釈迦が菩提樹のしたで悟りをひらいたとき魔がおりてきて釈迦を苦しめて結局釈迦が魔に勝て悟りをひらいたときのストーリーをおしえてください。すいません。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

 


  そういう話は、釈迦牟尼の生涯について記された夥しい書物に載っていると思いますが。
 
  釈迦あるいはゴータマ・シッダールタは、四苦(生・病・老・死)を知り、世の無常より自己の救いを求めて、当時の著名な宗教指導者の元に弟子入りし、教えを学ぶのですが、間もなく、師匠を超えた境地に達することができ、しかし、それでも心の平安が得られないので、死を賭して苦行に入り、断食行を続けるのですが、骨と皮ばかりになって、苦行では、悟りは開けないと知りました。彼が山よりおりた処、確か、若い乙女がいて、彼女から乳粥を捧げられ、これを食した後、身を清め、ブッダガヤーの菩提樹の下で、瞑想に入り、この瞑想の過程で、以下の参考URLに簡単に記されているように、悪魔(マーラ)が、釈迦の悟りを妨害しようと、様々な「欲望」で誘惑します。
 
  このシーンは、丁度、イエズスが、荒野で苦行をした折り、サタンが現れ、わたしを拝めば世界の王にしてやるとか、高い崖から飛び降りても、神が受け止めてくれるだろうと、色々、世俗の欲望や力で誘惑し、イエズスの苦行を妨害したのに似ています。
 
  しかし、釈迦は静かに瞑想を続け、遂に、夜明け、金星の光が輝くと共に、「悟り」を開き、仏陀となり、釈迦族の聖者すなわち「釈迦牟尼」になります。
 
  悪魔(マーラ)は、釈迦の成道の妨害に失敗したものの、釈迦が悟りを開くや、その前に姿を現し、「「悟り」を開くという目的は達しられた、もはや、生きていることに未練もなければ、死ぬことに恐怖もないであろう、ただちに、入滅し、ニルヴァーナに入れ」と勧めます。釈迦は、このマーラの言葉にしばし納得しますが、しかし、ここで、泥のなかの蓮の花の話が出てくるのですが、この世には、いま少しのところで悟りへと到達できる者が少なからずいる。今、自分がニルヴァーナに入ることは簡単であるが、それでは、この悟りを開けるかも知れない者たちは、そのまま泥に沈んだまま、花を水面の上に咲かせることができない。いま少し生き、自分の悟ったことを、世の人に伝えてみようと考え直します。ここで釈迦の決意は定まり、マーラ(悪魔)は、釈迦から離れます。
 
  ……と、ここまでの過程が、釈迦の悟りと悪魔(マーラ)の妨害の戦いの話のはずです。釈迦が、悪魔の言葉に従い、あるいは、世の人には、自分の悟った真理は理解できないだろうと、隠遁してしまうと、釈迦は、独覚(プラティエーカ・ブッダ)ではあったでしょうが、仏教は生まれなかったことになります。
 
  また、この時のマーラ(悪魔)との対話が、「大涅槃経」に出てくる、マーラとの会話に続きます。
 
  マーラは、晩年の釈迦の前に姿を現し、「いま既に、汝は、教えを説き、多くの弟子たちが、アルハトとなった。汝の望みは実現した。されば、いまこそニルヴァーナに入れ」と、成道の時の会話の続きで、入滅を求めます。釈迦は、これに答えて、では、入滅しようと答えるのです(この過程で、アーナンダと会話して、「如来は望めばおのが寿命を長くすることができる云々」という話が出てきますが、釈迦の入滅は、悪魔との約束によるものだとも言えます)。
 
  悪魔(マーラ)とは、サンスクリット語ですが、これはラテン語における「悪 mala(malus, malum)」と同じ語根の言葉です。
 

参考URL:http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7710/771012.htm
    • good
    • 0
この回答へのお礼

詳しくありがとうございました。

お礼日時:2002/01/19 09:49

こんにちは。

釈迦(ゴーダマ=シッダルダ)の悟りの話ですが、このような事でしょうか?↓

ブッダガヤー(ボードガヤー)の菩提樹の根元で瞑想(めいそう)を始め、悟りを得たのがて釈迦が35歳(30歳?)の時。これで仏陀となります。
この際、天の悪魔が釈迦の悟りを妨害するべく大軍を送ったが、釈迦はこれをことごとく倒し、悟りを開いた。これをこれを「降魔成道」と呼び、12月8日に行われたとし、成道会を開いています。
この時の魔は煩悩と考えられ、これを滅ぼす事で、宿命通を習得し、天眼通を清め、縁起の理法を観察したと言われます。この瞑想を、七日間単位で七回繰り返して、四十九日間の解脱の境地を得て、涅槃に入り続けました。

これ位しかわからないのですが、もしご参考になればうれしいです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2002/01/19 09:50

あまり詳しくはないですが、このH.Pは参考になりますでしょうか?



http://www5.ocn.ne.jp/~kaba/buddha.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2002/01/19 09:52

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q【タイやミャンマーの仏僧は働かずに物乞いをして働かずに働く時間を修行に費やしてまで悟りを開こうとする

【タイやミャンマーの仏僧は働かずに物乞いをして働かずに働く時間を修行に費やしてまで悟りを開こうとする者が多いが、こんなに物乞い仏僧が多いのだから数撃ちゃ当たる寸法で誰か1人くらい奇跡的に的を得た悟りを開いても良いと思う】

まだ悟りを開いていないのか、それとも悟りを開いたら、他者にその至高の悟りを語らずに悦に入ってしまうのでしょうか?

タイやミャンマーでは新しい悟りを開いている人が無数にいるのでしょうか?

どうなんでしょう?

私にもタイやミャンマーで新しい悟りを開いた方の新しい悟りとやらを聞いてみたいです。

最新の悟りをいくつか紹介してくれませんか?

Aベストアンサー

こんなに物乞い仏僧が多いのだから数撃ちゃ当たる寸法で
誰か1人くらい奇跡的に的を得た悟りを開いても良いと思う
   ↑
これ、面白いですね♪



悟りを開いたら、他者にその至高の悟りを語らずに
悦に入ってしまうのでしょうか?
   ↑
上座部仏教は、己の悟りが第一義ですから、
そういうことになるのかも
しれません。



タイやミャンマーでは新しい悟りを開いている人が
無数にいるのでしょうか?
   ↑
タイやミャンマーは上座部ですから、
あるいはそうかもしれません。



私にもタイやミャンマーで新しい悟りを開いた方の
新しい悟りとやらを聞いてみたいです。
   ↑
昔、悟った人に訊いたことがありましたが、
言葉では語れないそうです。
悟りとは、理論や理屈ではなくて、直感
だそうです。
だから自分で修行しないと悟れないそうです。



最新の悟りをいくつか紹介してくれませんか?
   ↑
言葉で表せないから無理でしょ。

Qお釈迦様と菩提樹の木の縁を教えてください。

お釈迦様と菩提樹の木の縁を教えてください。
数珠も菩提樹の木で出来た物がありますが、お釈迦様と菩提樹の木は、どんな縁があるのですか?

Aベストアンサー

お釈迦様が難行苦行の末、菩提樹の木の下で座禅を組み悟りを開かれた・・・というのではだめですか?

星月菩提樹の数珠はお釈迦様も愛用したそうです。

http://www.shingon.or.jp/budhism.htm

Q【悟り・その2】「悟りを開かずに人生を全うする人の方が幸せである」と悟った。 悟りを求める人は自分に

【悟り・その2】「悟りを開かずに人生を全うする人の方が幸せである」と悟った。

悟りを求める人は自分に弱いところがあるから悟りを求める。

人生を幸せに歩んでいたら悟りなど求めない。

結婚して子供を作って死んでいく。

これに悟りなど不要。

悟りを求めるのは自分が不幸だと感じた人だけ追い求める。

しかし、悟りは人の経験によって答えが人それぞれ違うので答えは人それぞれにあって、答えは1つではないという真理に気付くのに時間が掛かってしまった。

悟りの答えは自分自身の経験で決まるので他人に悟りの答えを聞いても答えは出ない。

答えは自分自身の経験で決まる。

同じ地域に住むのに同じ地域の洋服屋で買っているのに同じ服、同じズボン、同じ靴、同じ靴下を履いている人と出会ったことがない。

人生で一度だけ正月に福袋を買ってジャンパーを羽織って街に出たら同じジャンパーで同じジーンズを履いた人と出会ったことはあったが靴は違った。

こんなに近い地域でどう考えても同じ店で買っている人は五万と居て、大量生産時代においてアウトレットモールやショッピングモールのように購買が一箇所に集約されている時代でも同じ格好でモールを歩いている人に出会ったことがない。

日本人が1億2680万人いれば1億2680万人の経験が存在している。

悟りも洋服のように1億2680万人分存在しているのでお坊さんや神父さんに人生の答えを聞いたところでそれはお坊さんや神父さんの悟りの答えに過ぎない。

と悟った。

【悟り・その2】「悟りを開かずに人生を全うする人の方が幸せである」と悟った。

悟りを求める人は自分に弱いところがあるから悟りを求める。

人生を幸せに歩んでいたら悟りなど求めない。

結婚して子供を作って死んでいく。

これに悟りなど不要。

悟りを求めるのは自分が不幸だと感じた人だけ追い求める。

しかし、悟りは人の経験によって答えが人それぞれ違うので答えは人それぞれにあって、答えは1つではないという真理に気付くのに時間が掛かってしまった。

悟りの答えは自分自身の経験で決まるので他...続きを読む

Aベストアンサー

それが質問者さんの悟りであるわけですが、
それで幸せになりましたか?

幸せになっていれば、その悟りは正しかった
のでしょう。

不幸なら、その悟りは間違いだった、という
ことになります。

Q動物も悟りを開けますか?

動物と人間の魂は違う種類のものなのですか?
動物も人間に生まれ変わって悟りが開けますか?

Aベストアンサー

だれかが想像するすべての世界は すべて宇宙の片隅でうまれています 
                                  
 ∞とはそういうことです

 
 

・・私が想像する世界では、動物は人間にはうまれかわりません
  

 動物たちは、地球からうまれ存在するものですが 
 人間は地球に寄生する異物的なそんざいであり、どこか別の場所からきたものとかんがえます

 だから、魂というべき存在になったとき
  地球に同化できないため、地表をしばらく漂うのです 

 人間の多くは、どこかにある自分たちの本当の母星へと ・・宇宙へかえっていきます

 しかし、生きている間に、地球に受け入れられる条件を満たした一部のものだけ
  この温かい生命みなぎる地球にうけいれられて同化できると私はかんがえます

   
結論をいうと、動物と人間の魂は違う種類のものです。
しかし、一部の人間の魂が動物(地球)に擦り寄ることはあるとかんがえます


 
 動物は死をつねにうけいれています

手話が出来る奇跡のゴリラ「ココ」
http://matome.naver.jp/odai/2137259098782751501  ・・これをみてください

 悟りとはなにか   

人それぞれの解釈があるとおもうのですが
動物は、うまれたときから既に”悟りという部分に到達している”と私は思います(既にもちあわせている)


”悟り”という表現は、自然に畏れをもつ人間が手をのばした先にあるもの・”人間の概念”であり
 動物たちには あたりまえに備わっている大自然の本能の事だとおもっています



ですから、
動物も人間に生まれ変わって悟りが開けますか という疑問は まちがいであると思います
 
 



 


  あなたはどうかんがえますか?
  あなたが考えたすべてが 宇宙でうまれます そしてその宇宙とあなたの内側はつながっています

  できるだけ良いことを、良い世界を想像するといいですよ

だれかが想像するすべての世界は すべて宇宙の片隅でうまれています 
                                  
 ∞とはそういうことです

 
 

・・私が想像する世界では、動物は人間にはうまれかわりません
  

 動物たちは、地球からうまれ存在するものですが 
 人間は地球に寄生する異物的なそんざいであり、どこか別の場所からきたものとかんがえます

 だから、魂というべき存在になったとき
  地球に同化できないため、地表をしばらく漂うのです 

 人間の多く...続きを読む

Q【悟りは1人1人違うものなのでしょうか?】 それとも悟りは誰もが当てはまる解のことを人生の悟りと言う

【悟りは1人1人違うものなのでしょうか?】


それとも悟りは誰もが当てはまる解のことを人生の悟りと言うのですか?

Aベストアンサー

これには諸説あります。

悟りとは、理論ではありません、直感です。
そう考える立場なら、一人一人違うか
同じか、ということは問題になりません。
なぜなら、悟りとはなにか、説明不可能だからです。

悟りとは我欲を取り去ることだ、と
考える立場なら、誰もが当てはまる解だ
ということになるでしょう。

悟りは直感である。
例えば長時間座禅を組んでいると、恍惚感に
襲われ、天地の理が直感的に解る。
心理学者に言わせると、これはエンドルフィンなどの
脳内麻薬が出ただけだ、ということです。
これによれば、誰もが当てはまることに
なります。

Q悟りと独身

悟りを目指す者にとっては、結婚するよりは独身である事の方が、身軽なので良いのでしょうか?

Aベストアンサー

どちらでも構いません

独身限定だと 既に結婚してる人は 悟る事が出来ないという結果が生まれる

Q記憶を失ったら仏教の悟りも失われる?

不退転の悟りを得た仏教徒がいるとして、その人が、頭を打つなどして過去の記憶を失ったとします。彼は、言葉は話せても、自分が何者で何をしてきたかすら思い出せません。そうなると、悟りも失われてしまうのではないかと思います。悟りが失われてしまうと、再び執着心が生じてしまうと思うのですが、どうなのでしょうか?それとも、不退転の悟りは記憶に依存しないと考えられているのでしょうか?

Aベストアンサー

その記憶喪失というのは失われたのは過去の知識のみであり基本的な人格そのものに変化はないはず。
悟りというのは机上の知識ではなく、悟ったことを覚えているから執着心がないわけでもなく、ゆえに過去の知識の有無によって失われることはない。
というのが私の答えです。

Q釈迦の無記と経典

お釈迦様は抽象論について無記という態度をとって、これを説かなかったとされていますが、この「無記」の内容を具体的に教えて頂きたいと思います。
また、数多くある大乗の経典にはかなり抽象的な内容のものもあるようですが、無記の立場からするとそれらはどう位置付けられているのでしょうか。
どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

まず、仏教で「記」という言葉は「いずれかに決定する」という意味です。だから「無記」というのは、「どちらとも決めない」という意味ですね。
例えば唯識で「無記」と言えば「善でも悪でもない」という意味ですし、「授記」と言えば「悟ったと断定する、証明する」という意味になります。
決して「書く、記録する」という意味でもないし、「答えない」のでもありません。実際に、お釈迦さん自身がはっきり「無記」という言葉を口にしているシーンが経典に幾つもあります。

ご質問の「無記」は、お釈迦さんが形而上的な内容の質問に対して「無記」と言った、つまり「その答えはどちらであるとも言わない」と言明した、というものです。
あちこちの経典に出てくるこの態度が次第に整理されて、十無記、十四無記、十六無記などと呼ばれるようになりました。

参考のために一番簡単な十無記を挙げると、
(1)世有常(この世は永遠か)
(2)世無有常(この世は永遠でないか)
(3)世有底(この世は有限か)
(4)世無底(この世は無限か)
(5)命即是身(魂と身体は同じか)
(6)命異身異(魂と身体は別物か)
(7)如来終(如来は死後存在しないか)
(8)如来不終(如来は死後存在するか)
(9)如来終不終(如来は死後存在し、かつ存在しないのか)
(10)如来亦非終非不終(如来は死後存在せず、かつしないでもないか)

((5)や(6)の「命」というのは「個我」、つまり霊魂のような不滅のもの、輪廻の主体になるものをいう言葉です)

ざっと見ると「無記」というのは、世界の成り立ちについて、そして霊魂の存在についての質問に対する態度であることがわかります。お釈迦さん在世の時代、いくら「縁起」や「無我」を説いても、霊魂をめぐる死後の問題への人々の強い関心はなかなかぬぐい難かったのでしょう。
こういった答えの出ない問題、どちらと答えても際限ない議論に陥る問題に関わることは修行者の利益にならない、従って関わるべきでない、というのがお釈迦さんの考えでした。
中阿含経の巻六十には、こういう問題に関わることは「智におもむかず、覚におもむかず、涅槃におもむか」ないために、これに対して答えないのだ、という言葉もあります。

もっとも、経典を読む限りお釈迦さんを「無記」に追いこむような質問をするのはほとんどが外道、つまり教団外の異教徒ですので、裏を返せばこのような質問がナンセンスだということは、お弟子達の間ではよく理解されていたように思えてほっとさせられますが。

ご質問の後半、大乗経典との関係ですが、「無記」は抽象を否定するものでは必ずしもない、ということではないでしょうか。無論、数多くの大乗経典の出現はお釈迦さんの予想しなかったことでしょうが、たとえ抽象度は高くとも、世界の成立とか霊魂を巡る諸問題(輪廻、霊肉ニ元論…)などを主テーマとして肯定的に扱ったものはさすがにありません。その意味では、お釈迦さんの意図した原則は守られていると言えるのでしょう。

まず、仏教で「記」という言葉は「いずれかに決定する」という意味です。だから「無記」というのは、「どちらとも決めない」という意味ですね。
例えば唯識で「無記」と言えば「善でも悪でもない」という意味ですし、「授記」と言えば「悟ったと断定する、証明する」という意味になります。
決して「書く、記録する」という意味でもないし、「答えない」のでもありません。実際に、お釈迦さん自身がはっきり「無記」という言葉を口にしているシーンが経典に幾つもあります。

ご質問の「無記」は、お釈迦さん...続きを読む

Q悟りを開いたお坊さんはどれ位いるのですか?

仏教のお坊さんで悟りを開いたお坊さんはどれ位いるのでしょうか?
高僧と言われる人は悟りを開いた人なのでしょうか?
悟りを開いたお坊さんとそうでないお坊さんはどこでわかるのでしょうか?

Aベストアンサー

>仏教のお坊さんで悟りを開いたお坊さんはどれ位いるのでしょうか?

・一人もおりません。

>高僧と言われる人は悟りを開いた人なのでしょうか?

・違います。

>悟りを開いたお坊さんとそうでないお坊さんはどこでわかるのでしょうか?

・お坊さんは悟りを開いてはおりません。

※ご質問の中に、「仏教」とありますので、仏教で言うところの『悟り』についての記述には、「物事の道理を明らかに感知すること。迷いを離れ真理・実相を証得すること。成仏の境地・仏果を得ること。」とあります。

そもそも、「僧」と言われる立場の方々は、古来より伝わる仏典、釈書によって仏教を研鑽し、その教えを行じてきました。あるものはその宗門に残り、あるものは独自の宗派を開いてきました。しかしながら、全てそれらの教えが、釈尊よりの教えを正しく理解し行じているかといえばそうではなく、独自の解釈や全く仏意を度外視した内容としてしまったり、また、時代の流れの中で、寺をその周囲の住民を管理させるもの(檀家制度)としてしまったり、仏の本意からは大きくかけ離れてしまっているのが現状です。

しかし、その中で、鎌倉時代の僧「日蓮」は、末法の世の中に流布するべき『南無妙法蓮華経』を御題目として世の中に取り出しただけではなく、御本尊として末法の衆生に曼荼羅として残してくださいました。
先に、「鎌倉の僧」と書きましたが、釈尊の法華経には「末法に於いて、上行菩薩を筆頭とした地涌の菩薩が出現し、末法の世に法華経を広めるであろう」との記述があり、「末法に法華経を広めれば数々の難が起きる」ということ、身をもって体験されたのが日蓮大聖人であり、まさしく末法の御本仏としてこの世に生誕され本懐を遂げられました。
そういった意味で、単なる「僧」というにはあまりにもかけ離れている為、上記の回答といたしました。

>仏教のお坊さんで悟りを開いたお坊さんはどれ位いるのでしょうか?

・一人もおりません。

>高僧と言われる人は悟りを開いた人なのでしょうか?

・違います。

>悟りを開いたお坊さんとそうでないお坊さんはどこでわかるのでしょうか?

・お坊さんは悟りを開いてはおりません。

※ご質問の中に、「仏教」とありますので、仏教で言うところの『悟り』についての記述には、「物事の道理を明らかに感知すること。迷いを離れ真理・実相を証得すること。成仏の境地・仏果を得ること。」とあります。

...続きを読む

Q釈迦と日蓮大聖人

仏教は皆同じと思っていたのですが、
少し知り、宗派によってこうも違うのかと思いました。

あまりわかっておらず申し訳ないのですが、
日蓮大聖人は南無妙法蓮華経を唱えるという事の様なのですが、
釈迦は何を唱えているのですか?

解る方がいましたら教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本で説かれた仏教といわれるものはそれぞれの祖師によって説かれた教えである「祖師宗教」といえると思います。

空海教
最澄教
法然教
親鸞教
日蓮教
道元教


というそれぞれ違う宗教といっても学問的にも何も問題ないと思います。

お釈迦(ゴータマ・シッダールタ)様の教えである法は、「見解を正しくすること。事実をありにままに観ること。」を論理的に科学的に実証的に理性を持って語っているものと思います。

根拠と範囲を示し、柔軟に見解を構築していく方法をもって「生命とは?生きるとは?」という問題を説くたに役立つ「参考書」をのこしてくださってます「後は各々で確かめてみては如何だろう」と。そして集中力と気付きを鍛え、データである六根に生まれる感覚から四念処を順に観察をなす方法、ヴィパッサナーなどの実証法実践法を説いていますね。

<<釈迦は何を唱えているのですか?>>

善に至るために役立つこと。
(生きとし生けるものが幸せでありますように。慈悲喜捨。)
(しっかりとした人間になるぞという発心。)
事実だけど受け入れられていないこと
(老いて老いて死に至る。)
(この身体は汚物の排出工場で不浄で、いずれ壊れる)
(移り行く。無常。)
(感覚は感覚。妄想は妄想。感情は感情。と確認。)
(痛い。では無く、痛み。。。)

などでしょうかね。
個人的には慈悲喜捨や、サッレーカスッタの44項目が好きです。

「私の言葉だからといって信じる無かれ」というのがゴータマ・ブッダの姿勢だと思います。「確かめたらどうですか。こうこうこうだからこうなると説きます。このように実験するとこのように結果が出ますよ。ではどうぞ。」と「学生に科学の実験の参考書(化学式、わかりやすい説明、注意点、実験方法)を渡して、実験を促すように」w

スマナサーラ長老の書籍や無料のポッドキャストはオススメです。


お役に立てば幸いです。
幸福でありますようにノシ

日本で説かれた仏教といわれるものはそれぞれの祖師によって説かれた教えである「祖師宗教」といえると思います。

空海教
最澄教
法然教
親鸞教
日蓮教
道元教


というそれぞれ違う宗教といっても学問的にも何も問題ないと思います。

お釈迦(ゴータマ・シッダールタ)様の教えである法は、「見解を正しくすること。事実をありにままに観ること。」を論理的に科学的に実証的に理性を持って語っているものと思います。

根拠と範囲を示し、柔軟に見解を構築していく方法をもって「生命とは?生き...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報