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マタイ福音書5章3節~10節において、イエスは『貧しい人々の幸い』を語っていますが、
イエスが語ろうとしたその内容とはどういったことだったんでしょうか。
それから私たちはどういうことを学べるのでしょうか。

A 回答 (6件)

私たちの貧しいという基準はお金であり、物を基準として見ていますよね?


そうではなく心というものが基準という事
そして信仰というのはなんでしょうか?
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです

今幸せな人はというのではなく、今は貧しくても
信じることによって幸いになる。こんな感じで考えても差し支えないと思います。

信仰というのは希望という光を与えるものですね
http://www.e-study.gr.jp/e-bible/fukuin01.htm

参考URL:http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/kowa/mes128lawgo …
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私はプロテスタントの教職者です。


旧約・新約聖書の究極のテーマ、フォーカスは、
神と人との永遠の和解だと私は考えます。
約1600年かけて書かれた、壮大な神からの
ラブレターとも言えるでしょう。
もっと簡単なたとえは、家出した息子(=私たち一人一人)に
神である父親が「帰って来なさい。」と招いているという事です。
(どうぞルカの福音書15章11節~32節をご覧下さい。)

しかし人には神と永遠の関係を回復する事よりも、
この世の富、快楽、成功など一時的なものに目を
奪われ、神に対して無関心になってしまう弱さが
あると聖書は語っています。

マタイの福音書19章16節~26節には、
その典型的な記録があります。

ここでは金持ちの人が、イエスに永遠のいのちを
得る方法を尋ねます。
イエスは旧約聖書の十戒をメインにして、人との
正しい関係を築く事を教えられました。
自己中心である(=罪を持っている)私たちには
神の持っておられる聖なる基準には、到底到達で
きないのですが、この人は「完全に神を満足させ
ている、律法を守っている。」と答えます。
そしてイエスはこの人の完全でない部分、神より
もお金に執着している事を明らかにし、それを捨
てる様に言われました。その上で私について来な
さいと。
しかしこの人はそれができず悲しみながら、
立ち去りました。

そしてイエスは驚くべき発言をされました。(以下)

 それから、イエスは弟子たちに言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
 金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。
 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。
「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
 イエスは彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことです。
 しかし、神にはどんなことでもできます。」

・・・つまり、この世的なもので満足してしまっている人よりも、
「何かがおかしい。」「何かが足りない。」と感じ、
「自分は到底、神の基準を満たせない者です。」
「神のあわれみによってしか、私は生き得ない者です。」と
へりくだっている人の幸いを、
ご質問の箇所では語っていると思います。
(端的に申しますと、自分が神に対して罪人であるとの自覚のある人。)

そして全ては神との関係で成されるので、
幸いなのです。
その人には神が訪れて下さり、神に慰められ、
神によって地を相続し、神によって義に満ち足り、
神によってあわれみを受け、神を見、
神によって神の子と呼ばれます。(ヨハネの福音書1章12節参照)

逆に「自分は当然救われる。(死後、神の国に入れる。)神の義を満たしている者だから。」
と高ぶっている人(当時の宗教指導者たちや聖書学者たち)に、
「行ないによっては、人は神の国には入れない。」と
いう事を、イエスははっきりと教えています。
マタイ5章21節以降に書かれている様な基準は、
明らかに誰一人として満たす事はできません。

聖なる神への違反の代償は「死」なのですが、
それを神の子イエスが身代わりに払い
帳消しにして下さった、今や誰でもイエス
を信じる事によって神と永遠の和解ができる
という事が、福音=よい知らせなのです。

へりくだる者、自分の罪を自覚する者の幸いは
ルカの福音書18章の10節~14節にもあります。
短い箇所ですので、ぜひご覧になって下さい。
きっとご質問箇所の「心の貧しい者。」という事が
具体的にどんな人であるのかお分かりになると思います。

学べる事は、この世界、人からの満たしを求める
のではなく、全知全能、全被造物の創造者である
神からの満たしを求める大切さと幸いだと思います。
「人に期待しそこから満足を得る生き方か、
 神に期待しそこから満足を得る生き方か。」
 とも言えるでしょう。
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マタイとルカ 両方に書かれていますが、内容は違います。



聖書作家の思想に違いかもしれません。

マタイの方は「心の貧しい人々は幸いです」

ルカの方は「貧しい人は幸いです」

マタイは心が狭い とか さもしい とか 器が小さい など、性格面を述べていると思います。

ルカのほうは、物質的に豊かではない人を指しているように思います。

他の箇所で、正確には覚えていませんが、弟子が「既に善の人」か「既に幸福の人」はどうなるのか みたいな事を聞いたと思います。

イエスにとって興味の無い人たちのようです。

器になみなみ入っていたら、もうそれ以上 神の愛は入らない もらえない みたいな意味なんじゃないでしょうか。

そうではなく、空っぽなら神からいっぱいもらえる。

だから幸いだってことなんじゃないでしょうか。

満ちている人には神の関心はない。

だから貧しい人は神から関心を持たれ、沢山注がれても受け取る余地があるから、幸せな人たちだ ってことなんじゃないかと。
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有名な「山上の説教」ですよね。


キリストがここで言わんとしていることは、キリスト
教の根源です。
ルカの6章19~25も同じです。そこでの説教の時
私達に「主の祈り」を教えてくださいました。

一般に物質的にも貧しく精神的にも金銭の富を求めな
い人と聖書には解釈されています。ホリエモンの反
対。
私達が生きるうえで、心を清く人のために仕合せを
願える人になりなさいと言うことだと思います。
これって一番難しいです。
私も自分でそう思います。嫉妬が一番怖い。
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イエスが生きていた当時たくさんあった修行型の宗教グループは、「敷居が高い」のが特徴です。

ユダヤ教にしろ、修行集団にしろ、あれもしろ、これもしろ、と言われたらしょげますよね。それに対してイエスの説く宗教は、「あなたがたは欠点だらけだからこそ、よい!」と言っているようなものです。無条件の愛を約束されて、その上、あなたは欠点だらけでも、不足していても、虐げられていてもよい。ただ神を信じさえすれば。流行の語り口で言えば、イエスの八福は「皆さん神を信じてくださいよ、すこしくらい欠点あってもバッチコーイ!オッケーイ!」といった感じでしょうか。
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「ポジティブシンキング」プラス思考、希望をもって前向きに生きることを教えておられます。

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