キルケゴールの思想について、何でもいいのでおしえてください。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり


やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書くときに少し詳しく
書くのがよいかもしれません。
この段階では、とにかく自分の存在を神にゆだねてしまう
訳です。人間は罪から、絶望から、自分の力では逃れられない。
なぜなら、人は本当は神によってこの世界に置かれているから
です。その自己の根拠を自己に求めてしまっているところが
「罪」なのであって、自己が、神を尺度とする自己へと変わら
ない限り,どれほど内省的に自己意識を深めてみても,それは神に
対する罪、絶望という「死に至る病」を悪化させるだけに終わると
いうのです。
ここにおいては主体的な「決断」というのも重要です。そもそも
神と言うのは論理では計り知れない存在ですから、人間が
「神はいるかいないか」と考えてもそんなこと分かりません。
だから、信仰は論理によるのではなく、「信じるか信じないか」を
自分自身が「決断」することによって決まるのです。
キルケゴールの著書に「あれかこれか」というタイトルのものが
ありますが、これはその決断を表すものです。

こんなものでどうでしょうか。
なんか適当になってしまい申し訳ないです。

それでは。健闘を祈ります。
    • good
    • 15
この回答へのお礼

お忙しい中、何回も説明してもらってすみません!!
本当にありがとうございました!!
とてもわかりやすかったし、勉強になりました。
これを参考にしてレポートを書こうと思います。
ありがとうございました。
 あい

お礼日時:2002/01/22 01:54

うーん、宗教的著作ですか・・・


キルケゴールは、『わが著作活動の視点』(1448年)で、
自分のそれまでの著作について、

「(自分の)著作の第一部門は美的著作であり、最後の部門は
もっぱら宗教的著作である。この二つのものに挟まって『結び
としての非学問的後書き』が転回点として横たわっている。」

と言ってるんです。
つまり、『結びとしての非学問的後書き』以降の著作が宗教的
著作だ、と本人は言ってるんで、それらの思想をおおまかに
説明すればいいのかな? (おおまかって言っても結構ムズカ
シイですが)

もし、レポートの課題がただ単に「キルケゴールの思想を○○
字程度でまとめよ」とかじゃなく、内容にいろいろ限定がある
なら、始めにそれを言ってもらえると説明しやすいです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

すみません・・・大学が一応キリスト教の大学で「キリスト教の歴史」という授業のレポートなので宗教的な思想も書いたほうがいいかな??と思って・・・。ちなみに課題は「授業で習った思想家の中で、自分が選んだ思想家の思想について」のレポートです。

お礼日時:2002/01/19 21:37

再びこんにちは。


レポートって、大学のですよね?
だったら前回のももっと詳しく書いたほうがよかったかな。
まあ、とりあえず、今回は彼の哲学の内容を少し書いてみます。
(僕の予想に反して、まだ他の方の回答も無いようですし。)

キルケゴール(Soeren Aabye Kierkegaard,1813~1855)は
「実存」を重視する、というのを前回書きましたが、
「実存」である人間が本来の自己に至るまでの過程には、3つの
段階がある、と彼は言います。

(1)美的実存
この段階の人は、感覚のままに、刹那的な美や快楽を求めて生きて
いる。しかし、この生き方は快楽に溺れて自己を見失い、後には
ただ空しさだけが残る。

絶望

(2)倫理的実存
快楽を追い求める生き方に絶望した人は、次に、倫理的に正しく
生きようとする。○○したい、ではなく、○○すべき、という基準で
行動するのである。しかし、人は完璧に倫理的な生き方はできないと
いう現実に気付き、良心の呵責に悩まされる。

絶望

(3)宗教的実存
人間の限界に気付き絶望した人は、神の前に「単独者」として
ただひとり立ち、自己の存在を神にゆだねる。この段階において、
人は本来の自己を獲得する。

キルケゴールによれば、こうして人は本来の自己を獲得するのです。
「絶望」を経験することによって次の段階の実存に飛躍できる、って
のがポイントですね。
ちなみに、キルケゴールには「死に至る病」という著作がありますが、
死に至る病というのは「絶望」を意味していて、その本では、絶望を
いくつかの種類に分け、それぞれの絶望を分析しています。結論は
結局、人間は神との関係を取り戻すことによってのみ、絶望から
抜け出せる、ということになってます。

こんなところかな。
なるべく分かりやすく書いてみました。
それでは、レポート頑張ってください。
(もし情報が足りなければ言って下さい。)

しかし、キルケゴールをレポートの課題にするって妙にマニアックな
授業だな・・・(笑)
    • good
    • 4
この回答へのお礼

ありがとうございます。とてもわかりやすいです!!大学のレポートをしています・・・。質問なのですが、宗教的著作の思想とかわかりますか??

お礼日時:2002/01/19 02:44

こんにちは。


ごく基礎的でよければ・・・

キルケゴールは19世紀デンマークの人です。
その頃のヨーロッパは、17世紀のイギリスや
18世紀のフランスで起きた市民革命の影響で、
とにかく「平等!」ってのがもてはやされてました。

ところが、現代日本でもそうですけど、平等ってのは、
勝ち取った時の喜びは大きいんだけど、それが結構
当たり前になっちゃうと、単に「みんな同じ」みたいに
なってきちゃうんですね。
個々人が画一化されちゃって、みんな大衆の一部になっちゃう。

一方哲学界では、大哲学者ヘーゲルの影響で、精神とか歴史とか
国家とか、とにかく壮大なものをまとめて合理的に説明しちゃう
ような哲学が主でした。

ここに現れたキルケゴールは、思うわけです。
(1)社会に対して
みんな、「いま、ここに生きてる自分」(=実存)てのは、
他人と交換できない固有の生なんだぞ!!それを大切にして
生きなきゃだめだ!!

(2)哲学に対して
確かにヘーゲル哲学はすごい。
でも、哲学にとって本当に大事な問題は、そんな大げさなものに
ついて、誰もが納得するような理論をつくることじゃない!
誰にでもあてはまるようなものじゃなく、自分がそのために生きる
ことのできるような、自分自身にとっての真理(=主体的真理)を
見つけること、それが重要だ!!

というわけで、「実存」「主体的真理」を重視する哲学を始めます。
後にそれはヤスパースやサルトルなどに受け継がれ、実存哲学と
いう、哲学の一分野にまでなったのでした。

キルケゴールの具体的な内容としては、「絶望」の分析や「実存の
三段階」が有名ですが、僕ひとりであんまり長く書くのも悪いんで
とりあえずこれだけにします。
(多分他の方から解説があるでしょう。なければ僕が再び書きます。
というか、内容説明や伝記的説明をする方が多いだろうからそれを
補完する意味で時代背景を説明してみたのです。)

少しでも参考になれば幸いです。それでは。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

ありがとうございました。学校のレポートを書かないといけなかったので、すごく助かりました!! もう少し、回答を待ってみようと思います。

お礼日時:2002/01/18 22:31

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q「表現の自由」と「思想の自由」の共存は不可能?

わが国には「表現の自由」と「思想の自由」と言うものが存在します。


その中で例えば、この思想は反社会的で危険だ。禁止する。と言う事があった場合、これは「思想の自由」に反する事と受け止められる時もあります。

しかし、その思想を拒否する思想もあり、それも思想の自由です。結局は、どちらの思想を支持するかの問題で、「禁止する思想」の支持が多ければ、その思想は禁止されます。


これと同じで、表現も言えるでしょうか?


例えば、破廉恥なCMが流された場合、はしたないと思って批判が集まって、そういう類の放送を法律で禁止された。

これは、「表現の自由」に反します。



「思想の自由」では、思想を否定する思想と言うものが存在し、「思想の自由」と言う憲法を保ちながら、思想に制限をかける事は可能ですが、表現を否定する気持ちは、表現ではなく思想の分野で、表現を否定する表現と言うものは存在しないように思います。


つまり、この例で言えば、「思想の自由」を尊重するならば放送は禁止ですし、「表現の自由」を尊重するならば継続と言う事になります。

前置きが長くなってしまいましたが、二つ質問があります。


・「思想」を否定する「思想」と言うものが存在し、それもまた「思想の自由」ですが、「表現の自由」を否定する表現と言うものは存在するでしょうか?


・「思想の自由」と「表現の自由」は同じ憲法に定めるのは矛盾しないか?


答えだけでなく理由も教えてください。
よろしくお願い致します。

わが国には「表現の自由」と「思想の自由」と言うものが存在します。


その中で例えば、この思想は反社会的で危険だ。禁止する。と言う事があった場合、これは「思想の自由」に反する事と受け止められる時もあります。

しかし、その思想を拒否する思想もあり、それも思想の自由です。結局は、どちらの思想を支持するかの問題で、「禁止する思想」の支持が多ければ、その思想は禁止されます。


これと同じで、表現も言えるでしょうか?


例えば、破廉恥なCMが流された場合、はしたないと思って批判が集まって...続きを読む

Aベストアンサー

"「思想の自由」なんて法律、無意味ですね"
   ↑
御指摘の通り、あまり意味はない、という人も
います。
しかし、社会主義のように思想を押しつけたり
する場合もあり得る訳です。
又、日本では、沈黙の自由や謝罪広告の強制が、
これとの関係で問題となったことがあります。

”アルカイダを否定する思想も、民主化を否定する思想も「思想の自由」だと
思うので法律矛盾はしないと思う。結局は、「思想の自由」と「思想の自由」
との戦いなのだと思います。”
   ↑
誤解というか、思想の自由と表現の自由を混同している
ように思えます。
思想の自由とは、両親の自由と一緒になって「内心の自由」を
保障したものです。
思想良心を外部に発表する自由が表現の自由であり、学問的体系の
形をとる場合は学問の自由になる訳です。

”表現を拒否するというのは思想であって、「その表現は嫌だ」と言う
「思想の自由」を遂行している。と言う事です。
その「思想」をもって他人に要求する行為そのものは「表現」ではありません”
   ↑
根底に思想があって、それが外に出ると表現になる訳です。
質問者さんの意見を理解することが出来ましたが、それは
一般に説明されている内容とは異なるようです。

"「思想の自由」なんて法律、無意味ですね"
   ↑
御指摘の通り、あまり意味はない、という人も
います。
しかし、社会主義のように思想を押しつけたり
する場合もあり得る訳です。
又、日本では、沈黙の自由や謝罪広告の強制が、
これとの関係で問題となったことがあります。

”アルカイダを否定する思想も、民主化を否定する思想も「思想の自由」だと
思うので法律矛盾はしないと思う。結局は、「思想の自由」と「思想の自由」
との戦いなのだと思います。”
   ↑
誤解というか、思想の自由と表現の自由を...続きを読む

Q西洋思想と東洋思想との比較思想について学ぶにはどうすればいいでしょうか

私は西洋哲学(主に分析哲学)や仏教哲学(インド・チベット中観思想、唯識思想、日本仏教思想、西田哲学)に興味を持っており、その両者を比較して研究することにも関心があります。
そこで次の2点について質問します。
1比較思想を行っている有名な学者さんはどのような方がいらっしゃるでしょうか?
2また比較思想の学科を置いている大学はどのようなところがあるでしょうか
何卒、ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を学ぶのであればカント哲学のあたりは当然勉強していますし、道教を研究するならばキリスト教の知識は必須です(そして道教とキリスト教は驚くほど似ていることがわかる)。
 日本では何故か西洋思想研究が人気で、東洋思想研究は閑古鳥状態なので良質な学者が少なく、世間で売っている東洋思想に関する書物の大半は嘘つきだと思ってください。故に私は東洋思想を主軸にして研究を進めてゆくことを勧めます。
 
 比較思想研究を試みている人は多く、仏教学者では中村元、三枝充悳の名が挙がりますが、やはり井筒俊彦の著作は必読です。

 比較思想といったら京都学派の名が挙がりますが、問題も多いです。ハイデガーを禅の用語を使って訳してますが(『時と有』・・・。
 研究は基本的に原典の読み込みから出発しますので、文献学をしっかりと学べる大学が宜しいと思われます(以外に文献を読めない人が多く、特に仏教関係の読みはデタラメで、まともに読めている人はほんの一握りしかいません)。
 

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を...続きを読む

Q思想の自由について

思想の自由について

思想の自由とは
「憲法が保障する基本的人権の一。人がどのような思想をもっていても、
それを理由に社会的不利益を受けることのない自由。」
とあります。辞書からの引用です。

ここで言う社会的不利益とはどのようなものでしょうか?
教えてください。

また、もしも社会的不利益を受けた場合、もちろん違憲となるでしょうが、
違憲だからなんなのでしょうか?
憲法に違反した人間を訴えればお金を取ったり、刑務所に収容させたりできるのですか?

Aベストアンサー

社会的不利益を与えたのが国か一般私人かで話は少し異なります。

1.国の場合
国が特定の思想を持っている人に社会的不利益を与える方法としては、iこれを弾圧する法律を国会が制定する、iiこれを弾圧する行政行為を行政庁がする、iiiこれを弾圧する裁判を裁判所がする、という3つの場合が考えられます。
裁判所は違憲審査権を持っていますから、裁判所によって、i法令、ii行政行為が違憲無効となります。また国家賠償の対象となる場合もあるでしょう。iiiの場合は審査をする裁判所が違憲なことをしていますから、上級裁判所があれば上訴するか、国民審査などによってどうにかします。

2.一般私人の場合
こちらが質問者様が主に疑問になっておられるところだと思います。
一般私人には憲法が直接適用されることはないというのが今の主流の考え方で、最高裁判所もこの立場にたっています。ですから、違憲だからといって、先に述べた国のように、直接何かが無効にされたりするわけではありません。
ですが、民法などの私人の行為を規律する法律を介して、憲法の保障する思想の自由の趣旨が私人にも及ぼされるのです。ですから、結局は憲法が適用されるのと似たようなことですね。
具体的には、思想を弾圧するような契約は民法90条違反として無効になる可能性があり、思想を弾圧するような行為は民法709条に基づいて損害賠償の対象となる可能性があります。

社会的不利益を与えたのが国か一般私人かで話は少し異なります。

1.国の場合
国が特定の思想を持っている人に社会的不利益を与える方法としては、iこれを弾圧する法律を国会が制定する、iiこれを弾圧する行政行為を行政庁がする、iiiこれを弾圧する裁判を裁判所がする、という3つの場合が考えられます。
裁判所は違憲審査権を持っていますから、裁判所によって、i法令、ii行政行為が違憲無効となります。また国家賠償の対象となる場合もあるでしょう。iiiの場合は審査をする裁判所が違憲なことをしていますか...続きを読む

Q空海の思想は、梵我一如思想と一線を画していたのでしょうか

私は秋月龍珉氏の「誤解された仏教」を先日読了しました。
その中に
「空海の思想は釈迦の縁起、無我思想にまだ近かったが、以後の真言宗の思想家はみな梵我一如思想に接近してしまった。」
とありました。
空海自身の思想は、梵我一如思想から一線を画していたとは、どういうことでしょうか?私は空海思想がよくわらないので、どなたか教えていただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

このご質問に正確にお答えできるのは、仏教思想の専門の方がふさわしいように思います。
素人の私の感想になりますが・・・

mmkyさんが簡潔におっしゃられているように、空海という人物は桁外れの天才だったのでしょう。
最澄という学問肌の天才とはまた違って、実修を重んじ、実証さえ示す事のできた稀有の天才だったようです。

仏教思想の極至とも言われるその教えが、広く一般に受け入れられてこなかったのには、事相とも言われる実修面での複雑さが影響しているように思われます。
また、教相とも言われる教理面においても、あくまで実修を通してのみ確かな理解が可能のようにも思えます。
一般人が近ずけるのは、実証であるところの現世利益の面に限られてきてしまったように思えます。
学者からの目においても、遠巻きに論じられてきた感があります。
>空海の思想・・・云々・・・と言っても、果たしてそれが正鵠を射たものなのかどうか、疑問があります。
遠巻きの論評を参考にして、空海の思想の本質を探る事には無理があるのではないでしょうか(失礼ながら・・・)

少し大げさな表現かもしれませんが・・・
釈迦と空海は仏教史においての超弩級的な存在のようにも思えます。
空海の般若心経秘鍵に書かれていますが
釈迦が祇園精舎において、天人や菩薩に対して般若菩薩の印、真言、曼荼羅の法を説いたとあります。
これは釈迦が在世中に、既に密教の法を説いたという事にもなってしまいます。
この表現に対して仏教学者は一言も解釈をしていません。
解釈のしようが無いのでしょう、下手な解釈を下せば仏教思想の上で大変な事になってしまうからです。
空海が釈迦に等しい境地を得たことを現したもののようには思いますが
言い切ったところが凄いと思います。

この事一つをとってみても、空海の思想というものは
論評するのは自由だとしても、確かな解釈を下しずらいものだと思います。
しかし、その思想の本質の核そのものについては、一般人でも受け入れられる面があるようにも思えます。

加とは如来の大悲をいう
持とは衆生の信心をいう

空海の教えはこの言葉に尽きているとも言われます。
如来の大慈悲心を信じるという事ならば、我々一般人でも受け入れ易い教えになります。
加持というものを、ある方はこのように分かり易く言われたのを覚えています。
・・・真心で祈る・・・と
仏の大慈悲心を信じて、純粋な気持ちで祈るという事なのでしょう。

学ぶだけではなくて、祈る、というところに空海、お大師様の教えの本領があると思います。
そのあたりの事を念頭において学ばれる事をお勧めいたします。
ご参考になれば幸いです。

このご質問に正確にお答えできるのは、仏教思想の専門の方がふさわしいように思います。
素人の私の感想になりますが・・・

mmkyさんが簡潔におっしゃられているように、空海という人物は桁外れの天才だったのでしょう。
最澄という学問肌の天才とはまた違って、実修を重んじ、実証さえ示す事のできた稀有の天才だったようです。

仏教思想の極至とも言われるその教えが、広く一般に受け入れられてこなかったのには、事相とも言われる実修面での複雑さが影響しているように思われます。
また、教相とも言...続きを読む

Q政治思想>>自由主義

1.自由主義(Liberalism)、新自由主義(New-Liberalism)、新(復興)自由主義(Neo-Liberalism)について、歴史的、経済的、政治的...どの方面からのアプローチでも結構ですので相違点等を教えて下さい。

2.上記の他に、「自由主義」と名の付く政治思想があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

自由主義は、政治権力を抑制して、人々の自由を確保しようとするものです。政治的自由主義の場合は人々の自由意志に、経済的自由主義は自由な経済活動を市場原理による調節にまかせていくもので、この両者は普通は一体としてとらえられることが多いです。
絶対王政の専制政治と重商主義経済政策に反対し、立憲政治と資本主義経済を実現する、市民(ブルジョア)革命を担う思想の体系です。政治的自由主義の代表的理論家としてはジョン・ロック、経済的自由主義の代表的理論家としてはアダム・スミスがあげられるのが普通です。

ニュー・リベラリズムは、19世紀末から20世紀初めに影響力をもった思想と政策の体系です。経済が自由競争段階から独占段階に移行したことと参政権の拡大にともなって、イギリスの自由党がとなえたもので、党首ロイドジョージの名とともに語られることが多いです。労働者や貧困層の生活を保障するための社会政策の充実をはかるもので、後の福祉国家成立の基盤形成をなしました。思想的にはベンサムやミル父子などの功利主義の延長線上に位置づけられ、市場原理だけでは失業や貧困が解決できず、それは人々の自由を阻害する、ということから、古典的自由主義を修正するニュー・リベラリズムと証したのです。また、ニュー・リベラリズムは帝国主義的膨張による富裕化を前提にしており、その富を労働者や貧困層にも分配するものでした。その後イギリスでは、より徹底した福祉国家政策を追求する社会民主主義の労働党にとってかわられますが、第2次大戦後のイギリス福祉国家の骨格のプランは、策定の中心となった自由党員ベヴァリッジの名前をとって呼ばれるのが普通です。1930年代のアメリカのニュー・ディール政策もニューリベラリズムの政策と位置づけられます。アメリカでは、福祉重視の政治的傾向を「リベラル」といいますが、これはニュー・リベラリズムの意味と言っていいでしょう。
古典的自由主義とネオ・リベラリズムが国家機能の抑制を説くのに対し、ニュー・リベラリズムは国家機能の拡大を促す役割を果たしたのが特徴です。

ネオ・リベラリズムは、2度のオイル・ショックを契機に、先進国の高度経済成長が終焉したのにともなって影響力を強めた思想と政策の体系です。福祉国家政策による財政規模や国家機能の拡大、税負担の増大を批判し、できるだけ市場経済にまかせていく、という内容です。代表的理論家としてはハイエクとM・フリードマンがあげられます。
イギリスのサッチャリズム、アメリカのレーガノミクスがその実例としてあげられ、日本でも1980年代の中曽根行革や、90年代以降の「構造改革」は、ネオ・リベラリズム政策だとされます。グローバリゼーションの基調は、ネオ・リベラリズムを基礎に進んできています。先進国は、不況克服策やグロバリゼーションの圧力への対応として大なり小なりネオ・リベラリズム政策を導入していますが、労働運動や社会運動の力が強いフランスやドイツなどでは、かなり不徹底なものであることを余儀なくされています。
ネオ・リベラリズムは競争の拡大・強化や、競争の促進要因としての格差の拡大を容認することが特徴で、競争の勝者により多くの分配の与えることを主張し、累進税率や社会政策による所得再分配を非難します。
ネオ・リベラリズムは、「結果の平等」から「機会の平等」へと主張しますが、所得格差が教育格差につながる現状や、技術が複雑で大規模なしかけを必要とするようになっていることから、手持ち資本が大きければ大きいほど競争には有利で、弱者保護を弱める政策ともあいまって、富める者をより富ませ、貧しいものをより貧しくさせる、という格差を拡大する方向をとることには、批判も多いです。

自由主義は、政治権力を抑制して、人々の自由を確保しようとするものです。政治的自由主義の場合は人々の自由意志に、経済的自由主義は自由な経済活動を市場原理による調節にまかせていくもので、この両者は普通は一体としてとらえられることが多いです。
絶対王政の専制政治と重商主義経済政策に反対し、立憲政治と資本主義経済を実現する、市民(ブルジョア)革命を担う思想の体系です。政治的自由主義の代表的理論家としてはジョン・ロック、経済的自由主義の代表的理論家としてはアダム・スミスがあげられる...続きを読む

Qキルケゴールは、この言葉をどの著作のどういった文脈で使ったのでしょうか?

その言葉は、「結婚するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。」です。

この言葉だけを読むと、どっちにしろ後悔することになるんだという極めて絶望的な意味にしか受け取れないのですが、もしかしたら彼は著作の中では別の意味で使っているかもしれないという一縷の望み(?)もあります。また、この前後の文脈を読むことによって新たな発見があるかもしれませんし、逆にもっと悲惨な内容(?)が書かれているかもしれませんが、それは読んでみないことには分かりません。

キルケゴールの名はその昔、共通1次(現センター試験)の「倫理・社会」(今そういう科目はないかもしれませんが)の受験勉強中に初めて知りましたが、著作を読んだことはありません。また、今回質問に当り、過去のQ&Aにも当りましたが、この言葉に関するQ&Aはありませんでした。ただ、『死に至る病』という著作があったことはそこに書かれていて、その本の題名は思い出しました。それでしょうか?また、もし仮にこの本だとして、これがとても難解なもので、いきなり読むより何か入門書的なものから読んだ方が良いのであれば、それも併せて教えて頂けますと幸いです。

ご存知の方はぜひ教えて下さい。よろしくお願いします。

その言葉は、「結婚するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。」です。

この言葉だけを読むと、どっちにしろ後悔することになるんだという極めて絶望的な意味にしか受け取れないのですが、もしかしたら彼は著作の中では別の意味で使っているかもしれないという一縷の望み(?)もあります。また、この前後の文脈を読むことによって新たな発見があるかもしれませんし、逆にもっと悲惨な内容(?)が書かれているかもしれませんが、それは読んでみない...続きを読む

Aベストアンサー

『あれかこれか』というのは、キェルケゴールの最初の著作です。

このサイトには原文を含め、簡単に紹介してあります。
http://home.clear.net.nz/pages/ccreegan/papers/eithers.html

まず個人が選択することになる実存(厳密に定義しようと思うと大変なんですが、ここではごく簡単に、自己の存在ということに自覚的・主体的になって存在しようとする在り方、ぐらいに考えてください)のありようには、まず「美的段階」がある。

そこでご質問の文章が出てくるわけです。

サイトの原典引用箇所を簡単に訳してみると、こんなふうになっています。
(大意)
結婚するがいい、そうすれば後悔するだろう。 結婚しないがいい、そうすればやはり後悔するだろう。 結婚するかしないか、いずれにしても後悔することになる。 結婚するか、しないかのどちらかしかないのだが、いずれにしても後悔するのだ。
世の愚者どもを笑うがいい、そうすれば後悔するだろう。愚者どものために泣くがいい、そうすれば後悔することになるだろう。世の愚者どものために笑おうが泣こうが、いずれにしても後悔するのだ。愚者に対しては笑うか泣くかしかないのだが、いずれにしても後悔するのだ。

以下、
「少女を信じるがいい、そうすれば後悔するだろう。……
「首を吊るがいい、そうすれば後悔するだろう。……
という内容が続きます。

どのような選択をしても、この美的段階の生き方では、後悔と絶望がついてまわる、と言うのです。
そこで、倫理的な生き方が開けてくる。

ご関心の領域から離れるかもしれないので、簡単に言うに留めますが、そこにおいてもやはり、善と悪の選択というもんだいは、不安と絶望へと人を導く、といいます。

そこで、キェルケゴールは絶望を選ぶがいい、と言うのです。

もちろん、これは単に絶望を勧めるのではなく、さらに「宗教的段階」へと進むためのステップとして、絶望を選択せよ、そうして、自己自身を選び取るのだ、と続いていきます。

参考URL:http://home.clear.net.nz/pages/ccreegan/papers/eithers.html

『あれかこれか』というのは、キェルケゴールの最初の著作です。

このサイトには原文を含め、簡単に紹介してあります。
http://home.clear.net.nz/pages/ccreegan/papers/eithers.html

まず個人が選択することになる実存(厳密に定義しようと思うと大変なんですが、ここではごく簡単に、自己の存在ということに自覚的・主体的になって存在しようとする在り方、ぐらいに考えてください)のありようには、まず「美的段階」がある。

そこでご質問の文章が出てくるわけです。

サイトの原典引用箇所を簡単...続きを読む

Q板垣退助は「自由民権は大切である」という思想をもって自由民権運動を起こしたのですか?

板垣退助は自由民権運動で有名です。
自由民権運動といえば、日本史教育では「日本の民主主義発展のさきがけとなった」といった好意的評価をされてる印象があります。

しかし、板垣自身は明治維新直後は政府の要職についていて、下野したきっかけは征韓論政変です。
下野翌年に「民撰議院設立建白書」を出したことで有名な愛国公党のメンバーも、同じく征韓論政変で下野した人たち(後藤象二郎、江藤新平、副島種臣)が多いみたいです。
征韓論政変自体は、政策の衝突、もしくは派閥争いでしかなくて、自由民権というテーマとは関係がないですよね。

ということは、征韓論政変による下野直後にはじまった「自由民権運動」というのは、
板垣達にとって単なる政治的な地位を得るために政府を攻撃する手段でしかなかった、ということはないのでしょうか。

それとも板垣は元から「民衆に自由と参政権を保障するべきだ」という思想の持ち主で、
もし征韓論政変がなかったとしたら、明治政府の中枢という立場からそのような整備を進めていこうと考えていたのでしょうか。

権利を求める運動なのだから「政治的地位を得るための攻撃」で当たり前で、
そのことにより自由民権運動の評価が下がる、というものではないと思いますが
運動と板垣本人の思想との繋がりが気になったので質問しました。

板垣退助は自由民権運動で有名です。
自由民権運動といえば、日本史教育では「日本の民主主義発展のさきがけとなった」といった好意的評価をされてる印象があります。

しかし、板垣自身は明治維新直後は政府の要職についていて、下野したきっかけは征韓論政変です。
下野翌年に「民撰議院設立建白書」を出したことで有名な愛国公党のメンバーも、同じく征韓論政変で下野した人たち(後藤象二郎、江藤新平、副島種臣)が多いみたいです。
征韓論政変自体は、政策の衝突、もしくは派閥争いでしかなくて、自由...続きを読む

Aベストアンサー

板垣退助は自由民権運動の象徴みたいに思われていますが、
同じく指導的な立場の民権家で、
自由党の機関紙「自由新聞」で先鋭な理論を展開した馬場辰猪からは、
厳しく批判されています。
明治十四年十月に自由党が誕生。翌十五年、改進党の結成。
このころまでは自由民権運動は上げ潮でした。ところがです。
自由党の結成からわずか半年ほどのちに、
党首の板垣が「ヨーロッパに行く」と言い出した。
結成されたばかりで、党が政治問題に忙殺されているこの時期にです。
一年ちかい一般的な視察と観光に終始したその遊の費用はどこから?
政府からでした。
藩閥政府は自由民権運動に弾圧と懐柔をくりかえしたのですが、
板垣の外遊もそうした懐柔策の一環だったのです。
ヨーロッパ滞在中にすでに自由民権運動から隠退する意向の板垣は、
帰朝歓迎会の席上で、突然、
自由党は解散したほうがよいという趣旨の演説をしました。
結成から三年、自由党は解党しました。

萩原延壽「馬場辰猪」を参考にしました。

Qキルケゴールの質的弁証法が調べたのですが、「絶望の人間に語りかける人格

キルケゴールの質的弁証法が調べたのですが、「絶望の人間に語りかける人格神と交わす対話」というのがよくわかりません。
簡単でいいので質的弁証法について教えてください。

Aベストアンサー

「キルケゴールはヘーゲル的な弁証法を量的な弁証法と批判、神と人間との質的断絶を強調しつつ、宗教的実存へと高まりゆく人間存在を質の弁証法で説明した」(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%DB%BE%DA%CB%A1)そうです。
平たく言えば、ヘーゲル的な量的弁証法では、正と反の矛盾を、合となって止揚し、それがまた反と矛盾して、新たな合となって止揚することを繰り返して、平面的な回転ではなく、立体的な螺旋状の渦を巻いて歴史が動くと
考えます。
これ対して、キルケゴールは、「たとえば美的・倫理的・宗教的実存の領域は、質的に本質を異にし、そこにはあれもこれもでなく、あれかこれかの決断による選択、あるいは止揚による総合でなく、挫折による飛躍だけがある。実存は、成りつつあるものとして無限への無限な運動、また単なる可能でない現実としてつねに時間的であり、その時間における運動は、決断とその反復において、時間における永遠を満たす。矛盾によって各々の実存に対して迫られた決断における真理の生成が、主体性の真理であり、主体的かつ実存的な思惟者は、いわば実存しつつ問題を解く」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95)。
非常に難解な説明であり、私はキリスト教徒でないので、正確なことは分かりませんが,自分なりに平たく説明すると、次の通りです。
人間は信仰によって神に近づき、最期は神に召されて昇天するという意識が当時の西欧社会では根付いていた(今でも続いているらしい)のですが、キルケゴールは信仰心を捨てきれないけれども、信仰にすがって救済されると思わなかったのでしょう。そこで、完全な層ん罪である神と、不完全な存在である人間とは質的に異なるものであって、神に近づこうとしても近づけないことに絶望感を抱いたのでしょう。それでも、キルケゴールはニーチェのように。「神は死んだ」とは考えずに、「絶望の人間に語りかける人格神」なる概念を編み出し、対話を交わすことに信仰の意義を見出そうとしたのではないかと科考えられます。

「キルケゴールはヘーゲル的な弁証法を量的な弁証法と批判、神と人間との質的断絶を強調しつつ、宗教的実存へと高まりゆく人間存在を質の弁証法で説明した」(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%DB%BE%DA%CB%A1)そうです。
平たく言えば、ヘーゲル的な量的弁証法では、正と反の矛盾を、合となって止揚し、それがまた反と矛盾して、新たな合となって止揚することを繰り返して、平面的な回転ではなく、立体的な螺旋状の渦を巻いて歴史が動くと
考えます。
これ対して、キルケゴールは、「たとえば美的・倫理的・宗...続きを読む

Q思想や表現の自由は国をバラバラにする?

漠然としてあった慣わし、良識、
明文化されてないが共通認識として皆が持っていたものが崩れていくと、面白い争いが起きるんだなあと、最近関心を持っています。

親を蔑ろにする、子供生むより自分の人生、子供はそもそもリスクで損で迷惑なもの、保育園反対、ベビーカー邪魔、公共の場に連れてくんな、高齢者早く死ね、ブサイクは遺伝子残すな、過疎地域は税金の無駄だから潰せ、未成年者でも極刑OK、能無しは死ねばいい、シングルマザーは自己責任でしょ、etc

これらの意見は人道的な価値観からは外れているが、
それらの思想や表現もまた自由で、本音で、それらの思想が幅を利かすようになってきて、良識的な思想との対立が目立ってきて、
なんかバラバラになっていってるなあと感じています

政府としては良識側の立場に立ってまとめていきたいものの、これといった有効手段もない状態。
「お前らもっと道徳観を持て、人の心を取り戻せ」と叱咤激励したり、
「心が貧しい、さもしい奴らだ」と蔑んだりしても、
何の訴救力もなく、事態は何も変わらず、ただただ苦々しい思いをしながら追い詰められていくばかり。

こういう状態って、打開策のようなものはあるのでしょうか?

もし仮に「道徳観を教え込む」とか「普遍的な良識感を叩き込む」とかをやると、それは洗脳というか思想の押し付けになってしまうのでしょうかね?

漠然としてあった慣わし、良識、
明文化されてないが共通認識として皆が持っていたものが崩れていくと、面白い争いが起きるんだなあと、最近関心を持っています。

親を蔑ろにする、子供生むより自分の人生、子供はそもそもリスクで損で迷惑なもの、保育園反対、ベビーカー邪魔、公共の場に連れてくんな、高齢者早く死ね、ブサイクは遺伝子残すな、過疎地域は税金の無駄だから潰せ、未成年者でも極刑OK、能無しは死ねばいい、シングルマザーは自己責任でしょ、etc

これらの意見は人道的な価値観からは外れて...続きを読む

Aベストアンサー

こういう状態って、打開策のようなものはあるのでしょうか?
   ↑
学校では道徳は教えられない、と言われています。
道徳は、子供の頃から親や社会が身体で覚えさせないと
身につきません。

中国や韓国の道徳教育は日本などよりはるかに盛んですが
結果は御存じの通りです。

だから世界各国では宗教を利用してきたのです。

新渡戸稲造の武士道にあります。

「御国では、宗教教育をしていないと聞きましたが本当
 ですか?」
「本当です」
「オオ! それでどうやって子供達に道徳を教えることが
 できるのでしょう?」

英国などでは、小学生のときからキリスト教に基づく
宗教教育をやっていますが、それはこうした理由がある
からなのです。


もし仮に「道徳観を教え込む」とか「普遍的な良識感を叩き込む」とかをやると、それは洗脳というか思想の押し付けになってしまうのでしょうかね?
  ↑
はい、洗脳であり押しつけです。
そうでないと社会は、北斗の拳の世界になってしまいます。

そこまで行かなくても、秩序が乱れて困るのは
結局、国民です。

ある程度の洗脳や押しつけは、文明社会では
必要なのです。

こういう状態って、打開策のようなものはあるのでしょうか?
   ↑
学校では道徳は教えられない、と言われています。
道徳は、子供の頃から親や社会が身体で覚えさせないと
身につきません。

中国や韓国の道徳教育は日本などよりはるかに盛んですが
結果は御存じの通りです。

だから世界各国では宗教を利用してきたのです。

新渡戸稲造の武士道にあります。

「御国では、宗教教育をしていないと聞きましたが本当
 ですか?」
「本当です」
「オオ! それでどうやって子供達に道徳を教えることが
 できる...続きを読む

Q思想としてのゴロツキがのさばるのは ふつうの人たちが亜流の思想を追い求めるからではないか

思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 
一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?

《ゴロツキ等》というのは:

  経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないそ
 の状態を言います。

《亜流の思想》というのは: 

  そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった
 思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなの
 にこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言いま
 す。
 
《クリスチアニズム》というのは:

  非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組
 織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き
 続けるということに変身した場合を言います。

  《教義》は すでに思想となっており人間が思考するものであり 信じる
 ものではありません。

  《倫理規範》も 考えるものであり 信じるものではなく その実践とい
 うこともそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教で
 もそして宗教でなくても 道徳を説きその実践を奨励し得ます)。

《ブディズム》については:

  ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば:
   《さとり》が いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っている
  ことです。
   このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変
  わらないと見なされることになります。
   少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わら
  ないということになるからです。

 
☆ ご見解ご批判をお寄せください。

思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 
一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?

《ゴロツキ等》というのは:

  経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないそ
 の状態を言います。

《亜流の思想》というのは: 

  そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった
 思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなの
 にこれをああたらこうたらいじくりまわしたその...続きを読む

Aベストアンサー

卓越したbragelloneは正統な思想を完成させ既に神の領域。
荘厳にして格調高雅。

他は全て思想のゴロツキ。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング