私はブッダは哲学者で、宗教家ではないと思うのですが、知識が中途半端でよくわかりません。
小乗、大乗は解りますが、いわゆる仏教はいつから宗教として何がきっかけで、成立したのでしょうか?少なくとも、ブッダは菩薩や阿弥陀などの存在を語ってなさそうだし、となれば後世の人が創作したように思えますが、そうなるとブッダの教えとは全く別のものです。ブッダその人を神聖化し「神」の様な存在として崇拝する事は、本来の教えからかけ離れたものと思います。
もしブッダがいきていたら死者を拝んでも、「奇跡など起きるはずもない」といいそうですが、なぜ、このように大きく変質してしまったのでしょうか?

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A 回答 (11件中11~11件)

まず、最初にお詫び申し上げます。

何の知識もない身ですが、宗教も文化のうちであり、文化の変遷も宗教の変遷に繋がるとも考えられます。不変?の精神を無理に貫くことは、正しいことなのでしょうか?
『後世の人が創作したように思えますが、そうなるとブッダの教えとは全く別のものです』
とありますが、それは、いけないことなのでしょうか?例えば、禁欲をどうとらえるかは、その宗教に携わる人の心の内にあるものだと思います。1812さんが、何の知識も持たない私の意見に耳をかさないというのなら、それまでですが、宗教とは万民のものであり、哲学のような学問化を全てとするならば、庶民は何を理解すれば良いのか分からなくなります。勿論、宗教学は必要でしょう。否定しません。だが、嘘でも、仏教が仏陀の教えにそぐわない、仏陀の不本意になるような(言葉使いは相応しくないかもしれません、御免なさい)道を歩んでいるとしたら、万民は悲しみます。多くの方が見ていられるでしょう。勿論、仏陀の不本意になるような宗派もあったことでしょう。この問題には、慎重な御解答を皆様にして頂くよう御理解して戴きたく思います。申し訳御座いません。

この回答への補足

serotoninさん、ご回答有り難うございます。
色即是空というように、人の教えも変わっていきます。良い悪いもありません。
問題にしたいのは、本来哲学の開祖であった人物が、なぜ神聖神格化され神秘主義の加わった宗教に変わったか。ということです。
ギリシャの哲学者は神聖化されることはなかった。それは、ヒンズー教などの(何でも神にする)多神教の影響か、文化的なものか、あるいは深遠で並の人間には理解できないものがあるため、神秘化されたのか?もしくはインドでは哲学だったが中国にはいって神格化された(三国志の関羽も神にしてしまうお国柄)のためか?
しかし、後世に宗教として分化したさまざまなものは、その時代時代に合わせれば、適合しているようですが、シッダルタの解いたことは、そんなに変質する必要もないほど、基本的で根元的なものだと思いますが、いかがでしょうか?
 

補足日時:2001/12/26 23:26
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Q釈迦が菩提樹のしたで悟りをひらいた。

釈迦が菩提樹のしたで悟りをひらいたとき魔がおりてきて釈迦を苦しめて結局釈迦が魔に勝て悟りをひらいたときのストーリーをおしえてください。すいません。

Aベストアンサー

 
  そういう話は、釈迦牟尼の生涯について記された夥しい書物に載っていると思いますが。
 
  釈迦あるいはゴータマ・シッダールタは、四苦(生・病・老・死)を知り、世の無常より自己の救いを求めて、当時の著名な宗教指導者の元に弟子入りし、教えを学ぶのですが、間もなく、師匠を超えた境地に達することができ、しかし、それでも心の平安が得られないので、死を賭して苦行に入り、断食行を続けるのですが、骨と皮ばかりになって、苦行では、悟りは開けないと知りました。彼が山よりおりた処、確か、若い乙女がいて、彼女から乳粥を捧げられ、これを食した後、身を清め、ブッダガヤーの菩提樹の下で、瞑想に入り、この瞑想の過程で、以下の参考URLに簡単に記されているように、悪魔(マーラ)が、釈迦の悟りを妨害しようと、様々な「欲望」で誘惑します。
 
  このシーンは、丁度、イエズスが、荒野で苦行をした折り、サタンが現れ、わたしを拝めば世界の王にしてやるとか、高い崖から飛び降りても、神が受け止めてくれるだろうと、色々、世俗の欲望や力で誘惑し、イエズスの苦行を妨害したのに似ています。
 
  しかし、釈迦は静かに瞑想を続け、遂に、夜明け、金星の光が輝くと共に、「悟り」を開き、仏陀となり、釈迦族の聖者すなわち「釈迦牟尼」になります。
 
  悪魔(マーラ)は、釈迦の成道の妨害に失敗したものの、釈迦が悟りを開くや、その前に姿を現し、「「悟り」を開くという目的は達しられた、もはや、生きていることに未練もなければ、死ぬことに恐怖もないであろう、ただちに、入滅し、ニルヴァーナに入れ」と勧めます。釈迦は、このマーラの言葉にしばし納得しますが、しかし、ここで、泥のなかの蓮の花の話が出てくるのですが、この世には、いま少しのところで悟りへと到達できる者が少なからずいる。今、自分がニルヴァーナに入ることは簡単であるが、それでは、この悟りを開けるかも知れない者たちは、そのまま泥に沈んだまま、花を水面の上に咲かせることができない。いま少し生き、自分の悟ったことを、世の人に伝えてみようと考え直します。ここで釈迦の決意は定まり、マーラ(悪魔)は、釈迦から離れます。
 
  ……と、ここまでの過程が、釈迦の悟りと悪魔(マーラ)の妨害の戦いの話のはずです。釈迦が、悪魔の言葉に従い、あるいは、世の人には、自分の悟った真理は理解できないだろうと、隠遁してしまうと、釈迦は、独覚(プラティエーカ・ブッダ)ではあったでしょうが、仏教は生まれなかったことになります。
 
  また、この時のマーラ(悪魔)との対話が、「大涅槃経」に出てくる、マーラとの会話に続きます。
 
  マーラは、晩年の釈迦の前に姿を現し、「いま既に、汝は、教えを説き、多くの弟子たちが、アルハトとなった。汝の望みは実現した。されば、いまこそニルヴァーナに入れ」と、成道の時の会話の続きで、入滅を求めます。釈迦は、これに答えて、では、入滅しようと答えるのです(この過程で、アーナンダと会話して、「如来は望めばおのが寿命を長くすることができる云々」という話が出てきますが、釈迦の入滅は、悪魔との約束によるものだとも言えます)。
 
  悪魔(マーラ)とは、サンスクリット語ですが、これはラテン語における「悪 mala(malus, malum)」と同じ語根の言葉です。
 

参考URL:http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7710/771012.htm

 
  そういう話は、釈迦牟尼の生涯について記された夥しい書物に載っていると思いますが。
 
  釈迦あるいはゴータマ・シッダールタは、四苦(生・病・老・死)を知り、世の無常より自己の救いを求めて、当時の著名な宗教指導者の元に弟子入りし、教えを学ぶのですが、間もなく、師匠を超えた境地に達することができ、しかし、それでも心の平安が得られないので、死を賭して苦行に入り、断食行を続けるのですが、骨と皮ばかりになって、苦行では、悟りは開けないと知りました。彼が山よりおりた処、確か...続きを読む

Q仏教における小乗と大乗の違いとは?

仏教における小乗と大乗の違いとはどのようなものでしょうかという質問です。

釈尊の背中を見ていると、菩提樹下でお悟りを開くまでが小乗で、梵天勧請を受けて、伝道を開始して、弟子を増やし教化する段階が大乗のように見えますが、経典主義の方々には違った見方もあると思います。
回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

No.6(o`・ω・)ゞデシ!! 曹洞宗。

日蓮宗の分派ではないので、同じ大乗でも。

その点ははっきりね。

元々日蓮宗が壊れてしまったので(お金で徳を売っていたんですね)、

大乗と呼ばれるいろいろな宗派は、そこから出てくるわけでして。

曹洞宗の場合は、もちろん、ある程度の法華経は使います。

 #たくさんありまして、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」だったり。

 #通常、σ(・・*)が今もっているお経本(在家用)に二本しかないですね。

メイン経典としてではないんですよ。

曹洞宗は、修證義(しゅしょうぎ) の 2章から5章までの4章となっています。

これは後から変わったという方が正しいですが。

道元(高祖承陽大師)が書いた、「正法眼蔵」(しょうほうがんぞう)を

名前失念(広めるのに尽力された方)太祖承済大師が、漢文の読み下しに

されてあります。この一部です。


道元は悟られたんでしょう、多分ね。

ただそれは、お釈迦様と同じような悟りでしかなくて(!)、

法華経を理解する というような形ではないはずです。


一番最初の疑問にぶつかるのですが、

「即身是仏」って言いますね。 これはすなわち「みんな仏さんになれる」という発想ですね。

大乗では、仏の字を区別します。

佛 と 仏 です。

仏:輪廻の対象となる、ご先祖さんになる、霊体になる(?)こういう感じ。

佛:いわゆる仏様。阿弥陀様やお釈迦様、観音様などなど。悟りを開かれていて、

 ある程度の崇拝の対象となっていらっしゃる方々。

こういう風にはっきりと区別をします。


念仏を唱えることで、仏さんになれる。 佛ではないんですね。

小乗(上位)では、同じとみなすんですね。ここにも明白な違いです。

親鸞上人(浄土真宗)も、「南無阿弥陀仏」と唱えればいい。

と、おっしゃっていますけれど、浄土真宗はちょっと特殊でしょうかね。

 #これは感覚的なものだけど。

利他 という考えがあるのですが、自分のご利益を他人様に回す。

 #これは典型的に大乗です。 (No.1さんのに詳しいね)

これがあるので、どっちとも言いにくいような気もします。


これはまた曹洞宗に戻りますけれど、「修証一如」といいまして

修行を繰り返す(何度も輪廻して!)ことで、佛となる! と捉えます。

この辺がやはり違うかな?

即、ハイ極楽どうぞ~~!ではないんですね。

 #曹洞宗は「只管打座」とにかく座る。禅ですね。この繰り返し

八正道でも、「正見」などでは『自我観念を捨てよう』というようなやり方を取ります。

 #小乗(上位)は、ここにこだわりはそれほどありません。

その分、他人様のため! を先に考える・・・。

ここもちょこっとだけ違いますね。 No.1さんのが言い得て妙です。


南無妙法蓮華経を唱えることだったり、お布施をたくさんすることだったり、

信者をたくさん増やしたり、って言うことが、徳を積むようなことではないんですね。

 #少なくとも曹洞宗、空海さんは真言だっけ? は、こういうことはありません。


ちょっと余談ですが、般若心経はご存知かと。あれは膨大な量です。

とてもじゃないですが読めるような代物ではありません。

σ(・・*)たちが日ごろ諳んじたり(そらんじる:暗誦している)、見聞きしているのは、

ほんの一部です。

あれ観音様です。当然お釈迦様のお弟子さんですね。

「空」を説いてある。

いくつか佛教はありますが、般若心経を使わないところがほんのわずかだけあります。

 #実は浄土真宗もそうです。これは意味がちゃんとありまして・・

 #「南無阿弥陀仏」が全ての「とらわれ」をも消し去る。

 #「空」も理解しうる。と説いてあるからだそうです。

ほかの宗派は「空」を一体どう解釈してあるのか?疑問ですけどね。

大乗、小乗(上位)ともに、ほとんど使うのですがねぇ~。

すいません、長くなってしまいました。

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=) 南無釈迦牟尼佛(曹洞宗はこれです)

No.6(o`・ω・)ゞデシ!! 曹洞宗。

日蓮宗の分派ではないので、同じ大乗でも。

その点ははっきりね。

元々日蓮宗が壊れてしまったので(お金で徳を売っていたんですね)、

大乗と呼ばれるいろいろな宗派は、そこから出てくるわけでして。

曹洞宗の場合は、もちろん、ある程度の法華経は使います。

 #たくさんありまして、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」だったり。

 #通常、σ(・・*)が今もっているお経本(在家用)に二本しかないですね。

メイン経典としてではないんですよ。

曹洞宗は、修證...続きを読む

Q釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?

こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。

それから後ご存知の通り釈迦は成道し、(釈迦はこの時点で阿羅漢、有余涅槃であったと私は考えます)
そのまま喜びの中で無余涅槃に至ろうとした釈迦を、梵天は釈迦に法(ダルマ)を衆生に説くことを勧請し、その結果釈迦は仏陀として衆生に法を伝える身となった(応身)。この事を釈迦の慈悲、大悲と呼ぶ。

この考えでいくと、釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。

 天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。で、大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。

長くなりましたが、私が感じていることを踏まえて頂いた上で、質問に回答して下さればとても助かります。宜しくお願いします。

こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行...続きを読む

Aベストアンサー

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。
>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
 菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、全ての菩薩の共通する願いでもあります。
1、衆生無辺誓願度・地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するぞ
2、煩悩無量誓願断・煩悩は無量だが、すべて断つぞ
3、法門無尽誓願智・法門は無尽だが、すべて知るぞ
4、仏道無上誓願・成仏の道は無上だが、かならず成仏するぞ
というものです。1の誓願は利他、残りの234は自利行ということになるでしょう。大乗では1を重視しますが、234もちゃんとありますからね。他者の救済でも、自分自身の悩みの解決でも、何を機縁に仏を目指すかは人それぞれで良いんじゃないですか??後に出来た伝説かと思いますが、ナンダは「天女を奥さんにしたい」っていう理由で仏門に入って、悟りを開いてしまいますからね。もちろん仏道修行の最中に心は改めますけどね。

>>釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。
 私もそのように思いますよ。お釈迦様は菩提樹の下で成道されました。そして、この悟りを誰にも説かずに悟りの境地を楽しみながら、入滅してしまおうとお考えになっていました。そこへ、梵天という神様が現れお釈迦様にその悟りの境地を皆に説いてくださいと頼まれます。そうした梵天の頼みによって、お釈迦様は五比丘の元へ向い初転法輪(初めての説教)となるわけです。
 この梵天勧請のお話をお釈迦様の心の中の葛藤としてしまえばそれまでですが、出来上がった説話だけ見てみると、お釈迦様としては成道してすぐには悟りの境地を人に説くという事は考えてにはいっていません。ということは釈迦様の「悟り」の境地には、他者に教えを説く、もしくは他者を救済するという要素は含まれていないことになります。
 しかし、梵天勧請によってお釈迦様の中に「悟り」とはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。それを仏教的に言えば「慈悲」や「大悲」と表現するものといえるでしょう。梵天勧請以後のお釈迦様の中には「悟り」と「慈悲」という二つの異なった理念をもって行動されます。しかし、結果を見てみれば「悟り」と「慈悲」は異なる境地であるかもしれませんが、そこに矛盾がなかったからこそお釈迦様はそれを一生涯続けることが出来たとも考えられます。

 確かに梵天勧請以前のお釈迦様は菩薩というより阿羅漢というニュアンスのほうが強いですね。ただ、それも阿羅漢・菩薩という言葉の問題も出てきます。言葉の原意から言えば、阿羅漢は当時のインド宗教一般としては「尊敬されるべき修行者」をさしてようですし、菩薩はbodhi-sattvaの訳語ですから、bodhiは悟り、sattvaは衆生、両語を結合して「悟りを求める人々」となります。こうなると、阿羅漢も菩薩も同じような気もしますしね。

>>天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。
 「天上天下唯我独尊」この言葉は中村元先生に言わせれば「この詩句は人間性の尊厳を言い表わしたものだと解する」のだそうです。「三界皆苦我当安之」という後半部分は、経典によって若干の異なりがありますが、『修行本起経』のこの文句は、自己の正覚と衆生の救済の二つをあらわしていて、「唯我独尊」を一人ひとりが尊いという意味で捕らえるときの根拠となるわけですね。私はこの言葉は何の根拠も無く作られた説話ではなく、成道後のお釈迦様の言葉や行動を基に作られたのではないかと考えています。

>>大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。
 この大乗と上座部(小乗)の違いはそこなんでしょうね。上座部は成道前のお釈迦様をモデルとして修行に励む。大乗は成道後のお釈迦様をモデルに修行に励む。ということになるのでしょう。
 個人的な意見としましては、お釈迦様自身は「悟り」と「慈悲」の二重構造を持っており、それを修行中の者が自分の「悟り」をそこそこに「慈悲」を持って他者の悟りへ介入するというのは難しいように思います。観音菩薩や文殊菩薩のような仏と同等クラスの力があれば別ですけどね。
 また、大乗仏教の中でも「悟り」と「慈悲」を二重構造として扱っているものも出てきます。代表的なのは日本浄土教の考えです。そのなかでも特に親鸞聖人に顕著に見られます。『歎異抄』第五条には
「親鸞は父母の孝養ためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」(わたしは父母の追善供養のために念仏したことは一度もない)
というのです。その理由を「そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と説いています。私たちは自分の作り出した業によって苦しみの世界から逃れられず生まれ変わり死に変わりしているという、輪廻思想は古代インドの思想から受け継がれた仏教の生命観ですが、親鸞は『歎異抄』のなかでしか輪廻の思想については語っておられない。しかし輪廻があるとすれば、あらゆる生物はいつの世にか父母兄弟であった身であったはずです。親鸞は自分の力で仏事を行った善をもって父母を助けようなどという自力の心を捨てて、まずは極楽往生をし阿弥陀仏の指導を受け自分自身が悟りを開きてのちに、父母を救うべきであると説かれています。
 お釈迦様の場合とは形は違いますが、他者を救済するよりまずは自分自身の悟りを目指すべきであると説かれています。この極楽浄土に往生し成道して(往相廻向)、後に慈悲を持って衆生を救済する(還相回向)という、「悟り」自分の悟りと「慈悲」他者の救済ををはっきり分割したスタイルが説かれています。

 思ったことをつらつら述べさせてただきましたが、まとめきれず申し訳ないです。文意を読み取っていただきたく思います。
 合掌 南無阿弥陀佛

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。
>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
 菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、...続きを読む

Q小乗よりも大乗が良い

 
小乗と大乗を人を救う船に例えてみよー。

すると小乗は一人乗りの手こぎ船に過ぎず、大乗は大勢の人を乗せる大型船となる。

どちらがより多くの人を救えるかは明らかであろー。

やはり親鸞の教えが日蓮の教えに勝っておるのは自明ではないのか。
 

Aベストアンサー

基本的に、コントロールできるのは、自分自身だけです。
救われるのではなく、自分が自分自身を救うのです。
外からの手助けを受け入れるのは可能ですが、あくまで、主体は自分です。

人が他人の魂をコントロールできると考えた時点で、既に、独善と傲慢に陥っていると言えます。
また、実際に洗脳によって他人を強引にコントロールし始めると、それはカルトと呼ばれます。
コントロールされた人は、コントロールされたが故に、自分が本当に自分自身を救うための機会と自由意思を奪われてしまいます。
宗教が他人の心を救おうと考えた時点で、その萌芽が既に内包されています。

衆生を救済しようという動機は正しいようですが、人間の現実からすると、自らの欲望のために他人をコントロールしようとする輩に宗教が利用されています。
宗教論争は、そのためのパフォーマンスの場と成り下がっているため、不毛なのです。

あなたの様に、純粋に論争だけしようという人ばかりではありません。

尚、アルケー神が、言葉通り「万物の根源」の神であるとすれば、私もアルケー神を信じています。
あなたがアルケー神に、ある一定の宗教色を付けていなければ良いのですが。

基本的に、コントロールできるのは、自分自身だけです。
救われるのではなく、自分が自分自身を救うのです。
外からの手助けを受け入れるのは可能ですが、あくまで、主体は自分です。

人が他人の魂をコントロールできると考えた時点で、既に、独善と傲慢に陥っていると言えます。
また、実際に洗脳によって他人を強引にコントロールし始めると、それはカルトと呼ばれます。
コントロールされた人は、コントロールされたが故に、自分が本当に自分自身を救うための機会と自由意思を奪われてしまいます。
宗教が他人...続きを読む

Q釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来

如来というのは仏のことですよね。
仏教を開いたのはお釈迦様(ゴータマシッダルタ)と聞いていますが、
その人物が釈迦如来ですか?
釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来は別人ですよね。
しかし同じ境地に達した人なのでしょうか?
時代的に言うと3人の前後関係はどうなっているのでしょう?
お釈迦様が仏教を開いたのに、3人は同格なのでしょうか?
お釈迦様は仏教で最高位ではないのですか?

これらのことについて全くわからず、少し調べてみたのですが難しくてよくわかりません。
わかりやすく教えていただけたらうれしいです。

Aベストアンサー

ANo.1です。

>ということは、観音様や~菩薩というのも実在した人物というわけではないのでしょうか?

そうですね。実在した「菩薩」は、修行時代のお釈迦さまだけで、観音菩薩も地蔵菩薩も、実在の人物ではありません。
「行基菩薩」など、実在の高僧が“生き神様”みたいな意味で、「~菩薩」と呼ばれたりすることはありますが、お寺などで「○○菩薩」としてお像が祀られているような菩薩、経典に書かれているような菩薩は、皆フィクションです。

観音菩薩を初め菩薩方は、薬師如来や阿弥陀如来よりも、さらに我々衆生に近い存在として描かれています。
お悟りを開かれた最高の存在である仏さまよりは、まだ修行中の身である菩薩さまの方が、衆生に近い存在、親しみやすい存在ということです。
社長に直接お願いするよりは、営業の社員にお願いした方が、取引がスムーズにいく……こんな譬えをすると、また宗教家の方からは怒られるかもしれませんが、そういったイメージだと思います。

Q小乗仏教と大乗仏教

小乗仏教と大乗仏教ついて、他の資料や、既出の質問と回答などは読みました。
ちょっと詳しすぎて、長文すぎて、分かったような分からないような、分かったような?

ほんの、ポイントを1つだけでいいのです。
「小乗仏教は、おのれの内側から悟るもの、大乗仏教は“ご利益がありますように”の他力本願。」
これ正解ですか?

Aベストアンサー

小乗とは小さな乗り物。自分のみ悟ればそれでよし。
大乗とは大きな乗り物。自分の悟りを他者にも分け与えようとするものです。
故に自行化他、自利利他の教えと言われる所以です。

Q仏と釈迦の違いは?

おもしろ語源に関するエピソードで、わからないことがありました。「物が壊れたとき、ダメになった時に「おしゃか」「おしゃかになった」と言いますが、これは昔「仏様を作ってくれ」と頼んだのに出来上がったものはお釈迦様だったため、「お釈迦じゃねーか」と言ったのが語源だとか。」

仏と釈迦の違いはなんですか?

Aベストアンサー

同じものです。
というより仏の中にお釈迦様が含まれます。

まず「釈迦」というのは仏教の開祖というガウタマ・シッダールタがシャーキヤ族であったため、シャーキヤ→釈迦と変化してガウタマさんの呼び名となりました(釈迦牟尼、略して釈迦。牟尼は聖者なので「シャーキヤ族の聖者」という意味です)。

仏は仏陀、「悟りを得た者」という意味です。

だから釈迦牟尼=仏陀、つまり釈迦=仏です。

その後仏教が変質していくと仏の概念も変質して、悟った人間というより信仰の対象としての神のような存在に変わります。
不動明王、観音菩薩、薬師如来などなど様々な仏の中に、「釈迦如来」という仏がいます。ガウタマが神格化された仏様です(仏に神格化というのも変な話ですが他にいい言葉が見つかりませんでした)。
つまり仏の中のひとつに釈迦がいる、ということです。
仏と釈迦は別物ではありません。

ちなみに広辞苑「お釈迦」には
>地蔵や阿弥陀の像を鋳るのに誤って釈迦像を鋳てしまったことからという
と書いてありますので、お釈迦さまと仏を別物としたのは、その回答者さんのミスだろうと思います。

同じものです。
というより仏の中にお釈迦様が含まれます。

まず「釈迦」というのは仏教の開祖というガウタマ・シッダールタがシャーキヤ族であったため、シャーキヤ→釈迦と変化してガウタマさんの呼び名となりました(釈迦牟尼、略して釈迦。牟尼は聖者なので「シャーキヤ族の聖者」という意味です)。

仏は仏陀、「悟りを得た者」という意味です。

だから釈迦牟尼=仏陀、つまり釈迦=仏です。

その後仏教が変質していくと仏の概念も変質して、悟った人間というより信仰の対象としての神のような存...続きを読む

Q大乗・小乗仏教について確認させてください

小乗仏教⇒ 無神論 ・ 釈迦の直接の教え(間違いない)

大乗仏教⇒ 有神論的 ・ 釈迦の教えを何百年かけて弟子達がまとめた/理論付けた。
だから釈迦の教えではないかもしれない(というか実際矛盾がある)
しかし釈迦は大乗についてノーコメントなので絶対違うとも正しいとも分からない。

↑合っていますか?


大乗仏教の図式は、大宇宙に釈迦と同等の仏様(大日、ビルシャナ、薬師)、それらの師匠の阿弥陀様がいる。その他に仏様を助ける菩薩様が大勢。すべて信仰対象。

↑これも合っていますか?


大乗非仏説というのがありますが、釈迦が説いたものではないという証拠がもし見つかった場合、例えば奈良の大仏(ビルシャナ仏)は仏教と無関係の単なる作り物になってしまうのでしょうか?


仏教はもともと生きるための知恵だったようですが、僧侶が権力を持つための道具になってしまい、
人々の自己満足と宗教団体の共存という図式ができあがり、今でもその風習が残っている、
そのようにも思えましたがどうなのでしょうか。お寺の存在自体も分からなくなってしまいました。

Aベストアンサー

お釈迦さまは教えを文字として残しませんでしたから、そういう意味ではすべて「弟子」というフィルターを通したものです。

その中でも、質問者さんのおっしゃる「小乗仏教」は、直接お釈迦さまから教えを聞いた直弟子たちが“会議”を開いて、「私はこう聞いた、これで間違いないか」「間違いない」……という具合にいちいち確認して編纂され、残されたものです。
ですから、一番、お釈迦さまの教えに近いとされています。

しかし、先に書いたように、弟子のフィルターを通しているわけですから、お釈迦さまの真実が伝えられているかどうか?
……と問題にする人はあまりいませんが、極論すれば「小乗仏教」すら「非仏説」と言えるかもしれません。

「大乗仏教」は、お釈迦さまの下で修行する人たちの「小乗仏教」では救いとれない大衆に向けて、お釈迦さまの教えのエッセンスを交えて、分かりやすく説き直したものです。
人間は千差万別ですので、Aさんに教えたものがBさんにも理解できるとは限らないので、いろんな人に向けて様々な形で(方便として)経典が作成されていきました。

それが「仏教ではない」と非難する人がいるのも事実です。
実際、お釈迦さまの教えとはかけ離れてしまっているものが多いのですが、では全く仏教ではないか?と問われたら、完全否定してしまえるものでもないのでは……ということで、現在も「大乗仏教」という形で残っているわけです。

「大乗仏教」はお釈迦さまの没後、何百年も後に生まれたものですから、そもそもお釈迦さまご本人は何のコメントもしようがないので、後代の(凡夫である)我々が、「あーでもない」「こーでもない」と言っているだけです。


>大乗仏教の図式は、大宇宙に釈迦と同等の仏様(大日、ビルシャナ、薬師)、それらの師匠の阿弥陀様がいる。その他に仏様を助ける菩薩様が大勢。すべて信仰対象。

これは宗派によって考え方が違います。
書くと長くなるので省略しますが、三身(法身・報身・応身)をお調べになれば分かると思います。
それでも阿弥陀さまを信仰する宗派でも、「大宇宙に釈迦と同等の仏様(大日、ビルシャナ、薬師)、それらの師匠の阿弥陀様がいる」という考え方はしていないと思います(専門家ではないので断定はできませんが)。

どちらかと言えば、「大日(毘盧遮那仏)」がお釈迦さまやらお薬師さん、阿弥陀さまの上に君臨する(という言い方はよくないですが)形と捉えるのが一般的です。

いずれにしろ、「大乗仏教」は、お釈迦さまが直接説いたものではありません。これは純然たる事実ですから、今更「証拠が見つかったら」ということはありません(誰もそんなものを探していないので)。実際にお釈迦さまは「阿弥陀さま」やら「毘盧遮那仏」について言及していないのですから、「大乗非仏教説」はうなずける部分があります。

しかしお釈迦さまの教えの「エッセンス」を拡大解釈し、独自の宇宙観・世界観やら土着の民間宗教などの要素を付加して、大衆に分かりやすく説き直したもの……であると言われていますので、そういう意味では完全否定してしまうのはどうかなあと、個人的には思います。

お釈迦さまは教えを文字として残しませんでしたから、そういう意味ではすべて「弟子」というフィルターを通したものです。

その中でも、質問者さんのおっしゃる「小乗仏教」は、直接お釈迦さまから教えを聞いた直弟子たちが“会議”を開いて、「私はこう聞いた、これで間違いないか」「間違いない」……という具合にいちいち確認して編纂され、残されたものです。
ですから、一番、お釈迦さまの教えに近いとされています。

しかし、先に書いたように、弟子のフィルターを通しているわけですから、お釈迦さまの真実が...続きを読む

Qお釈迦さまの人生

1.)
お釈迦さんの人生は、どういう経典に書かれていますか。

2.)
その経典は、お釈迦さんが亡くなってから、
何年ぐらいたってから出来ましたか。

3.)
何百年も後になってから出来た経典は、
実在のお釈迦さんについての、信用できる記述でしょうか。

4.)
お釈迦さんは王子さんで、16才で結婚して子供を設けてから、家出して、宗教に凝ったことになっていますが、そのような、お釈迦さんの身元や履歴をはっきりさせる記述の信憑性は、どれくらいでしょうか。捏造することもできますし、何百年も後になると、捏造しても、その真偽は確かめようがありません。新興宗教の教祖の身元や出自は、現代でも嘘っぽいのが多いのですが、お釈迦さんの出身は、事実でしょうか。


以上の疑問は、歴史的事実と、神話的伝承との区別が、お釈迦さんの人生について、どこまで可能なのかという疑問です。(歴史のカテゴリーかもしれません。宗教がありませんでしたので、哲学にしました)
 

Aベストアンサー

こんばんは。。

 原典をきちんと読んでいるわけではないので、かなり頼りない説明にしかならないと思いますが・・・

1)について。
 阿含経典類と呼ばれる最初期の経典に、釈尊の教えが記されていたり、当時の地名などが記されていたりします。
 まとまった仏伝で古いものは、「マハーヴァスツ」(律蔵大品)に記されているものだとされています。

2)について。
 #1のご回答にもありますが、最も古い経典でも、仏滅後100年くらいしてからだとされています。

3)について。
 最も古い経典でも、釈尊の教えをリアルタイムで伝えたものではありません。しかしながら、バラモン教の聖職者がヴェーダ聖典を暗誦していたのと同様に、釈尊の教えの主要部分は、かなり早くからある程度詩文化されて、口伝えされていたのではないかと思います。
 もちろんその中でも、すでに演出や誇張など脚本化(?)された部分もあるでしょうが、骨子になる部分は実際の状況を基にしているのではないかと思います。(そのためか、初期の経典では問答形式になっていたり、口語的な表現になっている部分が多く、後の時代の経典とは感じがかなり異なります。)

4)について。
 釈尊が何人種なのか、王子か部族長の息子か執政官の息子か、という点は100%確定したわけではなかったかと思いますが(←少なくともクシャトリア階級ではあるのだろうとされていますが)、仏伝の大雑把な流れは、信憑性は高いものとされています。
 インド人は物事を記録するという意識に薄かったようで、古代インドの様子はなかなかわかりくいらしいですが、経典に記される国の名前や地名などは確度の高いものとされています。釈尊が生まれ育ったカピラヴァスッツも位置が推定されているそうです。

 もちろん、釈尊が腋の下から生まれたとか、生まれてすぐに歩いたとか、さすがにそれは誰が見ても演出だろうという部分ですし、城の四方向の門から出かけ、それぞれの機会に老・病・死と求道者に接するというのは、出来過ぎた(誰かが脚色した)話でしょうけれど・・・少なくとも、実在した貴族階級の一人物が、世のあり様に思い悩み、妻も子供も自らの義務も責任も捨てて出奔し、後に釈迦族出身の聖者と呼ばれるようになり、その人物は80才まで生きて人々を教え導いた、というのは本当でしょう。
 そして、(#1の方も触れているように、前世譚などは除いて考えた方がよいと思いますが)伝説めいた話のなかにも、何らかの事実を指し示しているものもあると思います。

 わかりにくい話ですみませんです。では。
 

 

こんばんは。。

 原典をきちんと読んでいるわけではないので、かなり頼りない説明にしかならないと思いますが・・・

1)について。
 阿含経典類と呼ばれる最初期の経典に、釈尊の教えが記されていたり、当時の地名などが記されていたりします。
 まとまった仏伝で古いものは、「マハーヴァスツ」(律蔵大品)に記されているものだとされています。

2)について。
 #1のご回答にもありますが、最も古い経典でも、仏滅後100年くらいしてからだとされています。

3)について。
 最も古...続きを読む

Q【宗教の教祖】イエスキリストやブッダなど宗教の教祖たちは若い頃に悩みは無かったのでしょうか?教典

【宗教の教祖】イエスキリストやブッダなど宗教の教祖たちは若い頃に悩みは無かったのでしょうか?

教典や昔の資料に教祖が悩みを打ち明けているシーンはないのですか?

教祖たちの幼少期?若いときの悩みが知りたいです。

別に新興宗教でも良いです。教祖の悩みが知りたいです。

Aベストアンサー

ブッダは出家する時に、かなりなやんだそうです。参・手塚治虫氏の「ブッタ」


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