親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

江戸時代の五人扶持、大工棟梁といえばどれぐらいの地位だったのでしょうか。
当時のランクなどを表にしたものがあれば教えてください。

A 回答 (7件)

江戸時代のランクで言えば何石が一番上で、次が何俵、何人扶持というのは一番下です。


ただ下級武士なら、何石何人扶持とか何俵何人扶持と石とりや俵とりにあわせて扶持をもらう場合もあります。
たんに扶持だけしかないのは正規の武士ではなく、足軽よりも下の中間クラスということになります。
五人扶持、大工棟梁というのであれば、幕府や大名家などから扶持をもらうお抱えの技術者ということになりますから大工の中では最高クラスということになります。(もちろん幕府の大工頭などを除いてですが。)
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この回答へのお礼

江戸時代は肥後藩で五人扶持、大工棟梁だったのですが、戦国時代は荘園を預かる武士だったようです。武士から技術者になるということはあるのですか?それとも代々技術者だったのでしょうか。

お礼日時:2006/02/18 15:18

No.3です。



>茶道奉行とか作事奉行というのはどんな立場でどんな仕事をしたのでしょうか。

茶道奉行は、茶道の指南と茶会のセッティングが主な仕事です。安土桃山時代から江戸時代においては、茶会は上級武士の社交場でしたから、藩内外の貴賓をもてなすこともある重要な役職でした。

作事奉行は、藩の建設工事を統括する役職です。建設計画の立案のほか、配下の大工頭(だいくがしら)等を使って現場の管理も行っていました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。大事な地位のひとつなんですね。

お礼日時:2006/02/23 12:37

ひょっとして「古市宗庵」のことを言っているのでしょうか。


彼であれば、本能寺の僧侶の円乗坊宗円の養子(娘婿)で、肥後古流流祖で、細川忠利の命で、水前寺成趣園の基礎となる「国分の御茶屋」の設計もやっていますから、大工でもあり茶人でもある、という点では一致します。

ただ細川家の茶道師範ですと250石程度はありますから、50石というのは一致しません。

参考URLの萱野正的なども見てください。

参考URL:http://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。けっこう重要な地位でもあったんですね。

お礼日時:2006/02/23 12:36

>細川氏の側室から公家から婿養子をもらって立て直そうとしたようですが



お公家さんに婿養子に入ったのではなく、お公家さんの婿養子をもらったのですね。それで芸道や作法指南として藩公に仕えたというのなら話はわかります。

しかし、それだと俸給が扶持米だけという点と、大工の棟梁だったという点がよく分からなくなります。他の方も書かれていますが、五人扶持だけではとても一家を養っていけません。他に知行を貰っていたのではないでしょうか?

また大工の棟梁は多くの職人を統率しなければなりませんし、土木や建築に関する高度の専門知識が必要となります。お公家さんの婿養子に勤まるものではありませんし、そもそも町民ですから公家から婿養子は貰わないでしょう。

お話の内容からすると大工の棟梁ではなく、土木工事を担当する作事奉行だったのではないでしょうか?代々細川家に仕える武士で、ある代では茶道奉行として、ある代では作事奉行として仕えた、ということであれば理解できるのですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。茶道奉行とか作事奉行というのはどんな立場でどんな仕事をしたのでしょうか。

お礼日時:2006/02/20 06:38

>家が断絶しそうになったので、藩主の側室のはからいで公家の婿養子になっていったん姓が変わるんですが



貴族も男系社会なので、いくら裕福でも町民が貴族に婿入りすることはまず有り得ません。お話の内容からすると、gcatさんの御先祖は町民ではなく郷士だったようですね。

郷士とは、かって武士だった者が改易などによって主家を失い、新しい国主に仕えず土着した身分を指します。肥後は戦国から江戸初期にかけて領主がめまぐるしく交代しましたから、多くの武士が郷士になったものと思われます。

郷士は正式な藩士(上士)ではありませんので、苗字帯刀は許されていますが、身分としては武士と農民の中間に位置します。しかし前領主の下でかなり高い地位にいた人でも郷士になる場合がありましたから、地方にあける有力者である場合も多かったのです(もちろん、極めて貧しい郷士がほとんどでしたが)。

上級武士が郷士となった場合には、家柄もしっかりしていますし経済力もありましたから、貴族の婿養子に入ることも可能です。
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この回答へのお礼

すみません。最初から肥後にいたわけではないようです。細川氏の側室から公家から婿養子をもらって立て直そうとしたようですが、しばらく婿養子の姓になっているのです。その婿養子は藩主から命じられ茶道奉行になったり、藩主の参勤交代に同伴していますが家人に放蕩人が出たため嘆いて最後は僧侶になっています。
元の姓には婿養子をもらってしばらくして復活します。江戸末期まで細川家で働いていたようですが同じ姓の武士が太平記から細川氏と一緒に戦ったという記録もあるので、これが先祖だとするとずっとくっついて肥後までやってきたのでしょうか?もともとは長講堂領の荘園を持っていたようですが、承久の乱で後鳥羽上皇について京都防衛で幕府側と戦って負けた記録も承久記にあるので所領没収で逃げ延びたみたいなのですが・・・・・・

お礼日時:2006/02/19 12:12

>江戸時代の五人扶持、大工棟梁といえばどれぐらいの地位だったのでしょうか。



五人扶持というのは、武士の給料の一部の扶持米の量を表します。扶持米には男扶持と女扶持があって、男扶持で一人当たり年一石八斗、女扶持で一人当たり年一石八升です。男扶持で計算すると、五人扶持=九石となります。お金に直すと約8両になります。

大工の棟梁ということですので、町民ではありますが藩の役所詰めとして召し出され、役料(役職手当)を貰っていたのでしょう。

一口に大工の棟梁といってもピンからキリまでありますが、寺社や城などの建築を手がける宮大工の棟梁ともなれば、収入は大名に匹敵します。藩に召抱えられるほどなら、かなり大きな組を従えていたはずですから、五人扶持の役料などお小遣いにもなりませんね。もっとも藩に召抱えられた棟梁の中には名字・帯刀を許される者もいましたから、大変な名誉であったことは確かです。
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この回答へのお礼

家が断絶しそうになったので、藩主の側室のはからいで公家の婿養子になっていったん姓が変わるんですが、そのあと再び同じ姓に戻すのですが、どういうことでしょうか。町民でもそういうことはよくあったのでしょうか。

お礼日時:2006/02/19 10:00

>江戸時代は肥後藩で五人扶持、大工棟梁だったのですが、戦国時代は荘園を預かる武士だったようです。

武士から技術者になるということはあるのですか?それとも代々技術者だったのでしょうか。


戦国時代までは武士や農民、あるいは技術者とがはっきり区別されていたわけではありませんので、戦国以前は武士だったが、江戸時代には違う身分になっていたと言うことは珍しくありません。
ただ、大工棟梁であればやはり技術なしではなれないでしょうから代々技術は継承されていたものと思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。武士とか農民とかはっきり身分差別をしていなかったのですね。

お礼日時:2006/02/19 09:56

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江戸期に徳川親藩17万石の大名の家来で8石2人扶持の身分は足軽でしょうか?
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飛地の規模は約6万石、藩士は200人程で250石の支配役が2名で残りは全て10石前後です。

Aベストアンサー

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

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奉行をやっている間は,役料という形で扶持が増えているはずです。ただし,これは家禄ではありませんから,役を辞めればもらえません。ここで,認められれば加増という形で,家禄自体が増えるわけです。

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

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 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
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ちなみに、映画「たそがれ清兵衛」で、主人公の清兵衛は家禄50石程度の徒士(映画では勘定方)、清兵衛の友人は家禄300石程度の上士という設定でした。両者の身なりや屋敷を見れば納得できるでしょう。

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wairudodarou



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また、会津藩では扶持米取はあまり身分が高いとは言えないようです。
詳しくは、下記のURLを参照してください。

武士の俸禄
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会津藩の家臣団の階級

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Q石高について

石高が具体的に想像できません。時代ごとで石盛がことなることは理解できるのですが、例えば加賀百万石や慶長年間の30万石とは、玄米にして何表にあたるのか、米にしたら何表になるのか、金額にしてどれくらいなのか、などの具体的なものを教えていただけませんか。時代ごと、地方ごとでその意味は異なるとは思うのですが、概略だけでも掴みたいと思います。

Aベストアンサー

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのうなぎを食べていたというのが実情で、しかも、精力がつくというので、人足などの肉体労働従事者が食べていたもので、一般的ではありません。

食品としては、海から取れるものは、各種の魚、貝、たこやいか、海草などで、池や川や田などでは、魚や貝が取れました。これらを調理して料理にしたのです。また陸では、米、麦、豆、粟・稗などの雑穀、大根、芋などを含む各種野菜、そして兎やかもの肉などがあり、例外的に、猪の肉などもありました。

しかし副食はそんなに多くなく、庶民だと、米に雑穀、豆から作った味噌や豆腐、それに野菜、魚、貝などが食物でした。やはり、米と雑穀、麦が多く、それに味噌、野菜を少し加えて、これで大体食事です。宮沢賢治の「雨にも負けず」にあるようなのが、江戸時代の食事です。

生活費は大体、食べるのに使ったのだと考えるのがよいでしょう。衣類や調度、その他、多少の道具も必要だったでしょうが、やはり食べることが主で、食べられることが、生活の条件だということになります。

だから、食べるための米の量で計算するのが、江戸時代の価値観では合理性があるのです。

一日に米五合というのは、そんなに食べないと思えますが、昔は、副食がないので結構食べたのです。米だけ食べたのでないので、雑穀も米に勘定して、副食もこれに入れます。すると、大まかに、1石は、200日分の米だと出てきます。

1石=10斗=100升=1000合 でした。それゆえ、1石半で、一人の食料一年はまかなえたことになります。5人家族で7石か8石です。もう少し多く必要だとして、庶民は、一年間に一家で10石あればよかったということになります。

最下級の武士で、禄高30石とかがありますが、30石でも、食べるだけなら、十分余裕があったということになります。

米10石が庶民の年間の収入だったと考えると、現代の庶民の年間収入を仮に300万円とすると、1石は30万円になります。米1升は、1.5kgほどで、1石は150kgだとすると、現代の安い米だと、1kgは500円かそれ以下です。1石は7万5千円になり、10石は75万円になって、先の300万円と合いませんが、江戸時代の方が米の価値は高かったのだと云えます。

中級武士は、禄高100石ぐらいありました。これは3000万円になり、非常に高給のように思えます。しかし、江戸時代は、人件費が無茶苦茶に安かったという事情があります。商家の手代や丁稚が一年、働きに働いても、大した給金はなかったのです。食べさせてもらうことが、給金の主たる部分だったとも云えます。

また武士は、人口の一割にも満たない、エリート階層だったのだということも重要です。中級武士だと、少なくとも4,5人の下男・下女などを専属で使っていたのであり、現代の日本で、4,5人の成人を丸抱えで雇うとなると、年間1000万円の収入では無理でしょう。一人300万円出すとしても、1200万円とか1500万円必要になり、これを考えると、100石の中級武士が年収3000万円というのは、それほど多い金額ではなくなります。

1000石の旗本というと、殿様であって、裕福ということになりますが、これは年収3億円ということになります。

1万石の大名は、石高30億円です。しかし、1万石の大名になると、相応の数の武士の家来を持たねばならず、小者や使用人など、抱える家来や使用人は100人は軽く超えたはずです(また収入は、以下の前田家と同様、15億円と半分になります)。

加賀100万石の前田家は、石高3000億円ということになりますが、これは大土地所有者でもあるのであり、日本の面積の50分1ぐらいを所有する大金持ちだとも云えます。(また、これは、加賀の総生産高で、課税がその半分とすると、1500億円が収入です。領地を持つ大名などは、領地からの税収が収入であったのです)。

徳川の直轄領を仮に1000万石とすると、徳川宗家は年収1.5兆円だとなりますが、これはむしろ、少ないのではないかという気がします。

1石30万円というのは、江戸初期の米の価値で、米の価値は段段落ちてきます。江戸末期には、1石10万円に、もしなっていたとすると、幕府収入は3750億円になります。

これでも多いように見えますが、幕府が何人の人間を養っていたのか、行政手順など、どれぐらい費用をかけていたか、こういうことを考えると、3750億円などでは、とても足りないということになります。

幕府1000万石1.5兆円は、純利益ではなく、粗利益で、ここから人件費その他諸費用を出さねばならないのです。それは大名家も同様で、武士の家も似たようなことになります。

なお、1石は2.5俵です。40石が100俵です。また玄米と白米は、昔は食用の米はほとんど精米していません。だから、そんなに差はないことになります。清酒用の米はかなり精米したようですが、分量的には、それほどではないでしょう(ただ、糠が出る程度には精米したはずです。糠も貴重な食料原料だったのです)。

(農家の次男・三男などが商家に丁稚などで働きに出ると、食事に、たくあん一切れ二切れとか、梅干が出たそうですが、これが何とも美味しく、魅力的であったという話があります)。

なお、参考2では、1石=5万円としていますが、これは話がおかしいのです。現代の米の価格をそのまま戦国時代や江戸時代に当てはめるというのが無理があるのです。一日5合が、一人の庶民の生活費で、1石=5万円だと、1合=50円で、一日5合は、一日250円となりますが、そんなはずはないのです。

1日250円なら、1年で9万円ですが、5人家族で45万円とは、現代日本では生活できません。米の価値が、江戸時代では、現代よりも遥かに高かったということを失念しているのです。

>参考1:石高とは
>http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm
 
>参考2:関ヶ原
>http://www.ryusaku-kuroya.net/sekigahara.htm
 
>参考3:上田藩の支配組織
>http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm
 

参考URL:http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm,http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのう...続きを読む

Q江戸時代に名字(姓)を持っていた農民、商人はいましたか?

江戸時代まで名字(姓)が許されたのは、貴族、武士だけだと学校では習いました。一般庶民が名字を持つようになったのは、明治時代からだと思いますが、本当に江戸時代に名字を持っていた農民、商人はいなかったのでしょうか?

一部の有力な農民、商人の中に名字を持つ者はいなかったのでしょうか?もしいたら、それはどういう理由から持つことを許されたのでしょうか?

ご教授願えませんか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「誰でも苗字は持っていたけれど公的には使えなかった」というのが私の見解です。(全く持ってなかった人もいたとは思いますが)
その証拠のひとつに江戸時代の墓を見てください。俗名は苗字付きで書いてあるはずです。その他、手紙など私的な文書には使用は可能だったでしょうが、売買証文など公的なものはだめでした。
藩に多額の献金をするなどの功績があると苗字が御免になることがあります。庄屋や大商人にも許されていますが、庄屋とか大商人という理由だけで許されたわけではないようです。古文書を見ると苗字なしで署名している庄屋もいます。
その許され方も「一代限り」とか「永代」といった区別がありました。
商人は一般に「屋号」を使いますが、苗字が使えないのでその代わりに屋号で呼びあったという研究者もいます。
教科書に書いてあるような江戸時代の「常識」はいい加減なものですね。私もあきれています。

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Q江戸時代の武士の階級について

将軍家>親藩大名>譜代大名>外様大名>高家>旗本>御家人
(左は高く、右は低いという設定です。)

こうのような認識でよろしいですか?
間違っているところ、抜けているところがあれば教えてください。

Aベストアンサー

>こうのような認識でよろしいですか?

残念ながらよろしくないです。
なぜならば、階級のようなものを曖昧にして、誰が偉いのか分からなくするのが徳川家康の狙いだったからです。

親藩は将軍の親戚だという「名誉」があるだけで、藩主は幕府の要職には就くことはできません。
外様大名は禄高が多い大大名が多いですが、これもまた、幕府の要職には就けません。
譜代大名や旗本は徳川家直属の家臣で、禄高はあまり高くないですが幕府の要職に就き、実際の権力を持ちました。
特に旗本でも高家と呼ばれる旗本は、格式ではその辺の大名よりずーっと上でした。
有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介は4千2百石の旗本でありながら、5万石の大名である浅野内匠頭を「田舎侍!」などとののしっています。(まぁ、これはお芝居の話ですが)

名誉、禄高、権力、格式を分散させたのです。
これは謀反の防止の為です。

ようするに、色々な分野でNo1を作ることによって、誰かが徳川に対して謀反を起こそうと仲間を集めようとしても「俺の方が偉いんだ、お前の下になんかつけるか」「俺の方が偉い、いいや、偉いのは俺の方だ」と、誰かが突出したリーダーシップを取るのを防ぐ為です。

 

>こうのような認識でよろしいですか?

残念ながらよろしくないです。
なぜならば、階級のようなものを曖昧にして、誰が偉いのか分からなくするのが徳川家康の狙いだったからです。

親藩は将軍の親戚だという「名誉」があるだけで、藩主は幕府の要職には就くことはできません。
外様大名は禄高が多い大大名が多いですが、これもまた、幕府の要職には就けません。
譜代大名や旗本は徳川家直属の家臣で、禄高はあまり高くないですが幕府の要職に就き、実際の権力を持ちました。
特に旗本でも高家と呼ばれる旗本は、...続きを読む

Q韓国人が一発で黙る歴史の真実

東アジアでは昔から「王」は「皇帝」の家来です。
従って朝鮮王と名のることは中国皇帝の家来ですと宣言することです。(日本は天皇がいた。)
このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

Aベストアンサー

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。

>このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

私も激しくなる事はあっても黙らないと思います。
まず、李氏朝鮮は古くは明、後に清に冊封していた事は明らかです。
韓国でどういう歴史を教えているか知りませんが
嘘の多い韓国の大河ドラマですが「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」で世子(セジャ・次期朝鮮王)、世孫(セソン)を世継ぎとして明や清に認めてもらうと言う場面が多々あります。
少なくとも、李氏朝鮮は明や清に朝貢、冊封していた事は認めています。
もし、そう言う認識が韓国に無いのならばこのドラマを作った監督は韓国マスコミや民衆に袋叩きになっていると思います。

中国に対しても韓国5000年の歴史と大統領が発言したりして中国より歴史があると言ったりしています。歴史観でほんの少しでも日本寄りの発言をすると韓国メディアや国民から袋叩きにあって社会的に抹殺されます。
それがソウル大学の教授でもですよ!
まだ、社会的な抹殺で殺人でないだけ良いですが…
(添付YouTubeを見てください)

韓国の有識者は日本併合(植民地)時代の本当の歴史等を知っているとは思いますが全体としては臨時政府などと言い方を変えたり、テロリストを反日であれば英雄にしてしまうように都合のいい歴史観にしています。
考古学的に何の検証もしていない神話レベルの話で韓国5000年の歴史と大統領が発言してもはばからない国です。
現在は日本は、歴史は歴史で神話とは別というのが日本人の共通認識のはずですが韓国人がどこまで区別しているのか、全く分かりません。

何せ、韓国では日本は悪でなくてはならない国であり、韓国は常に正義であり善であると教えている国です。
今の韓国には日本人が何を言っても逆なでする事はあっても肯定する人はなく無駄な気がします。
多少の隠れ親日派は作れるかもしれませんが公に口にする人はいないと思います。
韓国で権威のある歴史学者、大学の教授の発言でも親日でなくとも日本を少しでも擁護する内容であれば叩かれます。

李氏朝鮮末期の記録は欧米の記録や写真などが多少なりとも存在しています。
そう言った物、資料を直視する韓国人は少ないのです。
今の韓国と日本で歴史観を埋めようとしても一方的に韓国の歴史観を押し付けられるだけです。
今のうちに、そう言った客観的な資料を集めておくとか、日本、中国の文献を集めておくとか準備しておくくらいしかないと思います。
あまり人の事を言える立場では無いですが慰安婦問題なら「韓国軍のベトナム人大虐殺」「米軍慰安婦」とかで対応するしかない。

添付YouTubeでも言っているように
韓国とは暫く距離を置いて付き合うのが無難だと思います。

【日韓問題】 韓国人から見ても異常な…韓国人ブロガー・シンシアリー氏 .
↓↓(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=cluHbI5i7gU

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。

>このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

私も激しくなる事はあっても黙らないと思います。
まず、李氏朝鮮は古くは明、後に清に冊封していた事は明らかです。
韓国でどういう歴史を教えているか知りませんが
嘘の多い韓国の大河ドラマですが「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」で世子(セジャ・次期朝鮮王)、世孫(セソン)を世継ぎとして明や清に認めてもらうと言う場面が多々あります。
少なくとも、...続きを読む


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