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長年の地獄生活から、「何ものにも屈しない力」について20年以上探してまいりましたが、様々な宗教・哲学・科学に交わったきた結果、それは「希望」ではないか?という結論に至りました。

しかし、希望について調べてみると、千差万別であり、絶対のものではなく、信ずるという部分が大きいという認識に至りました。

逆に、むしろ絶対なのは「絶望」では無いか?という新たな疑問が生じています。
どうか、皆様の御智慧をお貸し下さいませ。

A 回答 (5件)

「何ものにも屈しない力」が存在するか否かは私には分かりませんが、絶望は少なくともそれではないと言えます。


絶望が絶対に敗れない何ものにも屈しない力だとしましょう。
すると、たとえ一時的にしろ「希望」によって絶望状態でなくなるのは絶望の敗北ではありませんか?
よって、絶望は絶対ではないのです。

でもいずれ、希望は破れ絶望に支配されるではないか、とお思いかもしれません。しかし、人は必ず死ぬ者ですが「死ぬまでは人は生きています」・・・今生きている人、これを読んでいるアナタは確実に生きています(書いている私は、アナタが読む時に生きているとは限りませんが、アナタは今絶対生きています)生きている限りは死んでいない・・・当然の事ですがこれによって、死すら絶対ではない事が分かります。
それと同様に人の全ての営みは一時的なものなのですから、希望や生は無意味では無いのです(どうせ明日の夜寝るのだから起きなくて良いとか、どうせ腹が減るのだから喰わなくて良い、という人はいません)

死を恐れるのは生者のみです。ですから、絶望を絶対視する人は今希望を持っているのですよ。逆説的ですが、絶望を恐れる人は希望があるから、なのです。

闇は光があるからこそ、光の無い状態として存在できます。絶望も同じです。希望が輝くから絶望の闇の淵を人は恐れるのです。闇夜が地球の影であるように、絶望が大きければ大きいほど大いなる希望が存在しているのです。

ですから質問者さんが絶望を絶対視する背景には、大いなる希望にあと一歩まで近づいている現実があるのではないでしょうか?その希望とは悟りかもしれませんし、神の臨在を知る事かもしれませんし、全く別の体験かもしれません。(私には分かりませんが)
夜明け前が最も暗い、と言いますし・・・質問者さまの希望(何ものにも屈しない力の発見?)が具体的になるのは案外近いと思います。
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この回答へのお礼

そう言われてしまいますと、希望が無くても抱いてしまいますな、恐れ入ります(笑)

いえいえ、寧ろ死すら超越した考えをお持ちのfrisk_blue_love様こそ、大いなる希望に、あと1歩近づいているのではないかと思います。
私はというと、あまりの遠さに絶望している最中で御座います(笑)

確かに、人が死を恐れるのは、まさにそれは生きているからであり、同様に人が絶望するのは、希望を抱いていたからであります。

しかし、では既に絶望に瀕してしまった人はどうすればよいのか?というのが、私の疑問であり命題でも御座います。

その答えは現状の「打破」、つまりは問題の「解決」によってのみ、前へと進めるわけですが、常に解決できるとは限らず、解決できない問題だからこそ絶望であるわけです。
ご存知の通り、死んだ人間は生き返りませんし、過ぎ去った時間は戻りません。

frisk_blue_love様のように死すらも超越するか、bo-suke様のように強力な理念をお持ちであれば、絶望に瀕しないのかも知れませんが、それも万人ができる事ではなく、必ずしも絶対であるとは限らないのです(すみません、その考え自体は実に素晴しいと思いますし、ある種一つの「希望」だと考えております)。

死んだ者の事は忘れる、新しい出会いを見つける、しかし、常にそのように前向きでいられるほど人は強なく、深く愛していたからこそ悲しく、強い願いを抱いていたからこそ辛く、常に必死だったからこそ苦しいのです。既に無の状態である「虚無」や「絶望」に捕らわれた人間を救うにはどうすればよいのか?というのが所論で御座います。

いやはや、絶望からの生還は難しく、私は今だ棺桶に足を突っ込んだままですが、しかし、仰るように、もう既に何人かの希望に会えましたし、意外と近くにあるのかも知れません。
願わくば、万人に「希望」に出会うチャンスがある事を思うばかりです。

素敵な御意見、実に有難う御座いました。

お礼日時:2006/03/14 01:37

もうひとつ考えが出てきたので、書いておこうと思います。


人は一度は絶望します。
しかしその後も人は度重ねて絶望することができるのです。
この二重の絶望が人の意志を生んでいるとするなら・・・。
もしかしたらあなたの言っていることは正しいのかもしれない。
二つの絶望という名のブラックホールが、エネルギーの一時的な放出を行なうといったところでしょうか。
・・・これが助けになるのでしょうか。車椅子の話があります。
ある男は事故にあって車椅子の生活を余儀なくされました。別の男がその男を人間とも思わぬ言葉で罵りました。恨んだ車椅子の男はリハビリを重ねて再起不能と思われた足の筋肉を復活させ、歩くことができるようになり、その男の首を絞めました。最後に、その男は
「お前の首を絞めたのはお前が立てるようにするためだ」
と言って息絶えました。
このとき、車椅子の男が立てるようになったのに、この男の思惑や性格はあまり関係するものではないのです。実際彼がいい人間だったとして、説得するなら、尻に火をやはり付けたはずだからです。
尻に火。あるいはその精神。これもまた意味があるのではないでしょうか。
・・・われながら後ろ向きだな。嫌ですね人間考え過ぎるとすぐに「逆に」って使いたくなる。
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この回答へのお礼

いえいえ、更なる絶望(因果)により、現状の絶望(因果)を打破させるというのは、正論で御座います(因果の相殺)。
心理学でいうなれば、人を「恐怖」から打破させるのにもっとも有効なのが「怒り」なのと一緒でしょう。
同様に、絶望に対して効かない筈がありますまい。

古典などでは、絶望した神官に対し、追い討ちをかけ
る事で、その淵から這い上がらせるという逸話があります。
まさに、bo-suke様の仰いますキーワード、「死への恐怖」を利用した手法といえるでしょう。
他にも、大いなる絶望を前に、現状の絶望を小さく見せるという、交渉術とよく似た手法も期待できます。

しかしながら、これは劇薬であり、効果は五分と五分といった所でしょう。
しかも、絶望の最終形態である「虚無」には一切通じない可能性があります。

ただ、おかげさまで絶望が限りなく「強大」ではあっても、「絶対」ではない事が分かりました。
今はそれが「希望」で御座います。

いつの日か万人に通ずる、大いなる希望が見つかる事を祈っています。
どうも有難う御座いました。

お礼日時:2006/03/14 02:16

私も思うところがあったので書き込みます。


絶望のほうが希望より強いのは確かです。
しかし、希望がある以上絶望が絶対なわけはないのです。
・・・ということは?
「絶望は絶対ではない」ということが、希望なのです。
ここまでは皆さん至っている結論だと思います。
私は、ここからもう少し掘り下げてみたいと思います。
私はまだ二十いくつですが、希望について考える時、常にここからまた歩く気力をもらっていた気がします。
絶望とは何でしょうか。
理想が決してかなわないと確信したときの現象だと私は思っています。
このときにもう一度再考しなおすと、心の中に「生と過程への喜びと意志」を内省するのです。
ここに、理想のうち、目標物を取っ払った、心のベクトルともいえるもの、「理念」が現れます。
この理念の発見こそ、希望なのです。
そしてこのとき初めて理想(あるいは理念)は現実と調和するのです。
現実との調和が非常に大事です。
なぜなら、現実に表現されなければ、それは理想の現実における欠如を意味し、それはまたしても絶望を生むからです。
こうして、理念の確信と現実に還元された理念の確認が、力となるのです。
つまり「理想と、それを現実へ還元するための精神エネルギーとその操作能力と」が重要なのです。
ところが今の世の中は、「理想と、現実へ還元するための精神エネルギー」まであればまだいい方で、残りの、現実へ還元するための、精神エネルギーの操作能力を持つ人間が非常に少ないのです。これは学校での教育期間が長いのと社会から死の恐怖が払拭されていることで、現実への経験が不足しているのが一主要因です。
ここら辺に何かがあると私は思っています。つまり理念、操作能力、学校、死への恐怖、現実への還元といったキーワードに希望が隠されていると思います。
少しはお役に立てればいいのですが。
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この回答へのお礼

エネルギー溢れる御意見、有難う御座います。
おそらく、貴方にとって理念こそが、希望なのでしょう。

仰る通り「理念」を持ってる人間は、大抵の困難には動じません。
しかし、その反動により絶望に瀕した時、その破壊力は計り知れないものがあります。

例えば、貴方の愛する夫や妻が目の前から消えたらどうでしょう。
彼らは直前まで貴方の希望でしたが、一瞬にして絶望へと変わるのです。

むろん、絶望の度合いにもよりましょう。
強い理念(信ずる心)で、絶望に屈しないという事もできます。
しかしながら、それはあくまで「予防」という概念であり、今まさに絶望という病に犯されてる患者を救う、ワクチンとはならないのです。

私はこうした見識から、あくまで希望とは予防的要素が強いものではないか?と思っています。

私の質問に真剣にお答え頂き、有難う御座います。
難しい質問ゆえ、回答はもとより「答え」が存在するとは、到底思っておりません。
なにしろ、宗教や哲学でさえ、今だに明確な答えは出せていないのですから。

唯一、あるとするならば、貴方のような存在そのものが、未来への希望なのかも知れません。
どうか、その希望を絶やさずに生きられる事を祈っております。

お礼日時:2006/03/13 23:45

私も20代の中盤で絶望という状態に陥りました。


一ヶ月先がどうなっているのかさえ全く予測できない状態。
絶望すれば人間、死ぬことを考えますよね。
ところが死ぬのもなかなか難しいというか・・・
自殺も未遂に終わりついに死にきれませんでした。

こうなると絶望よりもすでに何も感じなかったように記憶しています。
死ねない、生きるしかないと開き直って就職活動を始めたときは、まさに毎日が「無我夢中」
絶対なのは「無」かもしれないと思うのですが・・・・
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この回答へのお礼

心中お察し致します。
私も不運には恵まれており、自殺には事欠きませんでした。

なるほど、確かに心理学では、人間の心が陥る最終形態は「虚無」であると言われています。
こうなると中々自分で這い上がるのは難しく、復帰できたmemorunet様は、さぞ苦労されたかと思います。

個人的には「無」とは絶望による結果と存じております。
「無」からは逆に、心のリセットによる何かを生み出す空白作用があり、絶望的側面ばかりではないというのが自論であります。
恐らく、「死」による「恐怖」が、そこに至る為のストッパーではないか?というのが私の考えです。
しかしながら、絶望はその死による恐怖さえ超越してしまい、これに拮抗できるのが唯一「希望」ではないか?というのが私の結論だったのですが、どうもそうではないようで…。
そもそも、希望が無い状態が絶望でして…ブツブツ

興味深い御意見、実に有難う御座います。

お礼日時:2006/03/13 19:51

>逆に、むしろ絶対なのは「絶望」では無いか?という新たな疑問が生じています。



旧約聖書の「ヨブ記」を読んでみると、絶望の
どん底でも希望を失わなかった主人公の姿が
描かれています。何故か?

是非、お読み下さい。
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この回答へのお礼

ヨブ記は確か、神学論争的要素が大きかったように記憶しております。
残念ながら、自分は過去にいくつもの裏切りにあっており、神に対する信仰はとうの昔に捨てております。
しかも、あの話では絶望に対する明確な解になっておらず、数多くの疑問が残ります。

たしかに「信ずる事=希望」という要素が大きい、というのは上記の質問にも書きましたが、イコールではないのです。

ただ、絶望についてはある意味、多くの人がヨブと同じ境遇なのかも知れません。

面白い例え、実に有難う御座います。

お礼日時:2006/03/13 19:27

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