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僕は高橋源一郎著「一億三千万人のための小説教室」の影響が強いので、それを読んでいる人には話が通じやすいと思います。僕はこの本の中の、「エーミールと探偵たち」と「原始林のペータージーリエ」のくだりで高橋氏が言おうとしていることがよく分かります。
簡単に説明しますと、娯楽小説なんてどうでもいいから、あなたが体験し、本当に知っていることについて書け、ということです。
この本には三重苦を背負ったヘレンケラーのくだりもあり、ヘレンのような人物、マイノリティーが持つ苦しみを知っている人こそ小説を書く資格がある、とあります。(補足しますと、この本の中では小説とエッセイのようなものの区別はなく全部小説という言葉でくくっています。)

そういう意味ではこの前までテレビでやっていた「1リットルの涙」は日本に残された財産だと言ってもいいくらい本当に価値のある闘病日記だと、僕は思っています。

そこまでは高橋氏と同意見なのですが、氏はそこから、自分が体験した本当に知っていることを書きさえすれば、誰でも小説を書く資格があるし、ぜひ書いて欲しいと本を結びます。
が、僕はそういう風に思えません。自分の体験した本当に知っていることを書いたとしても、膨大な量の小説が出きっている現代の日本で、その新作を読んではじめて知ることや人の気持ちなんて、まずもってないんじゃないかと思います。だから新作小説を書く意味も殆どないんじゃないかと思います。

それから、高橋氏の言っていることから考えると、小説よりも、ドキュメントやノンフィクションにこそ意味があるように思います。

それでも作家が新作を書く意味があるのでしょうか。娯楽じゃない小説を書く意味があるのかという意味です。もしくはどんなに文学サイドのつもりで小説を書いても、小説である以上は娯楽の要素がゼロではないのでしょうか?

A 回答 (6件)

 あけましておめでとうございます。



 お正月そうそう、パソコンを開いてみたら、amiさんの質問が気になって、回答してしまいました。
 暇人の回答を暇なときにでも見てやってください。

 高橋源一郎氏の『一億三千万人の…』はパらっとしか見ていないので、それについての感想は書けないのですが…、書き物の必要性について私の考えを書かせていただきます。

 私は、一時期マスコミ業界で取材をしていた側の人間でした。それだけに読み物の重要性をとても感じています。
 
 その中でもっとも大切だと思うのが「ノンフィクション」でした。
 
 膨大な量の資料とたくさんの人の証言に支えられる「ノンフィクション」は、時間がかかる上に人手も必要なため、一般に敬遠されがちです。しかし、現在の社会に巣食う悪に対する訴えというのが最も身近に感じられる作品です。
 また、人を訴えるということはその背景には「自分も訴えられる」可能性ものあるので、そう簡単には出版できません。出版するために付随する責任感が並大抵のものではないのです。

 そう考えると、今現在でいえば、社会に流通している読み物で必要なのは「ノンフィクション」ではないでしょうか。

 小説に関して言えば…空想の中で考えられたのか、経験上の事実があるのかがわからない作品がたくさんありますね。中でも楽しいのみの娯楽作品が大変多いですよね。
 村上春樹氏がそういうを読み物を確立してから、簡単で楽しい「娯楽作品」が増えましたね。
 パソコンの登場がそれを助長しているのではないでしょうか。

 昔の作家が書いた原稿用紙を神保町の古本屋で見た事がありますが、恐ろしいほどの推敲をこなしていて、しかも手書きで…本当に頭が下がります。

 あれだけの手直しをして出版された本なら、中身も濃く、素晴らしいですよね。

 今は、なかなかそういう作品に出会えない世ですね(ノンフィクションは別です)。

 それだけに手書きで自分の経験を書くという作業が重要になってくるのではないでしょうか。
 長文になってすみません。

 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなって申し訳ありません。みなさんの回答を読んで、またいろいろ考えてしまって、どうお礼としての返答を書こうか悩んでいるうちに遅くなってしまいました。
みなさんの回答を読んで答えが少し見えてきた気がします。こういう疑問を一緒になって考えてくれる人がいるのは本当にありがたいことだと思います。感謝します。

僕もノンフィクションは重要だと思います。僕の場合は、手記、というものが、それが当事者であるという点で最も価値のあるものだと感じられます。それに次いで取材に基づいて書かれたノンフィクションが価値を持つと思います。
僕は手記やノンフィクションはどれだけ前に似たようなものや同じ題材のものがあったとしても、新しい当事者や取材者によって書かれてよいと思います。それに対して僕は疑問がわき上がることはありません。

と、ここまで書いたのですが、やはりここから先の疑問について、僕はうまく考えを書くことが出来ません。中途半端で申し訳ないですが、ともかく回答をいただき、考える助けをいただいたことに感謝します。ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/03 18:25

>だから新作小説を書く意味も殆どないんじゃないかと思います。


そう思う人は、書かなくていいだけじゃないのかい。

文章をはじめ、全ての表現物は、
第一義的な意味は、その表現者にあるんだよ。
伝えたいもの、表現したいもの、またはそうせずにはいられなくて、
表現するんだよ。

あなたが絶賛する闘病日記だって、
誰に読ませるわけではなく、書くことが必要だったんだよ。
その人にとって。

それだけのことであり、ただ書くことに意味があるのさ。

それと、
ジャンルによって、文章の価値をうんぬん言うのはナンセンスだ。
書き手が、書きたいことをどう表現するかによって、
その形態を選ぶだけのことだから。
簡単に言えば、臨場感を持たせたければノンフィクションにするし、
普遍性を持たせたければフィクションという形にする。
人が書く以上、書き手の何らかの経験を下敷きにするのは間違いのないことだからね。

私も高橋氏のその著作を読んでいないのではっきりわからないけど、
ただ、「臆せず書け」と言っているのではないですか。
批評的な意味合いで「意味」をうんぬん言っているのではなく、
人それぞれの「書く意味」を説いているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。ずっと考えていますがやはり分かりません。永遠の問いのような気がしてきました。でも考えの助けにはなりました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/04/21 10:18

いま時間も限られてるし、こういう質問になると私も回答文が長くなって疲れてしまうのでスルーしようと眺めていたのですが…


実は私も若かった頃、貴方と似たようなことを考えていて結局、作家になれなかった者です。(これから書けるかな?でも体力いるからね)
当時の友人に『書いてどうする??』などと言っては困惑させていました。

私としては、或る作品が世のなかを引っくり返すような画期的なものでなかったかというよりも、作者が、その作品を書いた動機のほうが気になったりしました。
「作家」という肩書きに憧れて通俗的野心から産み出されたものなど、どんなに新鮮で実験的な作品であっても、あまり読みたくない…とか思っていたものです。

ずい分前に、吉本ばななさんがインタービューに答えて、または寄稿なさったなかで、こう仰っていたのを読んだことがあるのですが

『…私は言いたいことを、もうこれでいい、と思えるまで何度でも書くつもり』

こんなふうなことを仰っていました。

また、これは画家ですがモネは、その晩年に

『絵を描くことは実に難しく苦しい…絵を描いていると希望を失ってしまう…それでも私は言いたいと思っていることを全て言ってしまうまでは、少なくとも、それを言おうと試みたうえでなければ死にたくない……」

このように語ったそうです。

さあ、このかたたちの止むに止まれぬ想い、御質問者は、それでも「やめておけ」と仰いますか?

私は、これらのことばを眼にしたとき自分が何故、作家たり得ないのか分かった気がしました。

『いろんな人の書いた小説をこれからも読みたい、だからあなたも小説を書いてください』
御質問者は「やめておけ」と仰いますか?

「知ることは楽しい」
こう言う人は多い。
だが本当に
「知ることは、また知ろうとすることは苦しい」
のです。
そして、その知ってしまったことを吐き出さないともたない人もいれば吐き出す気力すらない人もいる。

『そんな中で、新作を書く意味があるのか』

書いてはいけないでしょうか?書くのも読むのも選択権は与えられていないのでしょうか?

では音楽は?美術は?哲学は?

私は自分が若い頃の音楽に満足していて、うんと年下の子に「満足してないで、いまのやつだって聴けよ!」とタシナメられます。

ここのサイトの質問だってそう。何度も何度も同じような内容の質問が立つ。嗜める人もいれば擁護する人もいる。擁護する人に言わせれば「その質問が立った時点で、いままでと全く同じ状況ではなく従って、その質問も、そしてその回答もまた新たな側面を含んでいる」こういうことらしいです。

確かに人間の根本なんて古今東西、変わらないものかもしれません。歴史は繰り返す、とも言います。
しかし全く変わらないでしょうか?
科学の世界だって本当は、もうすでに全てが出揃っていて我々はホンの些細な「発見」に一喜一憂しているに過ぎないのかもしれません。

文学に限らず、この世界はバリエテに満ち満ちている…

『…読み手の価値観を転換するような作品であることは殆どないと思います。…限りなくゼロに近く、ないと思います。
そんな中で新作を書く意味があるのか、という意味です。』

その意味は誰が決めますか?
少なくとも、それが産み落とされたからには、それは許されている!
そして
『読み手の価値観を転換するような作品であることは殆どない…』

そうであればこそ、きょうもあすも何度でも産み出されていくのではないでしょうか?
少なくとも貴方自身が、「その」作品に出会うために。

最後に
『虚構でもって真実を語る』
こういうコトバがあるのを、お伝えしておきます。
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この回答へのお礼

お忙しい中、丁寧に回答していただきありがとうございます。吉本ばななさんやモネの言葉などためになります。おっしゃる意味は分かります。僕も引用するならば、リルケの「若き詩人への手紙」にはこうあります。

あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐってください。…もしもあなたが書くことを止められたら死ななければならないかどうか、自分自身に告白してください。…そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることが出来るならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ち立ててください。あなたの生涯は、どんなに無関係に無意味に見える寸秒に至るまで、すべてこの衝迫の表徴となり証明とならなければなりません。

(ここの文章はとても素晴らしいのでどこを抜粋するかが難しく、読んだことのある方は知っていると思いますが、これに続く文章も本当に素晴らしいものです。)

確かに、力強い単純な「私は書かねばならぬ」をもってこの問いに答えられる人に、「やめておけ」なんて言えませんね。僕も作家たり得ないのだと思います。

お礼日時:2006/01/05 03:31

 作家を目指して 修行中の者です。


 今 2台目のPCの設定やら何やらで あまり時間はないのですが
この質問に対する回答が締め切られる前に 是非 これだけは言っておきたい・・・という訳で キーボードを叩いています。
 No.2さんへの補足質問で
>・・・ここで言う「本物の小説」を書こうとする時、それを真摯に突き詰めていこうとすると、それは小説ではなく、ノンフィクションや日記、手記にしかなりえないんじゃないかと・・・
 
 わたしは 全く反対の立場です。つまり「文学の本流は フィクションに在る」と考える者です。
 ノンフィクションや日記や手記は 広義のドキュメントであると思っています。
 ドキュメントは文学ではありませんし 文学とは別の意義と役割を担っています。
 世に 「日記文学」や「歴史小説」なるものが多く出回っていますが
上述した「文学の本流は フィクションに在る。」という理由で これ等の作品は フィクションよりも下に見ています。
 個人的に 故・司馬遼太郎氏を尊敬・私淑していますが それは あくまで 数々の批評や評論に於いてであって 歴史的事実を 膨大な資料を駆使して時系列的に展開・叙述した一連の労作 例えば 「菜の花の沖」や「坂の上の雲」「翔ぶが如く」等は 文学という観点からは 二流に見ています。
 怱々に私見を述べましたが 再言しますと 「文学の嫡流はフィクション」であり 「‘小説,は文学」であり それゆえ ノンフィクションや日記や手記は「本物の小説」には成り得ません。
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この回答へのお礼

お忙しい中、回答していただき、ありがとうございます。確かに普通に意味ではノンフィクションや日記は文学ではありませんね。エッセイ等も小説とみなす「一億~」での小説の定義と、普通に言うところの小説とを、私が質問・補足の中で混ぜて使ってしまっているので、分かりにくい部分もあったかと思います。回答者さまの言葉で僕がもう一度問い直すならば、現代の日本では小説よりドキュメントの方が上にあるのではないか。僕にはそう感じられる。ということです。

回答者さまはフィクションを文学より下に見ているとご自分の意見を表明しているので、それはそれぞれの人の意見・考え方・立場の違いで、双方の立場があってよく、争うものでない。自分の信じる道を歩めばよいじゃないかと言われれば確かにその通りですね。ただ僕はこれまでは小説に価値を置いてきたので、簡単にそちらに移れないでいるのです。

僕が思うことは、例えば小川洋子著「博士の愛した数式」という小説があります。この小説は素晴らしいものなのを承知な上で、誤解を恐れずに言えば、美しきもの、美しき人を書くために80分しか記憶の持たない人を主人公とするのは、どこか最後の最後のところで無条件に肯定できないものがあり、仮に80分しか記憶の持たない人を丹念に追ったノンフィクションがあったらならば、そちらの方が胸を打つように思う。ということです。

お礼日時:2006/01/05 02:55

 こんばんは。



>自分の体験した本当に知っていることを書いたとしても、
>膨大な量の小説が出きっている現代の日本で、
>その新作を読んではじめて知ることや人の気持ちなんて、
>まずもってないんじゃないかと思います。

 文学作品も、ノンフィクションも、人間の姿をしっかりと描いてこそ、「作品」として認められます。
 また、そこに描かれている人間の姿に心を動かされ、感動を味わう、というのも、「娯楽」といっていいと思います。
 いえ、人が味わうことのできる「娯楽」の中でも、もっとも高度なものである、と言い換えた方が、私などはしっくり来るんです。
 で、「人間の姿をしっかり描く」には、「体験」や「知ること」が最低条件になります。

 質問者さまが、自分の体験した、本当に知ってることを書くなら、それは、フィクションであろうとノンフィクションであろうと、世界で初めての、そして唯一のものです。
 そして、それを読む人は、その作品でしか読めない事柄や気持ちに触れることができるんです。

 逆に、もし、体験していない、よくは知らないことを書くならば、たとえどんなに独自の題材を使い、今までにない表現を用いたとしても、駄作以下のものしかできないんじゃないかと思います。

 思うに、人間の姿というのは、いろいろな方向から光が当たっている1塊のプリズムのようなものかもしれません。光はその中で乱反射して、見る場所によって、まったく違う光が見える。
 更にいうなら、質問者さまが、いま立ってるところから光を出せば、まったく違ったように光るかもしれない。「立っているところ」が、質問者さまの「体験」であり、光りは「知っている」ことです。

 では、ノンフィクションは体験なんてできるのか。
 あるルポライターの、ルポを書く作法書みたいな本を読んだことがあります。それには、徹底した取材によって、その事柄を、自分の体験としなければいいルポは書けない、というようなことが書いてありました。
 これは歴史的ノンフィクションでも同じです。膨大な資料を、読んで読んで、それを追体験するわけです。
 
 で、これがたぶん一番大事なことなんですが、フィクションであろうと、ノンフィクションであろうと、自分がそうやって「体験」し「知り得た」ことを、作品として描く場合、自分だけの独り善がりにならないように、「再構成」をしなければいけないと思います。
 それをして、自分だけの体験や知識が、普遍性を持つわけです。それが上手くできてるかどうかも、作品の出来不出来を左右するでしょうね。で、「才能」がものをいうことにもなるでしょう。
 でも、たとえ、「普遍化」が上手くできていないにしても、「体験」のない「知り得」ていないことをごたごた書かれるより、持ってる力ははるかに強いでしょうね。

 長くなりました。私は高橋氏の本を読んだこともないし、以上述べたことは、私が常々考えていることで、いわば私見です。

 ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。考える助けを丁寧に書いてくださり、感謝します。

僕は手記やノンフィクションはそれが事実であり、本当に感じた気持ちであるという点で、どれだけたくさん書かれてもよいと思っています。

手記を書く資格を持つ者が、あえて手記ではなく小説で書こうとする時、なぜ小説で書こうとするのか、小説で書いたほうがよいと判断したのは何故なのか、そのことに答えを見つけられません。僕は今まで小説が大好きだった為にできればこの答えを見つけて、小説にも未来があると力強く肯定したいのですが、見つけられないので悩んでいるようです。
例えばドストエフスキーが書いたような時代と現代ではまた違うように思います。現代のように、小説が飽和点というか限界点に達している時に小説を書く理由はなんなのでしょうか。それはひとりひとりの小説家が自分で見つけるものだといわれれば、その通りでそれまでです。殆ど光は見えなくともゼロでない可能性のために書くのでしょうか。

現代で小説を書く場合、阿部公房や村上春樹のような戯画化された世界を書くしか意義がないように思われます。

お礼日時:2006/01/03 19:38

それでも作家が新作を書く意味があるのでしょうか。


誰/何にとっての意味ですか?

もしくはどんなに文学サイドのつもりで小説を書いても、小説である以上は娯楽の要素がゼロではないのでしょうか?
娯楽と知的興味/知的興奮は、違うものなのですか?

高橋氏は、書くこと=出版すること と言っているのですか?

この回答への補足

質問は800字以内という制限があり、十分に書けなかった部分もありましたので補足します。

答え易いところからいくと、高橋氏は書くこと=出版することとは言っていません。いろんな人の書いた小説をこれからも読みたい、だからあなたも小説を書いてください。ただ、私(高橋源一郎)が言っている小説と言うのは、あなたしか知りえない本当のことが書いてある話、つまり作り話ではない話のことです。そういう話を書いてください、という趣旨の本です。

後の2つはうまく説明できるか分かりませんが、僕が思っていることを以下に書きます。
高橋氏が書いている「エーミールと探偵たち」のくだりを簡単に説明しますと、

「エーミールと探偵たち」=本物の小説=あなたしか知りえなく、あなたしか書き得ない本当のことが書いてある小説

「原始林のペータージーリエ」=娯楽大衆小説=あなたでなくても誰でも書ける小説。書き手があなたである必要性のない小説

として、あなたは「エーミールと探偵たち」を書きなさい、と言っています。僕が 文学サイドで と言ったのは、「エーミールと探偵たち」のような本物の小説のことを言っています。僕もいろいろな言葉を使ってしまっている為、分かりにくくさせているかもしれません。申し訳ないです。

僕は娯楽と割り切って書いているなら、娯楽大衆小説が存在することは否定しません。世の九割がたの人は娯楽大衆小説の方が好きだと思います。

僕が問うているのは、ここで言う「本物の小説」を書こうとする時、それを真摯に突き詰めていこうとすると、それは小説ではなく、ノンフィクションや日記、手記にしかなりえないんじゃないかという疑問です。

また、本物の小説を書くために、自分のことを書いたとして、それが現代の日本の中で、読み手の価値観を転換するような作品であることは殆どないと思います。若い読者や普段あまり本を読まない人のことではなく、世界文学や近代文学など、これまでに創造された文学を殆ど読んでいる人間にとっては、限りなくゼロに近く、ないと思います。
そんな中で、新作を書く意味があるのか、という意味です。

例えば僕は、金原ひとみ著「蛇にピアス」を読みました。辻仁成はこれを選評する時、「作家は持っているか持っていないかで決まる。彼女は間違いなく持っている」と言ったらしいです。僕もそう思いました。彼女が本当に知っていることに基づいて書かれていると思います。スプリットタンなんてこの本で初めて知ったし、そういう意味では新しかったとも思います。
ですが一方で、そうは言っても、小説の着地点としては、そんなに変わっていないと言うか、割と道義的に昔から言われていることと変わらず、人間としてあたりまえの所に着地したように思います。それならば、別に「蛇にピアス」を読まなくても、これまでに書かれた他の作品を読めばすむことです。

仮に「蛇にピアス」の着地点がもっと非人道的だったとしても、それも過去に同じような作品はあるのではないでしょうか。よく分かりませんが例えばマルキド・サドとか。

それでも作家が新作を書く意味があるのか、と僕は問うています。もちろん金原ひとみは地球上に一人しかおらず、人類史上で考えても一人しかいません、その意味では「蛇にピアス」と他の小説は違います。だけどその違いのためだけに、新作を書く必要があるのか、という疑問に僕は捕らわれています。
どなたかお願いします。

補足日時:2006/01/02 01:17
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