主義、この当たり前の合理性さえ、誰も疑わなかった時代があるのです。民主主義、この当たり前の原理さえ、気がつかなかった人の方が多いのです。そして、これらの当たり前の民主主義や功利主義も、千年後の人々にとっては、嘲笑の対象になっているかもしれません。

ところで、私のこの哲学擁護論自体、功利主義批判のほうが便益あるという功利主義になっています。これは意識的です。功利主義のベースで功利主義批判をした方が功利主義の人には説得的だからです。私の思想自体は、もっと「非合理的」な淵源に発っします。

ところで、哲学の実績は探せば色々あります。確かに科学的な成果のみを「便益」とするなら限られるでしょうが、例えば実存主義なしに大江健三郎の小説は無かったでしょう。「パレート最適」という哲学上の概念を巡って先進国と発展途上国の外交が展開される事もあるといのもご存知ですか。

しかし、学問の権威性・研究者の独善性を掘り崩そうとするskistrさんの発想自体には共感する所があります。

No.6,No.8の回答者です。
明日から、およそ哲学やネットとかいった文明とは無縁の世界に旅立つので最後にします。

>(1)哲学者には納税者への大きな具体的実績はない
>(2)哲学者には納税者からの具体的期待がほとんどない
>は認めるがこのとき「功利主義かつ民主主義」を前提としなければ,「哲学者の
>存在の否定」は言えないというご意見ですね.
違います。功利主義の論理を徹底されたとき(1),(2)の批判に答えにくいと言うだけです。

>しかし今現在が功利主義かつ民主主義なのですから,言い...続きを読む

Q映画『ソフィーの世界』

映画ソフィーの世界について感想文を書かなくてはなりません。
でも難しくてなにを書いていいかわかりません↓
誰か感想を載せてくれると助かります↓↓↓↓↓↓↓

Aベストアンサー

映画「ソフィーの世界」を観たことはないのですが、本は日本語訳で読んだことがあるので、少し感想を。
かなり以前に読んだので、うろ覚えですがその点ご容赦ください。

この本は、「ソフィーの世界」という題の通り、「哲学の世界」を小説風に紹介している本です。
主人公の名前である「ソフィー」は、哲学をあらわすギリシア語「フィロソフィー(philosophy)」からきています。
つまり、「哲学の世界」となるわけです。
この表題の通り、哲学の変遷をその時代ごとに著名な哲学者を選択して、謎の「先生」が手紙で講義してくれるという形で物語が進行します。

物語が「謎の先生との手紙でのやりとり」というミステリー風に仕上がっているため、ついつい「物語の世界」に引き込まれてしまいます。
しかし、後からよくよく考えてみると、代表的な哲学者の選択においてハイデガーがをはじめとした代表的な哲学者がいないとか、少し偏りが見られる気がします。
これは、後々の「ソフィーの世界」批判をした哲学者に攻撃される材料でした。
しかし、それは後で哲学史を少しかじった時に気づいたことでした。
そして、哲学史に興味を持ったのも、この「ソフィーの世界」がきっかけです。
「哲学に興味を持たせる」というのが、著者の目的なら、その目的は十分に達成されたわけです。(私には)

総合的な感想ですが、「哲学」をメインテーマにした「小説」としては面白い。なかでも、結末のどんでん返しは、正に「小説的」であり「ミステリーの醍醐味」を味わえました。
反面、「哲学」がますますわからなくなる。少し逆説的ですが、「哲学なんて本当はわからないものだ」というのがわかる本ですね。

以上、映画の感想ではないですが、参考になれば幸いです。
あと、参考URLに映画の感想が載ってましたので紹介しておきますね。

参考URL:http://www.eiga-kawaraban.com/00/00062602.html

映画「ソフィーの世界」を観たことはないのですが、本は日本語訳で読んだことがあるので、少し感想を。
かなり以前に読んだので、うろ覚えですがその点ご容赦ください。

この本は、「ソフィーの世界」という題の通り、「哲学の世界」を小説風に紹介している本です。
主人公の名前である「ソフィー」は、哲学をあらわすギリシア語「フィロソフィー(philosophy)」からきています。
つまり、「哲学の世界」となるわけです。
この表題の通り、哲学の変遷をその時代ごとに著名な哲学者を選択して、謎の「先生...続きを読む

Q哲学者の定義

どの線を越えれば、何時から哲学者となるのですか?

哲学者はどうやって生活するのですか?

Aベストアンサー

 
  哲学(philosophia)とか哲学者(philosophos)というのは「概念」です。従って、この概念が把握されている必要があります。無論、本に、哲学者「無知無学」先生などと書いてあったので、無知無学氏という人は哲学者なのか、という納得の仕方もありますが、誰かが哲学者だという表記・現表は、「誰かが判断して」行うものです。天から、「哲学者」というネームプレートが落ちてきて、哲学者に相応しいと天が認めた人の胸に張り付く訳ではありません。
 
  つまり、誰が哲学者かは、「人間の判断と評価」の問題になります。「哲学者」に関しては、哲学や哲学者の「概念」をまず判断者が持っていなければなりません。「日本根源哲学学会」とかいう組織があって、そこの会員であるので、あの人は哲学者だ、という判断でもよいのです。この場合、哲学者とは何かよく分からないが、「哲学学会」という名の組織のメンバーは、哲学者だ、という判断が行われ、哲学者をそのような概念で把握していることになります。
 
  わたしの概念把握では、「哲学」とは、世界と人間について、人間の持つすべての能力を色々に駆使して、把握し、理解し、思索し、「究極により近い答え」を求める人間の営みと考えます。もう少し具体的に言えば、世界や生命や人間は、「何を根拠」にして存在しているのか、存在とはそもそも何なのか……第一哲学、形而上学の課題を問題にする知的営み。次に、形而上学的には、答えが分からないが、あることは、どういう仕組みでそうであるのか……分科科学的な問いを発し、思索し実践する営み。そして、良いこと、善とは結局どういことなのか、人間にとっては、何をなすのが善で、何をなすのが善に反するのか、こういったこと、倫理的課題を思索し実践する「自覚的営み」……これが哲学の営みで、哲学とは、こういうものだとわたしは考えています。
 
  これが「哲学の概念」で、従って、こういう営みを為す人は、「哲学者」です。わたしは、従って、このような意味では、「哲学者」です。
 
  哲学者は、個人の判断で決まって来ます。従って、哲学の概念を把握し、哲学者の概念を把握了解した時、自分自身はどうであるのかと考えると、哲学の営みを行っている、と考えた時、他者に告げた時、そういう個人は、「自称哲学者」あるいは「自己認識での哲学者」です。
 
  また、哲学や哲学者の概念把握からして、あの人……フローラ・スターという人は、まさに哲学者と判断し、考え、あるいは他者に知らせた場合、「他称・他者認識の哲学者」です。
 
  しかし、また、単に、哲学の問題を思索する・実践するというだけでは「格」が足りない。世の多くの学者や一般の人が、「哲学者」だと判断するような人こそが、「哲学者と呼ぶに相応しい」……自称・他称の哲学者などは、本物でない、という「概念把握」もあるのです。これは、「社会的認知の哲学者」となるでしょう。
 
  社会的認知の哲学者のヴァリエーションは色々あり、有名な「哲学研究の先生」が多数、哲学者と呼んでいる人が哲学者だという認識もあります。別に哲学の研究者など関係なく、多くの人が哲学者と認識する人は哲学者だという認識もあります。「何々哲学学会」の会員が哲学者だというのも、社会的把握の一つです。
 
  わたしは、基本的に、自称・他称で「哲学者」の資格は十分だと思います。他人に話すと他人が笑うと言うなら、他人には告げなければよいだけでの話です。「わたしは平凡な人間だが、世のなかの役に立ったと思っている」「わたしは、悪いことをたくさんし、世のなかにとって、迷惑な存在だったと思う」こういう自己認識で、前者は「わたしは平凡な善人だ」、そして後者は「わたしは、やはり悪人だ」という自己認識なら、自己認識で、善人、悪人であるのでしょう。
 
  哲学者というのは、こういう感じで、自称・他称で、すでに意味があると思います。しかし、自称・他称する場合、「哲学」や「哲学者」の概念把握が前提になります。概念は分からないが、世のなかで、A氏は哲学者だと呼ばれている、多分そうなのだろう、というのは、社会的な認知の哲学者です。そして、この場合は、社会的にそう認知されている人が、****者である、という意味把握で、これでも良い訳です。
 
  また、Z氏は自称「哲学者」だが、あれはただの世迷いごとを言っている狂信者であって、哲学者など、とんでもない、という場合、他称「非哲学者」です。
 
  わたし自身の基準で、もう少し述べると、先に記した大別三つの課題を、論理的に、価値感情において、直観において、感覚において、整合させようとする努力において、「探求する者」が哲学者だということになります。論理的であらねばならないのですが、直観や感情評価も高い意味を持つのです。
 
  >哲学者はどうやって生活するのですか?
 
  哲学者というのは、職業名ではありません。人の生き方、世界と他者、自己に対する思索や判断の営みの様態です。肉体労働、知的労働などをしつつ、哲学思索する人もいるでしょう。知的労働のなかで、過去の哲学者の成果を学生に大学で教えたり、解説したりしたり、研究することで生計を得ている人もいるでしょう。あるいは、無職で、残飯をあさりながら世界や人間や善について思いをめぐらし、遂に路傍で餓死とか病死する人もいるでしょう。
 
  また、親などの残してくれた財産で、働くことなく、哲学課題の探求に時間を費やす人もいるでしょう。
 
  漫画愛好家・アマチュア作家は、どうやって生活するのですか?という問いの答えもこれと同じになるでしょう。「哲学者」には「プロとアマチュアの区別はない」のです。プロフェッショナルな「哲学研究家」とアマチュアの「哲学研究家」はいますが、「哲学者」は、生き方の問題で、生計の立て方は関係ありません。
 
  なお、以下の質問のなかのわたしの回答も参照してください:
 
  哲学者ってどんな人?
  http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=186765
 
  河合隼雄と村上陽一郎の文章について
  http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=172977
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=172977

 
  哲学(philosophia)とか哲学者(philosophos)というのは「概念」です。従って、この概念が把握されている必要があります。無論、本に、哲学者「無知無学」先生などと書いてあったので、無知無学氏という人は哲学者なのか、という納得の仕方もありますが、誰かが哲学者だという表記・現表は、「誰かが判断して」行うものです。天から、「哲学者」というネームプレートが落ちてきて、哲学者に相応しいと天が認めた人の胸に張り付く訳ではありません。
 
  つまり、誰が哲学者かは、「人間の判断と評...続きを読む

Q最近の哲学者、最近の哲学の話題

最近の哲学者で有名な人は誰かいますか。
現在生きている哲学者で、この哲学者の考えは面白いというような、そういう人はいますか。また、哲学で話題になっている考えなどがあったら、教えてください。

哲学というと、古い感じがして、もう終わったかのように思えるのですが、まだ哲学というものはまだあるのでしょうか。

Aベストアンサー

こんにちは、素人ですが
以下のページに
哲学関連の作家の名簿があります。
年代が記載されていますから、
現在生きている方も解ります。

最近、哲学も、心の哲学とか言語哲学とか
いろいろ分散しているようですね。
ポストモダンが評判が悪く、哲学が終わったように感じるのかも。

インターネット関連で「匿名性の自由」なんか、現代的かも。

参考URL:http://www.logico-philosophicus.net/profile/index.htm

Q好きなそして嫌いな哲学者

あなたの好きな哲学者と嫌いな哲学者の両方を理由と共に教えてください。
ちなみに西洋哲学限定でお願いします(だから西田幾多郎とか孔子とか仏陀とかいうのはナシ)。
あと、理由はなるべく人となりやエピソードではなく思想の内容に関わることでお願いします(でないとわざわざ“哲学者”を問う意味がない)。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

私の好きな哲学者はキルケゴールですね。
私はキリスト教徒ではないし、信心深くもないので彼の思想を完全に理解していませんが、従来の世界的真理を追究していた哲学と異なり、各々の人の本質について個別に扱っていて、どこかで人間味があるというか柔軟性のある哲学だなぁというのが私の持った印象だったからです。

嫌いな哲学者はベンサムやミルなどの功利主義者ですね。
功利主義的な物の考え方では多数派の利益が肯定できてしまうし、何より人間中心主義的に思えるからです。一方で自由に対する考え方は広く自由を認め進歩的な所が結構好きです。なので嫌いな哲学者と言っても一部は好きというのが多いです。
批判するにはその哲学に対して自分なりの見解を持つことが必要なことからも批判したい哲学ほど好きと言えるのかもしれません。(批判と非難の区別については省きましたが

Q中国の哲学者、哲学書教えてください

そのまんまです。

西洋哲学はいろいろ名前が出てきますがなかなか中国のは出てきません。
代表的な人物、書籍をお教え下さい

Aベストアンサー

哲学と言うより思想書ですが、有名どころでは

論語、孟子....儒教思想の古典。
大学.....修己治人の学と言われる儒教の政治思想の教育理念をまとめたもの。
老子、荘子....老荘と言われる道家思想の古典。
孫子.....軍事学の視点を思想まで高めた古典。
韓非子....法家思想の代表的な古典。
墨子.....兼愛、非攻を唱えた墨家思想の古典。

 読んでおもしろいのは、韓非子、論語、老子でしょうか。孫子は前半はかなり思想的ですが、後半は軍事技術論です。荘子はかなり難解。読まれる場合、余りクドクドと解説めいたことを書いた本は避けたほうが良いです。単なる解説者の人生訓を述べただけになっている本が多い。原漢文をそのまま読むのが一番のお勧めですが.....

 西洋的な意味での哲学と言う意味では論衡あたりが近いかもしれません。いずれにせよ東洋思想の産物で、西洋的な哲学とは違ったものと考えた方が良いでしょうね。


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