1915年大隈内閣は中国に対して「二十一か条の要求」をつきつけ、最後通牒をつきつけ強引に認めさせたそうです。
これがきっかけとなり、抗日運動が激化することになります。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/modern/ …

大隈重信といえば教育者であり、民主的なイメージがあったのですが、
どうしてこのような強引な外交政策を推進したのでしょうか?
第一次世界大戦中で、経済的には順調な時期なのですが。

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

 「第一次世界大戦中で、経済的には順調な時期なのですが。

」とあるのが、そもそも正しくないんですね。日露戦後恐慌以来、日本経済はあまり調子よくない状態が続いたのです。国際収支も赤字でした。加えて、前内閣のシーメンス事件などにより、国民の政治不信が高まっていました。第一次世界大戦への参戦は、こうした政治・経済の沈滞ムードを払拭するチャンスだと捉えていたのです。元老の井上馨が大隈重信首相に、欧州での開戦が「大正新時代の天佑」だと言ったのが有名です。
 第一次世界大戦への参戦により、日本は大戦景気を迎えたのです。戦争で手がいっぱいの欧州に代わってアジア市場を独占し、世界的な船不足に目を付けた日本は船を売り込み、「船成金」が出現しました。ただ、大戦景気と言える状態になるのは、もう少し後です。
 なお、当時は帝国主義の時代で、日本の中華民国への要求は、当時としては、欧州諸国が行っていたことと大差ありません。ただ、何しろ中華思想によって、日本などは猿みたいな下等なものと考えている国ですから、反発も強かったわけです。しかも、結局撤回することになりましたが、調子に乗って日本人顧問の任用を付け加えましたから。これがなかったら、諸列強の不興を買うことはなかっただろうと考えると、日本の外交下手は今に始まったことではないなあと思います。
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大久保暗殺後、参議筆頭でありながら明治14年の政変で失脚し、条約改正では、外相として活躍するも片足を失って辞職。

最初の政党内閣(隈板内閣)を組閣するも4ヶ月で瓦解。並はずれた才能に恵まれながら、それを発揮するチャンスに恵まれず、不遇をかこってきた大隈は、それだけに、判官贔屓の国民には絶大な人気があったようです。陸軍2個師団増設案を通すために、その人気を利用しようとした山縣や井上に担がれた、2度目の首相就任時には、既に70歳位でしたか、人生晩年の域にあり、功名心と焦りを押さえきれず、国民の人気に浮かれ、中国における利権獲得に突っ走ってしまった。壮年期のシャープな視点も失われ、民族運動の高揚も読み切れなかった..と言うところではないでしょうか。元老に嫌われ、その後も不遇の続く加藤高明とのコンビではなおさらでしょう。このような見方は、昔何かの本で読みましたが、書名は忘れました。あくまで、一面的な見方ですので、あまり参考にしないでください。教育者としての大隈も本業の政治家としての不遇が一因ではないでしょうか。
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Q大隈重信と福沢諭吉

早慶の創立者、福沢諭吉と大隈重信はどちらが社会的地位が高いのですか?

Aベストアンサー

話にならないくらい大隈重信の圧勝。


天皇陛下という国家元首は別格として、地位で大隈重信より上と言える人はほとんどいない。

Q対華二十一か条要求の効力はいつまでだった?

二十一か条の要求はその大部分を中国が受諾しました。山東省の権益はワシントン会議で中国に返還されたので妥協したことになるりますが,その他の項目の効力はいつまで続いたのでしょうか?

Aベストアンサー

1945(昭和20)年9月2日に降伏文章に調印しました。
そこには、
「下名は、茲に、ポツダム宣言の条項を確実に履行すること」
とあり、ポツダム宣言には
「「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ 」
とあります。
さらに、カイロ宣言には
「右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ」
とありますので、対華21箇条で中国が受諾したものも、あるので、放棄してるんでないですか。

参考URL:http://list.room.ne.jp/~lawtext/1943Cairo.html

Q大隈重信の足

大隈重信の損傷した足は、早稲田大学に保存してあると聞いたんですが、本当ですか・・?;;;
来年受験するんですが、なんだか早稲田のイメージが・・。orz

Aベストアンサー

1999年に、日本赤十字看護大から佐賀市にある大隈家の菩提寺に寄贈されたそうです。
「昭和の読売新聞 戦前1」発売開始/「明治の読売新聞」トピックス/トピックス(バックナンバー)/大隈重信の右脚が里帰り
http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/meiji/meiji3f.htm

また、下記(メールマガジン melma!/「日本史なんて怖くない」No.413  2003/12/11)によれば、
「アルコール漬けにされて大隈邸に置かれたが、消費されるアルコール代が高額で手間がかかるため赤十字中央病院に寄付され、日本赤十字看護大学にホルマリン漬けで保存され」
とのことです。

Qいわゆる「対華21ヶ条要求」の正式名称

いわゆる「対華21ヶ条要求」(1915年)というものがありますが、この正式名称をお教え下さい。世の中で、かなりの数のばらばらな言い方がなされているということから、正式名称など存在しない可能性が高いのではないかと思っているのですが、もし正式名称がない場合には、いつ誰が、「対華21ヶ条要求」というような言い方を用い始めたのかをお教え下さい。マスコミ(新聞)でしょうか? また、正式名称が存在しない場合には、現在使われているいろいろな言い方の中で、「公式名称」など、比較的「まし」な言い方を、その根拠とともに、お教え下さい。以上ですが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 少し長いですが、条文を記載します。

21か条の内訳

第一号議案(山東省に関する件四条)
 日本国政府及支那国政府は偏に極東に於ける全局の平和を維持す、且、両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し茲に左の条款を締約せり。
  第一条 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対 して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府が独逸国政府と協定すへき一切の事項を承認すへきことを約す。
  第に条 支那国政府は山東省内若くは其沿海一帯の地又は島嶼を何等の名義を以てするに拘はらず他国に譲与し又は貸与せざるべきことを 約す。
  第三条 支那国政府は芝罘又は竜口と膠州湾より済南に至る鉄道とを連絡すへき鉄道の敷設を日本国に允許す。
  第四条 支那国政府は、成るへく速に外国人の居住及貿易の爲、自ら進て山東省に於ける主要都市を開くへきことを約す。其地鮎は別に協定すへし。

<第一号議案は、山東省の旧ドイツ利権を日本が受け継ぐことを、中国が承認するという要求です。>

第二号議案(南満州及び東部内蒙古に関する件七条) 
日本国政府及支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するにより茲に左の条款を締約せり。
  第一条 両条約国は旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を何れも更に九十九ケ年つつ延長すへきことを約す。
  第二条 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て各種商工業上の建物の建設又は耕作の為必要なる土地の賃借権又は其所有権を取得することを得。
  第三条 日本国臣民は南満州及東部内蒙古に於て自由に居住往来し各種の商工業及其他の業務に従事することを得。 
  第四条 支那国政府は南満州及ひ東部内蒙古に於ける諸鉱山の採掘権を日本国臣民に許与す。其探掘すへき鑛山は別に協定ふへし。
  第四条 支那国政府は、南満洲及東部内蒙古に於ける鉱山の探掘権を、日本国臣民に許与す。
  第五条 支那国政府は、左の事項に関しては豫め日本国政府の同意を経へきことを承諾す。
  (一)南満洲及東部内蒙古に於て、他国人に鐵道敷設権を輿へ又は鐵道敷設の為に他国人自り資金の供給を仰くこと。
  (に)南満洲及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起すこと。
  第六条 支那国政府は、南満洲及東部内蒙古に於ける政治財政軍事に関し顧問官教官を要する場合には、必す日本国に協議すへきことを約す。
  第七条 支那国政府は、本条約締結の日より九十九ケ年間日本国に吉長鉄道の管理経営を委任す。

<第二号議案は、(1)旅順・大連と満鉄・安奉両線の租借期限を99年まで延長すること(2)日本人は南満州と東蒙古で自由に土地を貸借し所有する権利を持つこと(3)日本人は、その地では、自由に居住往来し、各種の商工業その他の業務に従事する権利を持つことなどを中国が承認するという要求です。>

第三号議案(漢冶萍公司に関する件に条)
 日本国政府及支那国政府は日本国資本家と漢冶萍公司との間に存する密接なる関係に顧み且両国共通の利益を増進せんが為左の条款を締約せり。 
  第一条 両締約国は将来適当の時機に於て漢冶萍公司を両国の合弁となす こと並に支那国政府は日本国政府の同意なくして同公司に属する
一切の権利財産を自ら処分し又は同公司をして処分せしめざるべ きことを約す。
  第二条 支那国政府は、漢冶萍公司に属する諸鑛山附近に於ける鑛山に付ては、同公司の承諾なくしては之か探掘を同公司以外のものに許可せさるへきこと、并其他直接間接同公司に影響を及ほすへき虞ある措置を執らんとする場合には、先つ同公司の同意を経へきことを約す。

<第三号議案は、漢冶萍公司(漢陽の製鉄所・大冶の鉄山・萍郷の炭鉱を経営する会社=公司)を日中合弁(共同経営)にすることを中国が承認するという要求です。>

第四号(沿岸島嶼不割譲に関する件一条)
  日本国政府及支那国政府は支那国領土保全の目的を確保せんか為茲に左の条款を締約せり支那国政府は支那国沿岸の港湾及島嶼を他国に譲与し若くは貸与せさるへきことを約す

<第四号議案は、中国の港湾や島嶼を他国に割譲・貸与しないことを中国が承認するという要求です。>

第五号(懸案其他解決に関する件七条)
  一、中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむる こと
  二、支那内地に於ける日本の病院、寺院及學校に封しては其土地所有権を認むること。
  三、從來日支間に警察事故の発生を見ること多く不快なる論争を醸したることも尠からさるに付、此際必要の地方に於ける警察を日支合同とし、又は此等地方に於ける支那警察官庁に多数の日本人を傭聘せしめ以て一面支那警察機閥の刷新確立を図るに貧すること。
  四、日本より一定の数量(例ヘは支那政府所要兵器の半数)以上の兵器の供給を仰き、又は支那に日支合辮の兵器廠を設立し日本より技師及材料の供給を仰くこと。
  五、武昌と九江南昌線とを聯絡する鐵道及南昌杭州間、南昌潮洲間鐵道敷設権を日本に許輿すること。
  六、福建省に於ける鐵道鉱山港湾の設備(造船所を含む)に関し外国資本を要する場合には先つ日本に協議すへきこと。
  七、支那に於ける本邦人の布教権を認むること。

<第五号議案は、特に秘密にしてくれといった部分です。
 (1)中国政府に、日本人の政治・財政・軍事顧問をおくこと
 (2)中国内地にある日本の病院・寺院・学校に対して、その土地の所有権を認めること
 (3)中国の警察を必要な地方では日中合同として、そこでは中国警察に多数の日本人をやとうこと
 (4)中国政府の兵器の半数以上は、日本が供給するか、又は中国に日中合弁の兵器廠を設立して、日本より技師・材料を供給すること
 (5)武昌と九江南昌線とを連絡する鉄道及び南昌と杭州間、南昌と潮洲間の鉄道敷設権を日本に与えること
 (6)福建省内の鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)については外国資本を必要とする場合にはまず日本に相談すること
 (7)中国で日本人が布教することを認めること>

 これらを含めて二十一条あるということで、単一の問題についての条文ではなく、5つの別の課題に対する条文が二十一ある上に、最後の五号議案は秘密条文となっていました。ですから、これら二十一条をまとめた公式名称は存在しないのは当然で、ましな言い方として『対中(華)二十一か条』といっています。歴史を知っている人相手なら、この言い方で間違う人はいないでしょう。

 少し長いですが、条文を記載します。

21か条の内訳

第一号議案(山東省に関する件四条)
 日本国政府及支那国政府は偏に極東に於ける全局の平和を維持す、且、両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し茲に左の条款を締約せり。
  第一条 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対 して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府が独逸国政府と協定すへき一切の事項を承認すへきことを約す。
  第に条 支那国政府は山東省内若くは其沿海一...続きを読む

Q1881年に大隈重信が主張した早期ね国会開設

1881年に大隈重信が主張した早期ね国会開設はなぜすぐには実現に至らなかったのですか?

Aベストアンサー

1881年といえば日本史では「明治14年の政変」が有名です。大隈重信とその一派が政府から追放されました。これは、大隈らの主張が「国会即時開設」、伊藤博文らが「開設はするが10年後に」で激しく対立したためと言われます。
ただし、それだけでは理解不足でしょう。両者の対立点は「イギリス型の議院内閣制か、ドイツ型の超然内閣か」にもありました。当時、1870年に普仏戦争でプロイセンがフランスを破り、71年にプロイセン中心のドイツ帝国が成立して、昇竜の勢いだったのです。伊藤らはこれに幻惑されてドイツのまねを決め込み、大隈らのイギリス型案を排撃しました。
そもそも、議会を開設するのは、1868年の「五箇条の御誓文」第1条で誓われていたことでした(広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ)。また、ドイツの勢いに幻惑されて日本国の方向を決めてしまうことは、第二次世界大戦の前にも繰り返されました。

さて、イギリス型もドイツ型も世襲君主(王や皇帝)がいましたが、イギリス憲法学では King in parliament(または Queen in parliament)という基本概念があります。
ちょっと歴史を振り返ると、17世紀中葉の1649年、イギリスはピューリタン革命で国王を処刑しています。共和政になりましたが、クロムウェル独裁と化した後、また王政に戻りました(1660年)。さらに、国王が議会と対立して追放され、名誉革命が起こります(1688年)。議会は、王の娘夫婦をオランダから呼び寄せて王位に据えました。
その後イギリスでは革命が起こらず、今に至っています(詳しく言うと王朝名は代わったが)。つまり、英国王の正統性は、議会に呼び出されたことにあります。神代の昔から続く血筋なんてものに、かかっているのではありません。議会から「お呼びでない」と言われたら、それまでなのです。
こうして世襲君主と民主主義の両立の道が示され、名誉革命後のイギリスはおおむね安定的に発展していきました。

一方、ドイツ型の超然内閣は、国会の多数党が内閣を組織するというのでなく、議会に基盤があろうがなかろうが、皇帝から大命(たいめい)が降下した有力者が首相になるのです。この方法は、当時の日本の藩閥政府に適合していました。
また、1878年に参謀本部が設置されましたが、これもドイツのまねで政府(および陸軍省)から独立していました。参謀本部長には、政府を通さずに直接天皇に上奏する権限が認められたのです。これを帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)と言います。
天皇の仕事が「よきにはからえ」で済む(上奏されたことにそのまま御名御璽を記す)ためには、政府と軍が互いに調整を付けた上で、上奏しなければならないはずです。ところが、軍機事項・軍令事項については政府は口をはさめず、軍が上奏して最終決定となるという種が、この時まかれてしまいました。
そのあとの1889年に憲法が発布されますが、帷幄上奏権や「統帥権の独立」が組み込まれていました。要するに、五箇条の御誓文にもかかわらず、藩閥政府が国会開設や憲法制定をずるずる引き伸ばしているうちに、非民主的な制度が固まっていったのです。

また、ネットにはびこるネトウヨたちは、現行憲法を卑しめるために明治憲法を持ち上げるという、倒錯的な挙に出ることがあります。しかし、憲法学を勉強すれば、明治憲法が欠陥憲法で、現行憲法のほうが優れていることが分かります。優れていたために、手直ししないまま70年近くも使えてしまって、戦後日本の繁栄を支えてきましたが、さすがに改正も必要だろうとも言われています。

日本における「議院内閣制」のデザイン - 齋藤憲司(政治議会調査室)、国立国会図書館レファレンス、平成22年11月号。
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/pdf/071802.pdf
〔引用開始〕
アメリカは第二次大戦終結の前から日本占領政策の研究を開始していた。
GHQ の1945(昭和20)年12月6日付「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」は、ラウエル民政局法規課長によるものであり、帝国憲法について調査したうえで、憲法改正に関する一応の結論と提案を記したものであった。〔中略〕
1946(昭和21)年1月7日に米国の国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)によって承認された「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)は、日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示すもので、〔中略〕
このSWNCC228を基に起草するため、GHQ民政局の行政部を中心とするメンバーにより、運営委員会と7つの小委員会が設けられた。小委員会は、国会、行政権などに分かれ、小委員会の責任者の多くは、「法律家、政治及び行政の経験者、占領地の軍政担当者としての知的訓練を受けた専門家であった」。運営委員会は、ケーディス陸軍大佐を委員長に、ハッシー海軍中佐、ラウエル海軍中佐、秘書のルース・エラマンで構成され、
〔引用終り〕

意外に知られていませんが、この憲法の骨子を定めたのは「軍服を着た法律家」たちでした。米国の一流大学のロースクールを出て、法律家としてキャリアを築いていた人たちです。戦時に召集され、戦後東京のGHQに配属されたわけです。
憲法前文を起草したハッシー中佐は、ハーバード大学とバージニア大学で学び、弁護士や裁判官を務めていました。兵役に就いたのは1942年と遅く、中佐と言っても全然職業軍人ではありませんでした。
憲法案の骨子となる「ラウエル文書」を草したラウエル(またはローウェル)中佐は、ハーバード・ロースクールとスタンフォード・ロースクールに学んだ弁護士でした。兵役に就いたのは1943年です。
また、GHQ草案作成を実質的に指揮したケーディス大佐は、ハーバード・ロースクール出の弁護士であり、財務省に勤めていました。兵役に就いたのは第二次大戦が始まってからです。
つまり、ネトウヨが「今の憲法は、法律の素人であるGHQの軍人が9日間で急造した」などと言うのは、ガセにすぎません。

1881年といえば日本史では「明治14年の政変」が有名です。大隈重信とその一派が政府から追放されました。これは、大隈らの主張が「国会即時開設」、伊藤博文らが「開設はするが10年後に」で激しく対立したためと言われます。
ただし、それだけでは理解不足でしょう。両者の対立点は「イギリス型の議院内閣制か、ドイツ型の超然内閣か」にもありました。当時、1870年に普仏戦争でプロイセンがフランスを破り、71年にプロイセン中心のドイツ帝国が成立して、昇竜の勢いだったのです。伊藤らはこれに幻惑されてドイ...続きを読む

Q旅順・大連の租借権は、二十一カ条要求で、結局、何年延長されたの?

旅順・大連の租借権について、ずっと疑問に思っています。

1898年 ロシアが25年間の約束で租借
1905年 ポーツマス条約で租借権が日本に譲渡される(残り18年)
1915年 二十一カ条要求で「旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九十九カ年づつ延長すべきことを約す」(残り8年だったのを更に99年延長するから、残りは107年=2022年まで?)

でも、「二十一カ条要求で旅順・大連の租借期限は1997年まで延長された」としているサイトも沢山あります。

1997年の99年前だと、ロシアが租借した1898年になりますよね?これだと「更に九十九カ年(づつ)延長」ではなく「九十九カ年に延長」だと思うのですが・・・。

もし日本が第二次世界大戦後も租借地を持ち続けていたら、結局、何年に返還することになっていたんでしょうか?(「99」=「久久」で「永久に返還しない」というのはナシで)

詳しい方、回答をよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

1915年の条約により1898年より1997年までの99年間に延長された(詳しく条約文に明記されています、国会図書館などに保存されています)

この99年の延長の計算の基点は1898年の清からロシアが租借した時点からのもので、「途中ロシアから日本が権利を引き継いだ
期間は計算に入っていません」
あくまで1898年が条約の「計算基点」になっていますが
終戦により1997年も待たず返還されたものです
http://www.hanamoku.jp/wikipedia/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%B7%9E

Q大隈重信の薩摩政治嫌い

大隈重信はなぜ、薩摩政治を嫌っていたのですか?

Aベストアンサー

単純に薩長の強権に反発していたという可能性があります。明治維新は徳川から薩長への政権交代で、薩長土肥と言われましたが、土佐・そして大隈の出身肥前は権力の中心にはいれませんでした。大隈が中心となった進歩党は、薩長以外の元藩士の集まりとなっています。
また大隈の進歩党は、政策として対外硬という日本中心主義で、外交は強硬に出て不平等条約を改正するという態度をとっていました。そのため薩英同盟をもともと結び、日英同盟を画策していた元薩摩藩士たちとは政策的にも相容れなかったようですね。

Q日本語の「民主主義」と中国語の「民主」

 こんばんは、いつもお世話になっています。
 
「Democracy」を「民主主義」と和訳した人は誰でいつ頃和訳されたのでしょうか。また、中国語の「民主」についても同じ疑問を持っています。
 
 おわかりになる方、御回答をよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

ご質問の件については以下のリンクが参考になるかと思います。

http://qanda.rakuten.ne.jp/qa2615999.html

一助になれば幸いです。

Q大隈重信

社会の宿題で大隈重信について調べるんですけど、プリントに学んだことという蘭があります。そこに何を書けばいいか迷っています。パソコンで調べても特に出てきません。教えてください!

Aベストアンサー

 こんにちは。質問者様は中学生ですね?。この質問の意味は「大隈重信」という人物が歴史上で「どの様な役割を果たしたか」という内容です。
 では質問者様はパソコン(インターネット)で「大隈重信」というキーワードで検索をしたら「何が記されていた」でしょうか(本来はこの「パソコンで調べる」との行為および発想自体が誤りなのですが)。
 恐らくそこで記されている言葉には「憲法および憲法の様々な草案」「自由民権運動」「帝国議会」「内閣」「政党政治」「隈板内閣」「明治十四年の政変」などの言葉が並んでいたはずです。そしてもう一つ「早稲田大学」の名前も見えるはずです。でしたら「特に出て来ない」との結論はオカシイと思いませんか?。
 この質問の背景を考えてみましょう。そこで先ず第一に考えねばならないことは、幕末から明治維新で起こる「様々な変化」です。政治の枠組みでいえば、それまでの幕府による統治(「幕藩体制」)から近代国家へと日本が変貌を遂げたこと。そのためには議会や内閣制度そして憲法といった政治の根幹をなす新たなシステムの構築が必要になったこと。そしてこれらを現実の形にするために様々なプロセスがあったことを理解するとの目的があります。これ以上は解答に近いものとなり、質問者にとっては勉強する意味が失われてしまいますので、他の回答者の方々もお答えには留意なさることが必要と存じます。
 もう一度「明治維新」「近代国家」などをキーワードとして調べ直し、自分の言葉で説明する努力をなさってください。

 

 こんにちは。質問者様は中学生ですね?。この質問の意味は「大隈重信」という人物が歴史上で「どの様な役割を果たしたか」という内容です。
 では質問者様はパソコン(インターネット)で「大隈重信」というキーワードで検索をしたら「何が記されていた」でしょうか(本来はこの「パソコンで調べる」との行為および発想自体が誤りなのですが)。
 恐らくそこで記されている言葉には「憲法および憲法の様々な草案」「自由民権運動」「帝国議会」「内閣」「政党政治」「隈板内閣」「明治十四年の政変」などの言葉が...続きを読む

Q大隈重信について

(1)大隈重信が暴漢に襲われたことがあるそうですが、犯行動機とはどのようなものだったのでしょうか?
(2)第一次世界大戦に日本を参戦させたことに対して、当時の国内世論はどのようなものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

当時最大の外交問題であった不平等条約改正絡みです。黒田内閣に外相として迎えられ改正交渉に取り組みますが、反対派の暴漢により負傷、辞職を余儀なくされ、その努力は残念ながら実りませんでした。


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