のび太はい言いつづける、、、、
「何で又散らかるのに、片付けなければならないんっ・・(すぅー)っだーーーーーーーーーーーーーーーーー・・・・・・笑・・・・

昔の人(ジャイアン)がゆってた、。
「お前のものは、おれのもの、おれのものも、(すぅ(息)
          おれのものっーのの!!(どっかん)衝)」
 
この質問はふざけているようですが、真剣です。
1)のび太に。喝!お願いします。言ってやって下さい。
2)後、ジャイアンに質問するなら何を聞きますか?
 
皆さんの生の声を聞かせていただけないでしょうか?宜しくお願いします。

(ぶしつけな口調と感じられたならごめんなさい。)

A 回答 (5件)

こんばんは。



2)「僕の宿題も、ジャイアンのものだよねv」

んでは~♪
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この回答へのお礼

>「僕の宿題も、ジャイアンのものだよねv」
ジャイアン一号:!?・・・・。。。。(くっ、しかたない!)・・・・よ、よーシッ!今日はジャイアンリサイタルだーーー!←なんでやねん(笑
 
哲学的ジャイアン:なにおう!俺のものは君のものじゃないか!がはは!←意味わかりますか?ジャイアン教、実は、俺のものなど何もない、という所に近づいてます。(僕的には)僕は、だから映画のジャイアンは飛び切りやさしいくて、正義漢なんだと思います。まぁ実際は立派なガキ大将なんですけど、。
 
しかし、kaname sさん、やりますね、。
そんなあなたはジャイアンリサイタルの刑です(笑
 
ありがとうございました!
 

お礼日時:2002/01/17 00:29

1)「じゃあ自分の部屋は自分の好きなようにしてごらん。

そのうち掃除したくなるよ」

2)「じゃあ、僕のママも?」
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この回答へのお礼

のび太:
い、いーもんねー♪だってドラえもんがいるもん。
ドラえもん:なにゆってんだよ、のび太くん。僕知らないよ?
のび太:そうじなんて、、。
 
ジャイアンI:はぁ?お前のママはおまえのものか?
ジャイアン:そんな年増いらね、。(笑
 
mimosa2001さん!ありがとうございます。なんか、つたないお礼でごめんなさい。多分のび太は掃除しないと思うんです。鼻くそを何年もかかさず溜め込んで、ドッチボールくらいの大きさの塊とか、つくってるし、、。結構強敵です(笑

お礼日時:2002/01/17 12:24

面白そうですね。



1)しずかちゃんが遊びに来たとき恥ずかしいでしょッ!
・・・哲学的じゃない回答ですね。

2)あなたはモノに価値を見出しているのか、それとも手に入れる行為に価値を見出しているのか?
・・・UFOキャッチャーの景品などは、GET後は用済みって感じですが(取ることが楽しいだけ)、ジャイアンは手に入れたものをその後大切にしているのかどうか聞いてみたいです。
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この回答へのお礼

のび太1:じゃぁその時片付けるからいいもん。

スネオ:ジャイアンがまた←強調)
        僕のラジコンこわした~!マァマ~(泣

ということで、ものに価値は見いいだしていないはず!(笑
でも、物をたくさんもってるスネオがいつもねらわれます。
ということは、どっちもですね。
彼はガキ大将なので、年貢をおさめないとひどいのです(泣
もってる者からはたくさんを、もってない者からはすこしを取ります。
フツーですね、。(笑

ありがとうございました!
  

お礼日時:2002/01/17 03:00

 整理、掃除をしなければ、散らかったまま、汚れたまま・・・だけで済むわけが無い、その上に、散らかり、汚れが増幅していきます。


 「怠け癖は、精神も堕落させます。」
 そういった常識も分からず、屁理屈を言って、怠けようとする怠惰な精神を感じます。
 他人の所有物(仏法上は仮の存在)を欲しがる。自分の所有にする。今の女性の不倫等にも通じますが、貪欲さが露顕されています。
 「欲には、切りがありません。いつまでも、たっても満たされることは無いでしょう。そうして、無駄に一生を過ごすだけです。それで、満足ですか?」
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

のび太:そ、そんなぁ~。ドラえも~ん!たすけてぇ。
ドラえもん:しょうがないなぁ、ごそごそ、「今日の鳥はコウノトリー!」
      じゃなかった、「オモイコミンー!」←どらの道具(ホントに)
これをのむと、何でも思ったようにそれが見える。だから、ジャイアンの剛速球ものろこい風船だと思えばそう見える。ママのギャイギャイうるさい説教も、小鳥のさえずりと思えばそう聞こえる。

のび太君、さぁ飲むんだ!

のび太:飲んでどうするの?
ドラえもん:飲んで思うんだ!君の部屋のごみはゴミでない。それは汚くない。
      君の部屋にあるものは皆、ゴミではないんだと、。
      綺麗な綺麗なものだって。
 
                    めでたしめでたし?
 
薬王:まてい。のびよ、そのままを見ろ
   あなたが汚れと思っているものは汚れだが、避けるような者ではない。
   綺麗なものに目を奪われ、汚れるものは隠そうとする。
   ちがうのだよ、ノビタよ、あるがままを受け入れなさい。
   それが命の姿であるから、。ひゅー、、、閑閑。

かんしけつ!
 
実は僕、のび太派なんです。(笑
喝はありがたくいただきます。ちょっと、不必要な物や行動(迷い)が多いんで、どんどん散らかってしまうんです。でも、物を減らしても、こぎれいになっても、生活はしやすいが無常である事には変わりないと思うのです。ちょっと飛躍しすぎですか?

>他人の所有物(仏法上は仮の存在)を欲しがる。自分の所有にする。・・それで、満足ですか?

哲学ジャイアン:なんだとー!お前のものはおれのもの!
  だって、俺たちこころの友だろ~?←ジャイアンの口癖、いつもこれで脅す(笑
  だから、
  俺のものがお前のものでも、お前のものは俺のもの
  だから、両方俺のもの!がはは!←超わかりにくいですね。ごめんなさい。 
   
odd-artさん!ありがとうございました!やいこしいお礼でごめんなさい!
 

お礼日時:2002/01/17 01:08

カッ>伸びた


「なんでまた腹が減るのに、ものを食うんだ。やめとこうよ」
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この回答へのお礼

ニセのび:
これは減ってるんじゃない。減らしてるのだ。喰うために減らす。そして寝るときは三秒で寝る!←関係ない

マジのび:え~~っだって減っちゃうんだもん仕方ないじゃないか~
                 ママ~。今日のおやつ何~?
ママ:お部屋を片付けてからねっ。
マジのび:最初に戻る(笑
ドラえもん:なんでまた腹が減るのに、ものを食うんだ。やめとこうよ
 
samarukandoさん!ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2002/01/17 00:16

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Q《貴様ぁーっ!》と《おのれぇーっ!》との違いは?

 二つとも 一般に怒りを伴なって叫んでいる場合のせりふです。
 《個人》という人間の問題であり 《自己同一性》のそれです。なぜなら いづれの場合も 相手に向かって 

   その相手よ。あなたは《自己の同一性》を見失っているではないか?
  我れに還れ! そうすれば このような事態を引き起こしておいて 平
  気でいるわけがないはずだ。

 と訴えていると考えられるからです。(いま その正否は別とし得るでしょう。つまり 表現の問題だということにもなります)。
 そして 《自他の区別》の問題にもかかわります。

 【Q‐1】 前者の《貴様ぁーっ!》の場合は そのように叫ぶ自分と相手との区別がついていると言うべきでしょうか?

 【Q‐2】 後者の《おのれぇーっ!》というのは 《貴様》と呼びかけるだけではなく 《相手自身》のことを言ってその自己意識を呼び起こして 事態を明らかに見てみろとでも言っているのだと考えられます。ならばこれは 自他の区別がついているでしょうか?

 【Q‐3】 ただしつまりは いづれの場合も 《自分自身》を基準にして《人間》を捉えており その《おのれ》にもとづくなら 《わたしがわたしである》アイデンティティは守られるはずだという前提を置いているようです。このとき 自他の区別はついていますか? 
 ついているから しかも人間にとっての普遍的な人間性(自然本性)のことを大事にしようとしているのでしょうか?

 【Q‐4】 近頃 このように怒りの感情を顕わにして叫ぶ人を見かけなくなったように思いますが どうでしょう? そしてもしそうであるなら それは どういうことが起こっていると言うべきでしょうか?
 (α) 個人が確立し自他の区別がきちんとつくようになったから ことさら声を荒げて叫ぶ必要がなくなったのではないか。
 (β) いやいやそうではなく 人びとに共通の人間性――あるいは飛躍して神の霊? あるいは仏性?――が信じられなくなったので 《おのれ》を共有することもなくなった結果なのではないか。
 (γ) あるいは その他その他(?)。――《貴様ぁーっ!》と《おのれぇーっ!》とに違いがあって その違いによって事情は異なると言うべきなのだろうか?

 二つとも 一般に怒りを伴なって叫んでいる場合のせりふです。
 《個人》という人間の問題であり 《自己同一性》のそれです。なぜなら いづれの場合も 相手に向かって 

   その相手よ。あなたは《自己の同一性》を見失っているではないか?
  我れに還れ! そうすれば このような事態を引き起こしておいて 平
  気でいるわけがないはずだ。

 と訴えていると考えられるからです。(いま その正否は別とし得るでしょう。つまり 表現の問題だということにもなります)。
 そして 《...続きを読む

Aベストアンサー

{<なんじ>を語るひとは、対象といったようなものをもたない。なぜならば、<なにかあるもの>が存在するところには、かならず他の<なにかあるもの>が存在するからである。それぞれの<それ>は、他の<それ>と境を接する。<それ>は、他の<それ>と境を接することによってのみ存在する。しかるに、<なんじ>が語られるところでは、<なにかあるもの>は存在しない。<なんじ>は限界をもたない。
<なんじ>を語るひとは、<なにかるもの>をもたない、否、全然なにものをも、もたない。そうではなくて<なんじ>を語るひとは、関係の中に生きるのである。}
{永遠の<なんじ>は、本質上<それ>とはなり得ない。なぜならば、永遠の<なんじ>は本質上、量や限界のなかにいないからである。それは計ることのできない量とか、限界の無い限界のなかにすらおかれていないからである。また、永遠の<なんじ>は、本質上、性質の総体として考えることも、超越的存在にまで高めた小勢の無限の総和として理解することも不可能である。なぜならば、永遠の<なんじ>は、世界の内部にも外部にも見出すことができないからである。それは経験することも、思惟することもできない。なぜならば、もしわれわれが、わたしは<彼>がそんざいするのを信ずるというならば、存在者としての彼を見失ってしまうであろう。<彼>ということも、また一つの比喩となる。しかし<なんじ>は決して比喩ではない。}
プーパー 我と汝 植田重雄訳

<われーそれ>主体ー客体関係
<われーなんじ>根源的な関係。

<われーなんじ>という根源的な関係における<われ>は、決して認識の主体ではなく、<なんじ>もまた多様なものと境を隔てた、全体の部分であるような客体ではなくて、何にも限定されない全体そのものである。だから、汝は全体であり、<われ>はその全人格をかけてなんじを選び、直接自らをなんじに与えきってしまわなくては<われーなんじ>の関係を結ぶことはできない。そしてこの関係では選ぶことは選ばれることとなり、全人格をかけて<する>ことが、<される>ことになる。

ここまで異論はございますでしょうか?

{<なんじ>を語るひとは、対象といったようなものをもたない。なぜならば、<なにかあるもの>が存在するところには、かならず他の<なにかあるもの>が存在するからである。それぞれの<それ>は、他の<それ>と境を接する。<それ>は、他の<それ>と境を接することによってのみ存在する。しかるに、<なんじ>が語られるところでは、<なにかあるもの>は存在しない。<なんじ>は限界をもたない。
<なんじ>を語るひとは、<なにかるもの>をもたない、否、全然なにものをも、もたない。そうではなくて...続きを読む

Qえええーーっ!混元!?

とくに、前奏?には意味がないのですが、
混元という言葉に聞き覚えや、イメージすること、知っていることなど、お聞かせください。
 
*俺のイメージ 
根元というのが一般的だと思います。根というのは先端にいくほど分化して行くのであり、見た目は複雑です。それらがねもとに集まっていて、幹が伸びてっていう樹のイメージなのですが、混元という言葉には、不可解な宇宙のイメージがあります。
秩序とか、無秩序とか、そういう論点を一蹴しているようにも感じます。
 
皆さんはどうですか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

下記の様な事でしょうか?

 和銅五年一月二十八日(712年)、太朝臣安万侶によって「古事記」が献上される。序文「それ混元すでに凝り」の「混元」は、世界の成り立ちを意味する道教の重要な言葉。「元気」という言葉は混元と同じ意味で使われる。「高天の原」の「高天」、「原」は道教の経典に見られる言葉。このように【古事記は道教の影響を受けている】。
 

Qーー唯心論と唯物論ーー

ーー唯心論と唯物論ーー

私の考えとしては唯物論を支持しています。初めに断っておきたいのですが私は素人です。

理由は以下です。(フォイエルバッハの本などを読みました)

心が非物質的なもので、身体と心は分けられるとする。すると心は肉体がなくても思考するし、肉体があっても思考する。これは明らかに脳科学上の矛盾になる。肉体がなくても思考するのが本質ならば、脳は(脳科学上でも)なんの活動もする事なく思考できて良いはず。

対して、心を振動(バイブレーション)か光だとすると唯心論らしくなります。

唯心論と唯物論のどちらに理があると思われますか?

Aベストアンサー

私も専門家ではないので、あくまでも個人的な見解ではありますが、
やはり全ての根源は物質的存在であり、その物質の組み合わせや相互の影響によって、
精神や観念といったものが派生的に表現される場合がある、と考えています。

現代科学によって解明されている真理はまだまだ限定的であり、
幽子のような素粒子の存在や性質が解明されることで、
より一層、真理に近づけるのではないかと期待もしています。

そのような観点からも、やはり、精神的な存在を形作る物質が存在する、
という可能性を信じ、私は唯物論に理があると考えます。

Q宗教ー哲学ー科学・どう違うんでしょう?

宗教、哲学、科学の定義があったら教えてください。

Aベストアンサー

科学と宗教の関係を中心にして書かせて頂きます。

人間は意味を求める動物です。世界に「意味」を与え、整理分類し、納得しようとすることが人間の根本的な性質といってもいいでしょう。科学も宗教も、この世界の意味を求めようとする人間の理想に奉仕するもの、という点では共通しています。まずこのポイントは押さえておく必要があります。

そのうえで違いを考えるとすると、科学が追求する意味とは「普遍性」に関わるものであり、宗教の求める(あるいは要求される)意味とは、「個別性」に関わるものである、とまず分けることができるのではないでしょうか。

科学の態度というのは、「対象化」による「客観性」を要件として、主観を排除しながらものごとの関係を探り、意味付けをしていこう、というものです。典型的には、自然の中から繰り返し起こる現象について、そのメカニズムを発見し、法則として記述する行為が科学的とされるわけです。
村上陽一郎氏は、科学を「事物のあいだの相対的に安定した関係を探求することだ」と定義していますが、同じことをやや控えめに述べたものととっていいでしょう。

ただ、もちろん人生に普遍性はむしろ少ないでしょうし、常に主観を排していては生きていけません。科学は「この私の、ただ一度きりの現象」に意味を与えることは不得意です(というより、はなからそれを排除したところに成り立つものです)。
従って、科学が対象とできる範囲は、実は極めて限定的だということでもあり、そのことが、宗教の存立意義ともなっています。私たちは好き嫌いを問わず「この私」という主観のなかで現実を生きざるを得ないし、同時にそれについての意味付けを求めずにはいられないからです。

例えば、自分の家族や恋人が交通事故に遭って亡くなったとき、私たちは「どうしてこんなことになったのか」という意味を求めるでしょう。科学はせいぜい、どういう要素が(事実としての)事故をもたらしたのか、どういうメカニズムで(生物的な意味の)死が訪れたのか…といった「事実」を提示してくれるにすぎません。
それで納得できれば結構ですが、多くの人を満足させることはできないでしょう。なぜなら、求められているのは、「なぜ、私の家族が今死ななければならなかったのか」という個別性の意味を説明する答えだからです。

宗教の定義は昔から議論百出で、決定的な解釈はないのですが、一方に主観を排除するところに成立する「科学」をおいて論じれば、このように「この私」を含めた世界の意味を説明しようとするものが「宗教」だ、ということができるでしょう。
またこう考えれば、科学と宗教は明快に棲み分けがなされていることになります。啓蒙主義的に見れば、科学が発達すればするほど非合理な宗教は弱体化するはずだったのが、現実はそうなっていないことも、この見方を裏付けるものでしょう。
むしろ科学が進むほど、「この私」を含めた世界の意味を求める動きが強くなっているのではないでしょうか。科学は「なぜ私は生まれたのか」「なぜ私は死んでいくのか」といった人生の意味を語らないからです。

私は「科学」「宗教」のどちらがいいということを言いたいのではなく、むしろ科学と宗教どちらも「世界の意味づけ」に奉仕するもの、という点では優劣がない、ということを強調したいと思います。

宗教が与えてくれる人生の意味についての「答え」は、普通イメージされるような科学的な意味の答えではなくて、むしろ「物語」といってもいいものです。物語とは、ある限定された条件下で矛盾のない説明体系という程度の意味ですが、大事な点は、(文化相対主義的に見ると)科学的な説明も大きく見ればひとつの「物語」に過ぎないのであって、一見科学的な説明も、一見宗教的な説明も、同じ「物語」として単純に優劣を決められないということです。
なぜなら、どのような「物語」を選択するか、ということそのものが「この私」の主体的選択であり、生きるということはその選択の積み重ねに他ならないからです。

例えば、先の交通事故の例で言えば、「なぜ私の愛する家族が死ななければならなかったのか」という問いに、ある者は「前世が悪かったから」と意味付けて納得するかもしれませんし、またある者は「誰かが呪いをかけたから」と意味付けるかもしれません。また別の者は「劣悪な交通事情など社会的要因」を、あるいは「神の思し召し」を挙げるかもしれません。
これらはどれも、今現在の世界で実際に意味を持っている「物語」です。いずれの「物語」を採用するにせよ、おのおのの人間がその説明体系のなかで納得して世界の意味づけをできるのであれば、その個人にとっては宗教も科学といった分類は既に必要のないことだ、ということも言えるかも知れません。

さて哲学ですが、一般的に言われるように「考えることをも含めて考える知の営み」を指すのだとすれば、確かにその対象に例外はありません。歴史的にも、また名称としても「哲学(=フィロソフィア;智恵を愛すること)」は世界と向き合う学問の総体であったことは事実です。
しかし現在、対象の無限定性が必ずしも哲学の特権的立場を意味するわけではないでしょう。
「哲学や科学や宗教について考える私」のその頭の中の現象について、大脳生理学や人工知能(AI)といった複数の科学的研究がアプローチしています。また仏教の中観などの歴史は、ある種の宗教的情熱の中で哲学(形而上学)が徹底的に批判され、それがさらに宗教的エネルギーとなった実例でもあります。
現実には哲学・宗教・科学それぞれが、相互に関係しあう入れ子構造になることもあることは指摘しておくべきでしょう。

そもそも、ゲーデルを持ち出すまでもなく、経験則から言っても、私たちは自分で自分のことを正確に記述することはできません。真理という言葉を使ってもいいかも知れませんが、人間にとっての根拠、あるいは深い意味をもたらすものは常に外部からやってくるもので、単に論証できる、というものではありません。
そうであるからこそ、どんな形を通じてであれ、世界の意味、生の意味を求める私たちの「意味への希求」が止まないのである、ということが言えるのではないでしょうか。

※長くなって恐縮です。 あくまでも私見としてご覧下さい。また、私はこの文章で誰かを批判したり論争を求めているものでないことを明記しておきます。

科学と宗教の関係を中心にして書かせて頂きます。

人間は意味を求める動物です。世界に「意味」を与え、整理分類し、納得しようとすることが人間の根本的な性質といってもいいでしょう。科学も宗教も、この世界の意味を求めようとする人間の理想に奉仕するもの、という点では共通しています。まずこのポイントは押さえておく必要があります。

そのうえで違いを考えるとすると、科学が追求する意味とは「普遍性」に関わるものであり、宗教の求める(あるいは要求される)意味とは、「個別性」に関わるもので...続きを読む

Q字の成立と、認識の確立「女ー子ー男」

なんだかわかりにくいタイトルだなあと反省です。
先日、一年生の息子の宿題を見ていたら気づいたことですので、
まだ、自分でもちゃんと疑問が疑問として確立していない状態です。

息子は「男」の字を習って、意気揚々と練習中^^
「おとこって、田に力、だよねー」
「田んぼを耕すのは力が要る仕事で、男の人の仕事だったからだってね」
「うーーん、先生も言ってたよーー」と世代代々繰り返されて来た一年生の親子のやり取りかと思います。

表意文字である漢字は、つくりが単純な字ほど早くに成立したと思われます。
ヘンとつくりに分かれて構成されているような「組み合わせて出来る字」は、
当然それぞれの構成字の成立後に出来た事は容易に想像出来ます。

さて、男に対して「女」の字。
これは組み合わせて出来る字ではないような。。。
加えて「子」の方も単体の字です。

こう見ると「男」の字よりも「女」や「子」の字は早くに成立したと考えられるかな、と思いました。
そこから、私の飛躍しがちな思考回路で跳んでみました。
聞いて頂けますでしょうか。。。

人間は原始、人間にその認識は「種類」としてか?「役目」としてか?は不明ですが、
複数の区別が出来ると気づいたようです。
そして、その区別として「男」は「女」よりも遅くに認識された。
もっと言えば、「女」や「子」が認識されても、「男」という区別認識はまだ為されなかった。

「女」や「子」は、生殖の段階で気づいた区別認識だと想像します(勝手に)。
しかし、現在「女」に対する対として当たり前に出てくる「男」の認識は、
生殖と言う動物?野生?的な場面よりももっと時代を下って、
「労働」が認識された後に確立した区別認識かと推測しました(勝手に)。

これがもしももしも、、、です、
「おとこ」の字が、単純な古くに成立したと一目瞭然な字であったなら、
あまり疑問にならなかったと思うのですが、
これではあまりにも「女・子の字の成立時期」と「男の字の成立時期」の隔たりが見えてしまって気になってしまいました。

原始の人類は、女と子は認識したけれど、男の認識はしなかったのでしょうか。
それは何故でしょうか?
「男」とは、労働にともなってしか浮き彫りにならない存在だったのでしょうか?
それとも、認識する主体が主に男性だった為、自らの認識が遅れたのでしょうか?

素人の思いついた勝手な根拠ですので、言語学?的には噴飯ものかもしれません。
その点の間違いもありましたがご指摘お願いします。

書きながら思いついた事が、
「女ー子ー男」のまとめ方もあれば
「母ー子ー父」のまとめ方もあるなあ、と言う事です。
「女ー男」と異なり、「父」も「母」も単体で成立した字かと判断しました(違うかも?汗)。

「女・男」の字よりも早く「母・父」の字が成立していたならば、
それはそれで色々とその認識への道筋を想像できる気が致します。
こちらについても、何かご存知の方いらっしゃいましたらご教示頂けたらと思います。

よろしくお願いします。

なんだかわかりにくいタイトルだなあと反省です。
先日、一年生の息子の宿題を見ていたら気づいたことですので、
まだ、自分でもちゃんと疑問が疑問として確立していない状態です。

息子は「男」の字を習って、意気揚々と練習中^^
「おとこって、田に力、だよねー」
「田んぼを耕すのは力が要る仕事で、男の人の仕事だったからだってね」
「うーーん、先生も言ってたよーー」と世代代々繰り返されて来た一年生の親子のやり取りかと思います。

表意文字である漢字は、つくりが単純な字ほど早くに成立したと思わ...続きを読む

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>原始の人類は、女と子は認識したけれど、男の認識はしなかったのでしょうか。

いきなり否定的なことを書いて申し訳ないのですが、貴方の問題設定の仕方に重要な認識の欠落が有るようですので、その後の論理を幾ら精密、あるいは巧妙にしても、説得力のある結論を導くことは出来ないと思えます。

あらゆる民族を見てもお判りのように、人間は文字を創出するよりも桁違いに古い時代から、言葉を創出しておりました。例えば、日本語でも、ヒコとヒメとか、オとメという音でそれぞれ、男と女を表していたようです。一般に音節の短い言葉ほど古い時代から在ったようです。例えば、日本語で体の部分を表す言葉、メ、ハ、ハナ、クチ、ミミ、カオ、テ、アシなどは一般に音節が短いですね。だから、この言葉はそれこそ文字も一切知らない縄文時代より遥か以前の旧石器時代から、日本人は使っていた可能性があります。

日本民俗学の巨匠柳田國男が、日本語の変遷を調べて居りますが、古い程、音節が短く、そして例えば立った一音節の言葉などのようにそれが余りにも短すぎると、時代が経つに従って、それが相手に通じているかどうかが不安になり、その言葉に余分な音を付けるように成って来た。その例として餌を表すエについて詳しく論じていたことを私は覚えています。いまでは、それをエとは言わず、何故エサと呼ぶようになったかの分析です。私には具体的にどの言葉だったか良く覚えて居りませんが、柳田はいろいろな日本語の古代語に関してその変遷を分析して居りました。柳田は、ほかにもアニ、アネ、オバ、オジなどの言葉がどう言う具合にそこまで進化して来たかも論じていました。

言葉には、その言葉そのものは時代を経た結果既に使われなくなってしまった物でも、組み合わせ言葉の一部の中に、その古代語がそのまま残されていることもある。例えば、燕のことをツバクロ、ツバクラと言い、雀のことを地方の方言ではイタクロやイタクラと言い、他にはシジュウカラ、ヤマガラなどのに言葉を並べて行くと、古代の日本語では、小鳥のことをクラとかクロと呼んでいたらしいことが解って来る。また、ツバメもスズメも小鳥に対して何故メが付くのか。こんな事からも、現在では既に意味の分からなくなってしまった昔のメの意味が解って来る可能性もある。また、現在は固有名詞の「奈良」や動詞の「均す」の一部としてしか残っていないナラが古代では平を意味しており、だからなぜ奈良が平城京ととも呼ばれていたかが、言葉の音の比較で解るようになる。

このように、言葉による概念の発生を論じるには、文字ではなくて、音が本質的になるようです。ですから、人類が男と女の概念的区別の認識の起源を論じるのに文字を引き出すのは、余りにも見当違いだと思います。文字を分析するのではなくて、それよりも、なぜ日本人はそれをオトコ呼び、それをオンナと言う音で呼ぶ大和言葉を使うようになって来たのか、それ以前にはどう言う音でそれを呼んでいたのかなどを、日本民俗学者達がやって来たように、現在残っている方言や、固有名詞や、大和言葉の熟語など組み合わせ語の中から見付け出して来る上の例のような接近の仕方の方が、その概念の成立を探る上で的を射ているのではないでしょうか。

>原始の人類は、女と子は認識したけれど、男の認識はしなかったのでしょうか。

いきなり否定的なことを書いて申し訳ないのですが、貴方の問題設定の仕方に重要な認識の欠落が有るようですので、その後の論理を幾ら精密、あるいは巧妙にしても、説得力のある結論を導くことは出来ないと思えます。

あらゆる民族を見てもお判りのように、人間は文字を創出するよりも桁違いに古い時代から、言葉を創出しておりました。例えば、日本語でも、ヒコとヒメとか、オとメという音でそれぞれ、男と女を表していたようです...続きを読む


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