プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

もうすぐ新しい年になりますが、1月1日がこの日に決まったのは今から2002年ほど前のことだと思います。
では、なぜこの日が1月1日に決まったのでしょうか?誰かの誕生日?それとも????立春の日とか、他の日でも良かったのではないでしょうか?自然とは関係ないのでしょうか?
くだらないことですが、考え出したら夜も眠れません。どなたか、お知恵を貸してください。

A 回答 (3件)

#2で古代エジプト説を紹介しましたが、いくつか疑問が残ります。



・古代エジプトはシリウス暦ではなかったのか?
・紀元前46年のローマではなぜ1年が445日か。計算が合わないのでは?
・冬至は12月22日頃で1月1日とは10日近く誤差があるのでは?
・なぜ2001年前に西暦が始まったことになったのか?

自分で書いておいて、このような大きな疑問があることに気づきましたので訂正と補足をさせてください。

・古代エジプトはシリウス暦ではなかったのか?

 古代エジプトではシリウスの運行をもとにした「太陰ソティス歴」(ソティスはシリウスのギリシャ名)が古くから用いられていました。シリウスは全天の星の中でもっとも明るく、夏至の頃にさらにその明るさを増し、"Dog Star"と呼ばれるほど忠実にナイルの氾濫を知らせたと言います。またナイル川の川岸に背の高い葦を植え、その水かさをはかるナイロメーターと呼ばれる仕掛けが1年の長さの計測に役立ちました。

 この太陰ソティス歴では、夏至の次の新月の日を1年の元旦とし、さらにひと月の長さを天体の月の運行に同調した長さ(朔望月=約29.5日)としました。12ヶ月目をトト(Thoth)月とし、この月内に夏至が来ない時はトト月をもう一度変則的に配置して、あくまでもシリウスの運行に基づいたものとしました。

 その一方、民間の中から太陰ソティス歴に代わって、不十分ながら太陽暦と言えるものが始まりました。ひと月を朔望月とは関係ない30日に固定し、それを12回繰り返し、年末に5日間の神々の誕生日を祭日として付加するという暦です。この暦では、12月であったトト月が年初とされました。また、それとは別にシリウスの観測を続けた天文学者によってシリウス歴は改良が続けられ、1年365.25日という長さに到達しました。その結果、民間の太陽暦とシリウス暦は年間0.25日の差を生じ、狼星周期と呼ばれる約1460年のずれを引き起こすことになります。ともかくも、この1年365.25日という周期がシーザーによって後のローマにもたらされることになるわけです。

・紀元前46年のローマではなぜ1年が445日か。計算が合わないのでは?

 人類の文明が起こった中緯度では、当初、一年のうちで最も気温の下がる冬の時期に年初を置く考え方には抵抗があったようで、ローマの最初の王とされる人物の名にちなんだロムルス暦でも、春分を含む月、マルティウス(現代で言う3月)が第1の月とされていました。1年の長さを10ヶ月とするロムルス暦は、その不便さゆえ紀元前710年に、ローマの二代目の王とされるヌマ・ポンピリウスが制定したとされるヌマ暦に改められます。

 ヌマ暦ではロムルス暦の10ヶ月に11番目の月ヤヌアリウスと12番目の月フェブルアリウスが加えられ、1年を12ヶ月355日としましたが、紀元前153年に再び改暦されます。この改暦のとき初めて、2つの理由から、従来11番目の月であったヤヌアリウスが年初とされるようになりました。第一には、ヤヌアリウスとはヤヌスの月という意味で、さらにヤヌスは「門の神」であり当時軍拡時代にあったローマの防衛の要としてのシンボリックな役割が強調されたため、形式的にせよ一番目の月とされた経緯がありました。

 第二の理由ですが、キリスト教以前のローマで盛んに信仰されていた太陽信仰の一つであるミトラス教にあります。12月25日は今でこそクリスマスですが、その発祥は冬至に行われたミトラス太陽神の聖誕祭であり、この太陽神への信仰が高まるにつれ冬至の地位が上昇したと考えられるのです。冬至年初の考え方はヤヌアリウスを第一月目とする習慣につながりました。そして、言うまでもなくヤヌアリウス(Januarius)は英語のJanuaryの語源であり、現代の日本では何気なく1月と訳される月でもあります。

 こうしておおよその冬至年初が一応決められたのですが、ヌマ暦は太陰暦としての性格が強く、1年の長さに関しては相変わらず不正確で、独特の閏月が設けられました。シーザーがエジプトから凱旋した時には、実際の太陽の運行と比較して約3か月のずれを生じるまでになっていました。彼が改革を断行した紀元前46年は、改暦ヌマ暦の1年の長さ355日に閏月23日、そして混乱修正のための期間の2ヶ月(67日)が付加され合計445日となったわけです。

・冬至は12月22日頃で1月1日とは10日近く誤差があるのでは?

 このようにして冬至年初のユリウス暦が開始されましたが、当時のローマでは、日の数え方には現代のように数詞が使われることはなく、太陰暦の影響を色濃く残す固有名詞を用いる言い方が普通でした。例えば、月の初めは「カレンダエ(カレンズ)」と呼ばれましたが、伝統的にこの表現は新月を意味しており、その影響でか、新暦の元旦には冬至を過ぎた最初の新月の日が当てられたと言います。(佐藤幸治「文化としての暦」)また、当時のしきたりでは3月25日を必ず春分としていたので、これに合わせて修正のための期間67日を決めたという説もあります。(D.E.ダンカン「暦を作った人々」)

 これらの説明に関しては、その真偽を実際に確かめる方法がありそうです。ユリウス暦元年1月1日が、前年の冬至からみて最初の新月の日に当たるのか、その日から当時の暦で数えて3月25日が春分にあたるのか、暦の上で冬至や春分がその時代のローマの慣例上、天文現象と完全に同期していたのか調べることができれば分かりますが、残念ながら私の力量不足でそこまでは到達できませんでした。いろいろと調べて試してはみたのですが。

・なぜ2001年前に西暦が始まったことになったのか?

 ユリウス暦が始まった頃のローマの時代には、当然ながら紀元前であるという認識はなくロムルスが18歳で即位した年を紀元とするAUC(ano urubis condidae「都市建設の年」)というローマ紀元が使われていました。この年代の数え方は、ヨーロッパでもその後数百年使われたといいます。また、キリスト教にとっての最大の迫害者とされるディオクレティアヌス帝は、自分の即位した年(AD284年)を基準とした紀元を定めましたが、ローマが衰えヨーロッパにキリスト教が広まっていくにつれ、キリスト教独自の紀元を求める気運が高まったとみられます。

 そんな中、南西ロシアのスケティア出身の修道士エクシグウス・ディオニシウスは、イエスの出生にまつわるとされるさまざまな当時の伝承に基づいて、その生年を基準とするキリスト紀元を提唱しました。彼の考えた方法で数えると紀元532年のことです。9世紀までにこのキリスト紀元はヨーロッパ中に広まり、さらにその後の史実の精密な検証によって実際のキリストの生年は紀元前4年と訂正されましたが、すでに西暦として定着していたキリスト紀元は動かされることはありませんでした。 



 その後、1582年にユリウス暦はグレゴリオ暦に改暦され、グレゴリオ暦は1873年には日本でも採用されます。クリスマスを大事にするヨーロッパ・アメリカなどのキリスト教圏、伝統的に春分年初の影響の強い旧正月を祝う中国、太陰暦をベースにした暦でラマダン明けを祝うイスラム圏、基本的には太陰太陽暦のインドなどと違い、1月1日に宗教的といえるほどの大きな意味を与え、かくも盛大に過ごすのは日本人だけではないでしょうか。

 テレビで賽銭に一万円札の飛び交う初詣の中継や帰省ラッシュの様子を見ていると、最初にこの日を元旦と決めたシーザーが、縁もゆかりもない極東の国でその偉業をたたえられて(いるわけでもないでしょうが)、大騒ぎしているのを墓の下で苦笑しながら眺めているにちがいありません。


  デイヴィッド・E・ダンカン「暦を作った人々」河出書房新社
  佐藤幸治「文化としての暦」創言社
  アイザック・アシモフ「時間と宇宙について」ハヤカワ文庫
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 何気なく疑問に思ったことに対して、こんなに丁寧に回答していただきましてありがとうございます。
 これからは、ゆっくり眠れそうです。

お礼日時:2002/01/05 13:24

 農耕社会にとって、太陽の運行の観測は何よりまして大事だったと思います。

タネをまく時期、洪水に対する準備をする時期などを見誤ると、危機的な生産性の低下を招くことになるからです。農耕社会が始まった頃の古代エジプトでも、太陽の観測を欠かさなかったことと思います。

 太陽は真昼の高さが季節によって変化しますよね。地球の自転軸が傾いて公転しているために起こる天文現象にすぎないのですが、当然ながら当時そういうことを知るすべもありません。秋になって次第にその高度を下げてくる太陽に古代エジプトの人々は不安の念を募らせたに相違ありません。太陽が、そのまま没して復活することは永久になくなるのではないかと。

 ところが冬至をすぎた頃から太陽は高度を再びあげ始めます。人々は太陽の復活を喜び、その前後の時期を1年のはじめと決めたのだと思われます。紀元前1世紀の頃のローマの元旦に当たる日は春分の頃でしたが、エジプトから帰還したばかりのシーザーによってエジプトの流儀に従った暦にかえられたと言います。そのせいで紀元前46年は445日間続きたいへんな混乱をもたらしたということです。

 でもそのおかげでヨーロッパにこの暦がひろがり、ひいては日本に住む私たちの暦にもなったということではないでしょうか。

 ネタ本はアイザックアシモフ著「時間と宇宙について」(ハヤカワ文庫)です。秀逸なエッセーですのでご一読を勧めます。他にも説がありそうですが。
    • good
    • 0

まずはわかる枝葉の部分だけ・・・。


太陽暦の1月1日がまず決まったのはもっと前、古代エジプト時代です。
紀元1年が決定したのは4世紀のこと。どっちも2002年じゃありません。

一年365日の太陽暦の発祥は太陽が何回回れば星の配置が同じになる=一年になるかです。
このベースを月に変えれば太陰暦になります。
立春=旧暦の1月1日ですので日本では明治6年まではnobu_sさんのおっしゃる立春=1月1日でした。

自然とは無関係ではないですが、なぜ1月1日が一年の始まりとしたのかは特に自然の作為ではなく、言い出した人がいた、が実際でしょう。

参考URL:http://ecows.econ.niigata-u.ac.jp/~neo-luna/moon …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ありがとうございました。でも何で誰かが決めた1月1日を日本人はこんなにするのでしょうね?

お礼日時:2002/01/05 13:21

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!