さて?このカテゴリーにするかテレビにするか迷ったんですが・・・

先日のTV番組「奇跡体験アンビリーバボー」でまたまた陰陽師ものをやってました。その中で女性に憑いていた霊が
「江戸時代の幕府に仕える剣術指南のお家柄のお姫様。父親が謀反の疑いをかけられて同族に夜討ちをかけられて家族全員(犬まで)惨死。その夜討ちをかけた同族の子孫に祟りをもたらした」
といわれていました。
が、戦国時代ならともかく、江戸時代に謀反の疑いをかけられて「同族により」「夜討ちで」「家族全員」殺されるなどということがありえたのでしょうか?江戸時代には裁判というか評定というか、ともかく弁明の機会を与えられ、それでもだめなら当主が切腹、お家取り潰しが基本パターンだと思うんですが・・・

江戸時代の歴史に詳しい方、教えてくださいませ!

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

 


  こういうTV番組は、内容からしてあまり芳しくないものが多く、時に目に余るものもあります。(昔、UFO特集などと称して、ドキュメンタリーのような体裁で、なかに、フィクションの画像を挿入していましたが、宇宙人の目撃者が、こう云っているという紹介と、その主張を元に、俳優を使って、道具を使い、その主張の情景を再現して、いかにも本当に実写のように放送するのは、完全に問題だと思ったことがあります。「完全に問題だ」というのは、目撃談と、そのドラマ化・映像化は意味が違うので、 子どもや、よく事情を知らない人が見ると、現実と錯覚しかねないからです)。
 
  それはとまれ、前世記憶についての超心理学的な解釈は色々あり、わたしは一概に否定しきれないと思っていますが、実際には、立証はもの凄く難しく、TVで放送されるようなものは、まず眉唾だと考えて間違いないでしょう。視聴者も「興味本位」と分かって「醒めている」という意見もありますが、そうでない場合の方が、問題で、そうでない方の可能性が高いと思います。「醒めている」というのは、視聴者アンケートを採れば、そういう結果が出るでしょうが、実際は、無意識は、そう明瞭に事実とフィクションの区別はしていないのです。これは、暴力シーンを見て育った子どもは暴力的になるというのと、似た問題です。そんなことはないという主張と、そうだという主張があり、やはり、影響はかなりあるのです。
 
  とまれ本題に戻りますと、江戸時代に、云われているようなことがありえたかですが、先の人も言っていますように、江戸時代も時代によって色々で、大きく、前半と後半、そして、そのあいだの中間の移行期に分かれると思います。それぞれの時代で、社会の状況が違っています。
 
  前半は、江戸幕府の創立から、土台の確立に必死だった時期で、数は忘れましたが、大体五代将軍の頃までに、取りつぶしにあった藩はかなりな数に昇ります。藩が取りつぶしになるということは、支配階級の武士にとっては、死活問題で、必死に藩を守ったはずです。江戸時代前半、幕府は、外様の大小藩の取りつぶしを画策し、これに、譜代・親藩も加えられます。藩を取りつぶしたり、取りつぶしの前段階または大名の力を殺ぐための方法としての転封などを行うには、それなりの理由が必要になります。
 
  徳川幕府初期の1世紀近くで、取りつぶしになった藩の取りつぶし理由として、藩主の責任能力なし、というのが多くあります。藩主が暴虐だとか、狂乱しているとか、風紀紊乱だとか、とまれ、藩主が「狂っている」という理由で、かなりの藩が潰されているはずです。これは数として異常なので、二つ理由が考えられます。一つは、本当に藩主が狂っていた場合と、別に狂ってなどいないのに、理由をこじつけられた場合です。この両者は非常に近いです。
 
  幕府は、隠密などの他にも、色々な方法で、大名や藩主や藩を監視していて、前半期は、重箱のすみをつつくように、何かと理由をこじつけては、藩の取りつぶしを画策しました。藩の取りつぶしは、武士にとって生死にかかわるので、藩主や、藩の重臣、武士たちも、もの凄く神経質になったとも言えます。特に藩主は、幕府から藩の責任者として、責任を問われる立場にある他方、藩内でも、藩主におかしなことをされては困るというので、藩取りつぶしの原因になりそうな藩主は、藩の重臣たちの謀略で、ひそかかに暗殺されたというようなこともあった可能性があります。無能な藩主、性格的に問題のある藩主だと、取りつぶしの口実になるので、藩のためには、藩主も犠牲にされたということです。
 
  この結果、藩の武士や重臣、とりわけ藩主への精神的プレッシャーは、もの凄く大きなものになり、幕府に腹を切らされるか、家臣に殺されるか、普通の人間だと、絶え間ない緊張の連続で、藩主が精神的におかしくなって当然というような事態が江戸初期にはあったのです。狂っているという理由で、藩がつぶされた例が多いのは、通常であれば、精神的バランスが取れた人でも、発狂するか、重度の神経症になるような状況に藩主がおかれていたということで、また、藩主は何とか自己を支えていたが、些細なことで幕府が因縁を付け、藩主狂乱により、藩取りつぶしとした例もあったはずです。
 
  こういう時代だと、藩主も、家臣から暗殺されるのですから、藩取りつぶしのリスクのある場合は、藩の家臣一家皆殺しというのも十分ありえたのです。その場合、同族にやらせるのが、相手も疑わないし、また忠誠度も確認できるので、敢えて、同族に成敗を命じた可能性も高いです。
 
  ただ、この「霊」は、「幕府に仕える剣術指南のお家柄のお姫様。父親が謀反の疑いをかけられ」ですから、藩の家臣ではありません。幕臣だということになります。幕臣は、旗本と御家人と、もう一つ、藩主がそうです。藩主も幕臣だということになるのです。幕府の家臣である藩主の家臣は、幕府直属の武士ではないので、陪臣と云ったのです。この場合、藩主は、幕府に忠誠を誓った幕臣になるのです。しかし、「剣術指南の幕臣」となると、藩主ではないでしょう。柳生家が藩主である剣術指南の幕臣で、柳生家内部の争いの話なら、この「霊」の話は合っています。
 
  しかし、幕府剣術指南というと、普通は、大きくて、五百石ぐらいの旗本でしょう。その場合、江戸前期なら、謀反の疑いで、同族によって、幕府の命令で、一族全員誅殺されたという例はありえたと思えます。剣術指南というのは、将軍に近いところにいるので、力もあり、また、危ない人間でもあるのです。その結果、政争に巻き込まれ、謀反を名目に一家誅殺という例もあったでしょう。将軍そのものが、後継者をめぐって、二代将軍秀忠は、兄弟たちを殺しまくったようですし(不審な死に方をしている兄弟が多いのです。また秀忠は長男ではなく次男です。正確には三男で、上は、不審な死に方をしています)、三代将軍家光の時も、弟とのあいだで将軍位をめぐって死闘がありました(弟の駿河大納言は、結果的に詰め腹を切らされています)。四代・五代になると、後継者の死闘・暗闘はなかったようですが、そもそも徳川宗家の後継者が殺し合いでいなくなっていたのです。六代・七代は、不自然な形で将軍になり、不自然に死に、そして八代になると、遂に徳川宗家は滅び、尾張と紀伊で、後継宗家の座をめぐって暗闘しますし、紀州藩内では、後継者が、その支持勢力の思惑もあって暗闘し合います。八代将軍吉宗は、非常に運がよいとされますが、「お庭番」というか、幕府内部・外部をひそかに監察する特別職の隠密組織を作ったのは吉宗で、吉宗は、そういう勢力に支持され、名君として期待されたのですから、紀州家で、吉宗の兄たちが若死にしたのは、謀殺である可能性が高いです。三男で、しかも母の身分の卑しい庶子の吉宗が、紀州藩主に上りつめ、更に、八代将軍の座をめぐって優位にあった尾張を出し抜いたのは、運がよいとかいう話ではないと思います。
 
  吉宗は、改革を行いますが、これがまさに江戸前期と後期を明瞭に分けます。名君吉宗が必要とされた社会状況があり(そういう状況であったので、紀州藩主の座からさえ、遠い位置にいた吉宗が、必要とされて藩主となり、更に将軍になったとも言えます。出自よりも実力が必要とされたのです)、それは、農業封建制の上に立った幕藩体制が、商業の展開や貨幣経済の進展と共に、体制そのものの基盤が崩れ、武士階級の存在意義が消えて行き始めたということです。吉宗は名君ですが、スパイを大量に駆使した独裁君主でもあり、そういう聡明な君主のもとでは、暗殺・謀殺・誅殺は、非常に巧妙に行われたはずで、粛正などが実際にあったなか、誅殺事件もかなりあった可能性があります。
 
  江戸後期になると、商人階級の擡頭は誰の目にも明瞭で、武士階級の没落も明らかでした。吉宗の改革が、そもそも江戸幕府の破綻を意味していたのです。吉宗が「武」を好んだのは、彼自身、戦士としても一流であった他に、武士階級の没落をくい止めるため、意図的に、武士の精神的地位を高め、そのような気風を造るため、武芸を奨励したというのもあるのです。
 
  江戸後期、吉宗没後数代は、前期のような殺伐とした誅殺などはなかったでしょうが、幕臣の謀殺や、藩家臣の謀殺などは、ひそかにあった可能性があります。そして江戸末期になって来ると、違う意味で、藩主の暗殺や、不都合な家臣・幕臣の謀殺が画策され実行されます。大老井伊が、御三家の水戸家の藩士に公然と暗殺されるのですから、表にでない謀殺事件は他にもあったというべきでしょう。
 
  長い話ですが、「霊」とかの云った事件は、江戸時代全期を通じて、形態や方法や理由などは違っていたかも知れませんが、何時でもありえたということになります。前期の方が比較的ありそうですが、吉宗の中期は、ひそかかに暗殺・謀殺を幕府が行っていた可能性のある時代で、後期になると、またそれなりの事情で(藩経済体制の破綻を糊塗するためとか)謀殺や成敗はあったと考えるのが自然です。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

番組の内容に関してはさておき、長文でのご回答大変ありがとうございました。はっきりいって聞きたいこと以上に勉強になりました。
どのようにお礼を返したらいいのか・・・?学がないので「なるほど!」とえらそうに解ったふりも出来ず、かといって「ありがとうございました」だけでは、この長文に報いることは出来ないし・・・
う~ん・・・
いや何はともあれかたじけのうござった!!
starflora殿!このご恩、拙者終生忘れませぬぞ!

お礼日時:2002/01/04 21:15

 私は詳しいわけではないので、書きにくいのですが、少しだけ参加させてください。



 一口に江戸時代といっても、さまざまな情勢を含んでいます。例えば、その初期には大阪夏の陣・冬の陣と呼ばれる戦乱期もありました。関ヶ原の戦いから少なくとも15年は、地方に分散する非徳川勢力の存在もあり、安定政権というにはほど遠い世情だったと思います。

 そのような初期を経て、平和な時代が到来したのかというと意外にそうでもなく、キリシタンの生きたままの試し切りなど理不尽な人の死は世にあふれかえっていたらしいのです。罪人の死刑などは日常茶飯事とも言える状況が、氏家幹人著「大江戸死体考」(平凡社文庫)に詳しく紹介されています。現代の死刑執行状況と比べると一目瞭然でしょう。

 一方では、二代将軍秀忠の時には武家諸法度が定められ、とりあえずの社会秩序が構築され、一定の法制度のもと、表面的には平穏な武家社会がもたらされたと想像します。しかし、その陰では戦乱による死者こそは少なかったものの、政治犯の死刑や治安当局が手を焼くほどの常習的軽犯罪者などに加えられた死刑など「合法的な殺人」は思いの外多かったのかも知れません。一時期アフガンを支配していたタリバン政権を思い出させます。

 つまり強固な幕藩体制を築くために、数知れぬ人の死がもたらされたことは想像に難くありません。確かに中期から幕末にかけての江戸の商業地域では集金に出かけた大店の丁稚がお金をほったらかして遊んでいても盗られることはなかったというくらい治安は安定していた、という話を聞いたことがあります。しかしそういう現象は、法治国家としての道徳が人々に浸透していたからと言うよりは、発達した経済自体が原理的に導いた現象だと私は捉えています。

 ですから、ご質問にあげられた極端な因縁話が江戸時代すべての時代を通じて全くなかったかというと、一概には否定できないのかもしれません。

 ご質問からはそれますが、そういう話とは関係なく、TVなどで人の生活上の悩みを、事実かどうか全く検証しようのない昔のエピソードに無理矢理結びつけ、それによって解決できるかのようなふりをする風潮はいかがなものかと思います。そのような占いのスタイルをなりわいにしたいと思っている人が大勢いるのは仕方ないとしても、多くの人が見る時間帯にそのような番組を無批判に放送するTV局の姿勢こそ目に余ると感じます。(見なきゃいいんですけどね)

 ただ、そのような風潮は全く否定されるべきかと言うとそうとも言えないと思います。江戸時代に負けず劣らず不条理が横行する今の世の中、そういう不条理を一身に被り理由もなく不幸を背負ってしまった人たちにとって、せめて唯一の癒しや慰めとなるなら、おかしなオカルチックな雰囲気にも一定の存在意義は認めてあげたいような気持ちはあります。

 それにしても、ものごとにはほどほど、という線がなんにでもあると私は思うのですが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私自身、事(江戸時代の話が本当にあったかどうか)や除霊の真偽云々が最重要なのではなく「番組の『フリ』として成立してるのか?」ということが謎だったのでご質問させていただきました。まぁ、あくまでバラエティーですから少々の着色やヤラセはしょうがないにしても、その背景そのもので「ありえないこと」があったら面白くないなぁと思ったのです。(霊とかいう時点で「ありえないこと」というのはこの際置いといてください)

なるほど、番組中では300年前と言ってたので、1700年代後半と考えれば・・・う~ん・・・落ち着いてるような気もするんですが・・・う~ん・・・テレビでは暴れん坊将軍も暴れてることだし同じテレビの中の話として、「あり」としとこう・・・(まじめなご解答いただいたのに失礼かな?すいません)

年をこしてお礼を差し上げたことをお許しください。
ありがとうございました!

お礼日時:2002/01/04 13:25

時代的背景にある、お家取り潰し等は確かにありえる場合があります。

しかし、現実的なものとして、謀反の場合(疑いも含む)その藩自体では、そのような情報がもれないようにする可能性があります。謀反、脱藩等による藩主への責任問題は思ったよりも大きいように思われます。そのため、闇討ちとはいかなくても、それに近い部分(藩からの消滅等)により、一族をなくす可能性があるでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

すばやいご回答ありがとうございます。
なるほど。藩は今の県などとは違って「国」に近いものなんでしたよね。口裏を合わせるのも容易だったんでしょうね。
そういえば確か「尾張」とかいってましたので、徳川御三家ということで一層厳しく闇に葬ろうとした可能性はありますよねぇ。
ふむふむ・・・

お礼日時:2001/12/28 15:58

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q元号は現在、天皇陛下が代わられると元号を変える事ですが、江戸時代やそれ以前の時代では、どのタイミング

元号は現在、天皇陛下が代わられると元号を変える事ですが、江戸時代やそれ以前の時代では、どのタイミングで変わっていたのでしょうかか?

Aベストアンサー

今のように、天皇の代替わりのときにだけ元号を変える制度になったのは、明治からです。その結果、天皇と年号が1対1に対応するようになりました(ということと関係があると思いますが、明治以降の天皇は、明治天皇のように年号で呼ばれています)。
それ以前は、めでたい事があった、天変地異、疫病がはやったとか、いろいろの理由で年号を変えていました。

Q江戸時代の水戸徳川家当主は、全員が、家康の11男・徳川頼房の男系の子孫?

江戸時代の水戸藩の藩主は全員が、徳川頼房の男系の子孫なのでしょうか?

江戸時代の水戸藩の藩主の全員が、家康の11男・徳川頼房の男系の子孫なのかどうかを教えてください。

Aベストアンサー

頼房以降はそうですが、頼房が水戸に入る前も水戸藩はありました。
ですので、江戸時代の最初の頃は違います。

Q江戸時代の人は元号を言えたか

 
 以前どこかで前世療法というものの動画を見た際、前世にもどったひとに「年号は何年ですか」と質問すると、「安永○年」とか「天明○年」と、“前世”の人が答えていました。

 最近思い返してふと疑問に思ったのですが、江戸時代の人はその時々の元号を知っていたのですか?
 知っていたとすると、元号が変わったときはどのようにしてその情報が伝わったのでしょう?

 ちょっと不思議に思いました。
 ざっくりしていますがお答えいただければ幸いです。

Aベストアンサー

>江戸時代の人は元号を言えたか?
その人がどの階層(身分)に属して居たかで大きく変わりますが…99.99%の江戸時代の日本人は元号はおろか、何月と言う概念すらありませんでした。従って基本的には「江戸時代の人は元号を言え無かった」と言う答えでOKなはず。従ってその「前世に戻った人」はどこか遠い星の "EieDoo(我々に理解出来る言葉で発音すると「エド」と聞こえる)" と言う時代から来た異星人かと思われます。

P.S.
日本では明治5年の改暦詔書までは、一部の学者や政府高官以外には元号はおろか、何月何日と言う概念すらありませんでした。そもそも日本では中国由来の暦が数百年に渡って使われており。年号では無く「今年は甲子(きのえね)の年」と言った風に考えていました。いわゆる「干支暦」と呼ばれる暦です。

>Wikipediaによる解説:干支 - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF

江戸時代以前と明治以降の現代文明社会とでは時間の流れ方が全く違います。江戸時代では手紙を送って、その返事が来るのを1ヶ月以上も待って、それからまた返事を送って相互確認を取り、それで互いに了解して~と言った風に物事が運ぶ時間感覚です。厳密に何月何日の何時までに返信を!~みたいな感覚は一切ありません。また個人で時計を所有してる人も居ません。1日は朝昼晩で良かったし、1週間と言う区分も明治以降に西洋文明と共に入ってきた制度です。

江戸時代は主に住んでる地域の神社仏閣で月に行われる「お祭りの日付」を基準に月日を勘定するのが一般的な習慣でした。例えば今ならデートの約束を「明日、2月3日の15時に駅前で」みたいに行います。江戸時代なら「お稲荷さんの次のお祭りの前の日に六角地蔵の前で」みたいになります。現代人みたいに正確に何時何分と言う概念自体がありません。早く来過ぎたり、或いはのんびり出掛けて相手を何時間も待たせて、特に怒ったりはしません。だってそう言うものだからです(なので待ちぼうけやすれ違いも当たり前でした)。

>江戸時代の人は元号を言えたか?
その人がどの階層(身分)に属して居たかで大きく変わりますが…99.99%の江戸時代の日本人は元号はおろか、何月と言う概念すらありませんでした。従って基本的には「江戸時代の人は元号を言え無かった」と言う答えでOKなはず。従ってその「前世に戻った人」はどこか遠い星の "EieDoo(我々に理解出来る言葉で発音すると「エド」と聞こえる)" と言う時代から来た異星人かと思われます。

P.S.
日本では明治5年の改暦詔書までは、一部の学者や政府高官以外には元号はおろか、何月...続きを読む

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q江戸時代の元号の文字 画像あり

添付は、私の先祖(たぶん江戸時代の後期)が、将来の子孫のために、その子孫が亡くなった際の戒名を付けるルールを予め寺と定めたものです。大金を支払い、戒名の文字数の確保や、戒名の下二文字のルールを決めたそうです。

その寺からの許容書の実際の画像です。
左には、元号が見えます。十二月の前は 何と云う元号でしょうか

八良衛門 は 私の先祖の名前です

また、他の文字も読めれば 教えてください

Aベストアンサー

rodste さん、こんばんわ。

たぶん、慶応二寅の年と書かれていると思います。

後半の部分ですが、「永世に○○○居士、大姉を許容せしむものなり。」でしょうか?

Q江戸時代の「江戸」以外

最近では江戸時代について書かれた本が多数出ていますが、
大多数が「文化が熟した頃の江戸」の話で、他所の話はあまり書かれていません。
そして内容も「江戸礼賛」のようなかんじのものがほとんどです。
もちろんそれはそれで構わないのですが。
例えばイザベラバードの旅行記には、明治に入ってもなお東京を離れたら、
不潔、不衛生のオンパレードのような様子が醒めた視点で書かれています。
江戸時代の地方に関して、できれば江戸と対比するようなかんじで、
詳しく解説された本がありましたら教えてください。

Aベストアンサー

江戸時代の人自身が表した書物で、現在でも入手しやすく有名なものとしては、雪国新潟の暮らしを描いた鈴木牧之の『北越雪譜』、東北・北海道(蝦夷地)に住む人々の暮らしを描いた菅江真澄の『菅江真澄遊覧記』があります。それぞれ岩波文庫と東洋文庫に収録されています。

Q江戸時代の大名家、官位・伺候席などの一覧

江戸時代の大名家の官位や伺候席、石高等が一覧できるサイトを以前見た事がありました

詳しく見られるサイトをご存知の方、お教えください

Aベストアンサー

参考URLの江戸三百藩HTML便覧のことではないでしょうか。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q江戸時代以前の江戸

江戸時代以前の江戸とはどのような所だったのでしょうか?

歴史に殆ど登場しないので、太田道灌が江戸城を築城したことくらいしか知りません。

徳川家康は当時無名だった江戸をなぜ選んだのでしょうか?

Aベストアンサー

 もともと江戸は、寂しい漁村に過ぎず、江戸という地名も「入江の門戸」の村を意味していました。

 鎌倉時代に江戸氏がこの地と関わりを持ちましたが、とくに長禄元年(1457)に上杉氏の家宰太田道灌が江戸城を築いてから城下町が出来ました。

 その江戸城は、戦国時代には小田原の北条氏の一支城となり、遠山氏が上代を務めて支配していました。

 家康が天正18年(1590)に江戸に入府した頃は、「町屋なども、かや葺きの家百ばかりもあるかなし」で、「城も形ばかりに、城のようにこれもなく」というありさまだったということです。 

 なお、徳川家康が江戸を選んだのではなく、豊臣秀吉から領地替えを命じられ、苦渋の思いをしながら江戸に入府したのです。

Q【江戸時代?の京都の名所を3巻に纏めた書物の名前と観光名所一覧が見られるサイトを教えてください】お盆

【江戸時代?の京都の名所を3巻に纏めた書物の名前と観光名所一覧が見られるサイトを教えてください】お盆に順番に回って行きたいです。

1番最初は京都御所で、2番目が確か兄が弟を殺して、恨みや祟りで平城京を平安京に都を移す際に最初に建てて弟の祟りから逃れたとされるお寺です。3番目はどこか忘れましたが京都の名所が3巻に纏められていた気がします。

Aベストアンサー

都名所図会(みやこめいしょずえ)

Q江戸時代の上方と江戸文化の違い

上方が「いかに生きるか」
江戸が「いかに楽しむか」
だと思っていますが、あっているでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにすること」など、本来の文化に求められるものは全て有していたと思います。

しかし、江戸幕府成立後、江戸の地には新しい文化をつくりあげようとする機運が急激に高まってきたのです。とはいえ、その初期の時代は、いまだ京都を中心とした上方文化の影響を強く受けていました。

ところが、政治の中心地、人口の増加の顕著な江戸には、次第に独自な江戸文化が完成して行きます。これに対し、上方は伝統的な文化が存続し、江戸時代の中期以後は両文化が併存するとも考えられます。 江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

江戸時代なかば、近松門左衛門や井原西鶴などが登場し、元禄文化が花開くけれど、その発信地は上方だった。いや文学だけではない。諸事全般、新興都市の江戸は、千年の都を背にした上方の文化に頭が上がらなかった。 

江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

時代も下ると文化の中心は江戸へとシフトしていきます。
 宝暦、天明の時代ともなれば、いやもう上方なにするものぞ、の気運バリバリ。超人気作家、山東京伝により「金の鯱(江戸城の天守閣の意味)にらんで、水道の水(玉川水道)で産湯を使い、吉原本多(イケメン風髪形)に髷を結い、本町通りの角屋敷を売ってでも吉原でお大尽遊び」なんて感じの江戸っ子像オリジナル版が登場したのもこの時期だったのです。

このように文化の勢い、新鮮さなどにおいては江戸文化のほうに軍配が上がるかもしれませんが、伝統、質等の面では上方も引けは取らなかったと思います。

「いかに生きるか」は上方も江戸も、というより江戸の方が大変だった時代です。みんな大変な時代にあって、いかに楽しむかを大事にしていたのではないでしょうか。

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにするこ...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報