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 意味のない質問かもしれませんがアレキサンダー大王は東へ行き次々と征服していきましたが西の方、つまり古代ローマの方には関心がなかったのでしょうか?

 その時代ローマよりも東方のペルシャの方が魅力があったとは思いますが西のローマの方も簡単に征服できたのではと思ってしまいます。なぜ東の方を選んだのでしょうか? 

 西にローマという国があったのは知っていましたよね?

A 回答 (6件)

ローマの存在は知っていたでしょう。

しかしイタリアは当時のギリシア世界から見れば、辺境、未開の地。対するペルシアはもともとギリシアの宿敵でもあり、ギリシアからみてもなお古代の文明を保つ先進国であったわけです。
またアレクサンドロスはマケドニアの王ですが、まず父王とアレクサンドロスの2代でギリシアを統一します。したがってこの後のペルシア征服は逆に見ればギリシア連合軍による第4次対ペルシア戦争なわけです。ただし今度は受けてたつのではなく、侵略ですが。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。
 確かにペルシャ遠征の目的は150年ほど前のペルシャ戦争の復讐だと聞きますが。
 ローマにかなり関心がなかったのかな。

お礼日時:2006/03/09 02:40

イランにあるペルセポリスは、アレクサンドロス(アレキサンダー)大王が滅ぼしたアケメネス朝ペルシアの都のひとつですが、遺跡には激しい燃焼の痕跡があります。

伝説では、祝宴で酔っ払ったアレクサンドロスの王妃が、乱痴気騒ぎの末に火をつけてしまったとかなんとか言われていますが、都は
ほとんど石造りなので多分それはないでしょう。実際は、燃える物を大量に持ちこんで、計画的に焼き払ったに違いありません。なぜそんなことをしたかと言えば、ひとつはやはり、ギリシア人兵士達の復讐心を満足させるため
だったということではないでしょうか。ペルシア戦争の際、クセルクセス王
(間違えてたらごめんなさい)に率いられたペルシア軍はアテネに侵入して
神殿などを焼き払ったのです。アレクサンドロス大王の東方遠征は、もはや
共和制の都市国家連合ではなく帝国となった新しいギリシアが、古い帝国に
引導を渡し、新しい秩序を打ち立てるための戦いでした。ヘレニズム世界がオリエント世界を飲みこむ、その象徴としてペルセポリスが選ばれたということなのです。え?ローマですか?うーん。大王が長生きしてたらひょっとすると食指を伸ばしてたかも・・・歴史にもしもは禁物ですが。
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この回答へのお礼

 みなさんありがとうございます。
 kurofudeさんの場を借りてお礼します。
 どうやら皆さん同じ意見のようですね。
 たくさん回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/09 02:43

この時代は地中海の東側が一番文明国です


そしてここは分裂で頻繁に戦争をしていまして
最初の帝国ペルシャの属国に成っていました
ギリシャの都市国家も風前の灯火だったのです
この時にギリシャの辺境のアレキサンダーが
力を付けてギリシャの都市国家を全部支配下に置き
ペルシャに反撃をするのです
この時期のローマはまだまだ野蛮な都市国家です
アレキサンダーが死んだ後また分裂をして戦争をしますから
それをみたローマがギリシャの都市国家と結託をして
それをまた乗っ取って行くのです
だからローマ帝国はギリシャとローマの国だと
思えばわかりやすいですね
後にこの二つは分裂してローマは滅びで
ギリシャだけ残り1200年も続きましたね
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ペルシアの方に魅力があったというのもあります。

海を渡ってわざわざローマへ…とはなかなか思わないでしょう。その他の西欧地域は、大森林地帯ですし…。
しかしもっと大きな要因として、当時の国際関係があると思います。
アレクサンドロスが王になる以前から、マケドニアとペルシア(ギリシアとペルシア)は敵対関係にありました。彼の父フィリッポス2世もペルシアと対立していたほどです。
この流れを無視することは出来ないと思います。
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#1の補足ですが、当時のローマは内紛やケルト人の占領があり国力はきわめて低く、ギリシャやペルシャと比較してもかなり劣る国家でした。


「全ての道はローマに通ず」で知られるローマ街道は大王の死後(没年B.C.323、街道建設はB.C.312)の話ですし、イタリア統一はB.C.272、カルタゴを滅ぼしたのはB.C.146年です。
したがって、ローマという国があることを知っていても、そちらに目が向かなかったのは自然なことではないでしょうか。
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古代のヨーロッパは未開の蛮人の住んでいるだけの土地であり征服するだけの魅力もない土地であったのに対してペルシャは文明の発展した大国であり、またギリシャとは長い間敵対関係にありましたから当然目指すのはペルシャでした。

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この回答へのお礼

 そうですね、そんなところかな?

 ありがとうございます。

お礼日時:2006/03/09 02:38

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Qギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・...続きを読む


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