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 質問させてください。

 神は我らを救い給うのでしょうか?

 それとも、

 科学がそれに変わるのでしょうか?

 漠然としていて、申し訳ないですね。

A 回答 (9件)

科学は神ではないですからね。


神を人間が考え出すと同じくらい、いやそれ以上に、科学は人間によって考え出されたものです。
ある意味、神に代わる科学というのはあると思いますが、神ならばなんでも説明できたのに、科学だと説明できないこともあります。そういう意味では、科学は神に劣ると思いますが。

神がわれわれを救うかどうかはなんともわかりませんね。
救われることを信じるから、信仰なんじゃないでしょうか。
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神などいない。


だから、救いた給うたりしない。
神を崇めてもなんの意味もない。
神はお布施は要求しない。

でも、神の心は貴方の中にも存在するはず。
他人を救いたいと思う気持ちが神である。
しかし、各個人の心にはそんな余裕が無い。
それが現実である。

科学はいつか廃れ、破滅する。
だから神にはなり得ない。
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神と我らと科学の境はどこなんですか?


全体と部分と性質以上の違いがあるんですかあ?
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私の考え方は、少し異なる物かもしれませんが、神は人間が作り出したこの世で一番醜悪な存在であり、崇高な存在であると思います。


そもそも、人が神と言う幻想を理想像とし、その理想に近づくために考え出された様々な掟がやがて戒律と言う名のものに変わり宗教として成立したと考えています。
私は無心論者ですから神の存在に関しては否定的な立場です。
人が安定を求める為に理想の形として存在している事には否定はしませんが。
人間の思想は哲学を生み哲学の中から科学が生まれました。
科学と言う分野が成立したのは18世紀頃から19世紀頃ですからまだまだこれからの若い分野と言えるでしょう。
科学は人の欲求に応じて飛躍していきますから、人が欲求をもち続ける限り様々な形で謎とされてきた問題や発見等を重ねていくのだと思います。
人に欲求が無くなる時、科学も衰退していく事になるのでしょうが、人の欲求が無くなるとは、すなわち無欲となるわけで、神様の領域に近づく事になるのかもしれません。
神の時代を神話として語り継ぐ現在と異なり、神の時代を昔話程度に話せる頃の人達から見れば私達はきっと神様に見えるか、最高の愚か者に見えるかのどちらかでしょうね。
いずれにしても神の領域と言われた宇宙に乗り出した科学の進歩と資源を枯らして発展する科学の進歩とどちらが先に私達の現実として訪れるのか興味はあります。
最初から人を滅ぼす為に科学を学ぶ者はいません。
使用者が科学の力をマイナスに用いるだけの事です。
神様を信じる事で心の安定を求めるのならば、自分の理想を追求すればよいし、科学は人を未来に導く新しい考え方であると考えれば少しだけ安心できると思うのですが…
回答になっていないかもしれませんね、ごめんなさい。
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  「神は我らを救いたまうか」は、どういう具体的な人が、具体的場面で問うているかによって答えが違います。神というのは、共同体の問題でもあれば、個人の実存の問題でもあるのです。
 
  科学は、人間の世界認識において、普遍性の根拠となりえると思える「論理の手順」に準拠しています。論理も色々なものがあるのですが、科学の論理は進展して行き、「思いこみの理屈」から、万人がある教育で修得すれば理解でき納得できる「普遍的法則」を備えているようにも考えられます。
 
  しかし、科学は、真偽判断できる領域や限界を、その科学の論理基準で厳しく定めています。全能の神が宇宙を創造したというのは、科学では「否定できません」、それはしかし「肯定できる」ということではありません。これは科学の方法、論理では答えがでないのです。科学の限界を超えています。そして、科学は、常に、論理規則に従う体系で、限界を明らかにしています。
 
  神が我らを救うというのは、「神」とは、どのような神なのかが問題になります。また「救い」とは何かという問題もあります。古代イスラエル人には、天国の思想や、死後の生の思想はありませんでした。神の救いは、神に帰依することで、地上的な豊かさや、長寿や、幸福が得られることです。実際、『聖書』には、神が取ったのでいなくなったとされる人を除いて、すべて死亡しました。エリヤは、燃える戦車で天に昇って行ったとされますが、死んでいない訳ではないはずです。
 
  どういう神を考えられているのか、どういう「救い」を考えられているのかです。わたしは、「神の救い」はあると思います。すべての人が救われるでしょう。キリスト教の神は、複雑な面を持っていますが、そのなかに、すべてを許す神という像があります。このイメージ、位相は、聖マリアに受け継がれたのですが、神が救ってくれなくとも、聖マリアが救ってくださるでしょう。
 
  科学は、こういう形而上学的問題には関与しません。それが科学の基本パラダイムです。というわけで、科学が神に代わることはありません。
 
  神は、それに頼る者に、恵みと救いを与えてくださるでしょう。
  「選択する神」は、或る意味、人間の社会ルールを元に築いた産物だとも言えます。しかし、すべてを分け隔てなく恵み、無条件で許してくださる神こそ、真の神だとわたしは思います。「救い」ということこそ、最高の奇跡でしょう。この最高の奇跡に比すれば、山が動くことも、針の穴を駱駝が通ることも大した奇跡ではなくなるでしょう。
 
  結局、信じると言うより、より頼み、救いの時に、祈ることで、救いを求める主として、心に抱けばよいのでしょう。信仰の問題ですが、もう少し広いでしょう。神は、信じる者も、信じない者も救ってくださるのです。これはわたしの考えです。(神は、また、それぞれの人の魂に、その原型の刻印を残しています。神の影像が、人の魂には宿っているのです)。
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まず「神」について。


日本人のいう「カミ」と外国人もしくは宗教(例えばキリスト教)上の「神」とは違うと思います。
私は前者を採るとしますと、日本古来からの神は神話による普遍的な神と土着信仰から生まれた道祖神的な神があり、どちらも自然と密接に結びつき主に第一次産業的側面で、そばにいて鎮めること荒れることを司り、家々の御札などの依代に降りて「救う」のではなく「護る」のだといえましょう。
例え科学が発展しても神はあくまでそばにいて、護る代わりに捧げを受け、ときには荒れて、人々自らの力を集め発揮して克服せよ、と占事により伝えてきます。
ですから、科学を発展させるとともに、神さんを祭るということを通して、人間が個の集まりとして関係性を問い続けることが、結局「救い」になるのではないか、と思います。
何か書いてて訳がわからなくなってきました。すいません。
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神という定義が人それぞれですから、科学が神へ通じると考える人もいるでしょう。

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神は私たちがいくら苦しんでいようとまず何もしません。

気づきもしないかもしれません。神から見れば人間の苦しみは赤ちゃんのママゴトのようにしか見えません。

神などの関与することは死後の世界のことです。人間が死んだあと苦しまないように救い給うことはありえます。人間が仕事とか恋愛とかやっていることは関与しません。高い意識の持ち主にとって生きてる間のどうこうはどうでもいいのです。(死後の世界にかかわるようなことは除く)

ただし生きてる間にいたずらでかかわってくる意識の低い霊魂もいます。


ムカつく文章をダラダラかいて申し訳ありませんが、googleで魂と検索すれば素晴らしいサイトにめぐり合うはずです。

>>科学がそれに変わるのでしょうか?

そうですね、現在ほとんどの方は科学を信仰しているように思えます。科学によって自分たちを裕福へいざなおうとしているのでしょうかね?笑

とにかく、神は人間たちを救うためにいるわけではないと思います。

突然ですが(魂)について調べてみてください。
あなたの疑問が解消することを願います。
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googleで霊魂と調べてください

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