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1、カントの倫理思想(善意志、道徳法則、意志の自立としての自由など)について

2、功利主義の倫理思想について

3、ヘーゲルの人倫思想(「市民社会論」の意義と限界など)について

みなさんの意見を教えて下さい。 一つでもかまいませんので。

A 回答 (1件)

一つについてのみコメントします。

質問1への回答です。

人間は、どんなことを考えて何を気にしてゆけば、自由であり続けることができるのだろうか。カントによる、この設問への解答は、どうなんだろうか。質問者さんの質問1の主旨をこのようにとって、以下に私見を記してみます。

カントはむろん、法に逆らい背く行いを実行に移す人間は、自分が自由であるという意識を持てないにちがいない、と言っています。ばれたら怖いとびくびくする気持ちにつきまとわれて、それから解き放たれないので、自分は不自由なんだと思うしかないからです。

言い換えると、自分の外側にある強制から自由でないからです。いつ司直(自分の外に存在している)の手によって、とがめだてされるのか、とおびえていなくてはいけない、ということでしょう。

だったら、法に従うことを心して、いわゆる違法行為をしなければ、それを続けていけば、人間は自分が自由であるという意識を持ち続けられる、というふうになりそうですが、カントは、これで納得してしまう人間は、なお自分は自由な人間であるという意識を持つことができないと判じます。すなわち、いまいち自由ではないと付け加えています。

というのは、カントによれば、ある人間が法に従っている行いをやったといっても、それには二種類あるからです。その区別立てに気づかないと、人間が自由であり続けることの真意は、依然としてつかめないままだとして、カントは次のように持論を続けています。

「私は窃盗(万引き)をしなかった。その場で人が私を見ていたから」というのと、「私は窃盗(万引き)をしなかった。その場にはだれもいなかったが、やっていけないことはいけないのだと自分に言い聞かしたので」というのの、二種類です。

同じく、法に逆らい背く行いをしなかった、といっても、前者には、じゃあ人がその場にいなかったら窃盗(万引き)を私はしでかしたかもしれないという気持ちが残っています。それになお引きづられていて、もし今度よからぬ魂胆の知人と出くわしたら、断りきれずに窃盗(万引き)をするかも、といったふうな心持ちから自分は解き放たれてはいません。

つまり、自分の内側にある強制から自由ではない。いわば、いつ邪心(自分の内側に存在している)に自分が征服されるかもしれないと、心配してなくてはいけないままですので、そういう人間は依然として不自由な意識を持ったままというほかありません。

したがって……、

前者のようないわば不純な動機からでなく、後者のようないわば純粋な動機から、法に従う行いを続ける人間が、いつまでも自由であり続けられるのだ、というのがカントの自由についての論断だ、ということになります。

法に従っていれさえすれば、人間何をしてもいいんじゃないの、という通論に比べてみると、カントの見解は、それじゃまだいけないのだと説いている趣があります。この事情から、カントの学説がしばしば厳格主義と評されるのは、もっともなことだと私は思っています。

なお、カントは、後者の行いを定言命法に従った行い、ないしは善意志に基づく行い、あるいは道徳法則を尊敬しての行いと規定していることを、付け加えておきます。

また、上記の、二種類の区別立てを行ったうえで、人間には後者の行いを敢然と行える力がある、と主張したのがカントの「実践理性批判」だった、と私は解釈しています。

以上、長くなりましたが、カントの倫理思想についての私見を、人間は自分自身が自由であることをどのようにして意識できるか、という論点を踏まえて述べてみました。
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