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江戸時代の治安はどんな感じだったのでしょうか?
以前NHKの「その時歴史が動いた」で長谷川平蔵をメインに取り扱った番組をチラッと見ました。江戸の町では、与力や同心と、犯罪集団との癒着があって強盗等が横行したと言ってました。
江戸の町の人はどんな対策をこうじたのでしょうか?大商人とかは、犯罪集団からどうやって資産を守ったのでしょうか?
当時の住居が持つ防犯能力はどんなものだったのでしょうか?
(今みたいに金属製の扉に鍵がついている訳ではないと思うので)
犯罪集団が刀を持っていたとしたら、刀を持てない身分の人は身を守るのが難しいのではないか?
とか思いました。
それと広辞苑で「無宿人」とか「渡世人」とか「博徒」とかを、調べたのですが、
どんな存在だったのかイメージがいまいち湧いてきません。
この人達はどんな存在だったのでしょう。どんな風に生計を立てて、どんな風に生きていたのでしょうか?
いろいろ書きましたが、少しでも、教えて頂けると嬉しいです。

A 回答 (3件)

江戸の市街はブロック毎に木戸という木柵で囲まれ、日没と共に閉鎖され木戸番がいて夜間通行不能という決まりでした。

  また町内毎に自身番を置き火の用心を兼ね見回りをしていました。
従って犯罪があればそのブロック内に犯人がいることに、一応なります。

又五人組という隣組のような制度で相互に監視合い密告させる定めもありました。 これは連帯責任制でしたから現在の監視カメラ以上に抑制効果がありました。

犯罪者側もこれを逃れる為、船を利用し木戸を避ける工夫をしますが、これにも船番所があって不審な船を見張っていました。 現在のパトロール警官のように夜間無灯火の船は一々不審尋問しました。

この他に警察制度があり、結構治安はよかったのです。 犯罪に対する処罰も厳罰主義でした。
後年治安が悪化して、制度もマンネリになって来ましたから、火付け盗賊改めという特別の武装警官隊を新設するようになりました。  これは逮捕だけでなく処刑部隊でもあったのです。

一般人の家庭は殆ど貯蓄もなく日銭暮らしですから、狙うのは資産家ということになりますが、大抵財産は土蔵にしまい鍵をかけています。 
また自衛の為、町火消しのメンバーに資金を提供して
夜回りなどを依頼していました。

夜間は大戸という頑丈な板戸で密閉し、塀には忍び返しを付け侵入を防ぎました。  使用人は多く住み込みですから屋内には多くの人員がいました。

無宿人は人別帳という戸籍から抹消されたホームレスのような人で、住所不定、公的保護の受けられない人でした。 普通の職にはつけませんでした。

渡世人というのは一応定職をもった人と博徒のような人と2種類いました。 旅芸人のような遊芸で身をたてる人や祭りなどで臨時の店を開く商人です。
娯楽の少ない時代でしたから社会の潤滑油のようなものでした。

博徒といのも色々あってボランティア団体のような活動をして社会に貢献した清水次郎長のような人もいます。
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この回答へのお礼

江戸の町の仕組みが分かって良かったです。ありがとうございました。

お礼日時:2006/02/26 04:18

江戸の町ですが、治安の最高責任者は「町奉行」で、1ヶ月交代で南北の1人ずつの奉行が、月番制であたります。


旗本の中から、有能なものが選ばれました。
寺社は町奉行の管轄外で、譜代大名から寺社奉行が選ばれ、寺社を支配し、無事にお役を務めれば、大阪城代か京都所司代を経て、老中に上ります。
町奉行の下に各々25人、南北合わせて50人の与力が付き、世襲で200石程度の御家人が勤め、今で言う官僚にあたります。
この下に30俵5人扶持の同心が付き、彼らはポケットマネーで、目明しと呼ばれる手下を使って犯罪捜査を行います。
目明しは役人ではなく、同心と個人的な付き合いがあるだけですから、犯罪者上がりのものも少なくなく、お上の威光を傘に、ゆすりたかりをするものもいて、功罪半ばします。
これだけの人数で治安が保てるのは、自治組織が発達しているからで、町内に自身番という、今で言う交番を設け、治安維持や火災の通報などを行い、町内の入り口には木戸を設けて、夜の10時以降の通行を規制(通りたい場合は木戸番に開けてもらう)しました。
こういった自治組織により、江戸の治安が保たれていましたが、時代が下がると経費削減により、自身番につめるのが老人であったり、問題も出てきました。
そこで凶悪な犯人を逮捕するために、火付盗賊改(関東強盗追捕)が設けられました。
奉行所が幕府諸施設の警備を中心にしたのに対して、こちらは犯罪者の逮捕が主務で、関八州も担当していました。

無宿人とは、人別帳から削られた人間で、手形などの発行も受けられないので、今で言う行政サービスは一切期待できなくなりますし、取締りの対象になることもあります。
渡世人は今で言うやくざで、博打を生業とする博徒と、縁日で見世物をやったり物を売る香具師がいました。
博徒は鉄火場という博打の場所を提供して、テラ銭と呼ばれる場所代を貰うとともに、自らも博打に加わり、香具師は神社の縁日に露店を出して稼ぎます。
お寿司で鉄火巻きというのがありますが、これは博打の最中にすばやく食べるために考案されたものという説もあり、西洋のサンドウィッチと同様の起源とも言われます。
この時代、武士以外は刀を持てませんが、例外的に旅に出る町人は道中刀(どうちゅうざし)という、刀の携行を認められており、TVなどの股旅物で、渡世人が刀を挿しているのは、名目的に旅をしているということです。
その為、1箇所にとどまる事が出来ず、土地の親分に厄介になりながら、流れ歩くのはこうした理由もあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
博徒には、賭博場を開く興行主?みたいな人が含まれているんですよね?
鉄火巻きの由来が分かって良かったです。
渡世人についても以前よりイメージが湧いてきました。昔の街道はやはり危険だったようですね。

お礼日時:2006/02/26 04:17

江戸時代の治安はドラマで言うほど悪いわけではありませんか、なにしろ人口百万の都市の治安を担当する町奉行所の人員が数百名(江戸町奉行所は一般行政も担当していたので実際の治安を担当する者は数十人)しかいないのでそれだけではとても手が足りませんでした。


だから特別警察である火付け盗賊改めを設置して凶悪犯罪を取り締まらせましたが、こちらも人員は数十人で、それでも今のイラクなどに比べれば治安はずっとよかったのです。
華罪対策としては町々ごと木戸があり夜は閉められて通行できませんし、番人もいましたからドラマのように犯罪集団が傍若無人に町を横行することはありえません。
もちろんこっそりと忍び込んだりするのはありましたし、歌人に気づかれたら刀で殺傷するような事件もありましたが、大店でもそれほど厳重に警備するほどの必要はありませんでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/02/26 04:11

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