何度もすいません。かえって混乱しています。
事物の「価値」が、事物に有るのか、認識する人間の精神(感情・理性)に有るのかという問題ですが、人間の精神のにあると理解するほうがほうが旗色が良いようです、ひょっとするとそんなものは元々ないのかもしれませんが。
今回は具体的に質問してみます。

目の前に、焼きたてのサーロインステーキがあると想像してください。この食物の価値は、私の精神の中にあるのでしょうか。確かに自分の視覚は社会や文化の影響を受けていて、牛肉を食べる習慣のない世界の人とは違った認識を経験上持ってしまうことは解かります。

それでもその一切れを食べ、歯ごたえや味覚、香辛料の香りとときどきのどをとおる音、これらの私の身体的五感がステーキの中に価値そのものを見出してしまうのです。

「価値」が精神の認識だとすればステーキと言う存在をどう捕らえればよいのでしょう。

この質問は一見ふざけているように思われるかもしれませんが、結構まじめなんです、「出来の悪い生徒ほどかわいい」といった寛容な精神で教えてください。

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A 回答 (7件)

 


  「価値」が、例えば、ステーキとすれば、それを食べ経験し、認識あるいは判断する人間の「精神」または「主観」のなかにあるのか、または、ステーキという或る意味超越的な「事物(レース)」のなかにあるのかというのは、質問の立て方がおかしいというべきでしょう。
  
  一応、事物(レース)は、外在的に、超越的であっても、プラグマティックに存在するとして、この場合、認識あるいは判断は、ステーキだけで成立するものではなく、また、いかにグルマンであろうと、粗食家であろうと、それを食するものの精神内部だけで成立するものでもないでしょう。事物と精神の中間領域というか、両者があい交わる「機能的な空間」において「成立または現成」しているというべきでしょう。「現成」という言葉を使うのは、お金や金銀宝石がそうであるように、事物との直接的な実践の交わりなしに、精神内部において、「仮想の価値」を形式的に与えられているものは、皮相的に考えると、精神のなかに価値があるようにも、金銀や宝石それ自体に価値があるように思えても、実は、それらは、精神における「仮想あるいは仮象」なのだと言えるからです。
  
  人間の精神は、生存の活動や、精神の志向性の行為発動において、外在的世界の事物と、何らかの「関係」を結ぶのであり、この関係は、先に「交わりの機能的空間」と呼んだものと同じであって、主体と対象のあいだに生存の活動あるいは精神の行為によって、「関係・交わりの空間」が成立し、この空間の場において、価値などは、現に成り立っているということです。間主観というのは、主観と主観のあいだで、客観へと通底するように成立する精神の位相ですが、このような事物と精神の「関係・交わりの空間」も、また、広い意味の間主観的事態でしょう。
  
  間主観的に成立している事態は、純粋の主観でもなければ、純粋の客観でもないのです。そして現実にわたしたちが生きている世界は、こういう世界・現成する・しつつある世界であるのです。ステーキだと思っているものが、実は巧妙に造られた大豆蛋白の模造牛肉かも知れないし、本物の牛肉ステーキでも、味付けや料理の仕方で、客が、これは鯨のステーキではないのかということにもなります。客観としての事物が本当は何であるのか、主観には分からないのです。しかし、それでは、主観の思い通りに何でもなるのかといえば、そうでもないのです。これは最上級のステーキですと言って出された料理を食べて、「素晴らしい味だ。これこそ本物のサーロインだ。最高の価値がある」と判断した時、この「価値判断」は、主観と客観の丁度あいだというか、「関係・交わりの空間」で、その時に現成しているものなのです。
  
  先の最上級のステーキだと言って出された肉が、実は、大豆蛋白から造られた合成牛肉である可能性もあり、反対に、本物の牛肉サーロインのステーキを、これは、我が社が開発した大豆蛋白の合成牛肉のステーキですと言って出された客が、食べてみて、「これはうまい。本物のステーキのようだ。だがやはり、合成牛肉は限界があるようだ」と判断した場合、これらの主観的判断にある「価値」は、どこに帰属するのかということです。それは、牛肉ステーキだ、あるいは大豆蛋白ステーキだ、と言われてステーキを出された「状況」、その肉の実質、客の味覚と記憶などが絡む判断の総合的事態として、その「場」で成立しているものでしょう。同じ人でも体調によってものの味の感覚が変化し、化学調味料で造った味か、本来の味か、区別が付かない事態も起こるでしょう。ステーキという事物があり、それが食事に供されるという場にあって、食べる人の主観と、事物のステーキの客観のあいだで、「関係の場」という相互主観・間主観において、ステーキはうまいという価値あるいは、これはまずいという否定価値が、現成するのです。
  
  「ステーキは美味だし価値ある」という経験から導かれた認識の命題が、ある人のなかで成立する時、それは「このステーキは現に食べていまうまい」という現成事態判断ではなく、抽象化された判断でしょう。人によっては、「ステーキの味は嫌いで、あんなものは、価値がない」という命題判断をしている人もいるでしょう。しかし、人が抽象命題判断していても、そのことと、事物としてのステーキは、また独立していあるとも言えます。価値あると思っている人に出すと、ステーキが牛肉に代わり、嫌いだという人に出すと、ステーキが、大豆蛋白に変化する訳ではないでしょう。
  
  ものの価値は、それを経験する相互関係の場で・現成する場面で成立するのですが、そこから離れて、抽象的形式ともなりえるのです。「事物自身に価値がある」と言えば、確かにあるとも言えます。しかし、それは、「関係の場での相互主観における、価値現成」において、具現化するのです。また、価値は、精神主観のなかにあるかと言えば、主観のなかにあるのは、現成の場を離れれば、抽象的認識とその命題でしょう。「サーロインステーキは最高に美味で価値ある」というのは、抽象命題であり、一種の「仮象」の認識なのです。
  
  素材が最高のサーロインステーキだから美味なのか、サーロインステーキだと認識するので美味なのか、実際食べてみて美味なのか、この三つの事態が同時に、同じ「相互連関の場」で起こり、判断が現成するのです。だから、事物に価値があるのでもなく、認識する主観精神のなかに価値があるのでもなく、経験のなかに価値があるのでもなく、これらが相互両立する「場」のなかに価値があるのです。
  
  ものや商品について、「使用価値」とか「交換価値」ということが言われます。使用価値が、事物の備える客観価値で、交換価値とは、主観精神のなかの判断命題における価値付与で、実体事物の価値とは別に、仮象として成立しているものだとも言えます。金銀宝石は、使い方によって使用価値がありますが、使い方を知らないものには、たいへん美しいものだ、という程度のことでしょう。金は、物性からして優れた金属なのですが、その使用価値よりも、交換価値の方が優越しているのです。また、交換価値しかほとんどないものは、紙幣の形の貨幣でしょう。あるいは紙の形の有価証券などでしょう。大インフレーションが起これば、一万円札千枚も、ただの紙の山になります。株式は、会社が倒産すれば、これも紙屑でしょう。
  
  しかし、「実在としての・レアルな価値」は、使用価値にも交換価値にもなく、両者も含めた認識における、生存や行為の場での「関係空間」で「何が」主観と間主観にあって現成するかで決まってくるのです。
  
  ステーキは旨いという価値判断は精神のなかにありますが、それは抽象形式の命題で、仮象なのです。その極端な例が、紙の貨幣や有価証券です。逆に、旨いステーキがあるのだというのは、それを食べて味わい判断する主体がいないと、どこにも価値はないというか、現成していないのです。
 
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この回答へのお礼

starfloraさんご回答有難うございます。
拙速なお礼を心がけていますか、かえって失礼に当たると思い一晩考えてしまいました。(それでも拙速に変わりは有りませんが)

お礼で補足を要求することは失礼に当たりますが、starfloraさんのご回答を理解するために時間が有ればyes,noだけでもお聞かせください、当然無視して頂いても結構です。私もほとんどそうして来ました。

>事物と精神の中間領域というか、両者があい交わる「機能的な空間」において「成立または現成」しているというべきでしょう。
1.ここで使用された、精神の中に人間の本能も含まれる。
>「関係・交わりの空間」が成立し、この空間の場において、価値などは、現に成り立っているということです。
2.価値などと表現してありますが価値以外のものはない。

ここで議論する気持ちがさらさらないことは、過去の応答でご存知だと思いますが誤解されないことを祈ります。
おかげさまで、半歩前に進めるかもしれませんが、自分の考えとして消化するためにはまだ時間がかかりそうです。

楽しいクリスマスをお迎えください。

お礼日時:2001/12/23 10:36

●あなたの一日の労働の価値とおなじ価値をもつ通貨を雇い主との間で交換します。


 その価値をもつ通貨は5000円 その通貨をもってレストランでステーキ
 と交換します。ステーキの価値とおなじ価値の通貨を あなたは1000円
 という量で渡します。
 あなたの労働の20パーセントとステーキが交換できたことになります。
●このように価値とは他者との関係を処理するための概念なのです。
 歴史的価値がある・・・歴史的に重要
 愛こそ価値あるもの・・・愛こそ大切なもの
 ステーキのなかには生命を維持するために必要な価値がある・・・
 ステーキのなかには生命を維持するために必要な要素がある
 言葉としての「価値」は他者との関係を処理するための概念としての
 イメージを含みつつさまざまに使われています。
 しかしその本質を捉えようとするなら概念の発生に目をむけなければ
 到達できないでしょう。
●価値という概念は通貨という媒体を得て フレキシブルになりました。
 価値を確保するために通貨の売り逃げが起こり通過崩壊を招きました。
 また 売り逃げによる崩壊を見越して 先物取引で価値を収束する者も
 現れました。
●価値に正義感を感じれなくなってしまったのは
 価値というものが概念であるうえにその概念を媒介する通貨という物に
 置き換えられたことによって 本来動かせないもの(概念)が
 動かせるもの(通貨)に変化したことに由来すると考えています。
 このことが経済をGAMEに変貌させてしまったのです。
●他者との関係を処理する概念じゃない「価値」が 思い当たるのでしたら
 実例で示してください。実例がないと返答のしようがありません。

●本来 価値があるといわなければならないものは皆無なんですよ。
 あくまでも他者との関係を処理するために生まれた概念なんですから。
●賢者であれば自分に価値があるなんて思いもしません。
 また価値ということばを引き当てないでそばに置くものにこそ
 本当に大切なものが在るのです。それは正にあなたと同化しているのです。
 
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この回答へのお礼

chihokoさんご回答有難うございます。

お礼に対して新しい助言を頂く事は、大変感謝していますがopenなこのサイトで議論する、勇気も、才能も有りません
議論はやはり相対で行わないと言葉による誤解が多く不快感が残るだけのような気がします。

楽しいクリスマスをお過ごしください。

お礼日時:2001/12/23 11:06

ふざけているとは思いません。

むしろ、立派な哲学的な疑問です。

ステーキの価値が事物にあるか、人間にあるかという設問ですね。そしてどちらにも説得力がないので困っているということでしょう。

こうは考えませんか。価値は、人間にも事物にもあるのではなく、それとは別の第3のものに由来するのでは…、と。

あなたがステーキを美味しい、価値があるとおもうのは、もちろんステーキがあるからです。しかし、ステーキがあるのは、それを美味しいと思うあなたのような人間が居るからです。どちらがかけても、ステーキの価値は生まれません。いわば、美味しいと思う人間と美味しいステーキは、ともに同時に現れます。ステーキを美味しいと思わない民族の国にはステーキは存在しません。

ですから、美味しさという価値に対して、それを感受する者と感受される物が同時に発生するのではないでしょうか。先に挙げた第3のものとは、価値自身のことです。

するとますます設問は混乱するでしょうか。価値は人間の側にあるのでも、事物の側にあるのでもないといい、価値は価値そのものに由来するといっているわけですから。

しかし、考えてみてください。箱の中にリンゴが有るように、人間の中に価値が有るでしょうか。またステーキの中に価値があるでしょうか。空間的なイメージで「価値」は捉えられるでしょうか。

あなたがステーキを美味しいと思うのは、美味しいと思うから美味しいのではなく、ステーキが「美味しいから」美味しいと思わざるを得ないのではないでしょうか。ステーキが「美味しい」のは、調理人が「美味しく」作っているから、「美味しさ」を味わってもらいたいからです。するとやはりステーキのなかに美味しさが「閉じ込められている」のでしょうか。

常に、美味しさという価値の周りを人間とステーキが堂々めぐりをしています。ステーキの美味しさを発見されたとき、それを食べる者(人間)と食べられる物(ステーキ)が存在できるようになるのではないでしょうか。

価値は、人間や事物が存在するようには存在しません。ステーキの美味しさという価値そのものは誰かが作ることはできませんし、何かにもともとそなわっているわけでもありませんから。だからこそ哲学史を紐解けば分かるように、価値は存在するとはいわれずに「妥当する」といわれるわけです。

価値そのものを作る人がいるとすれば、それは神か、あるいは人間の中では芸術家です。芸術という「価値の世界」では、芸術家は美しさを「創出」します。実際には色や音といった物理的な素材を用いて作品を「制作」しているだけなのですが、その作品を通して芸術家はその作品の美や快などの価値を生み出すのです。しかしその場合でも、作品の中に価値があるわけではないのです。

価値とは、どこからともなく突然やってきて、人間と事物をその周辺に取り寄せます。そして、時代や場所で、その価値は違います。「普遍的な価値」という言葉は自己矛盾です。お金も愛も平和も、価値があるといわれるものはすべて普遍的ではありません。歴史が語るとおりです。

実を言うとここでいっている価値、ステーキの価値の問題とは、美学の問題です。カントならば美的判断の問題として、ヘーゲルならば精神の感受性の問題として記述したことでしょう。ニーチェなら、ステーキの美味しさに陶酔したかもしれません。哲学者によってその捉え方はさまざまです。

いずれにしても、価値を考えるには、世界を人間と事物(主観と客観)の2つにわけて、そのどちらに有るかと問うのではなく(人間と事物という二項対立がこの設問を導いたともいえますが)、そもそも価値とは何かというところから考えていかれる方が良いのではないでしょうか。善・美・有用性・希少価値など価値にもいろいろありますが。

最後に私の意見を申し添えますと、もともと価値は存在しないのですから(「妥当」はするかもしれませんが)、ステーキを食べるときには、肉を提供してくれたウシさんと美味しく調理してくれた料理人とそれが食べられる自分の健康に感謝して食べた方がいいと思います。

それがもっとも美味しい食べ方であり、ステーキの美味しさに「肉薄」する仕方ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ereignisさんご回答有難うございます。

>そもそも価値とは何かというところから考えていかれる方が良いのではないでしょうか。
そのつもりがこんな事に成ってしまったのです。
「妥当する」という表現はわかりやすかったです、哲学に詳しい人にはあたりまえの事だったのですね。

時節柄、七面鳥にした方が良かったかもしれません。
楽しいクリスマスをお迎えください。

お礼日時:2001/12/23 10:54

価値の判断とは関係なく、価値のあるものは存在するのかということなのでしょうか。



これは、ものについては、なかなか難しいのですが、それ以外に普遍的なものが存在するかと聞かれれば、存在すると思っています。

具体的には、片方でアメリカでのテロを誰もがよくないことだと思ったように、なにも悪いこともしていない人を殺すことはよくないことだという道徳律のようなものがあります。カントなどは、実践理性批判で、そういうものを悟性でみんな持っていると考えています。

もう少し分かりやすい例を挙げれば、「価値」を「美」に置き換えてみると、ピカソの絵が普遍的な美しさを持つとしたら、その絵をどのように捉えたらいいかという問題になります。そして、その絵を「美しい自然」に置き換えてみると、「美しい自然」は、失われつつあるものの実際に存在しています。しかし、ここでも、では「美とは何か」という問題についての論争は続いています。

このように、寄って立つ立場によって、見解は相違するものと考えた方がいいのではないでしょうか。

もとより、近代経済学は、価値に関する問題は複雑なので、なるべく簡単な公理を設定して分析するということに専念してきたきらいがあります。事実、そういうことを考えていると、哲学者にならざるを得ないのかもしれません。

昔は、経済学では環境の問題をほとんど考えませんでしたが、時代が変わると、経済学の課題になるように、流動的な学問と言えるかもしれません。

価値の問題に悩んだ著名な経済学者については、経済学史などで知ることが可能です。

参考URL:http://radicals.tripod.co.jp/het01/indexhet.htm
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この回答へのお礼

jun95さんいつもご回答有難うございます。

価値の問題を経済学として考えていましたので、経済学の関係の本は結構目を通したのですが、あまりピンとくる本がなかったのです、先日jun95さんから教えていただいた本も社会学の本でしたが、調べてみると金額からしても量的に読み応えがありそうで、正月休に読む予定の本がたくさんたまっていて、いつ読もうかと迷っているところです。

ところで「価値」の件ですが、牛肉に好き嫌いはあっても一つの社会の中では食品としての、好き嫌いの感情の前に生命維持のための基本的というか根源的というか、よくわからないのですが理性とは関係なく価値があるように思うのです、誰も同意してくれなくてさびしく思っています。

お礼日時:2001/12/22 20:36

●ステーキがうまい!歯ごたえがたまらなくいい!栄養になる!


 このステーキに対する感じは それで完結しているのです。
 それを 価値があるとした時点で あなたは無意識のうちに他者を意識にいれているのです。
 例:この肉はお金を払ってまた食べるだけの価値がある。
   家族や友達にも食べさせる価値がある。
   ステーキ屋で稼げるほどの価値がある。
   肉としてこれに勝てる肉がないほど価値がある。

●もし地球上にあなた一人なら ステーキはおいしいから一番目にすきとか
 二番目にすきとかで 十分です。
 でも現実はいろんなひととのかかわりで生きているわけですから
 価値という等価交換原理を持つ概念に置き換えがちなのです。
 しかし 価値とはあくまでも他者との関係を処理するための概念ですから。
 あなたがステーキの真髄をきわめたいのなら 価値などという下世話な概念に
 とらわれることなく。ステーキとあなたと直で向き合うことが真髄への
 近道ということです。
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この回答へのお礼

chihokoさんご回答有難うございます。

>価値という等価交換原理を持つ概念に置き換えがちなのです。
ようやく意見の一致する部分が見つかりました、私もこの一連の質問の前に、言語のカテゴリーで価値という言葉に交換のイメージがあるのではという質問をしましたが、反応がなかったで自信はないのです。
>しかし 価値とはあくまでも他者との関係を処理するための概念ですから。
それでも、価値はこれだけではないと思いますが。
またお願いします。

お礼日時:2001/12/22 20:11

 価値は、本人次第です。


 対象にあるのではなく、自分本位なのであります。
 ダイヤモンドは高価です。しかし、石でしょ。
 石に価値を見出しているのは、人間です。ダイヤモンドが希少だから、それを欲しがる人間が価値を付けたのです。
 ただ逆に、知らないだけなのですが、本当に価値あるものがあるにもかかわらず、分からずに捨てさられている現状というものもあります。
 宝が分からない、迷妄なのも本人の機根からでしょう。
 気付かれることを望むばかりです。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

odd-artさんご回答有難うございます。
>価値は、本人次第です。
この言葉は前にも聞いたような気がしますが
>価値は、本人次第です。とすれば、人間と食品の関係はどう表現すればよいのでしょう。人間も自然の一部として生命としての制限があり、仙人のように霞を食べて生きていける人は一人もいません、本人の精神に関わらず生きるために、何かかを食べなければなりませんが、生きるために食べる食物に価値があるという表現が間違っているとしたら、「価値」という言語の不備を考えてしまいます。

なかなか納得しない頑固者ですいません。

お礼日時:2001/12/22 19:51

うーん、fishbowlさんの混乱の度を増してしまわせたのなら申し訳ありませんね。



ただ、混乱の根源ははっきりしています。「価値」という多義的な言葉を無限定で使用し、統一した見解を持とうとしているところにあります。

fishbowlさんの最初の質問は経済学分野での「宝くじの価値」に関してでした。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=170202
2番目のものは哲学分野での「金の価値」から派生したものでした。(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=185508
で、今回は「ステーキの価値」です。

正面から「ステーキ」の価値が生じる所以を論じてもかまいませんが、それ以前にこれらの三つの質問で同じ意味の「価値」が対象になっているとは思えません。

宝くじでは1億円の値打ちしかないものを2億円で買うのは何故か、と聞かれました(私はこの問題の立て方自体が誤りであると思います)。ここでは「価値」=「財貨の効用」です。

2番目の金については、金は貨幣として使われる場合には交換の尺度としての役割を果たしますが、それを故意に除いて、金に内在する価値はあるのか、という問いを立てられました。ここでは「価値」=「人間による評価」です。

そして今回のステーキではある意味では美術品・芸術作品の評価に通じるものがあり、これも「人間による評価」ですが金と異なるのはステーキには金のような交換性がないことでしょう。どちらかというと「価値」=「有用性」に近いものです。

人間はその長い歴史の中で、貨幣という非常に有効な概念を発明し使用してきました。これは本来、比べることのできない二つ以上のものから、行動、さらに愛の概念のように具体性をも持たないようなものまでを価格という尺度で価値を比較できるようにしました。しかし、比較可能になったとは言え、その源泉は物々交換に始まる、ものとものとの交換比率であり、芸術品のように評価が一定しないものや恋愛・正義・平和というような抽象概念にまで「価値」という言葉が使われるからと言って全てを統一的に理解することは困難であると思います。

前回の質問において、ある方は独自の「価値」解釈であなたにお答えしたために混乱を招いたと思われます。なお、私はこうした疑問については対話を重ねることによってしか納得を得られるものではないと思っておりますが、Q&A形式とは言え回答とそれに対するお礼というこのgoo(OKweb)の形式では充分な対話が可能とは思えません。できましたらメールででもお話したいものですね。
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この回答へのお礼

aminouchiさんご回答有難うございます。
やっぱりばれていますね、最初の宝くじは大失敗でした。「価値観」について量の変化が質の変化を伴うのだろうかと言う意味で宝くじを取り上げたのですが、思慮不足と反省しています。
2回目以降は真正面に価値についての疑問を正直に質問しているつもりですが「言葉で気持ちを伝えることは難しいですね」

他で質問したのですが、価値という言葉が多義的といっても意味が多すぎて、言葉としての機能が失われてしまいませんか、名詞としての「価値」という言語の意味も、もっとはっきり理解したいと思っています。

本当は大法螺吹きになりそうで言いたくないのですが、価格からなぜ正義感がなくなったのか考えるために価値のことを考えているのです。かっこよすぎるのでほんの少しそんな気持ちがある事にしておきましょう。

またよろしくお願いします。 

お礼日時:2001/12/22 19:28

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そんなことは不可能なのですが、仮にシンボルの作用を取り除いてしまうと、わたしたちを取り巻く「社会的事物」は、意味の支えを失ってしまい、ばらばらになって崩壊してしまうのです。

ごく簡単に説明します。

カッシーラーの根本的な考えというのは、人間を「シンボルをあやつる動物」とみなしたことです。

人間の感覚器官は、単にアンテナのように外界からの情報を集めてくるだけのものではなく、「シンボル」としてものごとをとらえ、意味を与えながらその情報を取りこんでいる、というのです。

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 ただ、その植物を「価値」とみなす存在によって、空気は二次的に「価値」と見なされることは考えられます。「この植物を育てて食うためには…空気が必要」というふうに。しかしやはり「二次的」で、植物以外の意識ある存在を想定しないと言えないことです。

 動物だと空気は「価値」になってくるでしょう。「求めたいもの」になってきます。このことはアタリマエのように空気を吸っている地上動物よりも、水中で暮らす魚を考えるとわかると思います。水に対する酸素の融解度は二酸化炭素1.71に対して0.049(水温0度の場合。『理科年表』による)。酸素は「ほとんど水に溶けない」と言ってよいほど溶けにくい気体です。魚たちは、そのわずかな酸素を吸って、水中で生きています(地上動物も肺の粘膜に溶けた形でしか酸素を取り入れられないので、基本的条件は同じですが)。水温や水流などに左右される水中酸素の多寡が、魚の捕食行動などに大きく影響することは知られています。
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 遠慮なさらずに何度でも質問なさればよいでしょうに。

 ただその、少々感じましたのは、前回の「ステーキ」もそうだったのですが、思考実験ならばもう少し吟味の上、余計な諸条件を排除しないと有効な推論にならないということです。(前回は、味とか香りといった付随的要素が、「食物であり栄養物である」という動物的価値に混じり込んでいたようでした)

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まだいまいちピンときてないんですけど、この言葉がなんとなく好きです。

という事は、私達が普段、嫉妬や見下しの軸にしている
金、学歴、容姿等の社会的な価値は、単なる「飾り」でしかないという事でしょうか?

では中にある本当の価値とは?

Aベストアンサー

池田さんのご本は読んだことがありません。しかし、精神現象学や木田元さんの影響など、たぶん同じ系譜のものを吸収していると思いますので、ご参考までに述べます。

自分というものを決めるものさしには、atribut(属性) と identite'(自己同一性)があります。
アトリビュというのは、まさに、学校名や職業、容姿、家柄、居住地、国籍、などなどを意味します。
これは状況によって変わるもの、変えうるもの、うつろうもので、他律的です。

裏口入学も美容整形手術も髪の色も、お金で買うことができるでしょう。
学歴や家柄を詐称すればそれが影響力を発揮します。
給与額や預金高が高くても国家が破綻すれば、持てる紙幣は紙屑同然です。
戦争や亡命では、居住地も国籍も変えるか隠すことさえあります。
こういうものは、自分を説明するのに便利な事柄なのですが、アトリビュであり、外からの力で剥がされ、奪われ、あるいはあてがわれているものです。

もう一方のイダンティテ、英語だとアイデンティティのほうは、自分自身であること、ただそれだけを意味しています。
自分であることをやめてしまいたい、他の人になってしまいたい、自分を殺してしまいたい、というようなネガティブな気持ちにならないための、本来備わっている根源的な力なのです。
精神不安定によって、自分についての記憶や主観や感覚が、錯綜したり混乱したりせず、自分を振り返ることができる、自分の考えを持つことが出来る、ということ。
そうして、自分のイメージという鑑を、心の中にしっかりと持っているので、自分の心に照らして善悪や道理を判断することができ、自分を導いていけるのです。

池田さんのご本は読んだことがありません。しかし、精神現象学や木田元さんの影響など、たぶん同じ系譜のものを吸収していると思いますので、ご参考までに述べます。

自分というものを決めるものさしには、atribut(属性) と identite'(自己同一性)があります。
アトリビュというのは、まさに、学校名や職業、容姿、家柄、居住地、国籍、などなどを意味します。
これは状況によって変わるもの、変えうるもの、うつろうもので、他律的です。

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