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地方の藩で郡奉行と郡代の両者がいる場合がありますがその場合役割分担はどうなりますでしょうか?郡代が年貢管理、郡奉行が治安・民事行政になるでしょうか?

A 回答 (2件)

藩によって役割はさまざまです。


あくまで一般論ですが。
「郡代」は代官と同じで支配地のおける藩主の代理といえるでしょう。
租税徴収から治安維持まで一切の政務を担当します。
「郡奉行」は藩政における農政の担当者でしょうね。
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この回答へのお礼

郡奉行が農政担当ですか、どうもありがとうございます。

お礼日時:2006/01/26 21:52

一般的には郡奉行は藩全体の年貢収納、民事・治安行政全般を統括し、その下に郡代がいて担当地域における年貢の管理や民事・治安などを担当するということでしょう。


ただ、これはそれぞれの藩の歴史やいきさつなどがあるので一概にこうだとは決められません。
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この回答へのお礼

一概に言えないが郡代が奉行に下に入ってたりしますか、どうもありがとうございます。

お礼日時:2006/01/26 21:53

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Q江戸時代の税金について

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農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

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ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
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以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

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素人の質問なんですけど、江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?既に貨幣経済が発達していたのだから、農民に年貢米を納めさせるだけでは、いずれ財政が破綻するのは分かりそうなものなのに、当時の人達は疑問を感じなかったのですか?

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なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に納める冥加金などという税を取り立てていました。
この冥加金の中には、営業免許税とでも呼ばれるようなものもありました。酒税に相当するようなものもありました。
参考
冥加 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/冥加

江戸や京、大阪などの都市部では町政は町役人という自治組織に一括して委託していました。
この町政に必要な費用は町人が負担していました。
町人とすれば納める先が違うだけで実質的には納税しているのと同じことでした。
この町役人制度というのは大なり小なり大名領の城下町にもありました。

「既に貨幣経済が発達していた」とされておられますが、貨幣経済が行き渡っていたのは、江戸や京、大阪などの都市部だけでした。
物の売買の手段として、貨幣は全国的に使用されてはいましたが、全国的な規模では、貨幣経済と呼べるほどには発達してはいませんでした。
江戸時代を議論する場合には江戸の街や京、大阪の都市部の情報だけでは議論できませんので注意して下さい。
江戸の街というのは全国から見た場合は極めて異質な街でした。
経済史の観点から採用されている史料は、この全国的には異質な都市部の経済活動についての史料ですので注意して下さい。

幕府が財政破綻を来したのは、農民からの年貢による税収が不足したという単純な話ではありません。
幕府の財政を支えていたのは、金山や銀山などの採掘権をほぼ独占していたことによってもたらされていた金銀でした。
江戸時代中期以降はこの金銀の備蓄が枯渇してしまいました。
一方経済学的な見地からすれば、米という現物を徴収してこれを貨幣に変えて初めて幕府の運営費に使うというシステムが財政破綻の大きな原因です。
このシステムの最大の欠陥は、交換作業を全て町人に任せた上に、米価のコントロールを一切せずに市場経済という町人の経済活動に丸投げしていた点です。
札差と呼ばれる、米を現金化する作業を請け負っていた町人の手元に巨額の金が蓄積される一方で幕府が困窮して行った姿に現れています。
町民からの税収が少なかったためというよりは、農民からの年貢を米という現物ではなく貨幣による金納に変換しなかったことが結果として財政破綻を招いたと考えられてもよろしいでしょう。

租税の納入を米という現物から金納に変換するということは、明治政府がやりましたが、貨幣経済が未発達であった農村が忽ち疲弊してしまいました。
この史実からもお分かりの通り全国の大半を占めていた農村部では貨幣経済は普及していませんでした。
貧農史観というのは明治時代の状況を江戸時代にまで延長したことによって生まれた誤解です。
江戸時代の農村というのは貨幣の蓄積は少なかったものの極めて豊かでした。
豊かでなければ郷土芸能が発達したり伝承されるような余裕は生まれてきません。

>当時の人達は疑問を感じなかったのですか?
この徴税システムの欠陥にいち早く気が付いたのが田沼意次でした。
如何せん近代経済学というものがありませんでしたので、理論的に政策を推進することができませんでした。
急激に貨幣経済化を進めようとして失敗してしまいました。
不幸にも天候にも災いされました。
江戸時代の○○改革と呼ばれるものは改革でも何でもありませんでした。
ひたすら貨幣経済を否定して農本主義に戻ろうとしただけのことです。
当然悉く失敗しています。
むしろ改悪としたほうが当たっているでしょう。

蛇足
農耕文化から生み出された儒教精神にかぶれた人達が今でも○○改革と持て囃していますが、時代錯誤です。

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に...続きを読む

Q江戸時代の町方などの与力・同心

江戸時代の町奉行所などの与力や同心について教えてください。

同心よりも与力の方が地位は上ですが、どちらも世襲制ですか?
私が聞いたことがあるのは、どちらか忘れたのですが、どちらかが株で売買できるというもので、
どちらかが世襲制だというのですが、どうなのでしょうか?
また、世襲制であれば、与力は若い人であっても与力として経験豊かな中年以上の同心よりも
高い役職であったということですか?

※支離滅裂な文章で申しわけありません。
ご指摘いただければ、補足いたします。

Aベストアンサー

参考までに(#^.^#)
http://www.viva-edo.com/yoriki.html

今読んでいる本では、与力株は売買出来るみたいです。
でも基本的には世襲制ではないでしょうか。
(身分制度厳しそうだし。)
同心はどうなんでしょ?スミマセン、分かりません。

役職ですが、今のエリート官僚と巡査官みたいに、年齢は関係ないのではないかと推測します。

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

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Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
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従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Q1丁は何メートルになるのでしょうか?

住所で1丁目2丁目~とありますが、その1丁目から2丁目の距離、1丁分の距離というのは決まっているものなのでしょうか? また、決まっているとした場合は、1丁は何メートルになるのでしょうか? 宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

どうもこんにちは!

「丁」は「町」の略字で尺貫法での長さ、若しくは面積の単位です。
1町=約109.09m、若しくは1町=約9917m2になりますが、住所で言う1丁分の距離や面積が
この1町の長さ、若しくは面積になっている訳ではなく、それぞれの住所でまちまちです。


ご参考まで

Q郡代とは

郡代とは、代官よりも石高が多いが、職務内容は同じと知りました。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~yoshi3/daikan.htm

 津軽為信に津軽一帯から一掃された南部信直の祖先は、
津軽の地を南北朝の頃から支配していたとの理解です。
南部氏は、石山城に本拠地を置いて、出城を築き、郡代を派遣して津軽一帯を統治していたと聞きました。

 郡代や代官は、幕府等が派遣するものではないのでしょうか?

Aベストアンサー

質問者さんが提示したページから引用。

>つまり、郡代と代官は職務が全く同じであったので、以下両者を「代官」のみで合わせ意味することとしたい。

>諸藩にも幕府の職制をまねて代官がいた。また三千石以上の大旗本も現地の用人を代官といわせている。

この部分の「代官」は、直前で「代官には郡代を含む」と書いているので、郡代も含まれます。

前述のページの文章は「幕府直轄領には幕府から派遣された郡代や代官が、藩の領地には藩から派遣された郡代や代官が居た」と言うことを述べています。

もし、各藩に「幕府から派遣された郡代や代官が居た」としたら、それは「幕府が、各藩を通さず、直接に年貢を掠め取っている」と言うことで、藩主の主権を侵害する行為です。

徳川幕府では、各藩の藩主の主権を認めた上、妻子を江戸に人質として住まわせ、参勤交代を義務付けました。

「藩主の主権」とは「土地を支配すること」であり「土地の支配」とは「領民から税(年貢)を取ること」を意味します。

代官や郡代は「土地支配者から派遣された者」であり、土地支配者の代理人として領民から年貢を取る業務を行っていたのです。

従って

>郡代や代官は、幕府等が派遣するものではないのでしょうか?

は誤りで、正しくは

「郡代や代官は、土地支配者が派遣するもの」

です。

この「土地支配者」は「幕府直轄領なら幕府、藩領なら藩主、地方豪族の実質支配地ならその豪族」の事です。「幕府だけ」とは限りません。

質問者さんが提示したページから引用。

>つまり、郡代と代官は職務が全く同じであったので、以下両者を「代官」のみで合わせ意味することとしたい。

>諸藩にも幕府の職制をまねて代官がいた。また三千石以上の大旗本も現地の用人を代官といわせている。

この部分の「代官」は、直前で「代官には郡代を含む」と書いているので、郡代も含まれます。

前述のページの文章は「幕府直轄領には幕府から派遣された郡代や代官が、藩の領地には藩から派遣された郡代や代官が居た」と言うことを述べています。

もし、...続きを読む

Q江戸時代の武士の階級について

将軍家>親藩大名>譜代大名>外様大名>高家>旗本>御家人
(左は高く、右は低いという設定です。)

こうのような認識でよろしいですか?
間違っているところ、抜けているところがあれば教えてください。

Aベストアンサー

>こうのような認識でよろしいですか?

残念ながらよろしくないです。
なぜならば、階級のようなものを曖昧にして、誰が偉いのか分からなくするのが徳川家康の狙いだったからです。

親藩は将軍の親戚だという「名誉」があるだけで、藩主は幕府の要職には就くことはできません。
外様大名は禄高が多い大大名が多いですが、これもまた、幕府の要職には就けません。
譜代大名や旗本は徳川家直属の家臣で、禄高はあまり高くないですが幕府の要職に就き、実際の権力を持ちました。
特に旗本でも高家と呼ばれる旗本は、格式ではその辺の大名よりずーっと上でした。
有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介は4千2百石の旗本でありながら、5万石の大名である浅野内匠頭を「田舎侍!」などとののしっています。(まぁ、これはお芝居の話ですが)

名誉、禄高、権力、格式を分散させたのです。
これは謀反の防止の為です。

ようするに、色々な分野でNo1を作ることによって、誰かが徳川に対して謀反を起こそうと仲間を集めようとしても「俺の方が偉いんだ、お前の下になんかつけるか」「俺の方が偉い、いいや、偉いのは俺の方だ」と、誰かが突出したリーダーシップを取るのを防ぐ為です。

 

>こうのような認識でよろしいですか?

残念ながらよろしくないです。
なぜならば、階級のようなものを曖昧にして、誰が偉いのか分からなくするのが徳川家康の狙いだったからです。

親藩は将軍の親戚だという「名誉」があるだけで、藩主は幕府の要職には就くことはできません。
外様大名は禄高が多い大大名が多いですが、これもまた、幕府の要職には就けません。
譜代大名や旗本は徳川家直属の家臣で、禄高はあまり高くないですが幕府の要職に就き、実際の権力を持ちました。
特に旗本でも高家と呼ばれる旗本は、...続きを読む