正月吉夢として一 富士、二 鷹、三 茄子というのがありますが、ある本に日本三大仇討ちにも喩えられるとありました。
一 富士は曽我兄弟(仇討ち場所から)、二 鷹は赤穂浪士(浅野家家紋から)だったのですが、最後の三 茄子が書いてありませんでした。
どなたか、ご存知の方教えて下さい。個人的には明智を討った羽柴秀吉かとも思うのですが・・・。違うかな?

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A 回答 (3件)

 こんにちは。



 荒木又右衛門の36人切りで有名な

 「伊賀越鍵屋辻の決闘」

 ――なんだそうです。

 なぜ「茄子」かはちょっとわかりません。調べてみますね。

 参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

鍵屋の辻でしたか!いえいえ参考になりました。早速ありがとうございます。
しかし、ずっと茄子で連想していたので、荒木又右衛門は頭に浮かびませんでした。

お礼日時:2002/01/10 07:57

 こんにちは。

No1の者です。

 どうやら、伊賀は茄子の産地らしいですね。このあたりも関係しているのかもしれません。全然自信はありませんが。

 参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

重ね重ねありがとうございます。伊賀は茄子の産地ですか。しかし、それにしても一、二と比べると三にはかなり無理がありますよね。

お礼日時:2002/01/10 08:03

荒木又衛門の助太刀



一、曾我兄弟は富士で仇討ち
二、忠臣蔵。鷹の羽は浅野家の紋です
三、名を成すびの花が咲く荒木又右衛門の仇討ち






『義士銘々伝』
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/kodan/meimei. …

三大仇討とは『一に富士、二に鷹の羽の打違ひ三は上野で花ぞ咲かせる』といふ狂歌のやうなものが出来てゐる。

一に富士とは建久五年五月、富士の裾野で巻狩の陣所を襲ひ、目出度く父の仇を討つた曽我十郎五郎兄弟のことで、二に鷹の羽の打違ひとは、丸に鷹の羽の交叉した即ち浅野家の定紋により、この赤穂義士の仇討を挙げたもの、元来一富士二鷹三茄子といつてこれが吉夢の兆となつてゐる処から、狂歌体にこれを詠み込んだものらしいが、三茄子はどうも巧くこじつけられなかつたと見えて、三に上野で花ぞ咲かせると結び、伊賀の上野で荒木又右衛門が、義弟の渡辺数馬に助太刀をして、その仇たる河合又五郎を討つた事件を、三大仇討の第三に数へた次第、強いて三茄子を詠み込みたかつたら...

参考URL:http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/kodan/meimei. …
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この回答へのお礼

なるほど、三 茄子を持ってきたのは、かなりのこじ付けなのですね。詳しいURLまで貼って頂き、ありがとうございます。

お礼日時:2002/01/10 08:02

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Q「世界三大○○」、「日本三大○○」について教えて下さい。

「世界三大○○」、「日本三大○○」等、いろんなジャンルを教えて下さい。もし他のくくり(例えばアジア三大○○)があるようでしたら、そちらもお願いします。

例:世界三大珍味(キャビア、トリュフ、フォアグラ)

Aベストアンサー

no.2です。

urlまちがってました。
こっちです

参考URL:http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9448/earth/three.html

Q吉良が浅野をいじめた証拠は?(赤穂浪士)

元禄14年2月4日:吉良義央と浅野長矩が勅使饗応役を拝命
2月29日:京都から吉良が戻る
3月12日:勅使・院使が登城し、聖旨・院旨を将軍に下賜する儀式
3月13日:将軍主催の能の催しに勅使・院使を招く
3月14日:吉良が旗本と儀式の打ち合わせ中、浅野が切りつける

刃傷の原因ははっきりしないようですが、
両者の間にトラブルがあっとすれば2週間の間のことです。

1.この間、吉良と浅野は何度会っていますか?
2.吉良と浅野が二人だけで話をする機会がありましたか?
3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1.この間、吉良と浅野は何度会っていますか?
2.吉良と浅野が二人だけで話をする機会がありましたか?
3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。

この、1.2.3の質問に関しては、私も知りたいくらいです。
ただ言えることは、
(1)浅野内匠頭は天和3年(1683)2月6日にも、零元天皇の勅使饗応役を仰せつかって、江戸に下向した花山院定誠や千種有能の両名の接待を無事努め上げています。
(2)従って、元禄14年(1701)の時も、従前にならって準備を進めたと考えられます。
(3)しかし、この年は、5代将軍綱吉の母桂昌院(お玉の方)へ従一位が贈呈されると思われた年で、将軍綱吉も「そそうの無きように」とのお声があった、とも言われています。そして、吉良上野介が京都から帰って(あなたのおおせの通り、2月29日)から、院使清閑寺熈定の一行が3月10日に品川宿に着いたことを受けて、浅野氏も同日、伝奏屋敷に入りました。だが、この年の饗応には「特別な意味合い」がありましたので、2月29日から3月10日の間に吉良氏から「数々の変更」を指摘され、予算を大幅に超える事態となった、と言われています。
(4)だが、この事が「直接の原因」として、後の歌舞伎などでは取り上げられていますが、史実は「全くの不明」です。
(5)一説には、(吉良側の史料では)、
<1>吉良の拝領地三河国幡豆郡(その他にも、上野国緑野郡、碓氷郡を拝領)で「塩田開発」を真似ようとしたが、教えてもらえなかった。
<2>元禄3年(1691)12月23日に浅野は本所周辺の「火消し大名」に任命されたが、元禄11年(1698)9月6日に起きた火災での際、鍛冶橋にあった吉良邸を全焼させてしまい、吉良は浅野を嫌っており、対立が深まった。
<3>浅野家の小姓を吉良が所望したが断られた。
<4>高家肝煎の吉良に、教えを請うのに、浅野家江戸家老安井彦右衛門や藤井又左衛門らの「付け届け」をしたほうが良い、との忠告に従わず、「授業料」を払わなかった。
こうして、二人の間に対立関係が生じた。
などとも言われていますが、いずれも「確たる証拠」は残っていません。と、言うよりも見つかっていません。
なぜならば、ご存知のように、浅野内匠頭は、ただちに、奏者番田村右京太夫(陸奥一関藩主)の屋敷にお預けとなり、即日、切腹。となりましたので、浅野がどのような「遺恨」であったかが、書き残されていないためです。
(6)後世に幾つもの「推量」で書かれた本などもありますが、
例えば、
前回にならって、畳の表替えだけで良かったものが、吉良の指図で、急遽、畳全部を取り替えるよう、前日になって言われた。
とか、勅使の好みが違うので、食材を全部調達しなおした・・・。
などと、誠しやかに書かれていますが、全くの「闇」の部分です。
(7)ただ、>>3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。<< については、江戸詰家老や江戸詰藩士たちは、実際に「困らせられる」ようなことがあったとは思いますが、江戸詰家老たちは「討ち入り」に参加をしなかったため、日記などがあったとしても、一躍、浅野内匠頭が「時の英雄」となったため「闇から闇へと」葬られた可能性が高いと考えます。
また、江戸詰藩士の中でも最長老の堀部金丸(弥兵衛)などの日記も残ってはいるようですが、一切、「いじめ」に関しての記述は見当たらないそうです。

(よもやま話)
(1)「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」、江戸時代中期の元禄時代に書かれたと思われる、当時の各藩の藩主や政治状況を解説した本。当時の政治状況や各藩に対する認識を示した珍しい史料として注目される一方、編著者名や製作された目的も未だ不明で、「謎の史料」とも言われる。
によると、
長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也。女色好事、切也。故ニ奸曲ノ諂イ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色能キ婦人ヲ捜シ求テ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有テ戯レ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至テ、家老之心ニ任ス。
浅野内匠頭について、以上のような記述がされており、
「知恵」や「公正さ」があって、武士も民も豊かだった。しかし、いかんせん、「女好き」であった。そして、数え歳17歳で赤穂藩主となったため、また、筆頭家老の大石内蔵助にしても、若干25歳であったため、一番年長の大石頼母助(内蔵助の大叔父で、浅野家とも親戚)や末席家老の大野九郎兵衛知房などに政務を任せたことが書かれています。
しかし、「女好き」にもかかわらず、子息子女はできず、弟大学を養子にしています。
ただ、「土芥寇讎記」は、刃傷事件の約10年前位に書かれたものだと言われ、浅野びいきで書いたものではないことは確からしいのですが・・・。
(2)井沢元彦氏の著書「逆説の日本史・忠臣蔵はデタラメだらけ」という本によると、
<1>刃傷は「松の廊下」ではなく、白書院(公式行事用の部屋ではあるが大広間よりも少し内輪の儀式用)で、吉良が老中などとの打ち合わせを終えて出てきたところを浅野が切りつけた。従って、「松の廊下」ではなく「白書院」の前の廊下が正しい・・・と、力説しています。

しかし、「梶川氏日記」を詳細に調べた結果、(口語訳ですが)、
「御白書院(桜間)の方より、吉良殿が御白書院よりやってこられました。・・・(中略)・・・私は、大広間に近い方に出て、角柱より6~7間もあるところで、吉良殿と出会い、互いに立ったままで、私が、今日、お使いの私の時間が早くなりました。と一言二言話したところ、突然、浅野殿が・・・」
と、あり、となると、現場は「松の廊下」だ、と、中央義士会の中島康夫会長も是認しています。

この「梶川日記」は、梶川与惣兵衛の残した日記で、梶川は、いわば、饗応役の使い走りで、まず、浅野と打ち合わせをして、次に、老中との打ち合わせが終わった吉良と相談すべく、浅野の数歩先を歩いていましたが、浅野が刃傷に及んだ時、あの有名な「浅野殿、殿中でござる。殿中でごさる」と叫んで、浅野の背後から止めた人物で、その後、この褒美として、500石を加増されています。

<2>井沢氏は、「松の廊下」には、良くTVなどで見るような「大きな松」が描かれてはおらず、実際は、「松原の様子」を描いたもので、海と砂浜、松、千鳥がバランスよく描かれたものである。とも言っています。これには、1988年に東京国立博物館で江戸城本丸御殿の障壁画下絵が発見されたからだ・・・とも書いていますが、

要は、「松」が大きかろうと、小さかろうと、「松の廊下」と呼んでいたには違いないのだから・・・と、「史家」や「学者」は反論しています。

まあ、まだまだ、真実は否かは別として、「面白い話」もありますが、長くなりましたので、この辺で・・・。

少しでも、あなたのお役に立てばと、思います。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1.この間、吉良と浅野は何度会っていますか?
2.吉良と浅野が二人だけで話をする機会がありましたか?
3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。

この、1.2.3の質問に関しては、私も知りたいくらいです。
ただ言えることは、
(1)浅野内匠頭は天和3年(1683)2月6日にも、零元天皇の勅使饗応役を仰せつかって、江戸に下向した花山院定誠や千種有能の両名の接待を無事努め上げています。
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Q日本三大芋とは

鳴門金時が日本三大芋のひとつということでしたが、ほかの2つは何なのか教えてください。

Aベストアンサー

「日本三大芋」って勝手に産地が言っているだけでは?

日本全国いたるところでサツマイモを作っています。
おらが芋を自慢したい気持ちは判りますが、真面目に作っている所はどこのでも美味しいです。

小生はさつま芋に限らず、単純な日本一とか何とか言う呼び方には疑問感を持っている者です。
そんな表面的な表現に惑わされないように個々人が防備しないといけない時代かとも思っておりますが如何でしょうか?

ご質問に正面から回答して無いことにはお詫びします。

Q赤穂浪士事件

赤穂浪士事件について興味を持っていて、大石率いる赤穂浪士の仇討ちは正当であったか否かという文献を探しています。葉隠の作者、山本常朝をはじめとする、正当ではなかったという意見の専門家が多いようです。それらの資料を読み感嘆しましたが、正当であったという文献を読んでみたくなりました。

仇討ちは正当であったという文献がありましたら教えて下さい。
また、三島由紀夫は忠臣蔵の脚本を書いていましたが、赤穂浪士の仇討ちを賛美していたのでしょうか?三島由紀夫の本で赤穂浪士について述べているものがありましたら教えて下さい。

Aベストアンサー

確かに興味深い設問ですね。

赤穂浪士の仇討ちそのものを正当化する論説を公表するには、復讐の連鎖を阻止する代案を示さない限り不可能なのでしょう。
歴史に「もしも」は禁句でしょうが、正当化の論陣を張るには、「もしも」仇討ちに失敗してたとしても正当化できるのか。
さらには、「仇討ち」が赤穂浪士にとってベストの選択だったのか、という難問もあります。
少なくとも、そこらへんをクリアしておかないと、「国家の裁判権は私人に譲れない」とあっさり一蹴されそうです。

明治末年に、福本日南というひとが「元禄快挙録」(岩波文庫 /上中下)という赤穂浪士礼賛の書を出したそうです。
   ↓
 http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/070/01.html
>福本日南

今では「国粋主義者」というレッテルを貼られてるようですけど、読んでないのでコメントは控えます。
 

Q日本三大祭の一つが分かりません?

日本三大祭について、疑問があるのですが、
・祇園祭(京都)
・天神祭(大阪)
の二つは分かるのですが、
残りの一つが、山王祭、三社祭、神田祭など
諸説あるようです。

このあたりのことに詳しい方、
三大祭について、ご意見でも結構です。
ぜひ教えてください。

Aベストアンサー

どうも時代によって,権力者の意向や規模等により組合せは異なるようです。
江戸時代初期には,神田祭が三大祭の一つだったようですが,これは山王祭と隔年で行われていたため,双方を三大祭と認識していいかと思います。
 祇園祭,天神祭,神田祭と並べると,元々はどれも怨霊鎮めの祭りであり,#3のbrainbasterさんとは違う意味での時の権力者の意向を感じます。
 #unyattojinjaさんの仰る高山祭は,日本三大祭とは別に「日本三大美祭」(祇園祭,秩父の夜祭,高山祭)に挙げられていたと思います。
 さて,現代の三大祭りといわれるとどうなんでしょう?
自分的にはやはり祇園・天神・神田でしょうか?なんせ,主祭神が,素戔鳴尊(すさのおのみこと:祇園八坂神社),菅原道真公(北野天満宮),平将門(神田神社)と最強ですから(笑)

参考URL:http://homepage1.nifty.com/zpe60314/matuli2.htm

Q赤穂浪士  安井新右衛門

赤穂浪士の仇討ちの時代、浅野家の江戸家老に安井新右衛門という方がおられたようです。その人はこのとき高齢で仇討ちに参加することができなかったようです。仇討ちに参加せずに,竹田にうつりすんだということですが、竹田のどの辺りにうつりすんだのでしょうか。また安井新右衛門についてご存知のことがあれば教えて頂きたいです。歴史に関してかなりの無知ですので、どんなことでも結構です。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

赤穂藩の江戸詰家老として「安井彦右衛門(やすいひこうえもん)」が、いるようです。

参考URL:http://leidenschaft.infoseek.livedoor.com/ya.html#やすいひこうえもん

Q日本三大○○は どれがホント?

過去問でもありました。
「だれが、『日本三大○○を決めてるの?』」 とか。

確かに、選者によって 「三大○○」は変わってきます。
それに異論を唱えたところで、
「ウチが三大の一つだ!」と言ってたトコが 引っ込めることはあるのでしょうか?・・・ないでしょうね。

たとえば、あるサイトで「三大神宮」に「出雲大社」がなかったり、「三大八幡宮」で「宇佐八幡宮」が落とされてたり・・・
それをオカシイと思うのは、私という個人の「三大○○」から外れているからなのです。

「三大○○」は、いろんな視点で選ばれたのでしょうから、選者の数だけ、「三大~」もあってもイイのかな? とも思いますが、旅行する上で「ハズシたくない」という思いがある場合、だれの説を参考にすればいいのか・・・。
検索ヒット数の多いヤツでしょうか?

あと、この「三大○○」というのは「言ったモン勝ち」なんでしょうか?

Aベストアンサー

日本三名爆、日本三大急流、日本三名園、日本三景あたりは、納得です。

もうずいぶん前ですが、「日本三大稲荷」「日本三大薬師」あたりから、おやぁ?と、思い始めました。
言い出しっぺは、NO2か、NO3あたりのところで、敢えてNO1をはずしにかかっているのか?という疑惑を感じていました。
五大カレー都市にスープカレーが入らず、聞いたこともないカレーが入っていたり・・・。
新日本百景とか、日本百名水とか、主催団体が公募しているところは、数が大きくなる傾向があると思います。

ズバリ、言ったもん勝ちと、思います。

Q赤穂浪士の通行手形

討ち入りを決意した赤穂浪士の面々は、おいおい地元を後に江戸に向かいますが、通行手形をどのようにして入手したのですか。
また、浅野内匠頭切腹後、江戸藩邸にいた人たちも国元へ帰ったと思いますが、通行手形や関所手形をどのようにして入手したのですか。
浅野家(赤穂藩)は、刃傷事件の直後改易となったので、どのような内容の通行手形だったのか、という疑問です。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>討ち入りを決意した赤穂浪士の面々は、おいおい地元を後に江戸に向かいますが

討ち入りを決意した!と言うより、再就職が出来なかったので已む無く!が本音でしよう。
当時の記録では、江戸市民からの喝采もありませんよね。
名古屋藩の某奉行の日誌でも「江戸で、騒動があった」と数行の記録しかありません。^^;
歌舞伎・仮名手本忠臣蔵で美化されたので、忠臣・義士扱いですがね。

>通行手形をどのようにして入手したのですか。

主家が取り潰しになっても、家臣は罪を犯した犯罪者ではありません。
単なる、失業者=浪人です。
ですから、人別帳(現在の戸籍の側面を持つ)には残っています。
町村毎に名主や庄屋、町年寄が毎年書き改める義務がありました。
単なる江戸への移動では、元○○藩浪人として手形の発行を受ける事が出来ます。
今で言う市町村外への引越しの場合は、寺請証文(現在の、転出届けの側面を持つ)を貰って引っ越し先の役所に提出します。
つまり、浪人でも人別帳に記載がある限り手形を持つ事が出来るのです。
※引越し時に手続きを忘れた・罪を起こして人別帳から外された者は「非人」となります。
世間体を気にして、旦那寺・菩提寺に頼んで発行してもらう場合が多かった様ですね。

>どのような内容の通行手形だったのか、という疑問です。

一般庶民と同じ手形です。

赤穂から江戸へ向かう場合でも、関所役人は「仇討」とは思っていません。
赤穂藩が潰れたので、江戸へ再就職に行くのか?と思うだけです。
普通に、関所を通ったようです。
意外かも知れませんが、男性の場合「手形が無くても、関所を通る事が可能」でした。
当然、無手形の場合は「審査・検査」が長引いた様です。
赤穂浪人の場合、入念な審査・検査をされると困りますよね。
名誉毀損にならない為に匿名にしますが、旅籠の主人にカネを渡して手形を書いてもらった義士もいます。^^;
手形といっても、先に書いた通り「身分証明書」です。
「スケベ左衛門は、赤穂の生まれで現在浪人。(省略)この記載に、間違いありません。○○村庄屋○衛門」
まぁ、仮名手本忠臣蔵とかTVドラマは「フィクション」に過ぎません。

>討ち入りを決意した赤穂浪士の面々は、おいおい地元を後に江戸に向かいますが

討ち入りを決意した!と言うより、再就職が出来なかったので已む無く!が本音でしよう。
当時の記録では、江戸市民からの喝采もありませんよね。
名古屋藩の某奉行の日誌でも「江戸で、騒動があった」と数行の記録しかありません。^^;
歌舞伎・仮名手本忠臣蔵で美化されたので、忠臣・義士扱いですがね。

>通行手形をどのようにして入手したのですか。

主家が取り潰しになっても、家臣は罪を犯した犯罪者ではありません。
単...続きを読む

Q日本三大祭りってどの祭り?

日本三大祭りとよく言われますが、それってどの祭りなのでしょう?ネットでざっと見てみたのですが、色々な意見があるようです。 (京都の祇園祭どのサイトも含んでいるようですが、、、。)そもそもハッキリと決まってないものなのでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

過去に同じような質問がありました。参考URLのNo6の方の回答の参考URL上段をどうぞ。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=334566

Q吉良邸では、どうして赤穂浪士襲撃に備えて

吉良邸では、どうして赤穂浪士襲撃に備えて番犬を飼わなかったのでしょうか?歴史にもしもは禁物ですが、吉良邸で番犬を数匹、 飼っていれば赤穂浪士たちの襲撃を事前に察知し、ある程度の防御はできたかも知れないし、上野介義央も無惨な死に方をしなくてもよかったかも知れません。
補足
赤穂浪士たちが邸内に侵入を開始した時、それを察知した番犬たちが、いっせいに吠え、それを聞いて吉良邸内にいた者たちが不審者たち(赤穂浪士)の侵入に気づき、警戒を強化していたと思って・・・。

Aベストアンサー

その当時の将軍は徳川綱吉です
生類憐みの令という法律が出されていました。
お犬さまを番犬として使役するなど、もっての他という
時代だったんです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4


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