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 こんにちは。紫式部が鰯好きだったという
逸話があると聞きました。夫に鰯の匂いを
とがめられたところ、
「日の本に はやらせ給ふ 岩清水 まゐらぬ人は あらじとぞおもふ」
 という歌をよんでやり返したという話らしいのですが、もともとは「猿源氏草紙」に収録されていて、
話の主も和泉式部となっています。(歌も少し違います)
 いつ和泉式部から紫式部になったのでしょうか。
江戸時代あたりかなあと思うのですが、この紫式部を主人公にした鰯好きの話の出典をご存じの方、いらっしゃいましたらお教えください。よろしくおねがいします。

A 回答 (2件)

天保11(1842)年成立の志賀理斎『三省録』には『市井雑談』からの引用として「紫式部と鰯」の説話が載っていました。

おそらく林自見『市井雑談集』のことだと思いますが,これは宝暦14(1764)年刊なので,『和訓栞』(1777年ごろ)より若干早い例になります。
せっかくですので『三省録』を引用しておきます。(『市井雑談集』は翻刻されていないので確認できておりません。申し訳ありません)

「むかし紫式部,あるとき夫宣孝他出のとき,鰯をあぶり喰たるを,宣孝かへりみて,いやしきうをゝ食ひたまふと笑ひければ,
  日のもとにはやらせ給ふいはし水まいらぬ人はあらじとぞ思ふ
と詠み侍りしとぞ。」(『日本随筆大成』(第2期第16巻)より引用)

この和歌自体は『八幡愚童訓』(たぶん乙本だったと思います)に出ていますし,鰯説話の中心も「石清水」と「いわし」の単なる駄洒落ですから,説話の源泉は室町時代までさかのぼれるかも知れません。
『猿源氏草子』の「和泉式部と鰯」説話が「紫式部と鰯」の原型なのか,それとも「紫式部と鰯」型が先にあって『猿源氏草子』では話の前後に合わせて和泉式部密通説話の一部にしたのか,私には分かりませんがどちらもありそうだなぁ,とは思います。文献的に辿ることができればはっきりするのですが,なかなか上手く行きませんね。

なお,鰯が「むらさき」だというのは,『日葡辞書』(1603~04年)にもありました。
「Murasaqi ムラサキ すなわち,Iuaxi(鰯). 鰯。これは婦人語である。」
(『邦訳日葡辞書』より)
「紫式部と鰯」の形で説話が固定化するよりもかなり以前に「鰯=むらさき」だったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 鰯=むらさき、は日葡辞書にもあるのですか。
だとすると、おっしゃる通りずいぶん前から
「むらさき」で鰯を意味していたのですね。

 『八幡愚童訓』など調べて確認してみたいと思います。詳細なご回答とご引用、誠にありがとうございました。

お礼日時:2006/02/22 22:30

はい、それは、江戸時代の書物「倭訓栞(わくんしおり【成立】安永六(一七七七)年~明治二〇(一八八七)年【著者】谷川士清。

【内容】掲出語は、和語・漢語・外来語・雅俗など国語のほぼ全般」です。

女官言葉(隠語)で鰯のことを、「むらさき」とか「 おむら」と言っていましたから、これに紫式部が連想されて、変化してきたのではと思いす。
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この回答へのお礼

 ご回答どうもありがとうございます。
「倭訓栞」ですね。早速しらべてみます。

 鰯の女房言葉「むらさき」については、この紫式部のエピソードがもとになっているからとする考えと、
鰯が海面にあつまったときに紫色に見えるからとする
考えがあるそうですが、卵が先か鶏が先か・・・ですね。

お礼日時:2006/02/21 21:46

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