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先日歴史の授業で菱垣廻船と樽廻船について教わりました。
大阪から江戸まで、菱垣廻船は個体(人)、樽廻船は液体(酒)を運ぶと聞きました。

でも、荷物を船から降ろして船が軽くなったら安定しませんよね。

江戸から大阪へは何を積んで帰ったのですか?

A 回答 (3件)

司馬遼太郎の小説に「菜の花の沖」っていうのがあります。


主人公は兵庫に拠点を置く船乗りで、太平洋側の菱垣廻船・樽廻船や、日本海側の北前船を操り、後に蝦夷地を舞台に一財産を設けていくというお話です。
モデルとなったのは高田屋嘉兵衛という実在の人物で、後に日本-ロシア間の外交上の重要なキーパーソンとなるのですが...ソレハオイトイテ

で、ちょっとこの小説を読み返してみたのですが..
北前船については#2 takaiさんにもあるように詳しく説明はされていたのですが、菱垣廻船については「江戸は「くだらないもの」ばかりで上方のモノはなんでも喜ぶ」とあるばかりで、菱垣廻船や樽廻船の上方行きには何を載せたかの記述は見つかりませんでした。(司馬遼太郎も記述を避けていたのか?)

ただ、「秋田へ杉板を買い付けに行く往路で船が空船になるので西国の綿花を積んで行く」<これは北前船の話 とか、
「幕府御用の仕事は、言われた品物しか運んではいけないことになっているので、空船になることが多くて困った」<これは蝦夷航路の話 とか、
いうくだりがあり、当時の商人達が空船をトニカク嫌っていたことは想像がつきます。
おそらく、彼らは江戸発の船であってもナニカシラの商品を積んでいき、少しでも商売のタネにしようとしていたことは間違いなさそうですね。
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この回答へのお礼

司馬遼太郎ですか。当時の人の、空船が嫌であったことはよくわかりますね。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 23:23

当時の江戸は100万人の人口を抱えた大都市で、しかも参勤交代のために、商品を作らない武士の割合が日本一高かったのです。

そのため江戸では商品の供給よりも需要が上回る状態になっていました。

ですから江戸で積み込める品物がそんなにあったのかどうか、良く分かりません。江戸に集まった年貢米を大阪の米市場へ売ったり、米が不作の地方へ売ったりすることがあったのかもしれません。

それよりも江戸を出発してから、九十九里で干鰯、出羽で紅花、東北で材木や漆、蝦夷地で昆布とニシンなど、各地の名産を積み込みながら天下の台所大坂へ向かったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
お米だけで安定していなくとも近場へいけば荷物を回収してまわれたということもありえますね。なるほど。

お礼日時:2002/01/05 02:50

面白い着想ですネ。


現在の石油タンカーなどの場合は,アラブに行くまではタンクに水を入れて船を安定させています。そして,目的地で水を排出して石油に入れ替えて戻ってくるのですネ。
では,菱垣廻船や樽廻船は‥
そうですネ。現在の個人経営の路線便のトラックで,積荷の仕入れから販売までを行なっているようなものと考えればよいでしょうか。
何かを目的地に運んだ後は,そこで別の荷物を仕入れて持ち帰ったのですネ。
ですから,空では帰らなかったということなんですヨ。
廻船の場合は往復共に荷物を積んでいたので,石油タンカーのようなバラストは不要だったでしょう。
それでも船主の才覚がなくて,どうしても帰りの荷物がないというときは石などを積んでおけばよかったのでしょうネ。
以上kawakawaでした
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この回答へのお礼

何かを積んだのだろうということはわかるんですけど、具体的な資料がなくて…。
どうしても帰りの荷物が無いなんて、なんだかムダっぽいですね。石を積むのも大変でしょうに(^^;)
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/05 02:47

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