言葉で言い表せないかもしれません。自分というものはどうやって成り立つことが出来ているのでしょうか。たとえば、なぜ、私は<私>であって、あなたではないといいきれるのでしょうか。私が自分のことを意識しているということは、どういうことなのでしょうか。自分から出た、ものが自分にかえってくるのでしょうか。自分はなぜ<自分>なのですか?どなたかお答えいただけませんでしょうか?すみません。十分に、この感覚が言語化できなくて。言語化できないことを質問するなど間違っているかもしれませんが、ずっと疑問でした。

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A 回答 (15件中1~10件)

「痛み」があるから、自分を意識できると思います。



映画で負傷兵を運ぶシーンがありました。
 「俺は生きているのか?」
 「痛みがあるのは、生きている証拠だ」

>自分はなぜ<自分>なのですか?
 自分を自分と感じることができた地点で、人生ゲームは始ったのです。
 主人公のいないゲームはありません、あなたの視点から繰り広げる様々な行動、視点を中心とした主人公は、まさしくあなた以外の何者でもありません。
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大切な人がいるから、、

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イヤー面白いです。



本当に、遠い昔から考えられてきた問題ですね。
そこで、私も参戦。

「自分」の自覚方法に限って。
哲学的なことは、皆さんの回答でほぼ出揃ったようなので。

簡単なことです。
ナイフでもなんでも宜しいですから、先の鋭いもので、指先を刺してください。
鋭い痛みがあります。
この痛みは、他の誰かには知覚されないものです。
痛みを自覚するのは、自分以外にいません。
ゆえに、「自分」を認識できます。
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アイデンティティーの問題ですね。


自分(A)が自分(B)であることというのが辞書の説明です。
これは分けがわからない説明です。
Aとは顕在的な自分自身のことだとおもいます。
すなわち、自分はこれこれこういう存在なんだと自覚している程度の自分と言うことになるとおもいます。
Bは本当の遺伝的に決定されているところの自分でしょう。
アイデンティティーが確立されていく過程というのは
AかつBが拡大していく過程であると考えられます。
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●「我」とは脳の情報処理そのもので「この脳」のなかの現象として把握(認識)


 できる特別な脳のフィールドがもたらす感覚です。
 このフィールドができたとき人ははじめて人間となりました。
●自分とは「我」が情報に拡張子として「自分」とつけたものの組み合わせ
 で出現する情報です。
●情報はさまざまな拡張子をつけられて事柄別のフォルダーに格納されています。
 漠然と「自分のこと」と思い出そうとしても出てきませんよね
 でも小学校の遠足と事柄を入力するといろいろでてくるでしょう。
 そのなかの情報に自分の拡張子があるとそれは自分のこととなるのです。
 いま そのようにして情報を呼び出し整理分析したその処理そのものを「我」
 として把握しているわけです。
 尚 「我」を把握している脳のフィールドは認識できません。
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みなさんがバラバラなことを言うのを、面白く拝読させていただきました。



ふふふ。
あのねぇ、みんな「自分」にとらわれすぎてるんですよ。
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言ってます。いや、正確には、cogito ergo sumですね。日本語はしゃべれませんから。

でも、デカルトさんは、自分というものがあるということだけはなんとしても証明したかった。それは、自分という領域を作らないと、やっていかれないからです。そこで、「全てを疑ってみた上で、疑っているのは自分であるから、自分がいるのだ」というデマを立てたのです。そして、これが哲学になっているのです。

別にデカルトが間違ったことを言っているというつもりはありませんよ。
ただ、やっぱり、人間っていうのは、自己弁護したがる生き物なんですね。これがために、みんな「自分」というものを言うんですね。

「いやはや、とんでもないことだ! ここのみなさんは、ネットの森のなかにいて、まだ何も聞いていないんだ。『自分は死んだ』ということを」

ニーチェのパクりなんかを加えてみました。
自分、というのはまずどこからどこまでか、と考えてみましょう。
肉体だけを考えれば確かに簡単ですが、思おうと思えば、「この世界全てが自分だ」などという恍惚感のたぎった回答もありうるでしょうし、「自分の身体は自分で制御できない」というどうしようもない回答もあるでしょう。結局、自分というものには領域制限がないのです。
これって、自分というのは伸縮自在、卑小にもなれれば尊大にもなれる、ということですよね。
そんな不安定なものの存在を信じてどうしようというのですが。
だから、「自分」という言葉は、本当に純粋な意味での自分(もしあるとすれば)がでっちあげた、虚構にすぎないのです。

さて、もしあるとすれば、などと書いてしまいました。
自分というもののオリジナリティーをもって自分とするのであれば、どこかしら自分でないものと共通するところのつぎはぎで人間は生きていますから、そんなものはありません。つまり、人間の思考にしても精神にしても、はたまた肉体にしても、あるレシピの調合がちょっと違うだけでこんなにいろいろになるのです。

「自分」という概念は、後天的なものですね。生まれる前から持っているものではありません。どこかで覚えるんですよ。
どこで覚えるかというと、元をただせば「自分を弁護しようと考えた最初の人間」になると思います。
そういう人の作った「自分」という概念を鵜のみにしていいんでしょうか。

ここで、なぜ自分を自分と言うか、本当に分かりやすく書いてみたいと思います。
「答:自分が自分だと思い込んでいるから」

自分というものが存在しないと、人間は存在を危うくされるのです。それが恐いから、「自分」というあるかどうかもあやしい概念をつくり出し、それに昔から甘んじているのです。この「自分」から解放された人間が現れるようになるのはいつの時代のことやら。

ちなみに、僕も残念ながら古い考えに縛られていますよ。
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こんにちは



とても興味がある質問ですが、自分ではわからないので回答する事が出来ません。

かわりに、自分が好きな人の言葉を紹介します。

The authentic question is, "Who am I?"
And the only way to know is to be silent,
be alert, be aware, watch your thoughts, and
let them disappear.
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 有に執われるものが見惑と思惑であります。


 見惑とは理というものについて迷う惑であります。自分自身の命が実際に有ると思っている考え方、これは何人もそう思っていますが、まあ、デカルトという哲学者は、
 「我思う。故に我有り」
といったけれども、仏教はそんなものではありません。もう一歩深いのです。結局、道の正しい思索にもう一歩入ると、はたして本当に自分が存在するや否やという問題があるわけでありますが、しかし、自己を「実有」と思うところに空という真理を無視し、これを否定する考え方が出てきます。
 これらは思想的な惑いですけれども、自分自身が存在する、有であるという考え方のなかから、今度はその自分自身というものが元になって、いわゆる断見・・・生まれてくる前は存在していない。お父さん、お母さんの因縁によって、その時に初めて自分の命が出来たのだと考える見方もあります。今の医学の人達が科学的な見地から言うのもそのような考え方かもしれませんが、初めてそこから出来て、そして生まれて大きくなり、死んでしまえばそれで無くなってしまう、生前も死後も全く無いのだというのが断見であります。
 それに対して、生まれる前も自我として、霊魂として存在し、死んでからも自我として、霊魂として存在していくという、常に世に存在するというのは常見という惑いであり、この二つとも真実の見解ではありません。そして、この二つを離れたところに仏法で説く中道の生命が存するのであります。

 以上のように、「我」という考え方があり、外道の我見でありますが、これは間違いである、ということであります。
 また、「常見」という見方も、外道では色々と論じていますが、そういう考え方自体が実は大きな誤りなのであります。
 大乗の中道から見ると、これも「不常亦不断」であって、常でもなければ断でもありません。常に我々の命として必ず「我」があって、我から我に移っていくものでもなければ、我と言うもの自体が無いのだと説くのであります。
 いわゆる「常ならず」ということであります。また、「断ならず」で、無くなってしまうということでもないというのです。ですから「不常亦不断」のところに中道の存在、いわゆる生命のそれぞれの在り方があるのである、ということであります。

 以前の質問にも類似した回答なのですが、
 小乗仏教では、自分自身という「我」だけは無いのだと説きます。しかし、法としての宇宙のなかで、あらゆるものが移り変わり、転変していくところの元をなす色心の法というものは存在しておるということはいうのであります。いわゆる「我空法有」であります。
 しかし、大乗教になると、そういうように法が有ると考えることは執われであるとし、一切ことごとく、これは生ならず、滅ならず、また一ならず、二ならずというところに、人のみならず法もまた空であるとして、一切の情執、差別の考え方をことごとく打ち破ってしまうのであり、その打ち破ることによって現れてくるところの実相が中道である、ということを示しておるのであります。
 如何でしょうか?
 念を押して、書かせて戴きました。
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人とかかわりを持つことで自分と認識。



思春期の頃、自分って何????自分?何?、体と心が分離したような感覚に陥ってブルーになっていた頃がありました。

テープに録音した声と自分が体を通して聞いている声が違うのだということに気付いて(知って)から、余計、自分とは何だろーといろいろ考えこんでしまったのですね。自分では自分は認識できないんだな・・と。鏡に映っているのも、自分にとっては反転されたもので、本当の自分は自分には一生みれないのだなーとか。。。いろいろ。自分なのに、他人みたいな感覚に陥る。。。

だから、自分はこーだと思い込んでいたことが、他人が自分に持つ印象によっても、形成や影響されていくというか・・・・。

なんか、全然、回答になってなくてごめんなさい。この質問をみていて、思春期の頃の自分の感覚が蘇ってきたから。。
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自分は無い。


ないものはない。
だからすべてである。
だから自分である。
だから、自分は無い。
 
最初に何故あることが解るのか?
それは誤解だ。まず 「ない」と知りなさい。同時に「すべて」を知るからです。
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生きるって壮絶なんだなぁと思う。
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でも何で生きることだけなんだろうと素朴に疑問。
そしてどうして在ることばかりなんでしょうか。在ることって、時にあつかましい。生きることも、息をつかずに迫ってくる。
心の中だけなら無限に応えられそうなものだけど、基本的に、生きること、在ることしかない。
なぜも何もないかもしれませんが、どんな回答でも嬉しいのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

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Aベストアンサー

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 冗談半分ならば、このような質問はすべきでありません。回答者に対して、失礼であり、侮辱することになります。

Q我思ふ故に<彼>在り?

かなり前の映画ですが、
「マルコヴィッチの穴」(でしたか)というのがありました。
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マルコヴィッチ氏になって考え、行動してしまうという映画でした。

そこで私は思ったのですが、
今日、哲学の世界で、
「自分が考え、行為しているようで、実はそれは他の何者かがしている」
ということがあるのでしょうか?

学生時代、そういったことを扱っていた哲学の授業にお邪魔したことがあったのですが、
専門でもなかったため、ちんぷんかんぷんで単位だけいただいてそのままでしたた…。

人の主観とか、その道に明るい方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

#4です。
「A思う故にB在り」
Aに入るのは一人称固定、つまり「私」のみです。「彼」が思うのかどうかは「彼」にしかわかりませんから。

で、Bに「私」が入った場合、
「この世界に根拠がないとしても、今自分が知覚しているのは間違いのないこと。だから『自分が存在すること』の根拠は『自分が考えているからだ』で十分だ」
となります。

Bに「彼」が入った場合、
「彼が考えているかどうかはわからないが、私には彼が見える。人間らしく振舞っている。いや、別にロボットでもかまわない。とにかく私が彼を感じている以上彼は存在するのだ」
となります。(ここはクオリアだとかイデアとかの話に繋がるような話になるかと思います)

デカルトがそれを考えたかどうかは知りませんが、考えたなら上の答えが出たはずです。

X氏がY氏に支配されているとします。
この場合、X氏が肉体以外の全てを支配されているならば、思考主体はY氏のみになりますから、
Y氏主観の「我思う故に我在り」
のみが存在することになります。

X氏に少しでも思考する隙間があれば、自分で思考しているのか思考されているかに関わらず、
X氏、Y氏それぞれの主観の「我思う故に我在り」
が存在することになります。

思考主体がなければそもそも疑問を持ちようがないし、少しでも主体があるのなら、「我思う~」が成立するのです。

なんかどんどんややこしくなっているような・・・。

無理やりまとめますと、
デカルトが言ったことは
思考主体の思考は、思考主体の存在を、思考主体にのみ証明可能である。
思考主体以外の話になると、まったく別の問題になるかと・・・。

#4です。
「A思う故にB在り」
Aに入るのは一人称固定、つまり「私」のみです。「彼」が思うのかどうかは「彼」にしかわかりませんから。

で、Bに「私」が入った場合、
「この世界に根拠がないとしても、今自分が知覚しているのは間違いのないこと。だから『自分が存在すること』の根拠は『自分が考えているからだ』で十分だ」
となります。

Bに「彼」が入った場合、
「彼が考えているかどうかはわからないが、私には彼が見える。人間らしく振舞っている。いや、別にロボットでもかまわない。とにかく私...続きを読む

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上記のような注意書きが出来て驚いているのですが、、、、
教えて!gooとしては、一質問一回答がふさわしいのは分かりますが、哲学カテゴリで行われる論争、議論などはその質問(議題)に対する回答を考えるうえで、様々な論理の展開を呼び、よりよい回答、質問者にとってよりよい結果に繋がる可能性をもっています。それは、タダの個人の意地の張り合いとは比べられない重要性があると思います。そのような理由からでは、教えて!gooにおいて、議論、論争は本当にふさわしくないのか?となると、そんなことはないと思います。論争、議論を禁止するべきかそうでないか?皆さんはそれぞれどうお考えですか?

Aベストアンサー

この<注意>が最初からあったものなのか、それとも後での追加なのかは知りませんが、
どうもこのままでは文脈も判然としませんね。

哲学について、折角いろいろな知識をお持ちの方がウォッチされている場ですし、
たとえばですが、
『○○について、○○という面(理解)から、私は○○と考えますが如何でしょうか?』
のような【質問】は別におかしくないと思いますし、それに対して、
『○○という面もありますから、私はそうは思いません。』
のような【回答】もあり得ると思います。
そうした場合に、質問側が「補足」欄を使って相手の回答内容に異議を伝えるような流れも考えられると思うんですが、
そういうやり取りも、「論争」という解釈になるんでしょうかね?
----
おっしゃるような”様々な論理の展開”を通じての ”質問者にとってよりよい結果”ということからは、
回答者同士のやり取りなども含めて、できればあまり縛りを設けない方がいいとは思いますが、
いずれにしても、もし管理者側の判断でそれが必要ということなら、少なくとも解釈がまちまちにならないように、
「趣旨」と「線引き(論争とかの解釈)」についてのもう少し分かりやすい記述は必要だと思います。

この<注意>が最初からあったものなのか、それとも後での追加なのかは知りませんが、
どうもこのままでは文脈も判然としませんね。

哲学について、折角いろいろな知識をお持ちの方がウォッチされている場ですし、
たとえばですが、
『○○について、○○という面(理解)から、私は○○と考えますが如何でしょうか?』
のような【質問】は別におかしくないと思いますし、それに対して、
『○○という面もありますから、私はそうは思いません。』
のような【回答】もあり得ると思います。
そうした場合に、質問側...続きを読む

Q<分子レベルにまで分解しても自然に自己集合する、「できやすい形」>について、教えて下さい。

このカテのある質問を読んでいましたら、活躍されている人からの回答のなかに、次の説明を発見しました。
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Aベストアンサー

生物学的な基礎知識です。

自己集合については、下記のサイトの下段に、細胞器官
であるリボゾームを個々のタンパク質まで分解した後、
溶液中で、元の細胞内器官に自己集合する事が記されている。
「単離したリボゾームをさらに個々のRNAとタンパク質成分に解離後、これらを混ぜて再構成することが可能である。1968年(昭和43)野村真康(1927― )らは、大腸菌30S亜粒子について、16SRNAと21種の成分タンパク質を混ぜ、それらが自発的に再集合して完全な活性をもつ30S亜粒子となることを発見した。この実験は、リボゾーム(あるいは一般に細胞内の複雑なオルガネラ)を正しく構築するのに必要な情報はすべてその成分の構造自体に含まれていて、他の因子とかエネルギーとかを必要としない自己集合過程であることを示した点できわめて意義深い」

https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%83%9C%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%A0-658381


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