笑いは何を無効にしてしまうのでしょうか?
キリストがこういうことを言いました。(イチジクの木を呪う話です)
「あなたがたが、信じて疑わなければ、この山に向かって「動いて海に入れ」と言えば、動いて海に入るのです。」

コレは、イエスのことだから、超真顔でゆったんだと思うんです。たしかにそのとおりなんですが、その様子を思い浮かべると、僕は、爆笑してしまったんです。(謝)
 ギャグは何を殺すんでしょうか?(笑)どんな悪者の賢い賢い謀略も、ギャグ(笑い)にかかればなんか、死んでしまうような気がするんです。悪者の意図する所の効力が消えてしまうってゆうか、。そんなことないですか?
イエスにしても、まだあるんです。
イエスは、空腹を覚えたので、何かなってないかと丘の上のイチジクの木まで行きました。しかし、はっぱ以外何もなっていませんでした、。(;。;)
いちぢくのなる季節じゃあなかったからです(笑
そこで、イエスは、「今後、いつまでも、誰も、お前のみを食べる事がないように、。」
 弟子達はそれを見ていた、、。(目撃!)と書かれています(笑
次の日、弟子達は枯れたいちぢくを見ました(;。;)
まぁ、たしかに、イエスのことを考えると(十字架であえて死ぬので)イチジクは実をつけるべきでしたし、弟子達に教えるために枯れたんですが、、。やはり、笑ってしまいました。(謝
 長くなりましたが、笑いは何を無効にしてしまうのでしょうか?
笑いの効果について、思うところをご意見いただけたらうれしいです(笑)

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (9件)

ちょっと哲学は苦手でよくわかりませんが、、



コンピュータ学者に言わせると
笑いは予想外の情報入力に対して思考の継続が困難になって
再起動をかける状態だそうです。

どうりで正常に戻るまで個人差があるようですね。
軽いOSほど復帰がはやいですから
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご助言ありがとうございます!
>笑いは予想外の情報入力に対して思考の継続が困難になって
再起動をかける状態だそうです。

コンピュータつながりですが、
ある人の逸話です。こういう話があります。話の前フリは、僕が「ドラえもんの足の裏って、地面から少し浮いてるねんで。マジで。」と言ったことでした。
で、その人が
「ドラえもんが、「僕かえる」ってゆって、歩いてかえって行くうしろ姿を、僕は見送ってたんだけどー、なんか、足跡が猫(ネコ)の足跡になってた。。。。。

この話で、僕は爆笑しました。彼は、再起動に時間がかかり、ドラえもんが見えなくなってもそこに立ち尽くしていたことでしょう(笑笑

僕が思うのは、はっきりゆって、ドラえもんの姿と、ネコはかけ離れてるんですよ。いくら「みみ」があったからって、猫型ロボットというのは、、無理!です。(笑)
彼の思考では、猫型ロボットだという認識はまさに知識だけで、実感がなかったんでしょう。ドラえもんはそれを察してか、猫型であることを、わかりやすく、さりげなく、主張したのかも?(笑)
狐のしっぽが出ただけかもしれませんが(笑

わかりやすいお話しありがとうございました!

お礼日時:2002/01/12 01:37

>生まれながらの人間には聖書は愚かにうつります。


しかし、悪に対しては幼子の様であれと、書いています。
また、神の国に真っ先に入る(ふさわしい)のは、無垢な子ども達や、香油を注ぐ女、イエスに救いを求める素直な遊女のような者たちであるとも書いています。無垢な子どもは生まれながらの人間ですか?「人間は、いつ生まれるのですか?」ご教示お願いしてよろしいでしょうか?ずうずうしいと思われたなら、ごめんなさい。

「生まれながらの人間」(コリント人への手紙第一 2:14)
字義通りには「動物的人間」のことです。これは「肉に属する人」(3:1、3)とも言われています。「生まれながらの人間」とは、具体的には、滅び行く人間の父であるアダムから罪や霊的盲目を受け継いで生まれる人間全般のことを指しています。

この「生まれながらの人間」にとって御霊に属すること(ここでは特にイエス・キリストの十字架の福音)は愚かにうつるのです。その理由は人間的評価によって十字架の意味を理解しようとするからです。例えば、「救い主たる者が無残に十字架で殺されるはずがない」「そんな弱い救い主などあるはずがない」等々。

それゆえ、神の御霊が福音を聞く人の心に信仰を生み出し、福音を聞いて応答するように導くことが絶対に必要となります。この御霊に導かれ信仰によって応答する時、その人は新たに生まれ変わるのです。すなわち「御霊に属する人」となるのです。滅び行く「生まれながらの人間」ではなく、神の国の相続人となるのです。

イエスに素直な人であればあるほど、御霊が働きやすくその人の内にイエスに対する信仰を生み出しやすくします。素直な人はイエスの教えを聞いてイエスを信じることがたやすいのです。それゆえ、イエスのもとに集まって来た素直な子供たちや、自分の罪を知りまたその破壊力を知り救いを切に求める「備えられた心」を持つ人たちがイエスを信じて神の国に真っ先に入るのです。

>その鏡や、道しるべや、基準、と言ったものが、ヘブライから日本語に訳され、又、多数の宗派の聖書が書かれ、オリジナル(予言そのもの)の部分がどれか、「霊によらなければ」分からない。 映した鏡は清浄なのか?

旧約聖書はヘブライ語で書かれ、新約はギリシャ語で書かれています。
時代を問わず、いつも投げかけられてきた疑問は聖書の信憑性です。果たして現代われわれが持っている聖書はオリジナルと同じなのかということです。これは何世紀にも渡って議論されてきたことであり、その答えはすでに出ていますが(99%以上オリジナルと同じという答えです)、この答えがさらに確実となった発見を二件ほど紹介します。
一つは旧約に関することですが、1947年に世界を驚かす大発見がなされました。
羊飼いの少年によって後に「死海写本」という旧約聖書の巻物が発見されたのです。
この巻物は今から約2000年前のものであり、その中にイザヤ書もありました。
このイザヤ書を現在のヘブライ語の聖書を比較した結果ほぼ同じでした。この発見はいかに旧約聖書がオリジナルのまま現代に受け継がれてきたかを示す動かぬ証拠となっています。

次に新約聖書ですが、約十年位前にエジプトで約1900年以上も前の墓を掘り出したところ、死体と一緒に一冊の本が発見されました。この本は新約聖書の一部であり、やはりこれも、現在われわれの持っているギリシャ語の新約聖書と内容がほぼ同じだったということが新聞に出ていました。

歴史上、聖書ほど学者や科学者の槍玉にあげられて来た書物はありません。しかしながら以上の検証以外にも様々な形で聖書がオリジナルとほぼ同じであることが証明されていますので、疑問を投げかけるのはもはや時代遅れと言わざるを得ません。

>僕が思うのは、キリストによって導かれる者が、何故道しるべを必要とするのか?神に導かれる者が、何故、基準を必要とするのでしょうか?

あなたは悪魔の存在を信じますか?聖書は明らかにサタンとその配下の悪霊どもがこの世に存在していて、反キリスト的な働きをしていると教えています。キリスト教を名乗りながら人に近づき、終いにはその人を地獄への道連れとしているのです。「私もクリスチャンです」と言って近づいてくる人を無条件に信じられないのがこの世の中の現実なのです。あなたは何を基準にしてその人が真のキリスト者だと判断するでしょうか?
又何を基準に、偽りの宗教を見分けるでしょうか?

>神の言葉が預言者によって人間の言葉で語られ、聖書になった。
しかし、神の言葉は霊と言ったような者ではなかったのですか?預言者の言葉は霊によるものです。聖書を訳した何万という宣教師が、はたして霊によって訳したのでしょうか?AがBになるようなことは、人間の言葉ではありえません。A=A、B=Bだと思うのです。
聖書(預言者の言葉、霊による言葉)は神の言葉ですが、神の言葉は聖書ではありません。より深く知るよりも、より深く信じるべきです。そうすれば、いちいち解釈をこねなくても、神が与えてくれます。

主張の根拠が全くわかりません。
どのような人物からそのような知識を仕入れたのでしょうか?
また神が与えてくれた「言葉」であることをどのようにして判断しますか?
それが自分勝手な思いだったり、はたまた悪霊からのものだったりする可能性がありますが、それをどのようにして判断しますか?

私の質問には答えなくとも結構です。ご自分で考えてみて、やっぱり自分の考えはおかしいと思いましたら、お近くの正統的なプロテスタント教会に足を運んでみてはいかがでしょうか? 私からの回答はこれで最後とさせていただきます。

この回答への補足

ここに、皆さんへのお礼を書くことを許してくださってありがとうございます。
一応「笑い」の質問でしたので、笑いを主にした回答に、点を配分させていただきますが、頂いたどれもが、たいへん参考になりました。ありがとうございました。

補足日時:2002/01/15 07:29
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再びありがとうございます!
僕のぶしつけ、無礼にもかかわらず、忍耐強く教えてくださり、たいへん感謝しています。僕のお礼をよんでくださることでしょうから、書きます。無礼を感じられたら、申し訳ありません。あなたが敬虔であることがわかるので、そのまま書きます。あなたが喜ぶような事を言いませんが、キリスト者は喜びますので、喜んでください。わかりにくければ、ごめんなさい。神に求めてさい。
>・・・・示す動かぬ証拠となっています。
何が動いてないのですか?僕にはガックンガックン動いているどころか、死海文書が何故根拠になるのか解りません。先にも言いましたが、化石は、恐竜の存在証明にはなっても、恐竜ではありません。つまり、何も証明しておらず、それ以外の者を主張せず、化石は化石であるのです。ですから、死海文書が見つかった。だからどうだと言うのです。それは、死海文書の発見であり、聖書の発見ではありません。それはそれです。A=Aで、A=Bにはならないのです。キリスト者は、数学者の様であってはなりません。数学者を説得できるが、数学者の様であってはいけないのです。何故なら、彼らはA=Bとすることに、数学を便宜上、成り立たせているからです。僕には、そういった姿勢に囚われることが、キリスト教的にいうなら、ルシファー的なものだと思います。何をいちいち大発見だと騒ぐのか?時代遅れではないのです。時代を知り、そのとおり生きるが、時代に囚われてないのです。
かたくなな学者を説得しようとして、飲み込まれてはいけません。学者の立場から、ほれ見ろ!死海文書が証拠だ!などと、弱弱しいことを言わないで下さい。
新約にしても、僕の言うことは同じです。
死海文書で騒ぐのは、まるで、コペルニクスの地動説にやり込められた教会のようです。キリスト、神のみに根拠を求めればいいです。キリストは聖書に住んでるわけではないのです。聖書は正しい図鑑のようです。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

>あなたは悪魔の存在を信じますか?
 見ればわかります。肉に属する者と、精神に属する者と、御霊に属する者がいます。前者二つは悪魔です。アーリマンと、ルシファーです。あなたが敬虔であるので、キリスト教において話します。神は、悪の反逆も利用し、御霊に導きます。
なぜなら、悪を否定するようなことはしないからです。すべて、御霊に属するべきで、又属しています。しかし、御霊を求める人は、増えてはいますが、いまだ少ないのです。

タイムリーな話をします。
アメリカが悪い、タリバンが悪い、戦争が悪い、などと思っているのは「無知」です。アメリカはアメリカです。タリバンはタリバン。戦争は戦争。悪は悪です。
こう見るから、僕には悪が見えます。僕には、見れば見た分だけ見えます。
ですから、僕に見えるものは無数です。そのために限られています。そうなっているのは方便です。

>あなたは何を基準にしてその人が真のキリスト者だと判断するでしょうか?

僕は、判断するようなことはしません。合理的であるとかは、キリスト者には関係ありません。しかし、ぼくがキリスト者であるとはいいませんが、そうでないわけでもないと言っておきます。僕は教会に属しているわけでは無いのですよ。人間に属しているが、そうでないものを求めるのです。
また、僕のそういう態度は、方便ですが、本心からです(笑。

>又何を基準に、偽りの宗教を見分けるでしょうか?

すべてによってです。そのとき、分けるなどという行為はありません。すべてを見るとは無為であるので、指で指して、「おまえだ!」などと「俺だ!」などと「これだ!」などと言いません。僕が分けるときは、方便です。分けるときは、A=A、B=Bという風に、実に分けます。ですから、Aを呼ぶのに、Aといいますが、見るのはすべててです。

イエスは言います「私はあなたを丸ごと見る」
それはそういうことです。

キリスト者は、イエスの様であります。教えを広めた十二使徒もそうだったでしょう。まるでイエスのようでした。あなたもキリスト者なら、そうでありなさい。

いいでしょうか。比べる者などありません。それはそれであるのです。
しかし、あなたは敬虔であるので、それがなんて素晴らしい事かは、ご自身で、体験を持ってよくわかっていらっしゃるはずです。ですから、僕を憐れんで下さい。

>主張の根拠が全くわかりません。
どのような人物からそのような知識を仕入れたのでしょうか?

知識は、新約のマタイからヨハネです。あと、使徒とか、コリントとかをぱらぱらとです。旧約は、持ってません。当時、僕が知りたかったのは、イエスの言葉だからです。
しかし、ぼくがいいたかったのは、聖書がオリジナルだとか、そうでないとか、論争するのは、ルシファーに騙されているのだという事です。
パリサイ人や、かたくなな律法学者はイエスについて言いました。
「この方は何故このようなことを知っているのか?」

僕が、
>より深く知るよりも、より深く信じるべきです。そうすれば、いちいち解釈をこねなくても、神が与えてくれます。
と言ったのは、その理由です。

>また神が与えてくれた「言葉」であることをどのようにして判断しますか?

 あなたは、贈り主のわからないプレゼントを受けているのですか?
もしそうなら、贈り主は悪魔です。彼らは隠れていますから。偽るんですよ。
神の言葉においては、疑問の余地がありません。神からだと何故解らないのですか?神からであるという証拠を死海文書に求めるのですか?神が、名前を書いて手紙をよこすような事をするとお思いですか?そんなことはしません。

いいます。すべて、求めるなら神に求めなさい。何故なら、神はすべてです。

あなたは、キリスト者であるなど大口を開けていってはなりません。キリスト者であることを求めていると言いなさい。そうしていて、はじめてそうであることが、与えられます。求めていれば、言わなくても与えられます。神としゃべるのに、肉である口は必要ないです。必要なのは、御霊を求める事です。口は、人と話すためにあり、肉を満足させるためにあります。

>・・・・示す動かぬ証拠となっています。
>お近くの正統的なプロテスタント教会に足を運んでみてはいかがでしょうか?
それは、プロテスタントのほうが、初心者にはなじみやすいというご配慮ですか?
あなたの親切を、素直に受け取れていない僕を、憐れんで下さい。

しかし、念のためにいいます。
正当性は、人間社会によって示されるものではありません。それは、神の前によって認められます。
「神の国は、ここにある、あそこにある、というようなものではありません。私は誠につげます。実に、あなた方の中に(間に)、それはあるのです。」
求めるなら、ここだとか、あそこだとかゆってはなりません。
あなたに求めなさい。キリスト者であることを求める事。それを忘れたものは、キリスト者ではなくなります。

大事な事を言いますが、
そうでないから求めるのではありません。ないものを求めるのではありません。そうであることを求めるのであり、真に求めたときは、真に与えられています。
偽に求めた時は、偽に与えられます。
>私からの回答はこれで最後とさせていただきます。
とんでもないです。非常に忍耐強く、僕に教えてくださり、とても感謝しています。あなたとの出会いを感謝し、喜んでます。

最後に注釈です。肉に悪が宿り、精神に悪が宿りますが、悪が悪です。肉そのものが悪く、精神そのものが悪いのではありません。御霊は、御霊そのものであり続けます。ですから、悪は御霊に宿れません。だから、御霊を求めなさい。悪あるものに求めれば、悪が与えられるからです。善を求めるなら、御霊に求めなさい。

あなたの忍耐が、敬虔が、あなたの信仰をもっともっと深めるように

あなたが求める事を一時も忘れないように

お礼日時:2002/01/14 23:18

ご丁寧に、お詫びを入れてくださり感謝します。



>なにごとも、神においては、なければならなかったなどと言うことはないとおもうのですが、どうおもわれますか?

タイミング的に一番よい時だと思います。いちじくを枯らす出来事が起こったのはイエスが十字架に架かる約半月前なので、イエスにとってこれが最後のいちじくの実のならない季節となります。イエスはそれまで約三年間ユダヤ人に神の国の福音を説き続けました。しかしユダヤ人はイエスを拒絶したのです。その総決算として「実のないいちじくの木」を枯らすことは、時にかなったことではないでしょうか。

>仮に、無花果のみのなる季節だったら、別の例をたて、別の象徴を立て、当時の宗教指導者達を暴けたのでは無いのですか?

イエスは季節に関わらず、三年の間、宗教指導者たちの偽善をはばかることなく非難してきました。マタイの福音書23章などご参照ください。

>当時の宗教指導者たちが、自分達の象徴として無花果を掲げていたのですか?
当時の社会通念として、無花果は宗教指導者と結びついていたのですか?そうなら、無花果が枯らされることは、当然と、理解されやすいと思います。
もしよろしければ、ご教示お願いします

 当時の宗教指導者が、いちじくを自分たちの象徴としていたということではありません。しかし実を結ぶ、実を結ばないということは、宗教的な意味での結実に例えられて使われています。旧約では特にぶどうが有名です。たとえば「ぶどうがすっぱい実を結んだ」という場合、「すっぱい実」を結ぶのは野生種のぶどうなので、偶像崇拝に走ったユダヤ人が堕落したことを指しているのです。

 また当時の社会通念として、いちじくが宗教指導者と結びついていたということでもありません。この場合、ではなぜいちじくなのかという理由は、このいちじくを枯らした出来事が「行為によるたとえ」と一般に言われていることからわかります。イエスはたとえ話を数多くしました。その場合、日常生活でなじみの深いものがたとえの題材としてとりあげられました。たとえば、「種まきのたとえ」とかです。イエスはこのようになじみ深い日常生活をとりあげることによって、神の真理を学問のない一般民衆でも理解できるように配慮されたのです。このたとえによる教育の一環として、いちじくの木を枯らしたのです。この出来事をとおしてイエスは弟子たちに、イエスを拒否する宗教指導者たちや民衆が神のさばきにあうことを厳しくも印象深く教えたのです。

>ただ、当時のことを記してある聖書は、当時の認識をもってわかりやすい者となるけれども、今となってはわかりにくい者となっています。
聖書をそのような者にしないために、解釈や、象徴は、今の、その場にふさわしい理解でいいのではないのでしょうか?そのためにも、例でとかれているのではないでしょうか?
 
現在、聖書がわかりにくという理由は、単に、聖書が何千年も前に書かれたからではないと思います。これはキリスト者の誰もが体験しているのですが、「イエス・キリストを信じる前は聖書を理解できなかった。でも思い切ってイエス・キリストを信じた後は、それまでとは全く違い、何が書いてあるかはっきりわかるようになった」ということです。
生まれながらの人には、たとえ東京大学やオックスフォード、ケンブリッジを歴史上最高の成績で卒業したとしても聖書を理解できないでしょう。しかし、キリスト教でで言う「新生」にあずかるなら、小学生でも聖書を理解できます。生まれながらの人間には聖書は愚かにうつります。これは一貫している聖書の真理であり、体験できるものです。(第一コリント2:14)

>無花果の話は、今では通用しないのですか?僕は十分通用すると思います。過去の象徴を持ち出すと、それは、過去の者として、今に、直に、機能しないのではないでしょうか? もしよろしければ、お返事いただけるとうれしいです。

現在でも十分通用すると、私も思います。そこがたとえ話や象徴で教えることの最大の利点です。
 
>旧約聖書の時代から今日に至るまで多くの人々が神の警告を笑い(ノアの箱舟など)、イエスを笑いの種にしています。
こうおっしゃるのは、まさにそういうことを意図されているからなのではないのですか?

すみません。このご質問の意図が汲み取れません。  

最後に、聖書は単なるきっかけではありません。信じた後は不要になるようなものでもありません。聖書はキリスト者にとって霊的いのちの食物であり、自己吟味の鏡であり、信仰の道標であり、異端を見分ける基準です。どのような教えでもまた霊的体験でもこの聖書の教えと反するのであれば退けられます。 そして神のことばである聖書は神とキリストをより深く知るための唯一の書物です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再びご回答ありがとうございます!
敬虔な方とお話が出来てうれしいです!又、わかりやすく、ご解説してくださり、ありがとうございます。もしよろしければ、以下の点について、もう少しご教示願えますか?お願いします。
>生まれながらの人間には聖書は愚かにうつります。
しかし、悪に対しては幼子の様であれと、書いています。
また、神の国に真っ先に入る(ふさわしい)のは、無垢な子ども達や、香油を注ぐ女、イエスに救いを求める素直な遊女のような者たちであるとも書いています。無垢な子どもは生まれながらの人間ですか?「人間は、いつ生まれるのですか?」ご教示お願いしてよろしいでしょうか?ずうずうしいと思われたなら、ごめんなさい。
>最後に、聖書は単なるきっかけではありません。信じた後は不要になるようなものでもありません。聖書はキリスト者にとって霊的いのちの食物であり、自己吟味の鏡であり、信仰の道標であり、異端を見分ける基準です。どのような教えでもまた霊的体験でもこの聖書の教えと反するのであれば退けられます。 そして神のことばである聖書は神とキリストをより深く知るための唯一の書物です。

その鏡や、道しるべや、基準、と言ったものが、ヘブライから日本語に訳され、又、多数の宗派の聖書が書かれ、オリジナル(予言そのもの)の部分がどれか、「霊によらなければ」分からない。
映した鏡は清浄なのか?僕が思うのは、キリストによって導かれる者が、何故道しるべを必要とするのか?神に導かれる者が、何故、基準を必要とするのでしょうか? あなたが、聖書は単なるきっかけではありませんとおっしゃる理由は、敬虔(求める)、だけれども、信仰が、まだまだ深まる希望があるからではないでしょうか?それは、大切にされるべき、大事なきっかけです。
>そして神のことばである聖書は神とキリストをより深く知るための唯一の書物です。
神の言葉が預言者によって人間の言葉で語られ、聖書になった。
しかし、神の言葉は霊と言ったような者ではなかったのですか?預言者の言葉は霊によるものです。聖書を訳した何万という宣教師が、はたして霊によって訳したのでしょうか?AがBになるようなことは、人間の言葉ではありえません。A=A、B=Bだと思うのです。
聖書(預言者の言葉、霊による言葉)は神の言葉ですが、神の言葉は聖書ではありません。より深く知るよりも、より深く信じるべきです。そうすれば、いちいち解釈をこねなくても、神が与えてくれます。
あなたは敬虔です。しかし、人間の言葉による知識(解釈)をたよりにしてはいけません。人間の言葉に囚われてはいけません。囚われるなら、イエスを信じることに囚われるべきで、それは聖書を信じることは違います。神を信じる事で、聖書を信じることと違います。
聖書は破棄されるべきものではありませんが、それは、神やイエスを紹介してある図鑑のような者です。図鑑に像の絵は描いてありますが、それはほんものの象ではありません。

さらに言います。(えらそうな口をきくと思われたらごめんなさい、。僕は、あなたと話せて感謝しています。)
あるべき(神の御心にかなう)姿と言うのがあります。動物園の象は、動物園の象としてあるのであり、その象のあるべき姿かどうかは、分りません。

しかし、聖書が御使いたちに守られているならば、神やキリストと同じように、聖書は信じられるべきです。そこの所は分りませんが、キリストは、聖書は破棄される者ではないと言っています。もしよろしければ、無知の僕に、ご教示ください。お願いします。

僕らの会話が、あなたの信仰が、もっと深まるきっかけになるように、
あなたの信仰が、もっともっと求められるように、。

お礼日時:2002/01/14 00:15

No.3の返答についてのコメントです。


caballeroさんがキリストを信じる信仰者か、聖書をナナメ読みする哲学青年
なのかはわかりませんが、もう少しこの件について触れたいと思います。

>実のなる季節ではなかった....

この箇所については説明をはぶいてしまったのですが、caballeroさんの解釈
でほぼOKだと思います。当時のユダヤ民族、特に祭祀長や律法学者などの宗教
指導者層がイエスを迎え入れる準備ができていなかったことを、婉曲に示して
いたのでしょう。

個人的な意見ですが、イエスがいちじくの実のなる季節を知らなかったでしょうか?
私はそうは思いません。知っていて「わざと」あのような行動を取ったのでは
ないか、それも弟子たちに悟らせるために弟子が見ている前で行動したのでは
ないかと考えています。


ついでながら別の箇所で
>イエスは、「今後、いつまでも、誰も、お前のみを食べる事がないように。」
とありますが、この部分についてももう少し掘り下げてみます。

神はイスラエル民族の祖先であるアブラハムを召命して、選民としました。
その後、モーセの時代に十戒と律法を授け、ダビデの時代にその子孫から救世主
を送ると約束されます。

途中の歴史でイスラエルが分裂し、イスラエル12部族のうち10部族が神を
不信する行動を取りつづけたため10部族は滅亡し、残った2部族がユダヤ民族
となってイエスの時代に至ります。

|注:10部族は滅亡したと書きましたが、実はほそぼそと生き残っています。
|  彼らはサマリヤ人と呼ばれ、なんと現代にも人数はわずかですが生き残っ
|  ています。昨年にNHKでサマリヤ人を取材したドキュメントを放送して
|  いました。

しかし、そのユダヤ民族もイエスを排斥することで、選民としての資格を失って
しまう結果となります。
神は選民を優先して愛し保護していました。しかし選民でなくなることで神の保護を受けなくなるということを、
「今後、いつまでも、誰も、お前のみを食べる事がないように。」
という言葉で表現しているわけです。

ではユダヤ人が神の選民でなくなったら誰が選民となるのか?
その後の時代は、キリストを信じる者が新しい選民となります。
それまではユダヤ人「のみ」が選民であったのですが、イエスを信じる者は
どの民族であっても選民になれるようになりました。


さらに神の選民から外れたユダヤ人たちはどうなったか?
No.6の方も触れられていますが、ローマの攻撃を受けてエルサレムは破壊され
ます。「ユダヤ人と日本人」(角川書店)によれば、奴隷となったユダヤ人が
大量に奴隷市場で売り捌かれ、あまりの数の多さにロバの半分の値段まで値が
下がったという記述もあります。

その後、第二次世界大戦後に現在のイスラエルが建国されるまで、ユダヤ民族
は国を持たない流浪の民として諸国をさまよい、さらにあちこちで民族的な
虐待を受けます。
極めつけは、ナチスドイツによるホロコーストです。この時には約600万人
のユダヤ人が犠牲となりました。さらに個人的に裏付けを十分に取っていませ
んが、この600万という数字は、イエス当時のユダヤ人の人口と同じである
という説もあります。
イエスを排斥し十字架に追いやった報いではないか、というわけです。


いちじくの話し一つ取ってみても、これだけの意味が隠されています。
caballeroさんには自分なりの意見・主張があるかと思いますが、
先人の意見・解釈を無視し、字面だけを読んで「笑ったり」するのならば、
それは己の無知・浅学さを立証しているだけのことです。
自分の意見を主張したいのならば、既存の意見を批判するなり肯定した上で、
自己の主張を展開すべきでしょう。
だいたい、真摯なキリスト教信者に対して失礼な言動です。

もしcaballeroさんが信仰者ならば、なおさらひどい行いですね。
キリスト教の伝統では、聖書は神が人間に送ったメッセージだとされて
います。神のメッセージを無視して己の主張を優先するならば、それは
神に対する反逆者と位置付けられるてしまいます。

この回答への補足

すいません。最後の文が切れたので、補足です。
>しかし、人間的なもの、以上に、人間にあこがれるんです。悪いけど、いいんです?(笑
 ガキなら、僕の言っていることは、共感すると思うんです。
「いきにいけ」ってことですね(笑
僕はもうすぐ生命を知るかもしれません、。
僕が生きるように、。←自分のことを考えているようなものの発言です。しかし、それが「しかるべき」なら、そうなります。(キリスト教の話ではありません。人間と、すべてにおける話です)
cse_riさんの真面目さ、謙遜が、よく役立つように、。

補足日時:2002/01/14 01:40
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再びご回答ありがとうございます!
cse_riさんは明るい方ですね。お話しいただけると気分が明るくなります!(笑
>caballeroさんがキリストを信じる信仰者か、聖書をナナメ読みする哲学青年
なのかはわかりませんが、もう少しこの件について触れたいと思います。
 僕の目は、数えれば数えるだけあります。そのせいで、限られています(笑  ほんとは(泣 なんですが、僕の笑いの意味を少しでも汲んでいただけると、うれしいです。)はっきり言います!つまり、そのどっちでもあるが、そのどっちでも無いのです。
なぜならば、僕は人間にあこがれるからです。(僕はもちろん人間です)
サタンがペテロ?(たぶん)の口で言いました
「あなたがそんな酷い目に合わされるわけがありません!(十字架にかかること)」
イエスがサタンに言いました。
「され、サタンよ、あなたは人間のことをおもって、神のことをおもわない。」

>いちじくの話し一つ取ってみても、これだけの意味が隠されています。
 何故、イエスが教えるために話をしたのに、その意味を隠されているなどと言うのでしょうか?と、イエスの信者なら言います。
イエスはなぞなぞをしているのではありません。真実をあきらかにしているのです。意味が隠されていると思うのは、あなたの目が、サタンによって曇らされているからです。人間の精神に作用する悪は、親玉ルシファーです。
と、キリスト信者なら言います。
>caballeroさんには自分なりの意見・主張があるかと思いますが、
 僕に己など不確かな者、ありません。(きつめの口調が耳に障ったら、ごめんなさい、。おゆるしを~(笑)cse_riさんが、明るい温和なかただと思うので、このような文体にさせていただいてます。)

>先人の意見・解釈を無視し、字面だけを読んで「笑ったり」するのならば、
それは己の無知・浅学さを立証しているだけのことです。

では、無視せずに、彼らの意見、解釈を理解して、笑ったならそれはどうなのですか?
他の回答者から頂いた、雲問和尚の話を読んでください。
かれは、禅僧に対し、仏とはクソを掻きだす棒だと教えたのです。
和尚は俳教者(字、あってるでしょうか(笑))ですか?違います。和尚は、ユーモアをもって、禅僧の眼を開かそうとしたのです。ときに、生真面目さは、こだわりをうみ、我見に囚われやすくしてしまいがちです。それは、悪気はなくても、誠実さとは違うものです。
僕は、無知で浅学です。そのようなことは、隠さなくてよいのです。そういう意味で、羞恥心は捨てた方がいいです(笑 それは、カッコ悪いことじゃありません。

>自分の意見を主張したいのならば、既存の意見を批判するなり肯定した上で、
自己の主張を展開すべきでしょう。
 そんなことはないです。無学な小学生には主張する権利が無いのですか?
博学論理的なインテリだけが主張する権利があるのですか?そんなことはいっているつもりはない!と思われるかもしれませんが、そういってるかもしれないと、思ってみてください。

>だいたい、真摯なキリスト教信者に対して失礼な言動です。
 では、ギャグなしの真剣で言います。そう思っているのはあなたです。キリスト教信者のつもりになっている人は何十億といます。そのうち、ホントに彼らのいう神の国に入るのは何人でしょう?「派閥争い」をする信者の何割が救われているんでしょうか?しかも、派閥争いはほんの一例にすぎません。
俺が信者だ、私が信者よ!などというものは信者ではありません。なぜなら、信者は、隣人を愛し、神を愛するからです。私、私、わたしなのよぉ~などと、主張しません。神を愛するとは、自分を神に捧げてもいいと思えることです。自分は救われなくても、神のためになるならそれでいい!と思うことです。人間の、恋愛を見ればわかります。しかし、多くは、自分が救われるために、神を愛します。そのういうものは、自分が神に属していることを知りません。そのようなものたちへの慈悲として、キリスト、イエスは贈られました。

いいでしょうか。私はキリスト信者です。ということと、キリストを信じることは別です。
今、「僕はキリスト教信者だ。」と、声に出していってください。(周りに人がいても気にしないで下さい。羞恥心は捨ててしまってください。)
だからどうだと言うのですか?

>もしcaballeroさんが信仰者ならば、なおさらひどい行いですね。

>キリスト教の伝統では、聖書は神が人間に送ったメッセージだとされて
います。神のメッセージを無視して己の主張を優先するならば、それは
神に対する反逆者と位置付けられてしまいます。

では、伝統と、他人行儀を旗に主張なさるので、僕は歴史をもとにいいます。
鎖国時代(でしたっけ?(笑))、日本のいたるところで、「踏絵」が行われました。しかし、マリアの彫像を踏めずに、刑に処された「敬虔なクリスチャン」がたくさんいます。かれらは、敬虔でしたが、無知でした。というのは、キリストが、偶像には気をつけなさい、といったのに、多くはそれが理解できず、マリアの「偶像」に囚われたのです。
それは、言葉(言語ゲーム)に囚われる人間精神と同じです。
しかし、彼らは救われています。何故なら、救いは、生死を凌駕しているからです。

僕はガキなので、「成人していない大人」から見ると、伝統に逆らっているように見えるかもしれません。でも、僕は、古かろうが新しかろうが、どうでもいいんです。新しい者を支持するわけでもないし、古くから続く者を支持するわけでもありません。(僕のアコギ、caballeroは1964年製なんですけどね(笑))楽器は、古い方がいい音します(笑))←どうでもいい!(笑

>それは神に対する反逆者と位置付けられるてしまいます。
位置付けるのは、人間社会ではなく、神なのです。神の意図がわかるものなど人間にはいません。(キリスト的に言うと、。)

僕が、人間であるのに、人間をおいて、先に行ってしまうようなことはしません。
僕は、人間大好きだからです。(幸)だから、いまだ僕の眼は限られているのです。そうすべきかどうかは分りませんが、そうであることを、僕が望みます。
でも、べきを望みます。
僕のあり方は、仏教的に言うと、菩薩のようなあり方です。人間(自分)であるが、越えた者を求め、そのどちらでもありません。
僕のような人は、たくさんいますので、異常者と思わないで下さい(笑
引かないで下さい。
しかし、人間的なもの、以上に、人間にあこがれるんです。悪いけど、いいんです?(笑
孔子は、僕の言ってることが理解できるかもしれません。
>しかし、人間的なもの、以上ににあこがれるんです。悪いけど、いいんです?(笑

お礼日時:2002/01/14 01:37

イエスの真意は決して笑えるものではないと思います。



 確かにいちじくの実のなる季節ではなく葉のほかには何もありませんでした。
この「葉だけで実のないいちじくの木」は当時の宗教指導者たちを象徴しています。彼らは口で神を崇めますが心は偽善と汚れで一杯だったのです。彼らが宗教的偽善者であることを示すには、いちじくの実のならない季節でなければなりませんでした(もしいちじくの実がなる季節であれば、いちじくは実を結んでいますから、宗教的偽善者を象徴できません)。
 
 イエスはこの木を枯らしました。これは神の都エルサレムにやがて臨もうとする神のさばきを示しています。事実、紀元70年ローマ軍によってエルサレムは滅ぼされました。それは悲劇以外に何ものでもなかったそうです。もしイエスがエルサレム崩壊を当時の人に言っても信用せず笑い飛ばしたでしょう。しかしイエスを信じたキリスト者は避難して難を逃れました。

 「山に向かって『動いて、海に入れ』・・・」ですが、「山」は困難なことの象徴です。ですから人間的には困難と思えるようなことでも、信仰をもって祈り求めるならそれがかなえられるということです。イエスはこれに続いてすぐに祈る時の注意を弟子たちに与えています。それは人を赦すということです。キリスト者はどんなことでも神に祈れる特権がありますが、その前提は人を赦すということです。
また人を赦すということほど困難な「山」はないと思います(個人的には)。

 現代ではダイナマイトを爆発させればそれこそ文字通りの「山」は動かせるでしょう。しかしダイナマイトを使っても不可能なのは人を赦すということです。この「山」が克服される時に神との平和、人との平和が実現するのではないでしょうか(この世では完全な平和はありえませんが。イエスを笑う人がいるので)。
 
 旧約聖書の時代から今日に至るまで多くの人々が神の警告を笑い(ノアの箱舟など)、イエスを笑いの種にしています。そして深刻な結果をその身に受けています。私自身も以前はキリスト教には全く無関心で、笑えるほどの知識もありませんでした。でも今はイエスを私の罪からの救い主として信じています。あなたがどのような人か知りませんが、無知のための笑いだと思います。イエスに祈るならその笑いを赦してくださいます。祈ってみてはいかがでしょうか?

この回答への補足

すいません、。今、自分のお礼とご回答を読み返してみて、いただいたご回答に対して、僕は配慮が足りませんでした。ごめんなさい。
>いちじくの実のならない季節でなければなりませんでした。
なにごとも、神においては、なければならなかったなどと言うことはないとおもうのですが、どうおもわれますか?仮に、無花果のみのなる季節だったら、別の例をたて、別の象徴を立て、当時の宗教指導者達を暴けたのでは無いのですか?(当時の宗教指導者たちが、自分達の象徴として無花果を掲げていたのですか?当時の社会通念として、無花果は宗教指導者と結びついていたのですか?そうなら、無花果が枯らされることは、当然と、理解されやすいと思います。もしよろしければ、ご教示お願いします)

ただ、当時のことを記してある聖書は、当時の認識をもってわかりやすい者となるけれども、今となってはわかりにくい者となっています。聖書をそのような者にしないために、解釈や、象徴は、今の、その場にふさわしい理解でいいのではないのでしょうか?
そのためにも、例でとかれているのではないでしょうか?無花果の話は、今では通用しないのですか?僕は十分通用すると思います。過去の象徴を持ち出すと、それは、過去の者として、今に、直に、機能しないのではないでしょうか?
もしよろしければ、お返事いただけるとうれしいです。
>旧約聖書の時代から今日に至るまで多くの人々が神の警告を笑い(ノアの箱舟など)、イエスを笑いの種にしています。
 こうおっしゃるのは、まさにそういうことを意図されているからなのではないのですか?

補足日時:2002/01/13 05:27
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
>それは悲劇以外に何ものでもなかったそうです。
過去の悲劇から学ぶのはいいことですが、心配するなら今の悲劇を心配すべきです。ほんとに知れるのは「今」ですから、。
>「山に向かって『動いて、海に入れ』・・・」ですが、「山」は困難なことの象徴です。ですから人間的には困難と思えるようなことでも、信仰をもって祈り求めるならそれがかなえられるということです。
 あなたがキリスト信者であるので、キリスト教において、話させてください。
あれは、本当に、山が海に入ります(笑)僕には少しも困難なことと思えません。それがそうされるべきなら(キリスト的に言うなら、神の御心にかなうこと?ですか?)、求めがあり、そうなります。
 現実の物理的な困難を目の当たりにして、現代人には見えにくい、人の精神的な問題における困難にすり替えてしまっているように思います(お気を悪くしないで下さい)物理的な困難など、神の御心の前には関係ありません。何故なら、物理は神が創ったものだからです。証拠に、イエスは死んだのに、生きました。よみがえるべきだったからです。だから、ホントに山でも動くんです(ダイナマイトなんていりません。なぜなら、神は物理で物理を支配するのではないからです)。イエスによって神が熾すのは、人間の精神における奇跡だけではないのです。永遠の命を得るとは、マジでそうなのです。そういうところまで、あなたは「信じるべき」です。それは神の御心にかないます。
>イエスに祈るならその笑いを赦してくださいます。
そうです。神を信じるものはイエスを信じ、イエスを信じるものは神につながります。しかし、本来人間は神につながっていました。繋がれていることは、自由でした。今は、繋がれていないのに不自由です。神があなたにとってどういうものであるか、参考になればうれしいです。
 
 しかし、大事なことがあります。あなたが、聖書に書かれている、山が動く話の、イエスの真意をすべて汲み取れませんでした。何故なら、イエスの真意をすべて汲み取ると言う行為は、世界の大海のすべての海水を、茶碗で一杯ずつ汲み(笑)、家庭の電子レンジで一回ずつ、すべて塩に変えることよりも、無理です。しかし、イエスを信じ、「神を信じる」事で、可能です。なぜなら、そのような人間にとっての困難も、神にとっては「ただの事」だからです。それは、神の御心によってなされます。

イエスを信じるものは、聖書の文字に囚われません。聖書は、破棄されるものではありませんが、信仰においては、大事にされるべききっかけです。あなたは、イエスが文字に化けると思いますか?神が旧約、新約のわずかな文字だけで、表記されきると思いますか?神とは語りえない者です。文字には出来ません。

 聖書のあるべきの意を知るべきです。聖書は聖書にとどめ、あなたはイエスを信じ、神を信じるべきです。水のバプテスマを授けたヨハネは、イエスの一行がきたときにいいました。「彼は栄えるべきで、私は衰えるべきである」
信仰においては、聖書も同じようにあるべきです。
あなたの信仰はまだまだ深まります。聖書はまだ役に立ちます。しかし、必要なくなるときが来ることを、望んでください。

あなたの信仰が完全であるように、。

お礼日時:2002/01/13 02:31

何を回答していいのやらわかりませんが、思ったことをば・・・


あまり聖書に詳しくないので素人の感覚で勝手に解釈しました。
それで、この話ですが、「信じなさい」と言ってるのでしょう。
山が動いて海に入る?そんな馬鹿な。
無花果の実がならなくなった?そして理由はイエスの言葉?そんな馬鹿な。
ちが~う、「そんな馬鹿な」では無い!ど、ど~ん!(汝、疑うことなかれ)
ってことだと思うのです。
真理とは何ぞや!
乾屎ケツ!
禅僧は真面目に答えるのでしょう。
このとき禅僧の後ろにデカイ竹べらが、ど、ど、ど~ん!
私はこのやり取りをはたで聞いてて「馬鹿じゃねえか」と失笑。
真理は笑いの前で吹き飛ぶのであった。終わり。

この回答への補足

禅で叩くのって、もしかして乾屎ケツを教えるために、ホントにカンソケツで叩いてるんでしょうか?なんかわからんようになっちゃいました(笑

補足日時:2002/01/13 01:24
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
>それで、この話ですが、「信じなさい」と言ってるのでしょう。
そりゃそうさ(笑
>真理とは何ぞや!
乾屎ケツ!
禅僧は真面目に答えるのでしょう。
このとき禅僧の後ろにデカイ竹べらが、ど、ど、ど~ん!

いや、ほんとにもうしあげにくいのですが、、。、。乾屎って、、かんじが読めにゃい!(泣)尿のことですか?ギャグを解説すると、とんでもなくつまらなくなるかもしれないんですが、シチュエーションがイマイチ想像できないんです、。お願いします!解説してください!(謝  
と、思いましたが、寒さ(冬)をよけるために、そっこー辞典引いて、Googleで調べました(笑)

和尚に修行僧が尋ねた。

「仏とはどういうものですか。」

雲門和尚は、
「乾屎ケツ(かんしけつ)」と答えた。
この乾屎ケツ(かんしけつ)というのはウンチを掻(か)き出す棒のことであ
る。

最初読んだ時は中途に笑ってました。「この人、何が何でも叩く気だ!」って、。
前フリを理解するとやっぱり違いますね(笑
前フリを知ってたら、どんなにおもしろいことか(笑
いやぁ、惜しいことをしました。想像しただけで笑えます。
「今、それで叩く気なのか?」「話の流れはどうでもいいのか?」みたいな、
まさに、準備万端のでかい竹べらを見たときは、「うおっ!?」でしょう(笑
>私はこのやり取りをはたで聞いてて「馬鹿じゃねえか」と失笑。
僕は「すげぇ!すげぇぜ、お寺!」って感じで爆笑です(幸)
雲門和尚のつるつるアタマを触りたくなりました。
笑いすぎてお堂から追放されてたかも、。

楽しいお話しありがとうございます!
>真理は笑いの前で吹き飛ぶのであった。終わり。
雲門和尚、ユーモアありますね。彼は真理を得ているわけで、その器量で若僧の小さく固まった生真面目な思考を吹き飛ばした事と思います。まさに、「ギャグも方便」ですね(笑
若僧の視野も、広くなった事でしょう(幸)

参考になります!いやぁ~楽しいです!

お礼日時:2002/01/12 23:00

真剣は四角


笑いはマル
笑いは角を無効にする。
こんな回答は如何でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なんかわかるようなわからんような(笑
いやいや、なんにせよ、ご回答ありがたいです!
笑う角には福がくるんですかね?(笑 なんか、フリのようなご回答への返事ですが、。
ありがとうございました!

お礼日時:2002/01/12 22:21

質問の趣旨からは少し外れますが、少々意見を述べます。



|イエスは、空腹を覚えたので、何かなってないかと丘の上のイチジクの木まで
|行きました。しかし、はっぱ以外何もなっていませんでした、。(;。;)
|いちぢくのなる季節じゃあなかったからです(笑
|そこで、イエスは、「今後、いつまでも、誰も、お前のみを食べる事がない
|ように、。」
| 弟子達はそれを見ていた、、。(目撃!)と書かれています(笑
|次の日、弟子達は枯れたいちぢくを見ました(;。;)

|まぁ、たしかに、イエスのことを考えると(十字架であえて死ぬので)
|イチジクは実をつけるべきでしたし、弟子達に教えるために枯れたんでが、、。
|やはり、笑ってしまいました。(謝

宗教の経典を現代人の目でナナメ読みすると、けっこう馬鹿馬鹿しい記述が
多いように読めてしまうのですが、必ずしもそうとは限らないのですよ。

今は聖書も現代日本語で読めるのですが、原書は2千年前のヨーロッパや
パレスチナ地方でギリシャ語で記述されたこと、または記述された当時の
歴史をある程度を考慮して読んでみると、また別の観点が見えてきます。

上記の個所では、イエス・キリストが奇跡の力(?)でもっていちじくを枯らして
しまう話ですが、もう少し深い比喩が込められているようです。

ここでいちじくの木を当時のユダヤ民族に、いちじくの実をイエスを信じる
信仰者に置き換えてみます。
イエス・キリストは当初はユダヤ民族に教えを説きます。つまり実を求めたわけ
です。しかし当時の支配者階級は最後までイエスを受け入れず、実を取り入れる
ことができなかったわけです。

イエスを拒み実らなかった木(ユダヤ民族)がどうなるか、その木は枯れてしまう
(滅亡してしまう)ということを、予言したのではないかとも解釈できるわけです。

実際、イエス・キリストが十字架にかかってから数十年後、ユダヤ人たちはローマ
に反乱を起こしますが徹底的に弾圧されます。首都エルサレムは破壊され、民族は
離散します。2千年後にイスラエルが建国されるまで、ユダヤ民族は国を持たない流浪の民となってしまうわけです。

上記の説をどの本で読んだかは忘れてしまいましたのでリソース元は紹介できない
のですが、個人的な解釈だけに留まらずに、書を多く読み、先人の意見を取り入れ
ることも必要ではないかと思うのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

cse_riさん、お世話になります!
よく知っておられますね。しかし、「実のなる季節ではなかった」と言う部分の解釈が抜けています。イエスはユダヤ民族の皆が、信仰心を持たない事は十分に知っていました。そういう時代だったからです。皆が、イエスが言うとおりだと信仰心を持ち、自分の心に立ち返り悟るならば、イエスは十字架にかかる必要はありません。どういう時代に生きているのかを知ることは、けっこう大事です。
>イエス・キリストが奇跡の力(?)でもっていちじくを枯らしてしまう話
あたかも「イエス」が力を持って枯らしたり、奇跡を起こしたように解釈してしまいがちですが、イエスに言わせれば、「私の父(神)がしてくださる」んです。イエスは、祈りと、信仰心とによって、求めたんです。そして、与えられたということです。(イエスに言わせれば)
 つまり、枯れてしまうのではなく「枯らされる」のです。語尾にこだわるようですが、イエスの言いたいことの一部はそういうことです。
>個人的な解釈だけに留まらずに、書を多く読み、先人の意見を取り入れ
ることも必要ではないかと思うのです。
 そうですね。僕もそう思います。人と対話したり、意見に触れたりする事は、多くのきっかけを生みます。考えるきっかけ、進むきっかけ、知るきっかけ。
しかし、取り入れるとはどういうことでしょうか?取り入れられたものでないものなど人間個人においてはありません。考え方にしても文化にしても言葉にしても、肉体にしても遺伝子にしても実は命にしてもです。個人的解釈というものが、何によって成り立っているのかを、考えることも必要でないかと思います。(教えてもらう立場なのに、えらそうなことゆってすみません(謝)エスキモーは、白熊を見て、「あいついい服着てるじゃないか!」ということで、白熊の毛皮をとって着るんです(笑
肉食動物なんて簡単ですよね。「あいつの肉」を食って、「俺の肉」にするんですから。
わかりやすいです。
一般に考えられている個人とは、そのようなもので、そのもののすべては、自分のものではありません。自分のものなど何一つありません。
ホントは、自分ですら自分のものではありません。。この考えは一般的ではないですが、よくゆわれる事で、また、ゆわれるべきです。これが、個人を理解するという上で、一番大事な理解です。
なんか、「笑い」から外れてしまいましたが(笑、
ご意見、参考にさせて頂きました!ありがとうございます。

お礼日時:2002/01/12 14:31

 何が、そんなに(笑 なのか、分かりかねます。


 (笑 のツボというか、(笑 が人により違うからであります。
 雰囲気、環境とか気分等にも、よると思うんですが、このイエスの内容も、(笑 というよりは、実に無意味としか感じられません。
 不幸も不幸と感じないように、笑い飛ばすというのがありますが、これは、ごまかして(笑 にすることでしょ。
 不幸を不幸として感じ、感じられるのが正常だと思います。せっかく正常なのに、異常にして、どうするのでしょう。
 そういうことをしているから、二重人格ということになるんでしょ。
 おかしい(笑)というのは、馬鹿げているとか、忘れてしまいたい等という何等かの原因から生じた感情でしょ。
 無効にしたんじゃなく、受けたという反応であり、それが、発露しただけだと思います。
 無効にしたというなら、相手の意図(真面目、悲しい等であり、笑うとこじゃない)と逆の場合で、相手の思いを踏みにじった、逆手に取ったことになるのでしょうね。
 でも、それは、本人が気付かないだけで、他の者には、こっけいだったんでしょ。(笑 で、本人も気付ければいいだけのことです。
 如何でしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>無効にしたというなら、相手の意図(真面目、悲しい等であり、笑うとこじゃない)と逆の場合で、相手の思いを踏みにじった、逆手に取ったことになるのでしょうね。 ・・・
 如何でしょうか?
参考になります!ありがとうございます!
>何が、そんなに(笑 なのか、分かりかねます。
相手の行為を逆手に取った、と言うのはなるほどと思います。それは、無差別的に行われるのかなぁと思いました。悪はその効力を失い、善もまた失うのかなぁ?笑いのネタはかなり広いですよね。ちなみに、こないだレ・ミゼラブルの映画を少しだけ見たのですが、カソリックの修道院(お堂の中)では笑う事、笑顔などは禁止されていました。お寺でも、おおっぴらに爆笑したりする事はないんでしょうか?下賎な笑いはなくても、お坊さんとか懐がひろく、笑いも豪快な人がいるような気がします。
>実に無意味としか感じられません。
これは、きめ台詞の様に感じます。意味ある者を無くしてしまう。コレはかなりの強力な方便(仏教的にいうと)になりえると思うのですがどうでしょうか?何に対してもです。悪であろうが善であろうがです。
>無効にしたんじゃなく、受けたという反応であり、それが、発露しただけだと思います。
たしかに、。受けたと言うのは否めません。というよりも、事実として、僕はウケたんですね。
>せっかく正常なのに、異常にして、どうするのでしょう。
いや、違うんです。異なるものはたくさんいます。数えたらそれだけ数えれます。しかし、正しいことは数えるようなものではないと思うんです。仏教の学に限らず、僕の学は浅浅ですが、正法と言うものは、限定されるようなものではないと思うのです。だからこそ、方便も正法として、多様と言うよりも、限りないのではないでしょうか。(イエスが例はつかっても、このとき方便で教えたと言うのではありません)
 
笑いの哲学?とか、いかにも誰かがやってそうなんですが、。

いろんな角度から見解を見せていただき、ありがとうございました!

お礼日時:2002/01/12 01:17

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qイエスのユダヤ教観とユダヤ教徒のイエス観は?

1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E5%8F%97%E5%AE%B9 
ここに
>>イエスは自身をユダヤ教徒であると認識しており、真正のユダヤ教徒として当時の保守化・教条化したユダヤ教を批判していたのであって新たな宗教を起こす意図はなかったとされている。<<
との記述があります。素人の直感とよく合いますが、「保守化・教条化したユダヤ教」を具体的に幾つか例示することができますか。

2
また、
>>神の子を自称したとされ、最高法院の裁判にかけられた後、ローマ帝国側に引き渡されて、反逆者として磔刑に処せられた<<
との記述もあります。
ユダヤ教徒の立場で見るとき、イエスの罪状は「神の子の自称」だけでしたか、他にもありましたか。

3
「最高法院」の構成員は分かっていますか。ユダヤ教徒に議決権があったのですか。

よろしくお願いします。

1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E5%8F%97%E5%AE%B9 
ここに
>>イエスは自身をユダヤ教徒であると認識しており、真正のユダヤ教徒として当時の保守化・教条化したユダヤ教を批判していたのであって新たな宗教を起こす意図はなかったとされている。<<
との記述があります。素人の直感とよく合いますが、「保守化・教条化したユダヤ教」を具体的に幾つか例示することができますか。

2
ま...続きを読む

Aベストアンサー

>>1
ユダヤ律法は、公正、忠実、憐れみ、神に対する愛といった原則の下に制定されていますが、当時の独善的なユダヤの宗教指導者(以下、宗教指導者)たちはそうした原則を忘れ、律法の内容を細分化し、膨大な数の規則で民を縛る事で、その価値を損なっていました。

例えば、宗教指導者たちは「清さ」に関わる律法を拡大解釈し、食事の前に手を肘まで洗う事を義務付けていました。それを守らない者は違反者であり、汚れた者だと主張したのです。
言うまでも無く、律法にはそのような項目はありません。
(マタイ15章1-2節;マルコ7章1-5節)

安息日とは、神への崇拝をささげるために取り分けられた日であり、安息日に仕事をする事を律法は非としています。
ある安息日に、イエスの弟子が歩きながら穀物の穂をむしって食べるのを見た宗教指導者は、その行為が収穫の業、つまり仕事に相当するとして、イエスと弟子たちを非難しました。
(ルカ6章1-2節;マタイ2章1-2節)

宗教指導者は立場の低い人々を蔑む一方で、そうした人々に救いと慰めを差し伸べるイエスを、目の上のたんこぶのように思っていました。それゆえ、彼らはあらゆる手段を講じてイエスを攻撃したのです。

>>2
厳密に言うならば、イエスの罪状は「神の子を自称する事で、神を冒涜した」というものです。旧約聖書の約束のメシアに関する預言の中には、イエスと合致するものが数多くありますが、宗教指導者たちは最後までそれを認めませんでした。
しかし、自分たちがイエスを殺せば、イエスを尊敬する大勢のユダヤ人の反感を買う事になると考え、「ローマ帝国の政治的理由による処刑」という形をとる事によって、自分たちの責任を逃れようと考えたのです。それゆえローマ帝国側には、
[1]ユダヤ国民を撹乱し
[2]ローマに税を払う事を禁じ
[3]自分は王キリストだと主張した
という濡れ衣を着せて告訴したのです。

>>3
ユダヤ教最高法廷は「サンヘドリン」と呼ばれています。サンヘドリンは71名の成員から構成されており、パリサイ派、サドカイ派という二つの派閥に分かれていました。成員すべての名前は聖書には記されていませんが、カヤファ、アンナス、後にはアナニアといった著名な人物の名前は記されています。
当時ユダヤ地方はローマ帝国の属州であり、本国から派遣された総督が監督の任に就いていました。サンヘドリンには、当時の総督であるポンテオ・ピラトの管理下の下で一定の自治権を認められていましたが、飽くまでローマ帝国の支配下における限定的なものでした。
ちなみに、イエスに直接死刑宣告を下したのはポンテオ・ピラトですが、彼自身はイエスを無実だと考えていたようです。しかし、宗教指導者に扇動された大勢の群集が、イエスを殺せといきり立っていたため、恐れのあまり、彼はイエスを死に処しました。

>>1
ユダヤ律法は、公正、忠実、憐れみ、神に対する愛といった原則の下に制定されていますが、当時の独善的なユダヤの宗教指導者(以下、宗教指導者)たちはそうした原則を忘れ、律法の内容を細分化し、膨大な数の規則で民を縛る事で、その価値を損なっていました。

例えば、宗教指導者たちは「清さ」に関わる律法を拡大解釈し、食事の前に手を肘まで洗う事を義務付けていました。それを守らない者は違反者であり、汚れた者だと主張したのです。
言うまでも無く、律法にはそのような項目はありません。
(マ...続きを読む

Q仏弟子の名前

お恥ずかしい話なのですが、わたくし今まで戒名とか法名については一般的にネットで載っている「お釈迦様の時代には戒名は存在しなかった」って説を信じていたんですが、つい先だって『律蔵』大品の解説書を読んでいたら「舎利弗(サーリープッタ)」って本名じゃないようなんですよね。はぁーそうなんだと思って読んでいたのですが、その時思い出したのが『スッタニパータ』の中でも「ニグローダ・カッパ」って名前もお釈迦様がつけたって書いてあるのを思い出しました。
 だだ、『スッタニパータ』の注釈文献なんかには「阿羅漢果を得た記念にニグローダ・カッパと名付けてくれた」となっているようで、入門の時名前を変えたわけではないともいえます。確かに『中部』なんかでも、「初転法輪」のところで、五比丘が「ゴータマさん」とか「同輩」みたいな呼びかけをしたら、お釈迦様が「如来に対して、悟る前の呼び方をしちゃだめよ」ってとこがありますから、悟ったら名前を変えるってこともあったのかもしれません。(ただ、ニグローダ・カッパの場合、阿羅漢果を得た記念に名前をもらっているとしたら、『スッタニパータ』の「ヴァンギーサ経」の中で「ニグローダ・カッパは輪廻してるのか、していないのか?(要約)」みたいな疑問は生まれないと思いますがね)
 そうなるといろいろ疑いだしてきて、(1)仏弟子の名前って本名なんですかね?本名じゃないなら、私たちが知っている名前はあだ名ってことになるわけですが、このあだ名は誰がいつつけたんですかね?

 また、確かに「戒名」なる言葉に関しては、パーリ・サンスクリット等においてそれにあたる言葉はないわけですが、戒名という名前ではないにしても『増一阿含経』や対応の『増支部』には「釋子と名乗んなさいな」ってことはありますし、戒名の原型のようなものはあったんじゃないかと思うわけです。ですので、私の中でもう一度考え直したいのですが(2)最初にあげた「お釈迦様の時代に戒名は存在しなかった」という一般的に信じられている説って誰がどのような論拠をもって提唱したんでしょうか?論文等々を探しても書いてあるものが見つからなくて困っています。こんな本で読んだとかあったら教えてください。

 戒名等々に関してはほかにも多くの問題をはらんでいることは重々承知していますが、今回は文献的なところを中心でお願いします。恥ずかしながら、初期の経典を読むのは好きなんですが、いかんせんそれをどう解釈していけばいいかというノウハウに乏しくて、、、とほほです。お分かりになる方よろしくお願いします。

お恥ずかしい話なのですが、わたくし今まで戒名とか法名については一般的にネットで載っている「お釈迦様の時代には戒名は存在しなかった」って説を信じていたんですが、つい先だって『律蔵』大品の解説書を読んでいたら「舎利弗(サーリープッタ)」って本名じゃないようなんですよね。はぁーそうなんだと思って読んでいたのですが、その時思い出したのが『スッタニパータ』の中でも「ニグローダ・カッパ」って名前もお釈迦様がつけたって書いてあるのを思い出しました。
 だだ、『スッタニパータ』の注釈文献...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんは、baka-hageさん

検索したら、下のようにありました。ただ《沙門釈子(しゃもんしゃくし)》(出家者として平等なシャカムニ仏陀の子)とのみ称す。
お釈迦様は、平等を目指したようです。
今の仏教は?戒名はお金の多さで?

http://www.bunet.jp/world/html/busshin/13_08/2001_08_busshin.html
☆大河は大海に至れば、以前の名と姓とを捨てて、ただ<大海>とのみ呼ばれるように、四つの階級、<バラモン>・<クシャトリヤ>・<ヴァイシャ>・<シュードラ>は、如来の説き給うた法と律とにおいて出家したならば、以前の名と姓とを捨てて、ただ《沙門釈子(しゃもんしゃくし)》(出家者として平等なシャカムニ仏陀の子)とのみ称す。(『律蔵』四、「小品」)

http://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/08c03f79c2f70ea1c3afe1b2bc8987e6
☆戒名の起源には三つの説があります。「釈尊帰一説」、「中国習俗帰源説」、「印度発展説」です。しかしいずれにせよお釈迦様の弟子になった証拠に戒名をつけるという点は共通です。

参考までに三つの説を書いておきます。
ア、まず釈尊帰一説です。お釈迦様の時代、出家して戒律をうけるとみな釈という姓にしました。
『増一阿含経巻二十一』に「たとえばもろもろの大河あり。いわくガンガー、ヤムナー、アチラヴァテー、サラブー、ミヒーなり。これらは大河に至らば前の名姓を棄ててただ大河とのみ号す。かくのごとく、バハーラーダよ、クシャトリア、バラモン、ヴァイシャ、シュードラの四姓あり。彼等、如来の説くところの法と律とにおいて出家せば前の名姓を棄ててただ沙門釈子とのみ号す」とあり、また『高僧伝巻五道安伝』には「初め、魏晋の沙門は師によりて姓となす。故におのおの同じからず。道安もって大師の本釈迦より貴きはなしとし、すなわち釈をもって氏に命ず。後に増一阿含を得るに果たして称せり。四海に入りてまた河名なし。四姓沙門となり皆釈種を称すべしと。すでにはるかに経て符す。ついに永式となす」とあります。

イ、 次に中国習俗帰源説です。中国では古来名のほかに字(あざな)ももっていてこれを戒名にしたとするもの。湛然は荊渓に住んでいたので其の居場所をさして「荊渓」といわれました。他にも「南嶽」「青原」「百丈」「黄檗」「天台」「慈恩」などおおくの例があります。

ウ、3番目の印度発展説は、戒名は経典の「授記」の思想から発展したと見る説です。これは将来、佛号、法号を授けられて佛になることを保障することをいいます。教団にはいり仏弟子となれば階級差別の激しいインドでも平等に佛号をさずけられたのです。法華経法師品に「仏前において妙法蓮華経の一偈一句を聞いて、一念も随喜せん者には、我また阿耨多羅三藐三菩提(正覚)の記(佛号、法号)を与え授く」と法号授与の資格まで示されています。日本史上最初に聖武天皇が「勝満」という戒名をつけられたのもこのためかと思われます。

こんばんは、baka-hageさん

検索したら、下のようにありました。ただ《沙門釈子(しゃもんしゃくし)》(出家者として平等なシャカムニ仏陀の子)とのみ称す。
お釈迦様は、平等を目指したようです。
今の仏教は?戒名はお金の多さで?

http://www.bunet.jp/world/html/busshin/13_08/2001_08_busshin.html
☆大河は大海に至れば、以前の名と姓とを捨てて、ただ<大海>とのみ呼ばれるように、四つの階級、<バラモン>・<クシャトリヤ>・<ヴァイシャ>・<シュードラ>は、如来の説き給うた法と律とにお...続きを読む

Q釈迦の弟子の人名

仏教の人名に関する質問です。

「父親を殺された事を恨み煩悩の多い生活をしていたものの、
釈迦と出会ってこれに帰依し、ほとんどの執着を絶った。
しかし、父親の仇に対する恨みだけはどうしても捨て去る事が出来ず、執着とは知りつつも相手を殺害した。」
というエピソードを持つ人物の話を、友人から数年前に聞きました。
最近この人物に興味を持ち少し調べてみたくなったのですが、
その友人も名前を忘れてしまっており、この人物の人名が分かりません。
どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご教示いただけないでしょうか。

Aベストアンサー

そんな弟子はいなかったのでは。
父殺しのアジャセ王の話
殺人鬼のアングリーマラーの話
晩年わざわざ殺された弟子の話
ぐらいじゃないでしょうか。

Qイエスの生涯について・・・

『イエスの生涯』についてレポート用紙1枚にまとめるように言われたのですが、はっきり言って1枚にうまくまとまりません。入れなければならない重要な事柄ってなんですか?

Aベストアンサー

 
レポート1枚が、どれぐらいの長さか分かりませんが、次のような風に書けばよいでしょう。

1)誕生

イエスは、乙女マリアから生まれた。父は名義上ヨセフであるが、本当の父は「聖霊」である。天使ガブリエルが、マリアに処女受胎を告知して、イエスが、偉大な人になると告げた。

2)公生涯の始まり-洗礼と試練

イエスは成長し、悩みを持った。彼は、神への悔い改めを語っていた、洗礼者ヨハネの弟子となり、ヨハネから洗礼を授かった。その時、天からの声を聞き、イエスは自分が「神の子」であることを知った。

イエスにはなお迷いがあった。彼は荒野にでかけ、さまよいつつ考えた。悪魔が現れ、わたしを拝みなさい、あなたを地上の王にしてあげよう等誘惑したが、イエスはそれを退け、40日の荒野での試練で、自分の使命を自覚した。

3)宣教の開始

イエスは、「悔い改めよ、ときは訪れた」と述べて、神の審判の日が近いことを宣言すると共に、悔い改めるにはどうすればよいかを教えた。

イエスの教えに納得する人が現れ、イエスは、病人などを癒した。人々は奇跡の人とイエスを信じ、その噂は広まった。イエスには、また弟子ができた。

イエスは、奇跡を起こしつつ、弟子たち、信者たちに、様様な教えを、たとえばなしによって語った。イエスの信者たちは増えて行った。彼らは、イエスこそ、救世主(メシア)ではないかと信じた。

4)パリサイ派の妨害

イエスは、人間の平等を語り、律法は人のためにあるのだと教えた。イエスの信者は、社会の底辺の人々が多かった。

パリサイ派は、ユダヤ教の敬虔な信者でエリートであったが、イエスについて反感を抱いた。賤しい人と親しく交わるイエスはいかがわしいと彼らは考えた。また、律法を破るイエスの行為を非難し、イエスに難問を出したが、イエスは、それに対し素晴らしい回答をしたので、パリサイ派もかなわなかった。

5)イエスをメシアとする人々の期待

イエスは、人々からメシア(救世主)であるといよいよ信じられた。メシアは、ユダヤ人の王国を築き、かつてのユダヤ人の栄光を再現し、ローマからの政治的独立を実現する人だと人々が信じていた。

ローマからの独立運動を考える人たちが、イエスに接近し、信者となり、イエスに政治手的な救世主を期待した。

パリサイ派は、自分たちが侮辱されたと考えていた。イエスを打ち破らなければならないと彼らは考えた。

6)イエスのエルサレム入城・陰謀・最後の晩餐

イエスは、陰謀のあるのを承知で、エルサレムに入城する。人々は、熱狂し、メシアがユダヤの独立を実現するのだと信じ期待した。

パリサイ派はイエスを排除するため、ユダヤの支配階級であるサドカイ派と共謀し、イエスをわなにかける計画を立てた。彼らは、イエスの弟子ユダを銀で買収し、イエスを裏切らせることとした。

イエスは、陰謀を知っており、自分の運命を知り、弟子たちに、自分の死後の教えや布教を語り、最後の晩餐を弟子たちと共にする。イエスはその後、ゲッセマネの苑に行き、神に祈る。

7)イエスの逮捕と裁判

イエスが神への祈りを終えると共にユダが現れ、イエスは逮捕される。サドカイ派の大祭司はイエスを尋問するが、イエスは何も答えない。

イエスを死刑にしようと考えていた敵対者たちは、イエスをローマ総督ピラトの元に連れて行く、ピラトは、ローマに対する反逆者とは思えないと判断するが、サドカイ派の圧力に屈し、イエスに死刑判決をくだす。

8)イエスの死

人々は、イエスの弟子たちも、イエスに失望し、あるいは恐怖でイエスを裏切り、イエスから去り遠ざかる。イエスは十字架を自分で背負い、ゴルゴタの丘に至り、そこで、十字架にかけられる。

イエスは、「神よ、神よ、なぜわたしを見捨てられるのか?」と言い、そして死んだ。イエスの死後、奇跡が起こり、ローマの百人隊長は、「この人は、本当に神の子だった」と言った。

9)イエスの復活

イエスの遺体は、信者に引き渡され、洞窟に一時的に葬られた。しかし、三日後、信者の女たちが、見に行くと、イエスの遺体はなくなっていた。

その後、イエスは小数の弟子たちの前に姿を現し、わたしは亡霊ではない、生きたイエスであると述べた。弟子たちは信じ、イエスはその後、天へと昇って行った。

以上の9項目でしょう。長い場合は、短く書き、短い場合は、長く書けばよいでしょう。
 

 
レポート1枚が、どれぐらいの長さか分かりませんが、次のような風に書けばよいでしょう。

1)誕生

イエスは、乙女マリアから生まれた。父は名義上ヨセフであるが、本当の父は「聖霊」である。天使ガブリエルが、マリアに処女受胎を告知して、イエスが、偉大な人になると告げた。

2)公生涯の始まり-洗礼と試練

イエスは成長し、悩みを持った。彼は、神への悔い改めを語っていた、洗礼者ヨハネの弟子となり、ヨハネから洗礼を授かった。その時、天からの声を聞き、イエスは自分が「神の子」で...続きを読む

Qイエス信仰とマリア信仰

高校の倫理のテストで、イエス信仰とマリア信仰の違いを書けという問題が出るのですが、さっぱりわかりません。

マリア信仰は経済が発展していない、比較的貧しい所の信仰が多いのが重要らしいんですが・・・

お分りの方、どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

No.3です。

ここなんかどうでしょう。
  ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%8F%BE

『比較宗教学的見地からは、世界各地での聖母の出現は、土着の女神信仰とキリスト教のシンクレティズムの産物であり、それぞれの地域の人々は聖母マリアの形を借りて、自分たちが古くから受け継いできた女神を信仰しているという見方もある。これは特にキリスト教国家によって植民地化され、キリスト教への改宗を強制された地域に見られる特異なマリア崇拝を説明する(古くはローマに支配されたガリアの黒マリア、新しくはスペイン、ポルトガルに支配された中南米や東南アジアの聖母崇拝)。』

ローマ帝国は肥えた土地や、地下資源の豊富な土地を征服して、征服した先の作物や資源を都市部に供給したので、ローマ帝国の支配地域は広大になっていったんですね。

現在はキリスト教は、石油埋蔵量世界第二位のイラクを侵略しましたよね。

で、キリスト教は都市の人にとって経済的な豊かさをもたらし、征服先の都市部の人たちの吸い取られる側は、吸い取られるので、どれだけ働いても楽にならない というシステムになっているんです。


で、豊穣という概念があり、春になると何も無い大地に緑が芽生えるのを見て、豊穣の女神のせいだと思ったわけです。

秋になると女神は去っていき大地は死んだようになるが、春になると緑に大地は覆われるのので、視覚的にこれを女神の復活だとして、春になると女神の復活を祝っていた。

キリスト教の復活祭は春ですが、もともとはキリスト教がやってくる前からあった豊穣の女神の力の復活を祝う行事だったわけです。

キリスト教はもともとあった女神の復活を祝うお祭りを、イエスの復活を祝うお祭りに塗り替えたんです。


で、都市型キリスト教は、侵略した土地の作物やら地下資源をちゅーちゅー吸い上げる側ですが、そうやってチューチュー吸われることで、支配されている地域がとうとう作物が取れず枯渇するかというと、永遠に存在し続ける女神という概念があり、どれだけチューチュー吸われても、永遠に存在する女神は春になると力を復活させ、土地の人々を養う という考えがある。

だから豊穣をもたらす女神信仰はキリスト教だとイエスじゃなくてマリアなのでちゅーちゅー吸われる側の信者はマリアの方を信仰するわけです。

イエスには豊穣をもたらすという概念が無い。
男神なので、何も産まない。何も与えることができない。

裁判でいけば、検事の役割。
人の罪を重くする役割。

マリアは人の罪を軽くする役割。

だから、人々は厳しいイエスではなく、罪をおかさざるを得ない悲しい性の人間を見捨てず、イエスのように逃げ出さず、死の際までつきそって見守るマリアに、心を捧げるようになったわけです。


で、テストに書くときは、支配する側と支配される側があり、支配し搾取する立場の人はイエス信仰、支配され搾取される側はマリアを信仰するって風なことを書けばいいんじゃないかなぁ と思います。

No.3です。

ここなんかどうでしょう。
  ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%8F%BE

『比較宗教学的見地からは、世界各地での聖母の出現は、土着の女神信仰とキリスト教のシンクレティズムの産物であり、それぞれの地域の人々は聖母マリアの形を借りて、自分たちが古くから受け継いできた女神を信仰しているという見方もある。これは特にキリスト教国家によって植民地化され、キリスト教への改宗を強制された地域に見られる特異なマリア崇拝を説明する(古くはロー...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報