ベトナム戦争・裸の少女の写真は、誰の作品なのでしょうか? 題名も教えていただきたいです。お願いします。

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A 回答 (6件)

違いますよ~。


あの有名な写真は、フイン・コン・ウト氏が撮影し、
ピュリツァー賞を1973年に受賞しています。
題名は「戦争の恐怖」(1972年)です。

では。

参考URL:http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9901/9 …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
ホントに助かりました。

お礼日時:2000/12/14 14:39

churaさんの言うとおりだとすると、私はとんでもない勘違いをしていたことになりますね。


こういうことはやはりその道に詳しい方に聞いてみないと分からないものですね。
いやいや、失礼しました。(-_-;)
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 長い間、あの写真は沢田教一さんの撮影だと思っていました。

churaさん、ありがとうございます。
「安全への逃避」のイメージが強すぎて・・・(笑)
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私もaresさんの言うように従軍カメラマンだった故沢田教一さんだと思うのですが、もし勘違いしてるとしたら、ロバート・キャパかもしれません。

たぶんどちらかだと思います。
自信のない回答ですみません。
題名については知りません。
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ロバート・キャパの作品だったと思います。



題名は、特に付いていなかったと思うんですが。

もしかるすと別の人と勘違いしているのかなと書きながら思ってもいます。

とりあえず‥‥。
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沢田教一さんには間違いないと思うのですが、、、


題名が思い出せません。

参考URL:http://www2.odn.ne.jp/~cad35510/sawada.htm
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Aベストアンサー

本当だと思いますよ
正確な数値は諸説あってわかりませんが

それまでも戦争で精神を病む兵士はいたけれど
PTSDに認定されたのがベトナム戦争以後であり、調査、研究されて
戦争が原因で自殺している事が判明し、社会問題になってますよね

ベトナム戦争が特異だったのは
英雄として国を出たのに、長引く戦争に母国内は厭戦ムードから反戦にとってかわり
帰還兵は忌むべき存在として迎え入れられ、誇れるものもなく
社会の片隅で冷たい視線を受けて生きるしかない存在になってしまったわけです

経済状態の悪化と自殺者数の増加は比例しており

帰還兵はほぼアルコールやドラッグに依存、精神を病み
まともな職につけず、さらに依存を強めて・・・負のスパイラルですね

それに戦争なんて、結局人殺しであって
兵士は人殺しの訓練を受けて戦場に向かうのに
一方で「人殺しは罪」という倫理観の世界で生きているんですから
おかしくならない方が変ですよ

昔はそうした兵士を鉄拳制裁で矯正したようですが
現在はPTSDが認知され、ケアされるようになりましたけど
人を殺すストレスは簡単に消えて欲しくないですね

本当だと思いますよ
正確な数値は諸説あってわかりませんが

それまでも戦争で精神を病む兵士はいたけれど
PTSDに認定されたのがベトナム戦争以後であり、調査、研究されて
戦争が原因で自殺している事が判明し、社会問題になってますよね

ベトナム戦争が特異だったのは
英雄として国を出たのに、長引く戦争に母国内は厭戦ムードから反戦にとってかわり
帰還兵は忌むべき存在として迎え入れられ、誇れるものもなく
社会の片隅で冷たい視線を受けて生きるしかない存在になってしまったわけです

経済状態の悪化と...続きを読む

Qベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)で米軍が枯葉剤を散布した場所

 枯葉剤は、どこを狙って散布されたのでしょうか?ホーチミンルートでしょうか、クチトンネル(これは200~250kmにも及ぶようですが、どのように伸びているのでしょうか?)でしょうか、それともハノイ周辺でしょうか。

Aベストアンサー

 1962年から1071年にかけて行われた「ランチハンド作戦」は、主に南ベトナム領で行われていました。その目的についてはもうご存知だとは思いますが、もっとも大規模に行われた1969年にはカンボジア領に拠点を置くベトコン陣地までその攻撃の対象になりました。やはりベトコンの食料の補給ルートや避難所を駆逐する目的を考えれば、南ベトナム領内全域がその散布地域になったと考えていいと思います。
 ご質問の枯葉剤の散布地域は、北ベトナムから南ベトナムに浸透するためのホー・チ・ミンルート、つまり広い国道沿いや整備された道路沿いばかりではなく、山岳回廊地域をジグザグに走る山道やジャングルの間を縫うように走る小道のネットワーク、さらに海路の補給を遮断するためのメコンデルタのマングローブ湿地帯の湿原などだといえます。

 クチトンネルに関して言えば、まるで蟻の巣のようなその実態や詳細な配置図などは、米軍はもちろん、トンネルを構築したベトコンやNVA当事者たちも現在に至るまでその詳細は把握できない複雑なものでした。ということは、とりたててそこをピンポイントで狙ったということは考えにくく、やはり周辺施設や支援および補給ルートを広範に狙った作戦だといってよいかと思います。
 
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 以上、何かのご参考になれれば幸いです。
 

 1962年から1071年にかけて行われた「ランチハンド作戦」は、主に南ベトナム領で行われていました。その目的についてはもうご存知だとは思いますが、もっとも大規模に行われた1969年にはカンボジア領に拠点を置くベトコン陣地までその攻撃の対象になりました。やはりベトコンの食料の補給ルートや避難所を駆逐する目的を考えれば、南ベトナム領内全域がその散布地域になったと考えていいと思います。
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Aベストアンサー

今晩は。
昔の記憶なので所々間違いがあるかも知れませんが!
当時のベトナム共和国(南ベトナム)は、政情不安で貧苦の差が激しく
また、仏教を弾圧しようとしていました。
その為、ベトミン(フランスの植民地から独立しようと組織独立運動組織)
が中心になり反政府組織を結成しました。
それが、南ベトナム解放民族戦線(通称はベトコン)で、「ジュネーブ
協定(ベトナムは南北に分離し、1956年7月に自由選挙を行い統一を図
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を掲げて、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ活動を本格化させ宣戦布
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て大規模な一斉攻撃を開始しました。
しかし、南ベトナム軍とアメリカ軍は、一時的に混乱状態になったもの
の、すぐに体勢を立て直し反撃を開始しました。
物量に圧倒的に劣る南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、アメリ
カの大統領がテト攻勢の失敗を宣言し戦闘は終結しました。
この戦いで南ベトナム解放民族戦線が事実上壊滅したことにより、その
後のベトナム戦争は、南ベトナム政府軍・アメリカ軍と北ベトナム正規
軍中心の戦いとなって行きました。

今晩は。
昔の記憶なので所々間違いがあるかも知れませんが!
当時のベトナム共和国(南ベトナム)は、政情不安で貧苦の差が激しく
また、仏教を弾圧しようとしていました。
その為、ベトミン(フランスの植民地から独立しようと組織独立運動組織)
が中心になり反政府組織を結成しました。
それが、南ベトナム解放民族戦線(通称はベトコン)で、「ジュネーブ
協定(ベトナムは南北に分離し、1956年7月に自由選挙を行い統一を図
る協定)を無視した政権と、その後ろ盾であるアメリカの打倒」の名目
を掲...続きを読む

Qベトナム戦争の頃、米軍とベトナム軍が使っていた武器はそれぞれどんなもの

ベトナム戦争の頃、米軍とベトナム軍が使っていた武器はそれぞれどんなものがあるでしょうか?
M16やAK47などのメジャー処は知っているのですが、もっとマニアックな銃が知りたいです。
URLだけ貼るというのはナシでお願いします…

乱文失礼しました

Aベストアンサー

北ヴェトナム軍が使用していた消音器内蔵の中国製拳銃「六四式微声手槍」はどうでしょう。

中国の人民解放軍特殊部隊に1964年に制式採用され、専用の7.65ミリ弾を採用。
音を極力出さないことを主眼に設計されたため、ほとんど音を出さないとか。
ベトナム戦争でアメリカ軍に捕獲されて、初めてその存在が知られました。
のちに小型軽量化された六七式微声手槍も開発されました。

中折れ式のグレネードランチャーM79もヴェトナム戦争がデビュー戦です。

小ネタとして、AK47のマガジンが不足気味だったため韓国でも製造されていたそうです。
アメリカ側に兵士を送り、ソ連側に武器を供給してたわけですな。


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