一般的に、冷戦とは旧ソ連とアメリカとの沈黙の中での緊張状態ですよね。他のいろいろな戦争とかって、宣戦布告を出したりで、いつから開始されたとか、いつに終わったかが、割とはっきりしているじゃないですか。でも冷戦って、両者の意識下でいつの間にか憎み合う様になっていった様に思うのです。アメリカと旧ソ連は、どっちが早く意識し始め、大体、いつを基準に冷戦突入という形になったのでしょう…。何らかの発表みたいなものが、極秘なりにでもあったのでしょうか。きっと、政府側と国民側の意識し出した時期のズレとかもあると思うんですよね。あまり歴史とか詳しくないんですが、私は個人的に、特に旧ソ連について知りたいです。誰かわかりやすく教えてください。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

○冷戦のはじまりについて



冷戦の開始は現代社会や国際関係学の専門家の多くが『ヤルタ会談(1945)』をきっかけとして捕らえています。
つまり、第二次大戦で戦勝国となる国々で、力を蓄えているのは旧ソ連とアメリカでした。ソビエト連邦が発足した段階では国力も弱いのと日本を始めファシズムの国が活発に活動をしていてともに当座の敵はファシズムだったのですが、それが終焉し、次の時代を見据えるのがヤルタ会談だったからです。
冷戦はイデオロギーの戦いといわれます。イデオロギーとは『共産主義と資本主義』です。日本の分割統治案に徹底して反対したのはアメリカでした。それは分割統治となれば、ひとつは必ず共産主義国ができるからでした。そういう意味で解釈すればより早く冷戦を意識したのはアメリカであったと言うことができるかもしれません。
そして、冷戦・イデオロギーの戦いが表立って始まったのは、朝鮮戦争だったといえます(それ以前から両国の国防費は跳ね上がっており、国防費から推測する冷戦はそれ以前からです。)また東欧諸国の取り込みなども活発化していましたが、経済的な不利は当初から共産圏にあり、人口流出を回避するために作られたのが「ベルリンの壁(1961)」です(このあたりの経緯は参考URLでわかりやすく書かれています)。1960年代70年代はまさに冷戦の真っ盛りでした。一般にペレストロイカからはじまる、東欧の自由化やベルリンの壁崩壊で冷戦は終結したと考えられていますが、イデオロギーの戦いとしての冷戦は局地化が進み、現在もあらゆるところで火種が残っています(北朝鮮、中国などなど)

この回答への補足

お返事どうもありがとうございました。1945年の『ヤルタ会談』で、アメリカと旧ソ連の冷戦開始を意識しだしたのは、お偉いさん達だけですよね。『共産主義と資本主義』でのイデオロギーの戦いというのは、こんな私でもなんとなくわかるのですが…。1947年の、チャーチルの「鉄のカーテン」演説ではまだ、モンロー・ドクトリンからの孤立主義的な感情もあり、ヨーロッパから干渉されたくないと共に、ヨーロッパのゴタゴタに口出しは基本的にはしない。巻き込まれたくないということで、国民の意識下ではいまいちパッとしなかったと聞いています。1947年のトルーマン・ドクトリンでやっと国民も政府の危機感に同意したということですよね。では、ソ連側はどうなんですか?このトルーマン・ドクトリンで国民もソ連政府に協力しようと言う気になったのですか?旧ソ連の国民はアメリカ国民とは違い、政府の言うことに疑問を持ったりせず、ただ、政府がこうだ!と言ったらそのまま、賛成!という具合だったのでしょうか…。政府の意のままに行動したのでしょうか?私にはそう思えないんです。きっと政府側は、何か国民の気持ちを自分たちに引きつけるようなことをしたのではないかと。自分たちに協力しようと思わせる演説とか、出来事とかあるような…。私は、政府側と国民側のやりとりみたいな事に興味があります。何か知っていれば、コメントお願いします。

補足日時:2001/12/23 20:53
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 なんか、私間違えてしまいました…。お礼の欄にありがとうって書き込まないといけないのに…。追加のところに…、はずかしい…。これ使ったの初めてなのでいまいちよく分からなかったんですよね…。でも、詳しくコメントしていただき、本当にありがとうございました。

お礼日時:2001/12/23 22:00

アメリカのトルーマン=ドクトリン(宣言)が冷戦の始まりだと思います。


1947年3月、アメリカ大統領トルーマンが共産主義の侵略をうけるギリシア・トルコへの援助声明を出します。これが対ソ「封じ込め」の開始で、「冷戦」の宣戦布告だと考えられます。
それから1948年にソ連が核兵器の開発を始め、本格的な冷戦になったと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 お返事ありがとうございました。冷戦で大きな鍵を握るのは、核兵器の開発なんですね。ところで、chukanshiさんは、結構いろいろな質問に回答していますよね。すごいです。私は今日初めてここの会員になり、この“教えて!goo”を活用させてもらいました。あまり機械類に強くなくて、パソコンも敬遠しがちだったので、今回私の質問に即回答してくれたことに、ビックリしているのと同時にとても感動しています。返事遅れましたが、本当にありがとうございました。

お礼日時:2001/12/23 21:23

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q終戦間際にソ連軍は、旧満州に侵攻し、関東軍司令部をはじめとする日本側機

終戦間際にソ連軍は、旧満州に侵攻し、関東軍司令部をはじめとする日本側機関から文書や資料を貨車28両でモスクワに運んだとされている、と数年前にある雑誌で読みました。
これらの文書・資料は、ソ連邦の崩壊前後から公開されるようになり、日本の研究者がモスクワ詣でをして、調査・研究しているとのことです。
これらの文書・資料は、今となっては「史料」としての価値があると思いますが、ロシアの言い分は「戦利品」らしいです。

これらの文書等を返還要求できる権利が日本にはあると思うのですが、法的な根拠はあるのでしょうか。
日本政府は、ロシアに対して公式に返還を要求したことはありますか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 1956年の日ソ共同宣言で全ての請求権を放棄していますが…。
 (返還要求は出来ない筈)

日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言
     (略)
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に、放棄する。
     (略)
   http://www.hoppou.go.jp/library/document/data/19561019.html

 勿論「ロシアが好意で返します」なんて事が絶対に有り得ないと言う訳では有りません…。

Q日本がイギリスに宣戦布告した日時と手続きについて

1941年(昭和16年)12月8日【日本時間】に、日本はアメリカに宣戦布告しました。宣戦布告は、ワシントンに駐在する野村吉三郎大使と、来栖三郎補助大使が国務省のコーデル・ハル国務長官に日本政府の最後通牒を手渡すという手続きを踏んで実施されました。

それでは、日本がイギリスに宣戦布告したのは何時(いつ)、どのような手続きだったのでしょうか?

Aベストアンサー

>1941年(昭和16年)12月8日【日本時間】に、日本はアメリカに宣戦布告しました。宣戦布告は、ワシントンに駐在する野村吉三郎大使と、来栖三郎補助大使が国務省のコーデル・ハル国務長官に日本政府の最後通牒を手渡すという手続きを踏んで実施されました。

 これは(帝国政府ノ対米通牒覚書)、宣戦布告でなく交渉打ち切り通告です。詳しくは、以前私が書いた別の質問の回答をご覧下さい。(日本は最初から攻撃する前に、武力行使を連合国側に伝える意図は無かった。)
   http://okwave.jp/qa/q5525271.html

 なお、厳密な宣戦布告は、開戦の詔書(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)が公式に発表された時点です。
 基本的に宣戦布告は、交戦国に確実に伝わる状況(大使館等が機能していれば)であればプレス発表だけで十分です。
 (まあ、ソ連が終戦直前に日本に攻め込んだ時は、大使館等の電話線等を切断後に発表すると言う、えげつない事をしましたが…。)

 まあ、一応第二次大戦時の日本の対応としては、宣戦を布告後に連合国の外交官を皇居に招集し、彼等の外交官特権を剥奪し、速やかに国外に退去することを通告し、また彼等の身柄の安全等は条約や慣例に基づいて保障する事を伝えています。

 海外では同様に日本大使館などが、現地でプレス発表し、当該連合国は日本に対して同様に宣戦布告を行い、外交官の国外退去を通告してきます。

 根本的に、何日の何時何分に宣戦布告の文章を渡しに行きますから、予定明けておいてください何て言えませんから、基本的に自国発表だけで宣戦布告は効力を発揮します。
 (宣戦布告されたくない側が、何らかの理由を付けて面会を遮断したら何時まで経っても宣戦布告が出来なくなってしまいます…。)

 外交官云々の取り扱いは、まあ事務的儀礼です。

>1941年(昭和16年)12月8日【日本時間】に、日本はアメリカに宣戦布告しました。宣戦布告は、ワシントンに駐在する野村吉三郎大使と、来栖三郎補助大使が国務省のコーデル・ハル国務長官に日本政府の最後通牒を手渡すという手続きを踏んで実施されました。

 これは(帝国政府ノ対米通牒覚書)、宣戦布告でなく交渉打ち切り通告です。詳しくは、以前私が書いた別の質問の回答をご覧下さい。(日本は最初から攻撃する前に、武力行使を連合国側に伝える意図は無かった。)
   http://okwave.jp/qa/q5525271.html
...続きを読む

Qアメリカ人は冷戦中ソ連に旅行できたのですか?

冷戦当時日本人がソ連に観光旅行に行った人達がいたという事をつい最近知って、大変びっくりしました。それでは冷戦で直接対峙していた当事者のアメリカ人が観光でソ連に旅行に行っていたのでしょうか?

ソ連(今のロシア)は私にとって、謎に包まれている部分が多いミステリアスな国という印象があります。

ご存じの方どうかご教授下さいます様、お願い致します。

Aベストアンサー

>冷戦当時 ~ 直接対峙していた当事者のアメリカ人が観光でソ連に旅行に行っていたのでしょうか?
 
 スターリン全盛時代の、いわゆる「冷戦」当時でも観光することは出来ました。
 
 ソ連側の理由として、観光客が来ることによってドル外貨を獲得できる。ソ連政府指定のコースをはみ出さず、撮影の制限を遵守させれば害はない。しかも観光客を通じてソ連の優位性を宣伝させる効果がある、などが挙げられます。ただ、冷戦時、じっさい対立する相手国へ気軽に観光へ行こうという人の数は少なかったし、入国が好ましくない人物、団体に対してはパスポート発給を遅延させる(拒否するとはいわない)ことで実質拒否していました。
  
 実際に観光客が増加したのは、スターリン死後のいわゆる「雪解け」からで、政権交代、政策変更のたびにおこなわれたソ連憲法の修正によって70年代には相当数のアメリカ人を含めた外国人観光客が入国しました。

 70年代当時のソ連を紹介したノーボスチ通信社編による『ソ連邦の生活・文化』(1979年 労大新書)のなかにこういう文章があります。

 一九七七年にソ連邦を訪れた外国人は四四〇万人以上で、外国旅行に出かけたソビエト人は二七〇万人でした。~ この数年間に外国人と結婚したソビエト人は、一万人以上に達しています。そのうちの七〇〇〇人が、結婚相手とともに定住のために、世界の一〇〇ヵ国以上の国々に出国しています。同時に、ソ連邦に移住を希望する外国人の受け入れもおこなっています。
 
 日本人の感覚ではピンとこないことですが、ソ連邦へ観光を含めたプライベートな理由でソ連へ行った人々の特徴のひとつとしてソ連国内に親族がいるユダヤ人たちの往来が挙げられます。一口にアメリカ人といってもユダヤ系アメリカ人が多く出かけております。ソ連国内におけるユダヤ人問題は現在も続いており、先に挙げた『ソ連邦の~文化』のなかにもユダヤ人のイスラエル出国について書かれています。

 ソ連の内政はその都度硬軟に変化したものの、基本的には入国を拒否することはなく、情勢が悪化すればパスポート発給を無期限に遅延すればすむことだけなので、決して観光客が0になることはなかったのです。

 冷戦当時のソ連については、古書店に行けば、そのころの岩波新書や労働大学(自治労)が出版していた「今日のソ連邦」とか労大新書など、左派系の書籍が埃をかぶって一山いくら程度の値段で売っていることと思います。ちなみに『ソ連邦の~文化』は25円でした。そんな宣伝本でも当時のソ連を知る手がかりのひとつになると思います。

>冷戦当時 ~ 直接対峙していた当事者のアメリカ人が観光でソ連に旅行に行っていたのでしょうか?
 
 スターリン全盛時代の、いわゆる「冷戦」当時でも観光することは出来ました。
 
 ソ連側の理由として、観光客が来ることによってドル外貨を獲得できる。ソ連政府指定のコースをはみ出さず、撮影の制限を遵守させれば害はない。しかも観光客を通じてソ連の優位性を宣伝させる効果がある、などが挙げられます。ただ、冷戦時、じっさい対立する相手国へ気軽に観光へ行こうという人の数は少なかったし、...続きを読む

Q冷戦中のソ連

の中で、「親ソ政権」という言葉を耳にしたのですが、どういう意味なんですか?
それの崩壊を嫌がってアフガニスタンに侵攻したとありますが、
馬鹿な俺でもわかる説明をお願いします。

Aベストアンサー

 東欧の衛星諸国は心ならずもソ連の属国のような状態を取らされ、これを西側は黙認していました。ポツダム会談での約束があったからです。これとは別に親ソ政権が発展途上国に沢山できたので。これは今では考えられないのですが、ソ連は共産党政権の下で大変巧く行っているというソ連の宣伝を真に受けていた知識人が大変多かったからです。マルクス・エンゲルスの資本家=搾取する人、労働者=搾取される気の毒な人とい図式で自由主義社会での諸悪の根源が資本家の搾取にあるという教条主義が罷り通っていたからです。
 ですからアフガニスタンに限らず、エジプトのナセル政権もそうでしたし、インドも中立とは言いながらソ連にかなり近寄っていました。エチオピアでも新ソグループが皇帝を殺害して政権を握りました。イタリアでも新ソグループの力が大変強くて政権が安定せず、kれが経済発展を阻害していました。フランスもドゴールが出るまでは左派勢力が大変強い国でした。このように冷戦時代はそのうち世界中が共産党政権になってしまうという危惧が蔓延していたのですよ。

Q冷戦時代のソ連軍は、本当に脅威だったのですか?

今、北朝鮮の核が問題になっていますが、北朝鮮自体が秘密のベールに
包まれているため、核とミサイルの脅威がどの程度のものなのかは
わかりにくいと思います。
(実際にミサイルに搭載して使用できる信頼性があるのか、という程度の
 意味です)

そこでふと、旧ソ連軍はどうだったのだろうかと考えました。
1980年代頃のテレビや小説などでは、ヨーロッパでNATO軍とワルシャワ軍が
開戦したら、ソ連軍の大戦車部隊は物量でNATO軍を圧倒し、窮地にたった
NATO軍側が戦術核を使用して、それをきっかけに全面核戦争が始まると
いったパターンの話が多かったと思います。
当時のソ連軍に、それだけの実力が本当にあったのでしょうか?

北朝鮮の核はよくわかりませんが、当時のソ連軍は、数はあっても中味は張子の
虎で、実際の戦力はたいしたことはなかったと思うのですが、どうでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
レス、ありがとうございます! やっぱり、こういう話は楽しいですねぇ。で、今回はとてつもなく長いです。書いてみて、バカだなぁとちょっと思ってしまいましたが、お許しを…。もしお時間が許せば読んでやってください。
ところで失礼かなと思ったのですが、edogawaranpoさんの仰るフィリピンのマルコスの夫人はイメルダです。で、デビさんの旦那はインドネシアのスカルノのです。ちょっと横槍すみません。

ハードウェアで戦争に勝てるとは思いませんけど、ベトナム戦争以降のアメリカの戦争の仕方を考えるとやはりハードウェアを抜きに考えるわけにはいかないというのも事実だと思います。まず、ハードウェアの面で東側がどれだけ遅れてしまったということは、それこそベルリンの壁の崩壊で明らかになったわけです。と、その前に、ベトナム戦争に関して、ちょっと思うところがあるのでそのことをまず。
米軍がベトナムで大苦戦して、挙げ句の果てに負けたということで物量、最先端技術というものがものの役に立たないような言われかたがしていますが、個人的にはこれはまちがいのような気がするんです。というのは戦争の性格をみた場合、アメリカはかの戦争に勝つためには完全に共産主義という思想をベトナム国内から一掃しなければならないわけで、経済として施行されていれば共産主義の一掃もかなうかもしれませんが、思想を人の中から追い出すというのは不可能なわけですよね。ということでこれは勝ちようがない。また、ベトナムにしてみれば、自国の防衛なわけですからどんな犠牲を払ってでも米軍を追い出せばいいわけですが、米軍にしてみれば明確な叩くべき戦略拠点(戦術上必要な要所はあったとしても)がないわけで、無駄な犠牲を国内世論を考えてもあれ以上出せなかったわけですよね。事実、ベトナム側の犠牲者は20万とも30万とも言われていますが、米軍のほうは6万~7万とされています。単純に数字だけを見ればアメリカが負けたと言えないわけです。
ということで、単純に破壊力だけを考えればやはり戦争においてはハードウェアがもたらす効率のいい戦闘ということは無視出来ないのではないかと思います。戦争そのものに関しては、政治的な問題や軍隊そのもの志気という目に見えない部分が大きく絡んできますが、個々の戦闘ということに関して言えば、ハードウェアと物量というのは、非常に重要なので、doyaさんの仰るところの、旧ソ連軍にそれだけの軍事的な力、すなわち西側にとって脅威になり得たのかという、ことを考える必要がやはりありますよね。この辺のところがどうも、抜け落ちて語られ過ぎているというのは、まったく仰るとおりです(念のために申し上げておきますが、決して、軍備の増強を願っているとか、兵器を礼賛しているとか、アメリカよりというわけではありませんので)。
と大幅に脱線してしまいましたが、東のテクノロジーの遅れについてもっとも有名なところのお話でひょっとしたらご存じかもしれませんが、カール・ツァイスのことを書いておこうかなぁと思いました。
ご存じの通り、ドイツの名門光学機器メーカーのカール・ツァイス(当時もっとも優秀な航空機用照準器だったらしいですね)ですが、第2次世界大戦のあと、ドイツが分断された際にカール・ツァイスも分断されてしまったわけです。ここから二つのツァイス社が出来てしまいます。東側のツァイスのほうがむしろ本社のあっとところだったわけで、分断された直後に関してはどうやら東側のほうが光学の技術もある程度すすんでいたらしいのですが、実際に東西が統一されツァイス自体も統一されるとその技術格差は大変なものがあったらしいのです。西側のツァイスはすでに非球面レンズの高精度なものを作れていたのですが、東側のツァイスはまだそれすらも完成していなかったとか。この高度な非球面レンズがないということは、つまり、集積回路を作る際に小型化が出来ないということになります。優秀な集積回路をもてない中では、情報機器の整備は追いつけませんよね?
この辺だけを見ても、電子戦と言われる現在の戦争のスタイルを考えても、鉄のかたまりが衝突するわけではなくなってしまったので(第2次世界大戦ですらレーダーの発達で戦局は大きくかわっているわけですからねぇ)東側の持っている兵力がたとえ数字上、西側のものを上回っていてもかなり不利だったと言えるのではないでしょうか? また、doyaさんの仰るとおり、あれだけの大きな陸戦隊を管理するとなると指揮命令系統が完璧に機能しなければならず、その指揮命令系統の攪乱のためのEMSを使いまくるNATOが苦戦して、窮地に陥るなどとはとうてい考えられません(東側には優秀な真空管がありますけど、これは結局、ノイズシールドが出来るだけの集積回路をもてなかったからという話もあります)。事実、米軍のパナマ侵攻、グレナダ作戦の時は周辺地域の電波使用の機器は完全におかしくなったという話です。また、今回のアフガンのほうに関しても、徹底的に電子戦をやってのけていますよね。もちろん、今の技術と冷戦時の技術とは比較になりませんが。
情報戦の面を考えても、ソ連軍がNATO軍の脅威になり得たか、本当のところはやはり怪しいとボクは思います。ただ、数字上の戦力に関しては侮れないものも当然あり、戦争でもっとも人的被害をもたらすものは一発20円くらいのライフルの弾なので苦戦は強いられるでしょうけど。しかし、この両陣営が本格的に衝突して総力戦ということになればゲリラ戦というような展開になることはないでしょうね。そうした意味でも、ボクは、やはり一部の東西冷戦の「たら、れば」小説にはたいがい疑問符がついてしまいます。とはいえ、エンターテインメントとしてみた場合は面白いんですけど(先日、ご紹介いただいた本は残念ながら読んでおりませんが、近いうちに読んでみようと思います)。
ところで、北朝鮮の核に関しては、開発こそしていたでしょうけど、やはり運搬手段(核戦術で一番重要なのはこれなんですけどね、ほんとうは。関係者とはいえ、マスコミがこの辺を落としているのが気にくわないです)と発火装置の開発の難しさを考えてみれば、まぁ、やっぱりあったとしても、ないに等しいのではないでしょうか。
むしろ、北朝鮮が核を保有していると言うことをことさら恐怖し、それによって日本やアメリカなどの国内世論が不必要に神経質になって本来果たすべき外向的解決を放棄してしまうことのほうが怖いです。そうした意味でも核の持つ政治兵器としての存在感とその破壊力は相変わらずというか、以前にもまして重要になってきていますよね。そろそろ、日本の大学でも国際政治というインチキな学科にちゃんとした戦略・戦術も教える環境が出来ることを望んでしまいます。
かなり脱線しまくっていますが、お許しください。では、参考までに。

こんにちは。
レス、ありがとうございます! やっぱり、こういう話は楽しいですねぇ。で、今回はとてつもなく長いです。書いてみて、バカだなぁとちょっと思ってしまいましたが、お許しを…。もしお時間が許せば読んでやってください。
ところで失礼かなと思ったのですが、edogawaranpoさんの仰るフィリピンのマルコスの夫人はイメルダです。で、デビさんの旦那はインドネシアのスカルノのです。ちょっと横槍すみません。

ハードウェアで戦争に勝てるとは思いませんけど、ベトナム戦争以降のアメリカの戦争の...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報