どうしても知りたいことが・・・
西郷隆盛の犬の名は?
友達曰く、「つん」だと・・・
どうなんでしょう?

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A 回答 (6件)

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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2002/01/11 12:26

 回答はもう出ていますので蛇足です。

#5の方が言われるように薩摩犬の純血種は途絶えたと思われていましたが、実は甑島という島に野犬化して残っていたらしいのです。今は、保存会の方々の努力で純血種と認められた犬が生存しています。その雌犬から8匹の子犬が生まれてもらわれていったというニュースがつい最近報じられていました。詳しくは下記のURLをどうぞ。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/nsurf/nsurf46/nsu460 …
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2002/01/11 12:22

 確かな情報ではありません。

何年か前に本で読んだのですが、その本が手元にない上に記憶もさだかではありません。
 ただ確かなのは仰る通り上野公園の西郷隆盛像が連れているのは雌の薩摩犬ツンがモデルであるといわれていることです。(実際の銅像のモデルは雄の薩摩犬です)薩摩犬は薩摩地方の土地犬で、柴犬ぐらいの大きさです。今はもう純系はいません。
 不確かなのはこの後です。この犬を西郷隆盛は可愛がったそうですが、いっしょにいた期間は短かったようです。それに確か成犬になってからだれそれ公より寄贈されたものだったと思います。それ以前かそれ以降かにもっと長く飼っていた犬があるいは複数いたようですが、薩摩犬だったかどうかとか名前等記憶にありません。
 ですから「上野公園の西郷の飼い犬」の名前はツンで間違いないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2002/01/11 12:23

西郷さんの連れている犬は銅像では『♂』ですが、これは犬の像の作者の後藤貞行が誤って雄の薩摩犬をモデルにしたためだそうです。

本物は前田善兵衛から譲り受けた牝犬です。名前は『ツン』。
ちなみに西郷さんの銅像は高村光雲作で上野の像は合作です。西郷隆盛の顔は弟の従道(つぐみち)と従兄弟の顔からのモンタージュで本人とはかなり違っちゃってるそうですよ。

ツンだけの像というのは参考URLのことかと思います。回答が出たあとなので参考まで。

参考URL:http://www.minc.ne.jp/togo-town/sight/km_fujikaw …
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2002/01/11 12:24

#1訂正



彫刻の作者が同じと言う事で、連れていた犬は Rikos さんの回答のように「ツン」でした。

尚、現在の「ハチ公」は2代目で初代の銅像の作者の安藤照さんの息子の安藤武士さんの作品。

済みませんでした。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2002/01/11 12:25
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この回答へのお礼

ありがとう
Congraturation
ファゐナルアンッサー?
残念!!

     ツンです。

お礼日時:2002/01/10 14:32

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Q西郷隆盛の銅像

上野の西郷隆盛の銅像についてお聞きします。
テレビなんかでもよく言われていますが、あの銅像って、できた当時、西郷の奥さんが「うちの人と全然似てません」みたいなことを言ったそうです。
そこで疑問なんですが、奥さんが「全然似てない」と言った時に、
「じゃあ、どんな顔だったんですか?」とか聞かなかったんですか?
聞いておけば良かったんじゃないんですか?

Aベストアンサー

>「じゃあ、どんな顔だったんですか?」とか聞かなかったんですか?
>聞いておけば良かったんじゃないんですか?

 一説によると あの像を見た奥さんは、
かなり、「取り乱した」という話もあります。

 アナタは、そんな取り乱した女性に対して
「どんな顔だったんですか?」と平然と聞けますか?
http://pleasure-bit.com/1048.html

 仮に取り乱していなくても
<除幕式>の祭典の際中に「どんな顔だったんですか?」なんて
まともな、人間なら聞かないわな~

 聞いたところで どうするの?
似顔絵でも書いて銅像を作り直すの?

 あの銅像が作られた経緯を考えたら
作り直しなんて余程バカか、責任感のある奴しかやらんだろ

 大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって
西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、
吉井友実ら薩摩出身者が中心となって建設計画が立てられ

・宮内省より500円を下賜
・全国2万5千人余の有志の寄付金で建立

 この金額と善意が無駄になりますがな~

Q西郷隆盛の・・・

西郷隆盛の教科書などに載っている肖像画はあれは本当は間違いであるとは本当ですか?

Aベストアンサー

上野の銅像の序幕式で 奥さんが 似てないと
言ったのは事実です。
教科書で一般的に知れ渡ってる顔は似ていない
らしいですよ

最近ある民家から 明治初期の官僚の写真が
多数発見され 誰かがわからないものも20~30枚
あったそうで もしかしたら本当の西郷さんが
含まれている可能性もあるのではないか?
と言われましたが 真実はまだわかりません。

Q西郷隆盛の側近について

西南戦争の時の、西郷隆盛の側近で、映画やテレビ番組で描かれている人物で、いつでも、戦場でも、戦闘時でも、山高帽をかぶり、高級スーツにネクタイ・革靴を着用している人物は、どういう人なんでしょうか?

Aベストアンサー

 桐野利秋の可能性も有りませんか?

 洒落者として有名だったみたいですし…。

 陸軍少将時代には金無垢の懐中時計を愛用し、軍服はフランス製のオーダーメイド・軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用し、城山で戦死した際にも遺体からはフランス製の香水の香りがしていたとか…。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E9%87%8E%E5%88%A9%E7%A7%8B

Q同じ韓国支配でも西郷隆盛が目論んだものは政府の方針とは異なるのでしょうか?

授業では「西郷隆盛が中心となって征韓論を唱えるも、欧米視察から帰ってきた岩倉具視を中心としたメンバーが外国のことより国内のことを優先すべしとの方針により、征韓論はつぶされ、その後、機が熟してから韓国併合への道程をとった。」と習っていたので、西郷隆盛の征韓論と後の韓国併合への道程は単に時期が違うだけと思っていたのですが、先日古書店で立ち読みし、興味を持ったので購入した雑誌によく分からない箇所がありました。その箇所とは「私は韓国精神文化研究員の院長をされた李★(★=王ヘンに宣)根さん(故人)と何回もお会いしています。ソウルでも会ったし、東京でも会いました。李院長は反日の巨頭とも言える激烈な人なんだそうですけれども、その李博士がいうのには、とにかく日本には悪いやつが多いが、西郷さんにだけは頭を下げる、西郷さんが礼儀作法正しく、軍隊を連れずに韓国の王宮を訪問するという方針を出したことは、自分の心にちゃんと宿っていると、こう言うんですね。[文芸春秋1986年12月号 日韓大闘論 の記事の村尾次郎氏の発言]」という部分です。この箇所を読むと、西郷隆盛の主張した征韓論と後の韓国併合への道程とは180度方針が違うというように思えるのですが、そもそもこんな話など今まで聞いたこともなくさっぱり意味がわかりません。同じ韓国支配でも西郷隆盛が目論んだものは政府の方針とは異なるのでしょうか?

授業では「西郷隆盛が中心となって征韓論を唱えるも、欧米視察から帰ってきた岩倉具視を中心としたメンバーが外国のことより国内のことを優先すべしとの方針により、征韓論はつぶされ、その後、機が熟してから韓国併合への道程をとった。」と習っていたので、西郷隆盛の征韓論と後の韓国併合への道程は単に時期が違うだけと思っていたのですが、先日古書店で立ち読みし、興味を持ったので購入した雑誌によく分からない箇所がありました。その箇所とは「私は韓国精神文化研究員の院長をされた李★(★=王ヘンに宣)...続きを読む

Aベストアンサー

西郷隆盛は、いわゆる「征韓論」を主張したと学校の歴史の授業ではならいますが、彼の実際の発言を調べるとそうではないことがわかります。

政府の公式な会議の場での発言は、李院長の言う様に軍隊を連れず丸腰で当時の李氏朝鮮に訪れるといったのです。
つまり西郷の本意は、板垣退助らのような軍事力行使ではなく、あくまで外交で決着をつけるというものでした。

後の大久保利通らとの政争の関係で、西郷と板垣たちをまとめて「征韓論」と今までの歴史授業では区分していましたが、西郷の本心が外交にあったとする考えから、西郷だけ「遣韓論」だったという意見が近年になって研究者の間から出てきています。

参考:『(西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論』
 http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai11.htm

Q朝鮮出兵に対しての太閤秀吉と西郷隆盛

あまり自信があるわけでなくこじつけかも知れません。
秀吉の朝鮮出兵と西郷が唱えた征韓論は何か共通点があり、それは直前の戦乱の時代の残り火を消すという作業であったのでは。
秀吉の国内統一には、内乱を収める必要があり、そのためには危険勢力を国外に向け海外利権を獲得させるというひとつの目的に収束させる事。
西郷は特に、薩摩の戊辰戦争でくすぶりが残る武士団の功名エネルギーを上手に有効利用する方便として、征韓論を唱えたのではないか。理想としては富国強兵と信じていながらも、現実的な武士の働き場所や、内乱の予防のために(この予防が失敗したので西南の役その他が起きる)出兵を主張したのではないだろうか。

2つに共通性はあったのでしょうか。それとも違った観点で考えたほうがよいのでしょうか。

Aベストアンサー

西郷隆盛の征韓論についてのみ、述べます。
西郷が征韓論を主張したことは史実です。
鹿児島県発行の『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っています。それによると、西郷と参議の板垣退助、副島種臣、左院副議長の伊地知正治が軍隊派遣の戦略について協議しています。西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成しました。しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながら、南北挟み撃ちの戦略を主張し、西郷は同意しました。
司法省出仕だった有馬純雄(薩摩出身)は、自伝『維新史の片鱗』で、西郷に朝鮮占領後の民政官に任命するといわれ、関係地図を探したと述べています。
西郷が征韓論を唱えなかったというのは、西郷びいきの人びとのたんなる願望です。

参考URL:http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/seikanron2.html


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