ルクルティウスの自然哲学について教えてください。
非常に困っています。お願いします

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A 回答 (2件)

 


  古代のヘレニク時代の哲学で、ローマ時代にも大きな影響を持ったのは、ストア派とエピクロス派であるとされます。無論、プラトーンの統を継ぐアカデメイアも存在したのですが、人の倫理的生き方を教えた、この両派の哲学は、ローマ人に合ったのだと言えます。
 
  ルークレティウスは、エピクロス派の人で、エピクロスに次いで有名で、それは、元々詩人である彼が著した思想詩『ものの本質について』(これは岩波文庫に入っていましたが、いまはどうでしょうか)が格調高く、エピクロス派の思想を端的に表現しているからです。従って、ルークレティウスの自然哲学という時、それはエピクーロスの自然哲学と同じ意味になります。
 
  ストアとエピクロスでは、確か、自然についての考察・研究が、どちらかが非常に観念的固定的で、開祖から何世紀後の弟子まで、同じことを言っていたのに対し、もう一つは、自然についての実証研究などを行い、現在から見ると、空想的とも言える、壮大な自然観を色々に提示していたのですが、多分、それはストア派で、エピクロス派の自然観・自然哲学は、開祖エピクロスの考えのまま、変化しなかったのでしょう。
 
  エピクロス派の自然観は、原子論で有名なデモクリトスのそれとほぼ同じで、物質や生物や人間や神は、原子(アトモス)と、原子が存在する場である空虚(ケノン)から成り立っており、原子の組み合わせが、生物や人間や神を造っているという原子論です。デモクリトスの原子論は、決定論であったのに対し、エピクロス派では、原子の運動に恣意性を認め、その結果、決定論にはなりません。
 
  真偽は感覚によって吟味され、それは感覚が、原子の組み合わせが放射する一種の感覚情報を受け取って成立するものだからです。人間も含め、世界はすべて空虚のなかの原子の組み合わせで出来ているので、死後の世界とか、霊魂とか、地獄などは無く、また、死後の罰などもなく、人間は死ねば、その構成原子が分解し虚空に散らばるのであり、意識はなくなり、「死」は、意識があって初めて認識できるので、有名な、「わたしが生きている時、死はなく、わたしが死んだ時、わたしはいないので、死はわたしにはない。故に、死は、わたしにはない」という論証が出てきます。
 
  プラトーンなどと違い、物質一元の自然観であり自然哲学で、霊魂も神も原子で造られており、分解すれば、原子であって、それ以外は何もないというのですから、宗教とは無縁となります。しかし、エピクーロスは神のように崇められ、讃美されました。物質宇宙のなかで、穏やかな人生が快楽であり、友愛こそが貴重であるというのは、古代の人生観でしょう。デモクリトスの自然哲学との違いは先に述べたように決定論かどうかで、エピクロス派は、自由意志を認めていたことになります。自由意志がなければ、そもそも友愛とか、穏やかに人生に対する、世に対するというような、生き方の決定も不可能になるからです。
 
  ストア派の自然哲学と比較すればよいのですが、ストア派の考えは、かなり錯綜し、複雑です。開祖のゼノンが考えていたことと、その弟子の考え、幾世紀も後の弟子では、全然違う自然観を持っていたからです(基本原理が同じであるとしても、実証や観察を重んじたので違いが出てきたのでしょう)。
 
  http://www.aeneis.kit.ac.jp/~taro/lit11.html
 

参考URL:http://www.logico-philosophicus.net/gpmap/books/ …
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入りたての方ですね。



「ルクレティウス」ですね。検索するとヒットすると思いますよ。
生憎と不案内なもので、後続の方が噛み砕いて説明してくれるかもしれませんが、もしそういうことがないようなら、このキーワードで探されるとよいと思います。
1文字間違うと、なんにもヒットしないので、とりあえず、一般的な読み方だけ示させていただきました。

直接の回答にはなりませんが、ご容赦ください。
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QソクラテスVSエピクロスの問答を夢想してみる。

ソクラテス→エピクロス
肉体的快楽を精神的快楽より勝ると考えるのは無知のなせる業である。
その点で、肉体的快楽を寧ろ「苦」と考えるようになるためには「無知の知」が必要である。
「快楽」と「知」はリンクするものなのだ。
こんなことをソクラテスはエピクロスに言ったりするでしょうか?
御回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

言ったりするかしないか、という質問にピントを絞ります。
とすると、答はどちらかというと否定的になります。
それも、ソクラテスとエピクロスが根本的に時代が違う人だからというような理由でもなく、ソクラテスという人物はプラトンなどが脚色しているからというような理由でもありません。たらればだからくだらないとも言いません。

ソクラテスは誰彼ともなく捕まえて議論するような人であったというのが本当ならば、まずエピクロスにいきなりこうだと突きつけることはないと思います。最初にエピクロスがどのように考えているかを聴取した上で、それに反駁するのが彼の流儀ですから。
では、エピクロスは、肉体的快楽を精神的快楽より勝ると考えているのだということを導き出さなくてはならないのですが、いかにも世間で誤解されそうなエピクロス像による判断であって、エピクロスは実際はそのような主張をしていません。

エピクロスの私生活は確かにねーちゃんに言いよりまくっていたようですし、それは事実だと思いますが、その私生活をことさらにバッシングしたのが対立派閥のストア派の人達です。そして、このストア派の連中があることないこと言ったおかげでエピクロスの教説に実際触れたこともないのにエピクロスはしまりのない快楽主義で堕落している、と人々が近寄らなくなってしまっているのです。
以前もエピクロスが唯物論者だからダメだとか言っている人がこのサイトにいましたが、全くの無知で、彼はデモクリトスの論を継承する原子論者ではあるものの、霊魂についても語っていますから唯物論ではありません。また、無神論だとかいう人もいますが、この人もエピクロスが神について語った箇所を全く読んでいないのです。

さて、エピクロスはどのように考えていたか。
身体の健康と魂の平静さが至福なる生の目的、と主張しています。
身体の健康が肉体的快楽であり、魂の平静さが精神的快楽だとするならば、エピクロスは両方を同様に大事なものとしているのです。
だから、ソクラテスがもし「肉体的快楽を精神的快楽より勝ると考えるのは無知のなせる業である」と言ったら、「そうだね。両方大切だね」などと言いかねない。そうすると、ソクラテスは精神的快楽の方を上に見なしたい論客ですから、これはちょっと困ると思うのです。

ソクラテス「でも、肉体的快楽は苦ではないかね」
エピクロス「苦のこともあるが、苦でないこともあるよ」
ソクラテス「少しでも苦があればそれは苦ということにならないかね」
エピクロス「どうして苦痛にばかりこだわるかね。快楽は確かに第一の善であると私も考えている。しかし、快楽であればなんでも貪るようなことはしないよ。快楽のために多くの不愉快なことが結果として起こるようであれば、あえて快楽を得ようとしない。それに、苦痛だって悪いときまったものでもないんだ。苦痛を長時間耐え忍ぶことが大きな快楽を我々にもたらすなら、多くの苦痛の方が快楽よりすぐれていると私は思うよ」

そうなんです。
エピクロスは欲望の塊の人じゃないんです。
快楽についてつきつめて考えればこそ、むしろ質素な精神で生きた人です。
「快楽とは、一部の人たちが(われわれの説に)無知であったり、またこれに同意しなかったり、あるいは誤解して考えているように、放蕩者たちの快楽や、(性的な)享楽のなかにある快楽のことではなくて、身体に苦痛のないことと、魂に動揺がないことに他ならないのである。というのも、快適な生活をもたらすのは、酒宴やどんちゃん騒ぎをひっきりなしに催すことでもなければ、少年や女たちとの(性的な)交わりをたのしむことでもなく、また魚その他の贅沢な食事が差し出すかぎりのものを味わうことでもなくて、むしろ、すべての選択と忌避の原因を探し出したり、また、極度の動揺が魂を把えることになる所以のさまざまな思惑を追い払ったりするところの、醒めた分別こそが、快適な生活をもたらすのである。」(ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」第10巻)
わずかなパンと水で充足する人になれと言ってたようですよ。

ソクラテス「しかし、そのことに気づくためには<無知の知>が必要なのではなかったかね」
エピクロス「<無知の知>というより、私の場合は思慮が必要だと説いて回っているんだよ」
ソクラテス「思慮」
エピクロス「そう。思慮だ。知識を愛する哲学よりも、思慮だ。ここから総ての徳が生まれる」
ソクラテス「なるほど。あなたの中では快楽と知はリンクするものなのだね」
エピクロス「疑うまでもなくだよ」

無理に会話に織り込むとこんな感じになるわけですが、ソクラテスはデマに惑わされる人ではないですから、エピクロスの主張を聞いた上で、ご質問のようなことはあえて言わないのではないでしょうかね。
ソクラテスの考えと(世間に誤解されている姿でなく真の)エピクロスの考えはかなり近いように、(エピクロスを奉じる)私には思われるんですが。
(もし私が強引にソクラテスとエピクロスを意図的に近づけようとしているという批判があるならば、それは甘んじて受けますが)

言ったりするかしないか、という質問にピントを絞ります。
とすると、答はどちらかというと否定的になります。
それも、ソクラテスとエピクロスが根本的に時代が違う人だからというような理由でもなく、ソクラテスという人物はプラトンなどが脚色しているからというような理由でもありません。たらればだからくだらないとも言いません。

ソクラテスは誰彼ともなく捕まえて議論するような人であったというのが本当ならば、まずエピクロスにいきなりこうだと突きつけることはないと思います。最初にエピクロス...続きを読む

Q哲学に詳しい方に質問です。長文ですがお願いします。

友人に発言の大きな子がいて困ってます。
能力的なことや知識、全てにおいて
すぐに「自分は出来る」という発想に到ってしまいます。
全てをみての「出来る」ではなく、自分の出来る範囲で
「出来る」と発言しています。

例をあげると、
「勉強すれば東大とおる」
「カウンセリングしてあげる」などですが、
カウンセリングしてあげると言うのは
うつ病の別の友人がいて、その子のカウンセリングを
しているつもりなのです。
(友人は心理学の勉強をしたことがありません)

しかし、自分の考えでは
臨床心理士になるにはそのための勉強が必要で
臨床心理士という世界があり、
素人考えでできるものではないと思います。

それを踏まえて、ここからが哲学についての質問なのですが
「勉強したら東大にうかる」という発言の時に
自分のような近しい友人に言うのはいいのですが
実際、根拠や実績があるようにも思えないので
あまり人前では言わない方がいいのではないかと思い、
「哲学の言葉で、人は知れば知るほど何も言えなくなる
っていう言葉があるんだよ」と教えました。

すると、「私逆かも~」という答えが返ってきました。
出来ないと思っていても、意外と出来た。ってことがあるから
というのが理由らしいのですが、
私は、そういうレベルの話ではなく
物事は最初は何でも簡単だけど
奥深く進んでいくことで、自分の無知に気づき落ち込んだり
一つのことを極めるのは大変だから、簡単に「出来る」という
発言はダメだよ。ということが言いたかったのですが
伝わらなかったようです。

私は仕事柄、日々の勉強が必要で
ベテランさんにこの言葉を聞いたのですが
初めて聞いたとき「なるほど!!!スゴイ!!!」
と感心してしました。
私の解釈が間違っているのでしょうか?

この言葉の意味を易しく教えていただけないでしょうか?

友人に発言の大きな子がいて困ってます。
能力的なことや知識、全てにおいて
すぐに「自分は出来る」という発想に到ってしまいます。
全てをみての「出来る」ではなく、自分の出来る範囲で
「出来る」と発言しています。

例をあげると、
「勉強すれば東大とおる」
「カウンセリングしてあげる」などですが、
カウンセリングしてあげると言うのは
うつ病の別の友人がいて、その子のカウンセリングを
しているつもりなのです。
(友人は心理学の勉強をしたことがありません)

しかし、自分の考えで...続きを読む

Aベストアンサー

とりあえず友人のことは別の問題だと思いますので
質問の本題に集中しましょう。

> 簡単に「出来る」という発言はダメだよ
そう思われるなら
> この言葉の意味を易しく教えて
簡単に「分かろう」なんて思っちゃあダメですよ。

> 奥深く進んでいくことで、自分の無知に気づき
そこまで気づいているなら
> 私の解釈が間違っているのでしょうか?
合ってるか/間違っているか?の「答を簡単に出せる」と思っちゃあダメですよ。

人間は「全知全能」ではない筈です。
(それに異論はないですよね?)
つまり、全てを知ることはできない。
だから、知れば知るほど「知りえないこと」があることに気づく。
知りうることの「限界」に気づく。
●語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
これはヴィトゲンシュタインの言葉です。
http://blog-imgs-29.fc2.com/o/r/a/orangekick/P_WITTGEN.html
http://www.geocities.jp/deepbreathinghp/katarienu.htm

特に
正しい/間違っているといったことを判断するときには
私たちの判断に限界があることを自覚したうえで
それでも判断をしないと私たちは進めなくなってしまいます。

とかね。

とりあえず友人のことは別の問題だと思いますので
質問の本題に集中しましょう。

> 簡単に「出来る」という発言はダメだよ
そう思われるなら
> この言葉の意味を易しく教えて
簡単に「分かろう」なんて思っちゃあダメですよ。

> 奥深く進んでいくことで、自分の無知に気づき
そこまで気づいているなら
> 私の解釈が間違っているのでしょうか?
合ってるか/間違っているか?の「答を簡単に出せる」と思っちゃあダメですよ。

人間は「全知全能」ではない筈です。
(それに異論はないですよね?)
...続きを読む

Qエピクロスについて

エピクロスについて詳しい本やホームページはないでしょうか?

Aベストアンサー

http://www.logico-philosophicus.net/notes/Epicurisme.htm
http://www.chikumashobo.co.jp/special/marx/
http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~asuda/res/mm1.htm
田中実「原子論の誕生・追放・復活」
ギリシャ哲学を研究しているのですか?

Q哲学者カントの言葉の英訳をお願いします。

いつも楽しく拝見させていただいています。
哲学者カントが言った格言の意味が分からず難儀しています。

こちらの文章の英訳と簡単なご説明を頂ければ幸いです。

Act as if the maxim of thy action were to become by thy will a Universal Law of Nature.

どうぞよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

「汝の意志の格率が、普遍的立法の原理に必ず合致するように為せ」
 ↓
「あなたの主観で良いと思ってすることが、客観的(世間的)に良いとされていることと一致するのが良いですよ」
 ↑
「心の欲する所に従って矩を踰えず」(孔子)

みたいな感じでしょうか。

Qエピクロスについて。

とある本を読み、エピクロスについて興味を覚えました。
快楽主義と言えば響きが悪いですが、私の理想です。
詳しく知っている方や、書籍・HPがあれば、教えてください。

Aベストアンサー

エピクロスに興味をお持ちになった方がいらっしゃって、嬉しい限りです。
エピクロスは実に誤解を受けやすい哲学者です。
もし「快楽主義」という言葉から、セックスなど官能的な快楽にふければいいんだ、というイメージからエピクロスに興味を持たれたのなら、それはまず差し置いて考えた方がよいです。どうもフロイト同様に猥談じみたものと見なされがちなところがありますので。

私はエピクロスを大いに評価しています。
プラトン(ソクラテス)から始まってニーチェで崩れた「善悪」という尺度が、まだ今の世の中にも根強いですが、世界を変えるとしたら、エピクロスの主張に耳を傾けることからはじめなければいけないと思います。
まず自分を正義とおき、他を悪とする……といった前提自体、おかしいんですから。
No.2さんの中傷もなかなかのもので、いかにも善悪二元論的です。

さてさて、エピクロスの文献ですが、エピクロス本人の書いた多くの作品はほとんどが散逸しています。ただ、その中で、一部が後代の哲学者の研究者ディオゲネス・ラエルティオスの「ギリシア哲学者列伝」の掉尾に多く掲載されています。

エピクロスはデモクリトスの原子論に影響を受けました。ざっとこんなことです。
無からは何も生まれない、何も無にはならない。過去も未来も宇宙は現にあるがままであって、宇宙は物体と空間(空虚)のみからなる。宇宙は無限であって、その中で物体も空間も無限である。物体は原子に分割できる。原子はすべてが同一形状というわけではない。原子の運動はその形状や大小を問わず等速で、思考の働きなみに素早い。その原子の動きで衝突や反発が起こることによって物体が形成し、原子間の密度が物体の硬軟になったりする。

そこから話は心理学(霊魂論)に発展します。
霊魂も物体であるとエピクロスは言います。物体には2種類あって、みずから結合するものと、みずからでは結合できないもの……霊魂は後者になります。霊魂は肉体によって保護されていて、その保護されている間は感覚が作用します。霊魂が肉体を離れると当然感覚もなくなりますね。
さて、感覚です。あらゆる物体の表面からはたえずエイドーロンというものが放射されていると言います(エイドーロンとは、姿・像・映像といった意味です)。このエイドーロンが肉体の器官を通って霊魂に到達すると、感覚を呼び起こすというのです。現代科学とはいまいち食い違っていますが、昔のギリシアでここまで考えられていたとはと思うと、すごいことだと思います。
さて、感覚は知識の唯一の源泉で、感覚による知覚はすべて真である、ということを言います。それならば人間は誤ることがないはずなのですが、それは、精神(知性)が感覚のとらえる範囲を逸脱して臆説を立てるからだ、というのです。
上のディオゲネスによると、真理の標識は「感覚」(アイステーシス)、「表象(先取観念)」(プロレープシス)、「感情」(パトス)であるとエピクロスが語ったとされています。

さて、それなら、善悪の問題はどうなるのか。当然感覚によります。
ここからが倫理の分野になります。
快(ヘードネー)こそが幸福な生活の出発点、原理(アルケー)にして到達点、目的(テロス)であると断言します。なんというか、人は本能的に快を求めるからですね。
ただし、エピクロスは、目先の快にとらわれて、その数倍のわずらいを呼んでしまうことには注意しなければ、と言います。何か、快適な生活のために環境破壊のしっぺ返しを食らいそうになっている現代の私達に、ぐさっとくる言葉ですね。
快について正しい見解を導くのは、正しい生活であって、快く生きるためには賢くすこやかに正しく生きることだ、という風に言います。
エピクロスの説く快とは、積極的な享楽(例えば利己的なものであったり)ではなく、むしろ苦痛がない状態のことです。
となると、理想の幸福の状態は、外界から煩わされない、情熱とか欲望から自由になった心の平静不動なありさまです。この「アタラクシア」という理想状態は、いわば悟りの境地ですね。
そのためには公共の生活から引きこもることを勧めました。引きこもりを社会悪とする現代からするとおやっと思うところですが、まあ仙人の修行だと思うことですね。そこで死や神々に対する恐怖を克服することだ、と説きます。

何か宗教じみていますが、マルクス主義と大いに違うのは、エピクロスは無神論ではなかったということです。ただし、普通に人間が考える神とは違います。神は中間界(メタコスミア、インテルムンディア)に住んでいて、人間を煩わせたり人間に煩わされたりすることはない、と言います。この神々の発するエイドーラ(映像)を心静かに受け入れることによって、人間は神々の静謐さを得ることができるとしています。賢者が神の姿に似るのはこのためだ、とか言っていますね。

ニーチェが神は死んだなどと言いましたが、こういうエピクロス的な神は死ぬとは思えませんね。実際、私自身エピクロスから離れていろいろ悩んでいたのですが、心の平静が訪れて、後になって「ああ、これがアタラクシアか」と思うようになりました。まあ信じてもらえないでしょうからどうでもいいんですが。

エピクロスに興味をお持ちになった方がいらっしゃって、嬉しい限りです。
エピクロスは実に誤解を受けやすい哲学者です。
もし「快楽主義」という言葉から、セックスなど官能的な快楽にふければいいんだ、というイメージからエピクロスに興味を持たれたのなら、それはまず差し置いて考えた方がよいです。どうもフロイト同様に猥談じみたものと見なされがちなところがありますので。

私はエピクロスを大いに評価しています。
プラトン(ソクラテス)から始まってニーチェで崩れた「善悪」という尺度が、まだ...続きを読む

Q哲学は自然をどうとらえてきたか

哲学は自然をどうとらえてきたか

以上

Aベストアンサー

>自然世界の認識は科学か受け持つべきであり、

現代科学のことを言っているなら、
それは自然哲学のことです。

自然哲学 → フィジック → 物理学

      メタ・フィジック → 形而上学

>哲学は自然をどうとらえてきたか

 理性をもって理解できると考え、
その基礎は人間の知性だと考え、
今のところ数学まで持ち込んできて
います。知性の極限で人間の経験から
くる感性を超えた理解ができると
いうのが哲学の常識なわけです。

 しかし、知性は所詮、人間の感覚、
つまり感性を超えられないとし説明した
のが、18~19世紀の哲学者
イマニュエル・カントで、カントの
考える知性は特に悟性と呼ばれています。

 ところが20世紀になって、数学が
飛躍的に進歩したことから、それを
駆使した自然哲学が人間の認識や
感性を遥かに超えるようになり
ました。

 実験で証明できれば、人間の感性は
関係ないという哲学の極論に到達して
いるのが量子力学です。

 アインシュタインはこういった考えに
批判的で、神の視点でしか理解できない
いわゆる物自体の存在を考えつつも、
重力は空間の歪みで表現できるといった
相対性理論ように、現象は人間の感性の範囲内で
説明されるべきという考えを崩しません
でした。

 ところが20世紀後半になって、
実験的証明を待たずして、理論的に
正しければそれが真実である可能性
があるといった考えが進み、
そうった理論の1つとして超弦理論と
いう物理学の理論が存在し、
認められるようになってきました。

 哲学は、理性をもって真理を
探し出す方法のはずでした。
真理とは事実の人間の認識の
一致のことで、事実を伴わない
人間の認識は幻想とか妄想とか
言われていたわけです。

 ところが人間の知性の極限の
1つである数学を駆使すると
人間の認識を遥かに超えた
ことが証明できることが分かって
きたわけです。

 量子力学までは、実験という行為を
通じて、新たに分かった事実を
実験データという形で人間の
新たな認識、新たな感性として
取り込んでいたのですが、
今はそれすら必要ないという
ところまで来ていて、そういった
考えの1つが超弦理論なんです。

 カントの批判を乗り越えて
人間は現象ではなく、物自体、
カントのいうところの超越論
にまで近づいていると思われます。

 知性の1つである数学を駆使
すれば、人間の感性、認識
を超えて、真実が理解できる。

 自然哲学の1つである超弦理論が、
哲学の理想を実現しつつあると
いうところだと思います。
 

>自然世界の認識は科学か受け持つべきであり、

現代科学のことを言っているなら、
それは自然哲学のことです。

自然哲学 → フィジック → 物理学

      メタ・フィジック → 形而上学

>哲学は自然をどうとらえてきたか

 理性をもって理解できると考え、
その基礎は人間の知性だと考え、
今のところ数学まで持ち込んできて
います。知性の極限で人間の経験から
くる感性を超えた理解ができると
いうのが哲学の常識なわけです。

 しかし、知性は所詮、人間の感覚、
つまり感...続きを読む

Qみんながエピクロス派になれば

みんながエピクロス派になれば、世界は平和になると思いませんか?
快楽主義ばんざーい!!
アタラクシアを目指しましょうっ!!

Aベストアンサー

No4です。

>小さいグループ作って、隠遁生活を送りたいですなー。

お疲れでしょうか(^^;


人間の、自然の欲求は開放系ですので欲求を叶えるための行動が続きます。
いわゆる社会貢献ですね。

幸福とは誰かに必要とされること。

相手が個人でも社会でもいいですが、何らかの貢献が人間には必要となります。

押し付ける訳ではないですが、隠遁生活は自身の本来の欲求と逆行してしまうと思います。
閉鎖は、反エントロピーがおきて衰退します。
人生の終末、集団の終末に向かう方向性です。

疲弊して隠遁したい人もでるでしょうが、基本は欲求を叶えるために
イキイキと生きることが目的ではないかと思います。

自己の欲求を知ると、結果はそうなると思いますが。
それがアタラクシアを目指すと言うことになると思います。

閉塞感のない社会ができるといいですよね。

Qインド哲学にお詳しい方、お願い申し上げます!

「喩知」について教えてください。

宜しくお願いいたします!

Aベストアンサー

インドの六派哲学では、正しい認識が成立するための要件として、四つの存在を挙げていますが、それは、認識、認識の根拠、認識の対象、認識の主体の四つです。このうちの「認識の根拠」を細かく分析していった際に、一部学派で「譬喩量」というものを想定します。これがご質問の「喩知」という言葉のニュアンスに最も近いものだと思います。

「認識の根拠」にあたるもののうち、およその学派に共通して認められるものは、「現量」と呼ばれるもので、経験的に直接知覚されること、そして「比量」といって、知覚された事柄から論理的に導き出されたり推量されたりすること、です。

これらに加えて、ニヤーヤ学派では「譬喩量」というものを想定します。これは、経験的な知識からの類推、ということです。つまり、類比によって理解すること(あるいは理解された事柄そのもの)を指すもので、言葉の意味としては、ほぼ「喩知」に近いものだといえます。
「量」という言葉は、知識そのものの意味も持つし、その知識の根拠、さらには証拠となる存在そのものまでを幅広く意味する言葉ですので、とりあえずは「知」と訳して差し支えありません。

ではこの「譬喩量」とは具体的にどのようなものかと言えば、非常に簡単な例がいつも引かれます。
水牛を知っているが牛を知らない人が、あらかじめ両者が似ているという知識を教えられているとします。彼が実際に牛を見た場合に、水牛の知識とアナロジーの知識から、「これは牛であろう」と判断できる、というもの。まさにアナロジーによって新しい知識が獲得されたわけで、この例が「譬喩量」の典型的な実例だとされます。

そうやって聞くと何だかたいしたことがありませんが、実際に仏教をはじめ他の学派の多くの論理家たちは、この「譬喩量」は論理的には「現量」や「比量」の一変形に過ぎないので一ジャンルを立てるには値しない、という立場をとっています。

以上、ご参考になれば。

インドの六派哲学では、正しい認識が成立するための要件として、四つの存在を挙げていますが、それは、認識、認識の根拠、認識の対象、認識の主体の四つです。このうちの「認識の根拠」を細かく分析していった際に、一部学派で「譬喩量」というものを想定します。これがご質問の「喩知」という言葉のニュアンスに最も近いものだと思います。

「認識の根拠」にあたるもののうち、およその学派に共通して認められるものは、「現量」と呼ばれるもので、経験的に直接知覚されること、そして「比量」といって、知覚...続きを読む

Qストア派とエピクロス派の入門書を教えてください

ストア派とエピクロス派哲学の入門書を教えてください。

自分で探した中では下記がよさそうだと思ったのですが、何しろ高いので、もっと安くて入門向きの本があれば、と思い質問させていただいています。

ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派
A.A.ロング
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4876986134/

要望として、ストア派やエピクロス派の歴史的展開などよりも、その論理と内容が知りたいです。
「ストア派はこういう公理から始まり、こういう論理によってこのような結論を導いた」というものです。

例えば、下記ページのような感じです。
http://science.jrank.org/pages/9169/Epicureanism-Epicureans-Stoics-Compared.html

1.自然に対する見方
ス:第一の自然な本能は自己保存である。自己保存から理性の価値が導かれ、そこから徳に特別な価値が置かれる。
エ:第一の自然な本能は快楽である。快楽と徳は不可分である。

2.感情について
エ:パトスを消滅することは必要ではない。喜びに満ちた生活に必要な欲望はほんの数種類であり、それらは容易に満たされる。アタラクシアの状態においては、欲望を避けない。しかし同時に、欲望を満たせないことで悩まされもしない。
ス:パトスは消滅させるべきもの。

エピクロス派の人間の心は「かき乱されていない」
ストア派の人間の心は「かき乱すことができない」

3.徳の役割について
ス:幸福になるためには徳だけで十分であり、徳は理性から直接に導かれる。
エ:快楽を徳に結びつける。しかしそこから幸福は導かれない。 むしろ、合理的な人間は、快楽の最大の形はアタラクシアであると考える。 そしてアタラクシアの状態で行われる行動とは、幸福な者の行動である。この者は平静であり、平静を感じるだけの理由をもっている。


なお、私が持っている知識はせいぜいこの程度で、大学等で講義をとっているわけでもなく、単に好奇心から知りたいだけです。
よろしくお願いします。

ストア派とエピクロス派哲学の入門書を教えてください。

自分で探した中では下記がよさそうだと思ったのですが、何しろ高いので、もっと安くて入門向きの本があれば、と思い質問させていただいています。

ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派
A.A.ロング
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4876986134/

要望として、ストア派やエピクロス派の歴史的展開などよりも、その論理と内容が知りたいです。
「ストア派はこういう公理から始まり、こういう論理によってこのような結論を導いた」というもの...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。

ネットでしたら、
http://plato.stanford.edu/entries/stoicism/
http://plato.stanford.edu/entries/epicurus/
http://www.iep.utm.edu/epicur/
あたりを閲覧すれば、よろしいのではと思います。
とくにスタンフォード大の哲学百科事典は充実しています。
これを有効に活用できるのならば、わざわざ、本を買う必要はないと思います。
英語で構いませんよね。

書籍の方は、
出隆, 岩崎允胤訳 『エピクロス : 教説と手紙』(岩波文庫, 1959)ISBN 4003360613
ディオゲネス・ラエルティオス 『ギリシア哲学者列伝(下)』(岩波文庫, 1994) ISBN 4003366336
あたりが参考になるのではと思います。

Q==哲学研究の成果は論理構成であるべきか、国立系の哲学研究者の方にお尋

==哲学研究の成果は論理構成であるべきか、国立系の哲学研究者の方にお尋ねします==
哲学は 人間を始め森羅万象のあらゆることを考察あるいは研究し、人間に役立つ成果(考え)を提供するものと思っています。その成果が 多くの人間に役立つためには その成果が多くの人間が説得され易い構成になっている必要があると思います。それは論理構成になっていることが有力手段です。つまり研究成果の哲学が論理構成であるべきではないかと言うことです。当然この論理構成は論理の限界のなかの展開となり 対象が異なるだけで 数学とか科学とかと同じ構成となります。
そこで、納税者の一人として お聞きしますが、国立系の哲学研究者の方は 研究成果を国民に説明し 納得してもらわないといけない という立場があると思いますが、哲学は論理構成であるべき とお考えでしょうか。いやそうではない 論理構成の元にあたる公理(原則)の成り立つ条件であるとか 公理の存在理由であるとか 別公理であるとか の議論の方が重要であり、 非論理展開もあって 納税者への説得は難しいが 言葉で説得する。
いずれにしても 税金で研究を続ける以上 納税者としては 研究者の研究に絡まるこれらの考え方を研究者から聞きたい と思います。

==哲学研究の成果は論理構成であるべきか、国立系の哲学研究者の方にお尋ねします==
哲学は 人間を始め森羅万象のあらゆることを考察あるいは研究し、人間に役立つ成果(考え)を提供するものと思っています。その成果が 多くの人間に役立つためには その成果が多くの人間が説得され易い構成になっている必要があると思います。それは論理構成になっていることが有力手段です。つまり研究成果の哲学が論理構成であるべきではないかと言うことです。当然この論理構成は論理の限界のなかの展開となり 対象が異な...続きを読む

Aベストアンサー

毎年の科研費の申請書において、論理構成にもとづいて、前年の成果と翌年の研究課題をそれぞれの項目に分けて論述しています。哲学がそうあるべき姿がこのようにあるのではなく、哲学がそうあるべき持続的営為を維持する管理とシステムの姿がこのようにあるのです。つまり、研究費を与える役職担当者に読解され、共感される文章を作成せねばなりません。そして担当者の裁量は納税者を代表しているにほかなりません。回答者の条件に適合しておりませんが投稿は自由なので回答させていただきました。他の適合者による回答をお待ちください。


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