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アキレスと亀のパラドクスの解決方法(無限等比級数や無限論を使った)を教えてください。

A 回答 (7件)

 アルツハイマーのアイディアをお笑い下さい。


問題を具体化且単純化してしまいます。
 場は直線上。アキレスと亀の速さは10m/s,5m/sとする。
 亀が1000m先行した後でアキレスがスタートしたとする(勿論同一地点から、亀がスタートしてから200s後)。
 after 300s,スタート地点から1000m地点にアキレスが到着した時、亀は 500m先に居る。アキレスが其処へ50s後に到着した時、  亀は250m先に居る。
 以下同様に進行するとする。勿論それぞれの速さは不変と前提。
 問題は何時までもアキレスは亀に追いつけないとするのが無理であること を示すことにある。
 スタートしてからの経過時間をTsとすると
 
 T=200+100+50+25+------
=200(1+1/2+1/4+------)

 確認回数を1回目、2回目、3回目、-----n回目、------- -とする。
 すると

 n=∞

の時

T=∞

とならない事を軽く示せば良い。

 是は即ち

 t=1+1/2+1+1/4+----+(1/2)^n+-----

 が

n=∞

と考えた時、小数ではあるが正の小数を無限に加えていくと

 t=∞  

 に発散するとの錯覚を抱いて誤解するの がオチなのだという事を示せば 良い。

 一方

 1/3=0.33333333333333333333333---------------

であるが、是は即ち

 1/3=0.3+0.03+0.003+0.0003+------------------

のことだから、右辺を見るとこれも∞になりそうに思わなければなら
 なくなってしまう羽目に合うが、これは左辺を見ると

 1/3≠∞

 ∴ 0.3+0.03+0.003+0.0003+0.00003+0.000003+---------=1/3

という例題を挙げて、

T=∞

に発散しない場合がある事を例証して、納得して貰うという訳には参りま せんでしょうか。トホホホー。疲れたー。宜しく。
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むむ。

期せずしてコメントが続いていますので書かずにいられなくなってしまいました。
starfloraさんの認識哲学的説明はある程度分りますが、私は、この問題はもっと明快で、前向きなことを私たちに教えてくれていると思います。

> アキルレウスと亀のパラドックスは、思考のステップは「生きている時間」
>「生きている意識の構想」なのです。
>(略)
> ニュートン的な形式空間こそ、一種の仮想であり構想だということの反省か
> らすると、ゼノンのパラドックスが成立する世界こそ、実在の現象世界、、

とのことですが、我々は、いずれアキレスが亀に追いつく情景を目にすることに絶対の確信をもっているにも拘らず、このパラドックスがそれを否定するように感じてヒヤッとするわけであって、意識世界と客観世界の存在や関係などに悩むわけではありません。アキレスが追いつくプロセスを、(有限の時間をかけて)「1回目」「2回目」、、と数えるならば決して「今追いつきました」という事態が訪れないのは、誰も不思議に思わないことで、パラドックスにならないでしょう。
このパラドックスはむしろ、実際目にする事象の変化は、必ず、人の意識とは無縁の物理時間を変数にして追わなければいけないことを、強く教えてくれているように感じます。

それともう一つ、よく行なわれる無限等比級数を使った説明ですが、少なくとも(その昔の)私は何か腑に落ちませんでした。数列を1項ずつ足していくプロセスを1つのステップとして頭に描いてしまうと、同じ疑問に戻ってしまいます。級数の値を数学的に出されると、説き伏せられたようでズルイという気持ちが残ります(こういう性格だから数学が苦手(^^;)。腑に落ちないのには、それなりのメカニズムがあるに違いない、、と考えた次第です。
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  先の二人の方の補足に触発されて書きます。
 
  実は、回答は、質問が、「パラドックスの解決法」をと云うことなので、解決するような答えを述べたのですが、本当は、哲学的にはパラドックスなのです。飛矢不動のパラドックスも、深刻なパラドックスで、これらは、質問者の質問からは少しずれますが、ゼノンのパラドックスの哲学的意味の一つの見解ということで記しますが、わたしたちの生きる「時間や空間」についての何かの真実を示唆しているのです。
 
  つまり、本当はパラドックスは解決しないのです。それはどういうことかと云うと、わたしは次のように記しました:
 
  >そこで、こういう過程を無限に続けると、
  >「過程は無限」ですが、
  >実際の距離は、「無限ではなく有限」で、
  >また、かかる時間も「無限ではなく有限」となり
 
  「過程は無限」であるが、「実際の距離は有限」と述べていますが、これはパラドックスを解決するように常識的なというか、形式的な、ニュートン的な時空を出して来ているので、解決するように見えるのです。一応、解決しているのですが、哲学的問題として、まだ議論があるのだと、いうことで、質問者には、申し訳ありませんが、もう少し話を続けます。(後で、参照する人に対しても、書いているということがあります)。
 
  実はアキルレウスと亀の競争の話は、私たちの意識のなかの「想定」なのです。これは、レヴェル2の「想定」事象だとも言えます。レヴェル1は、想定事象ではなく、想定している、つまり思考ししている「現なる私たちの意識の現実」なのです。アキルレウスと亀の競争が、私たちの思考の想定の所産で、そのような競争は、この世界のどこにも現存して立ち現れていないのです。しかし、思考しているのは「現実」で、いま「立ち現れている」のです。
 
  アキルレウスが亀が元いた場所に着くと、亀はすでに、その先に進んでいて、アキルレウスが、再度、亀が進んでいた場所に着くと、亀はすでに……と、思考の現実は、実はステップが無限に続き、ステップには、実際に、一定の時間が必要で、こういう思考のステップは、無限に続き、終わらないのです。
 
  思考している実在者である私たちの思考ステップが、無限に続き終わらないということは、第二想定レヴェルのアキルレウスと亀も、何時までも、想定レヴェルでは、亀がアキルレルスの先を走っていることになります。
 
  時間とか空間は、客観的にあるものか、意識の構想にあるものなのか、というと、カントの感性の形式になって、それは、超越論的な機構だとなります。到達できないはずの物自体に、「あたかも到達できたかの」ように振る舞うのが、現代科学のパラダイムだとも言えます。古代科学は、そうではなかったので、ゼノンのパラドックスが深刻な問題であったのです。そして、ベルグソンの時間論などを考えると、どうも、時間や空間は、意識と共現象的な現れだということになります。
 
  わたしたちが、純粋の思考において、形式的数学モデル空間と、その性質についての直観を行う時、不思議なことに、「実在の物理宇宙」に、わたしたちの主観的観念の所産である数学的構造が、存在しているのを発見するのです。空間の操作図式の修得により、世界のモデルを数学として、シェーマとして把握するので、数学が、世界を説明できるのだと、いうのは、発達心理学や思考の心理学の構造主義派ジャン・ピアジェの考えですが、しかし、この理論だと、複素数空間で丁度モデルできる物理学現象は何故あるのか、何故、思考のモデルである数学が、外在的なはずの現象の枠組み理論として有効なのかの説明が付かないのです。
 
  アキルレウスと亀のパラドックスは、思考のステップは「生きている時間」「生きている意識の構想」なのです。ベルグソンは、「生きている意識の構想」あるいは「生きている時間の事実」を「空間的に解釈すること」は間違いだと強く主張したのです。そして、こういう無限ステップの時間構造を、適用するとうまく納得の行く物理現象が存在すると云うのは、宇宙が、「生きている現象時間」と対応する何かを持っているということを示していて、これは、ニュートン的な形式空間こそ、一種の仮想であり構想だということの反省からすると、ゼノンのパラドックスが成立する世界こそ、実在の現象世界だということにもなるのです。
 
  古代科学において、このパラドックスが深刻な意味を持ったのは、こういう背景があるからだとわたしなどは考えます。カントールの無限集合論とか、ゲーデルの不完全性定理などは、このパラドックスと同じ地平にあるとも言えるのです。
 
  ちょっと、意味不明な内容で済みません(と、一応、断りを記します)。
 
  パラドックスの現代の数学的な解決は、無限等比級数の収束という答えで、解決しているので、以上の話は、このパラドックスの「意味」をめぐる哲学的考察なのです。数学的真理や構造の問題は、哲学的問題となるので、このような話へと展開することがあるのだと考えてください。
 
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物理屋の siegmund です.


hagiwara_m さんが興味深い補足をされておられますので,私も少し.

 ─┼───┼───┼───┼───┼───┼─
  0   2   4   6   8   10

という数直線を(例えば)10から出発して一定の速度で左へいくと
そのうち0に到達するでしょう.
ところが

 ─┼───┼───┼───┼───┼───┼─
 
     0.001  0.01   0.1   1   10

というように対数スケールで数直線を書き直してみると,
いつまでたっても0まで行けないように見えてしまいます.
一定の速度というのは上の図で見たときに一定の割合で左に動くということであって,
下の図では一定の割合で左に動いたら一定の速度になりません.
それなのに,下の図で一定の割合で左に動くのが一定の速度である,
というように錯覚して(させて?)いるのです.

hagiwara_m さんの
> 時間に対して等間隔でない事象のくり返しのステップを、
> 時間等間隔のステップと誤認すると言ってもいいでしょう。
と同じことです.

アキレスと亀の話では,どうも下の図を使うのはよくなかったのですが,
皮肉なこと(?)に下図を使ってはじめてうまくいくような例もあります.
物理で,電子がいろいろなエネルギーを持っているときに,
物質の状態を決めるのに決定的な役割を果たしているのが
ある特定のエネルギー(上図の零と思ってください)に近い電子で,
その特定エネルギーに近いほど役割が大きい,ということがよくあります.
役割は大きいんですが,上の図だと幅が狭くてうまく扱えない.
こういうときに,わざと下図のようにスケールを変えて大事なところをいわば拡大して
扱うような方法があります.
くりこみ群と呼ばれる方法がそれです.
数値計算と繰り込み群を組み合わせた仕事にノーベル物理学賞が授賞されています
(K. G. Wilson,1982年).
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No.2のお答えまでで解決していると思いますが、何故これが今日までも人を悩ませ得るパラドックスの傑作(?)なのか、つまり、疑問のメカニズムはどこにあるのかという点に興味をもったことがありますので、少し付け加えさせて頂きます。



パラドックスから出てくるのは「有限ステップで追いつくことはない」という結論です。そしてこれはまさに事実です。しかし、多くの人は、この結論を「有限の時間で追いつくことはない」(これが日常用語としての「追い越せない」の意味)のように勝手に変えて解釈(錯覚)してしまうのです。「ある時点の亀の位置まで進む」という時間に対して等間隔でない事象のくり返しのステップを、時間等間隔のステップと誤認すると言ってもいいでしょう。見かけの矛盾はこのようにして生れます。

「追い越すことができる(できない)」という表現は一見明快ですが、論理的に考えてみると案外曖昧で、改めて意味を正さないといけないということですね。
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  これは、数式ではなく言葉でも説明できます。
 
  言葉で説明しますと、出発点が、亀とアキレウスが同じなら、最初からアキレウスが亀を追い抜いているのです。しかし、アキレウスの方が亀より、例えば100メートルほど後から走り出すと、アキレウスが亀のいた場所に達した時、亀は、すでに、その時間のあいだに先に進んでおり、更にアキレウスが、先に進んだ亀の位置に到達すると、亀は、更に先に進んでいるという話なのです。
 
  アキレウスが亀の走る速度の10倍の速さで走るとすると(実際はもっと速いですが)、最初の遅れていた距離をアキレウスが走ると、亀は、その10分1の距離、先に進んでいます。更にこの距離をアキレウスが走ると、亀は更にその10分の1,つまり、最初の距離の100分の1前に進んでいます。
 
  こういうことは、アキレウスが亀を追い抜けない距離は、結局:
 
  1/10+1/100+1/1000+……
 
  ということになります。これは等比級数で、無限にこういうことが続くとすると、無限等比級数ということになり、無限等比級数は、発散(無限になる/振動する)か、或る値に収束するかどちらかしかありません。この場合は、収束するのです。そこで、こういう過程を無限に続けると、「過程は無限」ですが、実際の距離は、「無限ではなく有限」で、また、かかる時間も「無限ではなく有限」となり、有限の時間内にアキレウスは亀を追い抜いてしまい、パラドックスは成立していないことになります。
 
  これが数式を使わない説明です。無限級数は、発散するか収束するかで、この場合は、収束するというのが、ポイントです。
 
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