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日本の領土として確定(?)したのでしょうか。

日本史に疎くて申し訳ないんですが、たしか征夷大将軍が東北を征服しようとして領土を拡張していったんですよ、、ね?
で、北海道(蝦夷)はいつから日本の領土として編入されてのでしょうか。
ロシアなど周辺国家の反発はなかったのでしょうか。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (4件)

>日本の領土として確定(?)したのでしょうか。



 領土としての確定というのは非常に
難しいところですが、16世紀の秀吉の
時代と言っていいと思います。

 北海道はもともとアイヌ民族の土地で、
鎌倉(11世紀くらい)幕府が奥州(東北地方)
を制圧していくなかで、敗れた藤原氏の残党が
北海道にわったたとされおり、文書で残るもの
としては鎌倉時代の吾妻鏡という本に、蝦夷の地に
山賊や盗賊を島流しにしたという記録が最初だと
思います。
 アイヌ民族に対して、本土から渡った人たちを
和人といいますが、その後も、海洋交易をやっていた商人が流れ着いて住み着くなど、和人の定着が進みました。

 和人が少ないうちは、アイヌと和人の共栄の時代が続いていたんです。

 和人はアイヌ人が持っていない鉄を作る技術を
もっており、これは重宝がられたため、和人の
鍛冶屋が蝦夷に多く移り住みましたが、金勘定に
弱いアイヌ人を和人がだますなど、和人の悪行が
目立ちはじめました。

 15世紀に、和人の鍛冶屋がアイヌ人の
子供を殺すという事件があり、それまで
たまっていた不満から、アイヌ人対和人の
コシャマイン戦争というのが勃発し、
そこから和人とアイヌ人の小競り合いが
続いていました。

 16世紀に秀吉が織田信長に代わって
全国統一を進めるなか、秀吉に命を受けた
前田利家(漢字違ってるかもしれません)らが
奥州(東北地方)の検地(土地の持ち主や
お米の石高の調査)にやってきていました。

 このとき蝦夷の和人の中心的立場にあった
蛎崎(かきざき)義広(これも字が違ってるかも)
という人物がわざわざ今の秋田県付近まで来て
前田利家と面会したんです。

 これをきっかけに、交流が進み、蛎崎義広は
秀吉から独立の蝦夷島主と認めるという朱印状を
受け取りました。

 蝦夷に帰った蛎崎は、その朱印状をアイヌ語で
アイヌ人に読み聞かせ、私にそむけば、秀吉様が
大群を率いてやって来ると言ったと言われています。
(これでアイヌ人の人たちが納得したのかが不明ですが)

 日本の政治の中心的人物が、文書で明確に
蝦夷統治を認めたのはこれが最初と思いますから、
これが日本領土確定としてもいいのでしょう。

 

 
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりすみません。

ふむふむ、、とっても参考になりました!
コシャマイン戦争、、
こんな争いがあったなんてとてもびっくりしました。
今まで知らなかったことが本当恥ずかしいです。。
調べてみましたら、他にも大きな争いをしてるんですね。

なんとなく、近隣の統一国家(日本幕府)にむりやり入れられた感がしますね。

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2006/01/24 22:17

蝦夷とは、えぞ、えみしなどといいますが


蝦夷という言葉は本来、「朝廷の直轄支配地の外の人達」という意味
もともと直轄支配地にいた人でも、政府の力の及ばない東北の地に移住すれば、その人も蝦夷になります。
例えば北海道の地に住む「アイヌ」と日本人は、人種が違うなどといってきましたが、そうではないのです。と工藤先生は説明されています。
かつて「蝦夷」と呼ばれた東北・北海道地方の人々と、朝廷との歴史についてくわしい
福島大学の工藤雅樹名誉教授によると
進出したのは、およそ6世紀~8世紀
当初は、交易の目的だったようです
領土支配のためではなかったようです。
奈良~平安時代は、蝦夷地へと派遣された
東北に派遣された地方長官だけは、通常の任務に加えて、政府の力を蝦夷の地域に浸透させるという特別な役割が与えられていたようです。
蝦夷地に築かれた城は、戦闘の城ということではなく
城柵として、地域の物産を集めて、都に送る
集約施設だったようです。
やがて、蝦夷の人々同士でも朝廷と仲良くしたくない
人々もあり、内輪もめとなり、朝廷は仲良くしたい人々を応援し称号を与えたりして、内輪もめは次第に大きな戦いとなっていったようです。
そして蝦夷の英雄アテルイ、蝦夷地を平定した征夷大将軍・坂上田村麻呂といった人々が登場します。
その頃、朝廷も蝦夷平定に莫大な予算をつぎ込んでいます。
先生のお話がここにあります
http://www.athome.co.jp/academy/japanese_history …


詳しいサイト
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C059R100.HTM
ちなみに
蘇我蝦夷っていうのは、歴史書に書かれていますが
蝦夷というのは、反逆した人ということで、のちにつけられた勝手な名称であるようですね
馬子とか、入鹿とか、高貴な立場にあった権力者一族とは思えぬような名前ですよね
これらは、大王に逆らい支配しようとしたために
呼ばれてしまったようです。
「北方領土」が歴史の表舞台に登場したのは、意外にも大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川幕府が天下を平定した元和元(1615)年に遡ります。
江戸時代の松前藩と北方領土
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_ …

↑当時、結構ロシア人が、わが北方領土を襲撃していたようですね、年表にまとめられています

千島南部/ロシア・日本関連年表
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/ …
1482年 夷千島王(えぞがちしまおう)、朝鮮へ使いを送る。
注)夷千島王:北海道を治めていた政治勢力と思われる といった記録がありますね
8世紀末 坂上田村麻呂、東北地方のアイヌ征伐開始
鎌倉時代~室町時代ごろ 和人、函館~江差の海岸線付近地域に進出
(17世紀半ばごろまでは、これ以遠の和人の進出はない
1443年 安東盛季が南部氏に破れ、津軽十三湊を放棄し、蝦夷島に逃げ渡る。この後、多数の豪族が渡来、和人の本格的な北海道移住始まる。
1551年 蠣崎氏、「夷狄の商舶往還の法度」を公布して天の川―知内川間の地を和人専用の地 (和人地) とする。
1552年 イワン4世(雷帝)カザン攻略
この時から、ロシアのシベリア進出が始まる
1585年 西シベリアのシビル・ハン国、ロシア人ストロガーノフらにより滅亡
1599年 蛎崎氏、松前氏へ改姓
1604年 幕府(徳川家康)、松前藩主に北海道での交易の独占権を与える。この後、松前藩は「場所請負人」を通したアイヌの間接支配を広げてゆく。
1635年 松前藩士、サハリン島(樺太)上陸
1639年 幕府、鎖国令
詳しくは、前記したサイトをご覧ください

日本人による開拓の歴史
http://www8.cao.go.jp/hoppo/hoppo/hoppo4.html

 1635年(寛永12年)、北海道を支配していた松前藩は、北海道全島および千島、樺太を含む蝦夷(えぞ)地方の調査を行いました。1644年(正保元年)の幕命により諸藩から提出された国絵図に基づいて、幕府が作成した日本総図(いわゆる「正保御国絵図」)には、「くなしり、えとほろ、うるふ」などの島名がはっきり記載されています。
 ロシア人が初めて得撫(うるっぷ)島に来て、長期滞在して越年したのは、1766年(明和3年)ですが、住民の反抗にあって翌年帰国しています。
 その後、ロシア人は再々この方面に進出して、住民との間に衝突が絶えない状況でした。

むかしからこういった争いがあるので、いまさら
ロシアは、北方領土返したくないですよね
とても、温暖で豊かな島ですから
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりすみません。

とっても詳しくご説明くださり、本当にありがとうございました!
ふとした疑問から、今まであまり考えてみることのなかったアイヌと日本の関係まで理解でき、質問してよかったと思いました。
URLも読ませていただき、とても参考になりました。

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2006/01/24 22:21

> 征夷大将軍が東北を征服しようとして領土を拡張していったんですよね?



その通りです。坂上田村麿などが有名ですよね。

> で、北海道(蝦夷)はいつから日本の領土として編入されてのでしょうか。

大体江戸時代後期から明治初期だと思って良いと思います。
江戸時代まではアイヌ民族が住んでいました。ただ、アイヌ民族には統一的な政権は存在せず、ネイティブアメリカンのような部族毎の集団として生活していました。
江戸時代の遅くとも中期以降には松前藩の支配下にありました。丁度薩摩藩における琉球のような地位で、日本の領土としてカウントして良いと思います。
例えば「おろしゃ国酔夢譚」の大黒屋光太夫はロシア船で帰国当初根室に到達しますが、この地の役人の指示により函館へ送られています。

> ロシアなど周辺国家の反発はなかったのでしょうか。

江戸時代中期頃まではロシアはこの地区にまだ到達していませんので、特に反発はありませんでした。
また、明治時代は武力の時代なので、文句があったら「攻めてこられる」可能性が高かったです。その為に屯田兵が多数北海道に配置されました。
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりすみません。

北海道のアイヌが北海道を統一していたのか、部族集団だったのかも疑問に思っていましたが、よく分かりました。
松前藩についても参考になりました。ネットで調べてみました。

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2006/01/24 22:12

正式に北海道が日本の領土と確定した時期は明治になってからです。


奈良、平安時代の征夷大将軍の頃に征服した蝦夷は東北地方に住んでいた人たちです。もちろん北海道にもいましたが、征夷大将軍の遠征の対象ではありませんでした。そうやって征服された地域は今の秋田・岩手までです。
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりすみません。

明治になってからですか、分かりました。

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2006/01/24 22:09

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