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神であるイエスがいちじくの実に「枯れろ!」って言ったのはなぜですか?

A 回答 (7件)

「信仰します 義たる人になります」と言いながら、結局不実を続けた場合、時がきて神も もう救いようがないと判断し、滅するという事を言っていると解釈される人が多いようです。




しかし、あの地域一体のイチジクの概念は、多産である。
イエスの母マリアの母、洗礼者ヨハネの母、その他いく人かは、不妊の女性達が聖書には登場します。

その彼女たちは神を崇拝することで、高齢(100歳近かったような)にも関わらず妊娠をする という話が何度も出てきます。

そしてユダヤ教における<神の祝福>とは、子供は神から与えられるもので、神から祝福を受けた人の子孫は天の星のように大勢になるとされていました。

神の祝福→多産

このことから考えると、子供ができない→信仰心がないから神から祝福されず子供ができないでいる  となり、枯れる ということは 「一族は絶える」と言ったのではないかと思います。

確かに子供ができなければ、それで代は終りますが。

現代では神から呪われたから子供ができないわけではないのですが、当時はそれが常識だったのです。

その物語を書いた聖書作家もそういう概念が常識の時代の人だったので、そういう物語を作ったのではないかと思います。
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イエスさんがそんなことを言ったなんて、ひどい。


でも、人間だれだって、むしゃくしゃするとき、あるんじゃない?そういう気分のときだったんですよ。それが人間ってものですよ。
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この話はマタイ21章19節とマルコ11章13節にあります。


イエスは「今後いつまでもお前の実を食べるものがないように」と言ったんですね。
そしたら枯れてしまった。(マルコ)
マルコには「いちじくの季節ではなかった」とありますから、ずいぶん理不尽な話ですよね。

私はキリスト教徒ではないのでこの話の意味するところはよくは分からないのですが
「実のないいちじくの木」で検索するとこの話の教訓がたくさんヒットします。
ようするに信仰の薄いものをこのいちじくの木にたとえて戒めた。
または信じて疑わなければ奇跡が起きるということたとえのようです。

ところでイエスは神の子であって神ではありません。
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こんばんは。



ある意味で、これは象徴的な意味合いを持っていると思います。
「枯れろ!」とはありませんが、呪われたと書かれていますね。

いちじくというのは、人や国(時にイスラエルの喩え)のことを指し、信仰を持ち、悔い改めて役に立たなければ、その人は一生をのろわれてしまう、という喩えだと思います。

だから、「神を信じなさい。」マルコ(11:22)

ということだと思います。
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…。

あの~。何か良くも知らないでこんなこと言うの何なんですが。
キリストさんはもっとやさしいかただと思うので、そういうつもりで言ったのではないのではないでしょうか。
もしかしたら、「私も腹をすかせているが、実を無理に付けることはない。私は私の方法で私の腹を何とかしよう。だから、お前も無理に実を付けようとせずに、したいことを成しなさい」という旨を言って、それをイチジクが受けて「ではしばらくの休暇をいただきます」と言う意味で枯れて言った、そういう解釈はできないでしょうか。それを他の弟子たちが見て、「先生が枯れろといったら枯れた」とオオゴトにした可能性はありませんか。きわめて人間的な解釈の仕方かもしれませんが、そのへんどうなんでしょうか。詳しくその部分を知らないのでわかりませんが。
こう解釈すると、「都合が悪いからと言って周りのせいにしてはいけない」と言う意味にも取れると思うのですが。
すいません。良くは知らないので、質問を重ねている格好になっていますが、どうなんでしょうか。
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これは、マタイによる福音書21章19節にある記述ですね。



それは、ベタニアという町で、ちょうどお腹がすいていた時にイチジクの木が目に留まったのですが、時期が合わなかったのでしょう、実が実っていなかったのです。
「私がお腹をすかしているという肝心な時に、この役立たずが!」と思ったのかは定かではありませんが、「今後ともオマエは実など実らせなくとも良い!」と言ったのを聞いて、イチジクの木がシュンとなってしまったのでしょうか、みるみる枯れてしまったというエピソードです。

ですので、イエス様は具体的に「枯れろ!」とは言っていないことになっていますよ。

このエピソードは、まず1つは、たとえ神であろうとも、人間の肉体に宿っている以上は、(お腹がすくなどの)人間的な制約を受けているということを示していると思います。
こうした人間的な体験があるからこそ、人間的な弱みも理解して下されるものと理解出来ます。

もう一つは、使命を果たすべき時に、使命を果たせなかった悲劇を表わしていると思います。
「主が私を必要としている時に、私は主に報いることが出来なかった」という事実は、悔いても悔いても悔やみ切れないものがあるのだということかと思います。
イチジクの木でさえ、「もう、あなたに合わせる顔がございません、死んでお詫びを・・・」といった感じになるのだよ、ましてや人間であれば・・・というところでしょうか。
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このイエスの発言は、聖書の福音書のどこに書かれていたものですか?。

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