先日歴史の授業で菱垣廻船と樽廻船について教わりました。
大阪から江戸まで、菱垣廻船は個体(人)、樽廻船は液体(酒)を運ぶと聞きました。

でも、荷物を船から降ろして船が軽くなったら安定しませんよね。

江戸から大阪へは何を積んで帰ったのですか?

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A 回答 (3件)

当時の江戸は100万人の人口を抱えた大都市で、しかも参勤交代のために、商品を作らない武士の割合が日本一高かったのです。

そのため江戸では商品の供給よりも需要が上回る状態になっていました。

ですから江戸で積み込める品物がそんなにあったのかどうか、良く分かりません。江戸に集まった年貢米を大阪の米市場へ売ったり、米が不作の地方へ売ったりすることがあったのかもしれません。

それよりも江戸を出発してから、九十九里で干鰯、出羽で紅花、東北で材木や漆、蝦夷地で昆布とニシンなど、各地の名産を積み込みながら天下の台所大坂へ向かったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
お米だけで安定していなくとも近場へいけば荷物を回収してまわれたということもありえますね。なるほど。

お礼日時:2002/01/05 02:50

司馬遼太郎の小説に「菜の花の沖」っていうのがあります。


主人公は兵庫に拠点を置く船乗りで、太平洋側の菱垣廻船・樽廻船や、日本海側の北前船を操り、後に蝦夷地を舞台に一財産を設けていくというお話です。
モデルとなったのは高田屋嘉兵衛という実在の人物で、後に日本-ロシア間の外交上の重要なキーパーソンとなるのですが...ソレハオイトイテ

で、ちょっとこの小説を読み返してみたのですが..
北前船については#2 takaiさんにもあるように詳しく説明はされていたのですが、菱垣廻船については「江戸は「くだらないもの」ばかりで上方のモノはなんでも喜ぶ」とあるばかりで、菱垣廻船や樽廻船の上方行きには何を載せたかの記述は見つかりませんでした。(司馬遼太郎も記述を避けていたのか?)

ただ、「秋田へ杉板を買い付けに行く往路で船が空船になるので西国の綿花を積んで行く」<これは北前船の話 とか、
「幕府御用の仕事は、言われた品物しか運んではいけないことになっているので、空船になることが多くて困った」<これは蝦夷航路の話 とか、
いうくだりがあり、当時の商人達が空船をトニカク嫌っていたことは想像がつきます。
おそらく、彼らは江戸発の船であってもナニカシラの商品を積んでいき、少しでも商売のタネにしようとしていたことは間違いなさそうですね。
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この回答へのお礼

司馬遼太郎ですか。当時の人の、空船が嫌であったことはよくわかりますね。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 23:23

面白い着想ですネ。


現在の石油タンカーなどの場合は,アラブに行くまではタンクに水を入れて船を安定させています。そして,目的地で水を排出して石油に入れ替えて戻ってくるのですネ。
では,菱垣廻船や樽廻船は‥
そうですネ。現在の個人経営の路線便のトラックで,積荷の仕入れから販売までを行なっているようなものと考えればよいでしょうか。
何かを目的地に運んだ後は,そこで別の荷物を仕入れて持ち帰ったのですネ。
ですから,空では帰らなかったということなんですヨ。
廻船の場合は往復共に荷物を積んでいたので,石油タンカーのようなバラストは不要だったでしょう。
それでも船主の才覚がなくて,どうしても帰りの荷物がないというときは石などを積んでおけばよかったのでしょうネ。
以上kawakawaでした
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この回答へのお礼

何かを積んだのだろうということはわかるんですけど、具体的な資料がなくて…。
どうしても帰りの荷物が無いなんて、なんだかムダっぽいですね。石を積むのも大変でしょうに(^^;)
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/05 02:47

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Aベストアンサー

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 安かろう悪かろうの品は大阪で消費し、高く売れる良い品のみ、江戸へ輸送されます。
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Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q大阪~高知間の航路(大阪高知特急フェリー)再開について

 大阪高知特急フェリーをよく利用していました。
 フェリーなにわ・フェリーかつら・ニューかつら・ニューとさ・フェリーこうち、と歴代のフェリーが懐かしいです。
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 平成17年に航路が廃止され、18年は南風と飛行機で、今年は高速バスで高知へ行きます。
 廃止前後には、航路存続へ向けて県や企業に動きがありましたが、最近はどうなっているのでしょうか?
 航路再開の話はもう完全になくなってしまったのでしょうか?

Aベストアンサー

"大阪高知特急フェリー" 懐かしいなー、毎年、年末に乗ったな~
覚えている人がいらっしゃった事が凄く嬉しいです。
私は20年ぐらい前から廃止まで毎年、年末年始は乗っていました
乗り始めた1986年頃には物凄い人だかりで
出港が21時20分なのに2時間ぐらい前には長蛇の列が出来ていて
船の中では通路に50円で借りた毛布を敷いて眠った事を覚えています。
私の心の中では”帰省=大阪高知特急フェリー”だったんですよねぇ。

>航路再開の話はもう完全になくなってしまったのでしょうか?
最初は知事さんも航路再開すると仰っていたので期待していたのですが
残念ですが、その話は無くなっているみたいですね。
飛行機の便数が随分と増えてきませんでしたか?1日に12往復ぐらいです。
飛行機の便数が増えたと言う事は船よりも飛行機が必要とされていると
言う事でしょうかね。

仕事を終えて夜乗れば朝、着いていると言う時間的な流れを考えれば
フェリーには飛行機に無い長所が沢山あると私は思っています。

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Aベストアンサー

江戸時代の弁財船は、18世紀以降は大型化し千石船とも呼ばれました。菱垣廻船、樽廻船、北前船などの有名な廻船はすべて弁財船です。

一般的に、弁財船は沖合いの廻船停泊地にとめ、荷はそこから川舟に積み替えて各河岸へ運ばれました。その後、川舟は各船番所で積荷と乗客の検査を受けてから陸揚げとなります。また、この検査のため、生鮮品以外は夜間の通船は禁止されていました。

佃嶋沖などの隅田川河口と高輪沖が二大停泊地だったようです。これらの停泊地は眺めが壮観だったことから、多くの浮世絵に描かれています。
(江戸東京博物館発刊『大江戸八百八町』より)

Q航空機の航路のことで

最近になって京都市内の上空に航空機が昼も夜も飛んでいるんですが航路が変わったのでしょうか?よく見ると一般の航空機のようです。またその場合とうぶんこの航路でしょうか?

Aベストアンサー

 東京~高松や東京~岡山の飛行機によく乗りますが、以前から京都市上空を飛びますよ。上り東京行きは京都市中心より少し北を飛ぶことが多いですが、下り高松行きや岡山行きはちょうど京都の中心地の真上を飛ぶことが大半です。
 最近、冬型の天気の日が多く、上空の西風(偏西風)の強い日が多いようです。西に向いて飛ぶ高松行きや岡山行きの飛行機は、向かい風になり、10分程度遅れることもよくありますし、風で揺れることも多いようです。そんなときに、上空は特に西風が強いけれど、下のほうはそれほどでもないときには、あいていればいつもよりも低い航路を飛ぶこともあるようです。通常は、空気の薄い上空に上がったほうが空気抵抗も少なく燃費がいいので、高度1万メートルを越えるくらいで飛ぶことが多いようですが、先日偏西風が強い日に乗ったときには、高度8千メートルくらいで飛んでいたら、特に向い風が強くよく揺れたので、高度6千メートルくらいに下げて飛んだようです。
 最近、偏西風が強い日が多いため、いつもよりも低い高度で飛ぶ飛行機が多いのため、上空を飛ぶ飛行機がよく見えるのではないですか?

 東京~高松や東京~岡山の飛行機によく乗りますが、以前から京都市上空を飛びますよ。上り東京行きは京都市中心より少し北を飛ぶことが多いですが、下り高松行きや岡山行きはちょうど京都の中心地の真上を飛ぶことが大半です。
 最近、冬型の天気の日が多く、上空の西風(偏西風)の強い日が多いようです。西に向いて飛ぶ高松行きや岡山行きの飛行機は、向かい風になり、10分程度遅れることもよくありますし、風で揺れることも多いようです。そんなときに、上空は特に西風が強いけれど、下のほうはそれほどで...続きを読む

Q京都~江戸 四日市から船で何処へ?

江戸時代、東海道で京都から江戸へ行くとき、船に乗ったのは四日市から何処まででしょうか?
この答えがわからず困っています・・・どなたか知っていたら教えてください。

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東海道新幹線のグリーン車にある「ひととき」という本に東海道の特集が毎月あって、その中に簡単な地図がありました。それによると、江戸期の東海道は桑名から宮までの間が海路になっています。この間が船に乗った区間のようです。これでよいのかなあ・・・。

Q日本国内航路で、一番長く乗っていられる航路

日本国内航路で、一番長く乗っていられる航路(コース)はどこですか?途中寄港可。

苫小牧から、沖縄へのフェーリーなどありますか?

Aベストアンサー

「今」だと東京/沖縄の1743キロです。
しかし12月で終わってしまいます。
その次は苫小牧/名古屋の1330キロになります。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1409/19/news157.html

Q江戸時代船が川を遡るときはどうしてましたか?

江戸時代の物資運搬の主な手段は船でしたが、
船が川を遡って上流に行く場合は、どうしていましたか?
隅田川のように海に近くて、水面穏やかな川でしたら、手漕ぎで大丈夫と思いますが、
荒川、利根川などの中流、上流などは、そのようにはいきません。
人や馬が引いて登ったとすると川に沿ってそれ用の道があったと思いますが、そのような話は聞いたことがありません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

川舟といえば、全国的に使われた高瀬舟ですね
基本的には人力で引上げていきます
高瀬川では一艘に3、4人の「曵き子」がついたようですが、
(綱道がありました)
たいていは船に乗っている人員で引上げました
最低編成では船頭(船)、中乗り(櫂でこぐ)、艫(とも=船尾)乗りは最後尾で櫓を操りるのですが、
瀬が早い場所になると船頭が船に残り、その他の人が岸に上がって船を引くのです
川によって、事情は少し異なり
風を利用したところもあります

◆高瀬川(運河)
9箇所の舟入り(船着場)があった
http://park23.wakwak.com/~hotaru2/ayu.html
◆富士川(帆掛け=風の利用)
4人一組の図や写真があります
(新しいものは帆かけ舟実演行事の写真)
◆岡山県の勝山
川沿いに石畳の船着場があります
こういうところはまだ引きやすいかと思います
http://4travel.jp/traveler/sansai_meijin/album/10268324/


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