キルケゴールの思想について、何でもいいのでおしえてください。

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A 回答 (4件)

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり


やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書くときに少し詳しく
書くのがよいかもしれません。
この段階では、とにかく自分の存在を神にゆだねてしまう
訳です。人間は罪から、絶望から、自分の力では逃れられない。
なぜなら、人は本当は神によってこの世界に置かれているから
です。その自己の根拠を自己に求めてしまっているところが
「罪」なのであって、自己が、神を尺度とする自己へと変わら
ない限り,どれほど内省的に自己意識を深めてみても,それは神に
対する罪、絶望という「死に至る病」を悪化させるだけに終わると
いうのです。
ここにおいては主体的な「決断」というのも重要です。そもそも
神と言うのは論理では計り知れない存在ですから、人間が
「神はいるかいないか」と考えてもそんなこと分かりません。
だから、信仰は論理によるのではなく、「信じるか信じないか」を
自分自身が「決断」することによって決まるのです。
キルケゴールの著書に「あれかこれか」というタイトルのものが
ありますが、これはその決断を表すものです。

こんなものでどうでしょうか。
なんか適当になってしまい申し訳ないです。

それでは。健闘を祈ります。
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この回答へのお礼

お忙しい中、何回も説明してもらってすみません!!
本当にありがとうございました!!
とてもわかりやすかったし、勉強になりました。
これを参考にしてレポートを書こうと思います。
ありがとうございました。
 あい

お礼日時:2002/01/22 01:54

うーん、宗教的著作ですか・・・


キルケゴールは、『わが著作活動の視点』(1448年)で、
自分のそれまでの著作について、

「(自分の)著作の第一部門は美的著作であり、最後の部門は
もっぱら宗教的著作である。この二つのものに挟まって『結び
としての非学問的後書き』が転回点として横たわっている。」

と言ってるんです。
つまり、『結びとしての非学問的後書き』以降の著作が宗教的
著作だ、と本人は言ってるんで、それらの思想をおおまかに
説明すればいいのかな? (おおまかって言っても結構ムズカ
シイですが)

もし、レポートの課題がただ単に「キルケゴールの思想を○○
字程度でまとめよ」とかじゃなく、内容にいろいろ限定がある
なら、始めにそれを言ってもらえると説明しやすいです。
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この回答へのお礼

すみません・・・大学が一応キリスト教の大学で「キリスト教の歴史」という授業のレポートなので宗教的な思想も書いたほうがいいかな??と思って・・・。ちなみに課題は「授業で習った思想家の中で、自分が選んだ思想家の思想について」のレポートです。

お礼日時:2002/01/19 21:37

再びこんにちは。


レポートって、大学のですよね?
だったら前回のももっと詳しく書いたほうがよかったかな。
まあ、とりあえず、今回は彼の哲学の内容を少し書いてみます。
(僕の予想に反して、まだ他の方の回答も無いようですし。)

キルケゴール(Soeren Aabye Kierkegaard,1813~1855)は
「実存」を重視する、というのを前回書きましたが、
「実存」である人間が本来の自己に至るまでの過程には、3つの
段階がある、と彼は言います。

(1)美的実存
この段階の人は、感覚のままに、刹那的な美や快楽を求めて生きて
いる。しかし、この生き方は快楽に溺れて自己を見失い、後には
ただ空しさだけが残る。

絶望

(2)倫理的実存
快楽を追い求める生き方に絶望した人は、次に、倫理的に正しく
生きようとする。○○したい、ではなく、○○すべき、という基準で
行動するのである。しかし、人は完璧に倫理的な生き方はできないと
いう現実に気付き、良心の呵責に悩まされる。

絶望

(3)宗教的実存
人間の限界に気付き絶望した人は、神の前に「単独者」として
ただひとり立ち、自己の存在を神にゆだねる。この段階において、
人は本来の自己を獲得する。

キルケゴールによれば、こうして人は本来の自己を獲得するのです。
「絶望」を経験することによって次の段階の実存に飛躍できる、って
のがポイントですね。
ちなみに、キルケゴールには「死に至る病」という著作がありますが、
死に至る病というのは「絶望」を意味していて、その本では、絶望を
いくつかの種類に分け、それぞれの絶望を分析しています。結論は
結局、人間は神との関係を取り戻すことによってのみ、絶望から
抜け出せる、ということになってます。

こんなところかな。
なるべく分かりやすく書いてみました。
それでは、レポート頑張ってください。
(もし情報が足りなければ言って下さい。)

しかし、キルケゴールをレポートの課題にするって妙にマニアックな
授業だな・・・(笑)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。とてもわかりやすいです!!大学のレポートをしています・・・。質問なのですが、宗教的著作の思想とかわかりますか??

お礼日時:2002/01/19 02:44

こんにちは。


ごく基礎的でよければ・・・

キルケゴールは19世紀デンマークの人です。
その頃のヨーロッパは、17世紀のイギリスや
18世紀のフランスで起きた市民革命の影響で、
とにかく「平等!」ってのがもてはやされてました。

ところが、現代日本でもそうですけど、平等ってのは、
勝ち取った時の喜びは大きいんだけど、それが結構
当たり前になっちゃうと、単に「みんな同じ」みたいに
なってきちゃうんですね。
個々人が画一化されちゃって、みんな大衆の一部になっちゃう。

一方哲学界では、大哲学者ヘーゲルの影響で、精神とか歴史とか
国家とか、とにかく壮大なものをまとめて合理的に説明しちゃう
ような哲学が主でした。

ここに現れたキルケゴールは、思うわけです。
(1)社会に対して
みんな、「いま、ここに生きてる自分」(=実存)てのは、
他人と交換できない固有の生なんだぞ!!それを大切にして
生きなきゃだめだ!!

(2)哲学に対して
確かにヘーゲル哲学はすごい。
でも、哲学にとって本当に大事な問題は、そんな大げさなものに
ついて、誰もが納得するような理論をつくることじゃない!
誰にでもあてはまるようなものじゃなく、自分がそのために生きる
ことのできるような、自分自身にとっての真理(=主体的真理)を
見つけること、それが重要だ!!

というわけで、「実存」「主体的真理」を重視する哲学を始めます。
後にそれはヤスパースやサルトルなどに受け継がれ、実存哲学と
いう、哲学の一分野にまでなったのでした。

キルケゴールの具体的な内容としては、「絶望」の分析や「実存の
三段階」が有名ですが、僕ひとりであんまり長く書くのも悪いんで
とりあえずこれだけにします。
(多分他の方から解説があるでしょう。なければ僕が再び書きます。
というか、内容説明や伝記的説明をする方が多いだろうからそれを
補完する意味で時代背景を説明してみたのです。)

少しでも参考になれば幸いです。それでは。
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    • 7
この回答へのお礼

ありがとうございました。学校のレポートを書かないといけなかったので、すごく助かりました!! もう少し、回答を待ってみようと思います。

お礼日時:2002/01/18 22:31

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そこで次の2点について質問します。
1比較思想を行っている有名な学者さんはどのような方がいらっしゃるでしょうか?
2また比較思想の学科を置いている大学はどのようなところがあるでしょうか
何卒、ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を学ぶのであればカント哲学のあたりは当然勉強していますし、道教を研究するならばキリスト教の知識は必須です(そして道教とキリスト教は驚くほど似ていることがわかる)。
 日本では何故か西洋思想研究が人気で、東洋思想研究は閑古鳥状態なので良質な学者が少なく、世間で売っている東洋思想に関する書物の大半は嘘つきだと思ってください。故に私は東洋思想を主軸にして研究を進めてゆくことを勧めます。
 
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Q空海の思想は、梵我一如思想と一線を画していたのでしょうか

私は秋月龍珉氏の「誤解された仏教」を先日読了しました。
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とありました。
空海自身の思想は、梵我一如思想から一線を画していたとは、どういうことでしょうか?私は空海思想がよくわらないので、どなたか教えていただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

このご質問に正確にお答えできるのは、仏教思想の専門の方がふさわしいように思います。
素人の私の感想になりますが・・・

mmkyさんが簡潔におっしゃられているように、空海という人物は桁外れの天才だったのでしょう。
最澄という学問肌の天才とはまた違って、実修を重んじ、実証さえ示す事のできた稀有の天才だったようです。

仏教思想の極至とも言われるその教えが、広く一般に受け入れられてこなかったのには、事相とも言われる実修面での複雑さが影響しているように思われます。
また、教相とも言われる教理面においても、あくまで実修を通してのみ確かな理解が可能のようにも思えます。
一般人が近ずけるのは、実証であるところの現世利益の面に限られてきてしまったように思えます。
学者からの目においても、遠巻きに論じられてきた感があります。
>空海の思想・・・云々・・・と言っても、果たしてそれが正鵠を射たものなのかどうか、疑問があります。
遠巻きの論評を参考にして、空海の思想の本質を探る事には無理があるのではないでしょうか(失礼ながら・・・)

少し大げさな表現かもしれませんが・・・
釈迦と空海は仏教史においての超弩級的な存在のようにも思えます。
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言い切ったところが凄いと思います。

この事一つをとってみても、空海の思想というものは
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学ぶだけではなくて、祈る、というところに空海、お大師様の教えの本領があると思います。
そのあたりの事を念頭において学ばれる事をお勧めいたします。
ご参考になれば幸いです。

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Qキルケゴールは、この言葉をどの著作のどういった文脈で使ったのでしょうか?

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この言葉だけを読むと、どっちにしろ後悔することになるんだという極めて絶望的な意味にしか受け取れないのですが、もしかしたら彼は著作の中では別の意味で使っているかもしれないという一縷の望み(?)もあります。また、この前後の文脈を読むことによって新たな発見があるかもしれませんし、逆にもっと悲惨な内容(?)が書かれているかもしれませんが、それは読んでみないことには分かりません。

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ご存知の方はぜひ教えて下さい。よろしくお願いします。

その言葉は、「結婚するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。」です。

この言葉だけを読むと、どっちにしろ後悔することになるんだという極めて絶望的な意味にしか受け取れないのですが、もしかしたら彼は著作の中では別の意味で使っているかもしれないという一縷の望み(?)もあります。また、この前後の文脈を読むことによって新たな発見があるかもしれませんし、逆にもっと悲惨な内容(?)が書かれているかもしれませんが、それは読んでみない...続きを読む

Aベストアンサー

『あれかこれか』というのは、キェルケゴールの最初の著作です。

このサイトには原文を含め、簡単に紹介してあります。
http://home.clear.net.nz/pages/ccreegan/papers/eithers.html

まず個人が選択することになる実存(厳密に定義しようと思うと大変なんですが、ここではごく簡単に、自己の存在ということに自覚的・主体的になって存在しようとする在り方、ぐらいに考えてください)のありようには、まず「美的段階」がある。

そこでご質問の文章が出てくるわけです。

サイトの原典引用箇所を簡単に訳してみると、こんなふうになっています。
(大意)
結婚するがいい、そうすれば後悔するだろう。 結婚しないがいい、そうすればやはり後悔するだろう。 結婚するかしないか、いずれにしても後悔することになる。 結婚するか、しないかのどちらかしかないのだが、いずれにしても後悔するのだ。
世の愚者どもを笑うがいい、そうすれば後悔するだろう。愚者どものために泣くがいい、そうすれば後悔することになるだろう。世の愚者どものために笑おうが泣こうが、いずれにしても後悔するのだ。愚者に対しては笑うか泣くかしかないのだが、いずれにしても後悔するのだ。

以下、
「少女を信じるがいい、そうすれば後悔するだろう。……
「首を吊るがいい、そうすれば後悔するだろう。……
という内容が続きます。

どのような選択をしても、この美的段階の生き方では、後悔と絶望がついてまわる、と言うのです。
そこで、倫理的な生き方が開けてくる。

ご関心の領域から離れるかもしれないので、簡単に言うに留めますが、そこにおいてもやはり、善と悪の選択というもんだいは、不安と絶望へと人を導く、といいます。

そこで、キェルケゴールは絶望を選ぶがいい、と言うのです。

もちろん、これは単に絶望を勧めるのではなく、さらに「宗教的段階」へと進むためのステップとして、絶望を選択せよ、そうして、自己自身を選び取るのだ、と続いていきます。

参考URL:http://home.clear.net.nz/pages/ccreegan/papers/eithers.html

『あれかこれか』というのは、キェルケゴールの最初の著作です。

このサイトには原文を含め、簡単に紹介してあります。
http://home.clear.net.nz/pages/ccreegan/papers/eithers.html

まず個人が選択することになる実存(厳密に定義しようと思うと大変なんですが、ここではごく簡単に、自己の存在ということに自覚的・主体的になって存在しようとする在り方、ぐらいに考えてください)のありようには、まず「美的段階」がある。

そこでご質問の文章が出てくるわけです。

サイトの原典引用箇所を簡単...続きを読む

Qキルケゴールの質的弁証法が調べたのですが、「絶望の人間に語りかける人格

キルケゴールの質的弁証法が調べたのですが、「絶望の人間に語りかける人格神と交わす対話」というのがよくわかりません。
簡単でいいので質的弁証法について教えてください。

Aベストアンサー

「キルケゴールはヘーゲル的な弁証法を量的な弁証法と批判、神と人間との質的断絶を強調しつつ、宗教的実存へと高まりゆく人間存在を質の弁証法で説明した」(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%DB%BE%DA%CB%A1)そうです。
平たく言えば、ヘーゲル的な量的弁証法では、正と反の矛盾を、合となって止揚し、それがまた反と矛盾して、新たな合となって止揚することを繰り返して、平面的な回転ではなく、立体的な螺旋状の渦を巻いて歴史が動くと
考えます。
これ対して、キルケゴールは、「たとえば美的・倫理的・宗教的実存の領域は、質的に本質を異にし、そこにはあれもこれもでなく、あれかこれかの決断による選択、あるいは止揚による総合でなく、挫折による飛躍だけがある。実存は、成りつつあるものとして無限への無限な運動、また単なる可能でない現実としてつねに時間的であり、その時間における運動は、決断とその反復において、時間における永遠を満たす。矛盾によって各々の実存に対して迫られた決断における真理の生成が、主体性の真理であり、主体的かつ実存的な思惟者は、いわば実存しつつ問題を解く」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95)。
非常に難解な説明であり、私はキリスト教徒でないので、正確なことは分かりませんが,自分なりに平たく説明すると、次の通りです。
人間は信仰によって神に近づき、最期は神に召されて昇天するという意識が当時の西欧社会では根付いていた(今でも続いているらしい)のですが、キルケゴールは信仰心を捨てきれないけれども、信仰にすがって救済されると思わなかったのでしょう。そこで、完全な層ん罪である神と、不完全な存在である人間とは質的に異なるものであって、神に近づこうとしても近づけないことに絶望感を抱いたのでしょう。それでも、キルケゴールはニーチェのように。「神は死んだ」とは考えずに、「絶望の人間に語りかける人格神」なる概念を編み出し、対話を交わすことに信仰の意義を見出そうとしたのではないかと科考えられます。

「キルケゴールはヘーゲル的な弁証法を量的な弁証法と批判、神と人間との質的断絶を強調しつつ、宗教的実存へと高まりゆく人間存在を質の弁証法で説明した」(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%DB%BE%DA%CB%A1)そうです。
平たく言えば、ヘーゲル的な量的弁証法では、正と反の矛盾を、合となって止揚し、それがまた反と矛盾して、新たな合となって止揚することを繰り返して、平面的な回転ではなく、立体的な螺旋状の渦を巻いて歴史が動くと
考えます。
これ対して、キルケゴールは、「たとえば美的・倫理的・宗...続きを読む

Q思想としてのゴロツキがのさばるのは ふつうの人たちが亜流の思想を追い求めるからではないか

思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 
一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?

《ゴロツキ等》というのは:

  経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないそ
 の状態を言います。

《亜流の思想》というのは: 

  そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった
 思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなの
 にこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言いま
 す。
 
《クリスチアニズム》というのは:

  非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組
 織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き
 続けるということに変身した場合を言います。

  《教義》は すでに思想となっており人間が思考するものであり 信じる
 ものではありません。

  《倫理規範》も 考えるものであり 信じるものではなく その実践とい
 うこともそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教で
 もそして宗教でなくても 道徳を説きその実践を奨励し得ます)。

《ブディズム》については:

  ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば:
   《さとり》が いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っている
  ことです。
   このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変
  わらないと見なされることになります。
   少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わら
  ないということになるからです。

 
☆ ご見解ご批判をお寄せください。

思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 
一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?

《ゴロツキ等》というのは:

  経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないそ
 の状態を言います。

《亜流の思想》というのは: 

  そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった
 思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなの
 にこれをああたらこうたらいじくりまわしたその...続きを読む

Aベストアンサー

卓越したbragelloneは正統な思想を完成させ既に神の領域。
荘厳にして格調高雅。

他は全て思想のゴロツキ。


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