琉球王国では、かつて、敵国が来た際に、
敵を首里城にまねきいれ、その豊かな芸術・文化をもってひたすらもてなし、
戦いをせずに平和をきずいた

という、要約するとこんな話を聞いたのですが、
いつごろの話なのか、敵国とはどこなのか
など、具体的なことがわかりません。

ご存知の方、至急回答おねがいます!!

A 回答 (2件)

 


  琉球王国は、西暦1429年、当時、三つの小国に分かれていた沖縄本島を、地方豪族であった、思紹・尚巴志父子が攻略することで、統一国家として成立し、この過程で、首里城が、中心的な位置となり、その後、琉球の文化的中心となり、首都ともなった。
 
  琉球にとって「敵」とは、主に中国と日本でしょう。中国は、伝統的に近隣諸国を中華帝国の属国として「冊封」する政策を取っており、琉球王国にも明よりの冊封の使者(冊封使)が訪れ、琉球は、これを首里城に招き、歓待したとありますから、このことが琉球の平和の維持に当たるのでしょう。(また、東南アジア貿易で栄えたともされますので、あるいは訪問者を時に、首里城に迎えたのかも知れません。しかし、これは敵としてではなく、友好の商人等として歓待したので、これで平和を維持したといえば、そうかも知れませんが、敵ではなかったでしょう。日本と中国は、逆らうと攻めて来るので、「敵」だったとも言えます)。
 
  また、豊臣秀吉が、朝鮮半島・明の征服を意図したのに呼応して、薩摩の島津は琉球に支配権を行使しました。1609年、江戸幕府は、薩摩藩を中心とする軍を琉球に送り、琉球王国は、為すすべもなく、首里城を開城して、幕府及び薩摩の軍門に下ります。
 
  この後、琉球は、江戸幕府の支配下に置かれましたが、王国としては存続し、おそらく、薩摩や幕府の監察使者が訪れた時、当然、首里で監察使者を迎えたはずです。中国は明から清に代わりますが、琉球の江戸幕府乃至薩摩藩による支配は変化がなかったようです。中国の使者が琉球に訪れたことがあったかも知れませんが、少なくとも、宗主権が、中国に移ったという記録はないようです。
 
  明治になり、形式的な独立を維持していた琉球王国は解体されました。
 
  参照URL 
  http://www-edu.pref.okinawa.jp/wh/object/Jobject …
  http://www.summit-okinawa.gr.jp/jp/tokusyu_3/nar …
 

参考URL:http://www.summit-okinawa.gr.jp/jp/tokusyu_3/nar …
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参考URL:http://www.tradition-net.co.jp/links/okinawa/his …
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Q琉球王国は九州征服の野望はなかったのですか?

琉球王国は九州を支配して
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野望はまったくなかったのですか?

Aベストアンサー

沖縄に限らず、温暖な南の気候に住む人たちってみんな必死にならないんですよ。だって、必死にならなくても生きていけますからね。作物の記録的不作なんてのは北の地方の方がはるかに頻発します。一方、南の島は種をまいておけば勝手に生えてくる的なところがあるんですね。もちろんそんなに単純ではないんだけど。
例えば焼き畑農業が環境を破壊するなんていわれていますけど、土に栄養を戻すために休作している畑がどうなるのかとうと、どんどんジャングルに戻るんだそうです。つまり南の島の生命力ってそのくらい強いんですね。木さえ生えないイングランドあたりと比べると土の豊かさは比べるまでもないでしょ。

だから、とりあえず自分たちの住む地域で統一王権ができて安定さえすれば、別にわざわざヨソに出ていって頑張らなきゃなんないほど食うに困らないってことなんです。
だいたい、世界を股にかける大帝国なんてのは多くの場合割と不毛な地域から生まれます。大英帝国しかり、中国歴代王朝も南の揚子江流域ではなく北の黄河流域で生まれることが多いですよね。寒くて貧しいから、力をつけたら積極的に外に出て略奪しないと豊かになれないのです。

ブラジルなんかももうすぐワールドカップなのにあんな大事故を起こしてるのになんだかのんびりしているでしょう。ブラジルって、大農業国であり、資源国でもあるんですよ。国民は貧しい人が多いのですけど、国は豊かなんです。気候も温暖で、要するに頑張らなくても凍え死ぬこともなければ飢え死にすることもない。人間というのは頑張る理由がなければ頑張らなくなる生き物なのです。

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Q薩摩の琉球王国侵攻について

薩摩による琉球侵攻についてですが、

・なぜ薩摩は琉球に侵攻したのか。
・侵攻による利益,不利益は何か。

がわかりません。ぜひご教授いただければと思います。

そして、
・現在につながるもの、遺跡....etc....
なども紹介していただけると助かります。

よろしくお願いします。

--------------------------------------------------------------
最後に、一応・・・・・
以下、wikiのコピペ

薩摩による琉球侵攻

16世紀後半、豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国であったため国王は一旦拒否した。しかし、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担った。

1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。

これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。琉球王国が支配していた奄美群島は、薩摩藩直轄地となり分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた。

薩摩による琉球侵攻についてですが、

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よろしくお願いします。

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薩摩藩が琉球王国を支配下に置こうと考えたのは薩摩藩を成立させる為です。薩摩藩の領地は、桜島の度重なる大噴火の影響で痩せた火山灰地が多いのです。それなのに家臣の数が多い。とても食べていけない。戦国時代末期に、九州を統一しようかという勢いで勢力を拡大しましたが、時既に遅しで秀吉が天下を統一したので、拡大した領地を失い、元々の薩摩・大隈・日向が安堵されただけだった。元の木阿弥。関が原の合戦でも西軍に加担して、家康に敵対してしまったので領土を守るだけで精一杯だった。そういう風に幕府からは警戒される存在になってしまったので、もう本土には領地を拡大できる可能性は全く無かったのです。

このままでは家臣を食べさせていけない。そこで眼をつけたのが琉球王国です。北方に拡大することが不可能なら、南方に拡大するしかないわけです。

これが大成功して、薩摩藩は外様名ながら西南雄藩と呼ばれる経済力を持つことができました。琉球王国特産のさとうきびから作った黒糖を薩摩藩の専売とできただけでなく、琉球王国が中国から移植したサツマイモを薩摩藩に持ち帰って薩摩藩でも栽培して飢饉でも餓死者を出さずに済んだ。サツマイモは火山灰地の痩せた土地でも栽培することができたのです。

なお薩摩藩と琉球王国は戦争をしたわけではありません。薩摩藩の意図が伝わらなかった当初は、局所的に散発的な戦闘がありましたが、薩摩藩の意図が琉球王国を服属させることだけだと分かると琉球王国はあっさりと薩摩藩の支配を受け入れました。戦国時代、秀吉の朝鮮出兵と勇名を馳せた薩摩軍に対抗できる軍事力など元々琉球王国にはありませんでしたから。

薩摩藩が琉球王国を支配下に置こうと考えたのは薩摩藩を成立させる為です。薩摩藩の領地は、桜島の度重なる大噴火の影響で痩せた火山灰地が多いのです。それなのに家臣の数が多い。とても食べていけない。戦国時代末期に、九州を統一しようかという勢いで勢力を拡大しましたが、時既に遅しで秀吉が天下を統一したので、拡大した領地を失い、元々の薩摩・大隈・日向が安堵されただけだった。元の木阿弥。関が原の合戦でも西軍に加担して、家康に敵対してしまったので領土を守るだけで精一杯だった。そういう風に幕...続きを読む

Q三山時代や琉球王国時代の沖縄

三山時代や琉球王国時代の沖縄は、公用語は何語だったのですか?

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>公用語は何語だったのですか?
「公用語」とはどの範囲をイメージされておられますでしょうか。
「公用語」という言葉自体が多言語国家で取り決めている事柄を指す現代のものです。

琉球王朝の宮廷内で何語が使われていたか、というご質問でしょうか。
会話の録音が残っていませんから正確には分かりませんが、会話は琉球語と呼ばれるものであったでしょう。
但し、琉球語は日本語の方言である、と考えれば日本語だったでしょう、ということになります。

琉球語を独立した言語とするか、日本語の方言とするか、については定説がありません。
意見がまとまらないのは、琉球語と呼ばれている言葉には本土内で使われていた古語が沢山残っているためです。
万葉集時代の言葉は、現在使われている日本語とは異なっていたことは周知のことです。
ただし、八重山諸島で使われていた言葉は独立した言語であったという考え方が一般的です。

文書史料としては、漢文のものと仮名交じりの和文のものが残っています。
歴代の琉球王朝は中国王朝の冊封を受けていましたから、外交文書は全て中国語である漢文で書かれていました。

朝鮮王朝では日本が統治するまでは、会話は朝鮮語で文書は漢文で書かれていました。
李朝朝鮮の時代にハングルが発明されますが、卑賤の文字とされて両班などの知識階級では使われていませんでした。
朝鮮王朝の史料は全て漢文で表記されていますが、朝鮮では中国語が使われていたとは考えられていません。

蛇足
最近のDNA鑑定の結果では沖縄県の人達も九州北部の人達も同一祖先であったと結論づけられています。
つまり、九州に居住していた人達の一部が海を渡って南下して沖縄諸島で暮らすようになったのであろうとされています。

>公用語は何語だったのですか?
「公用語」とはどの範囲をイメージされておられますでしょうか。
「公用語」という言葉自体が多言語国家で取り決めている事柄を指す現代のものです。

琉球王朝の宮廷内で何語が使われていたか、というご質問でしょうか。
会話の録音が残っていませんから正確には分かりませんが、会話は琉球語と呼ばれるものであったでしょう。
但し、琉球語は日本語の方言である、と考えれば日本語だったでしょう、ということになります。

琉球語を独立した言語とするか、日本語の方言とするか...続きを読む

Q敗戦理由は敵国よりつたなかった・・・  とは?

東條英機は囚われの身になっていた時に書いた文で、
敗戦理由は敵国に比べつたなかったと書いていたようですが、つたないとは彼はどういう意味で書いているのですか? 彼がアメリカとの戦争を仕切っていたのですよね?彼自身は失敗だった・・・というようには思わなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

 検事が一定の問いを出して、イエスかノーかを答えよ。
 といったら、東條英機は一国の運命を決定していくことにイエスかノーで答えることはできない。と応えました。
 つたない、いろいろに理解・受け取りのできるものですね。
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Q戦国時代、敵国の民衆は殺戮の対象になった?

戦国時代の民衆と言うのは、戦に負けた際には敵国による殺戮の対象になることが一般的だったのでしょうか。
今日放送の「その時歴史は動いた」を見て、疑問に思いました。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_06.html#04

私の勝手な思い込みでは、2つの国が戦になったとしてもそれは国を治める大名同士の争いであり、非戦闘員である一般民衆は殺戮の対象にはならなかったのではないかと思っていたのです。(兵士として徴用される等の事情は除く。)

一般民衆も、その国の主である大名の家臣と同じ扱いとなり、殺戮の対象になったのでしょうか。
それとも、大坂夏の陣が特殊な例だったのでしょうか。


ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

藤木氏の書籍のまとめみたいなもの
http://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistory-tradingofpeople.htm

南蛮貿易の実態
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
天正遣欧使節の文章より。
けど、ポルトガル人が直接日本人狩りをしていたのではなく、奴隷狩りをした日本人から買っていただけです。
この構造は、アフリカの奴隷狩りもいっしょで、現地アフリカの有力者(王だったり)が他の部族を攻撃して奴隷として西欧人に売っておりました。

ちなみに、戦争後の奴隷狩りを「乱取り」と、言いまして
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E5%A6%A8%E5%8F%96%E3%82%8A
勝ったら 乱取り自由というのが当時の常識。
勝った後、殺戮などという不経済な行為をやるわけ無いと思うのです。若干の抵抗する人間への殺戮はあっても。

藤木氏の書籍のまとめみたいなもの
http://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistory-tradingofpeople.htm

南蛮貿易の実態
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
天正遣欧使節の文章より。
けど、ポルトガル人が直接日本人狩りをしていたのではなく、奴隷狩りをした日本人から買って...続きを読む


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