藤原泰衡は頼朝の命令に従い、義経を討って首を差し出しました。
明確に恭順の意を示しているにも関わらず、どうして頼朝は泰衡を征伐したのでしょうか?
奥州藤原氏の勢力に圧力を感じていたのでしょうか?
奥州藤原氏と朝廷の結びつきが強いからでしょうか?
頼朝の野心が強かったからでしょうか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (4件)

鎌倉幕府の基盤であった関東の侍(武士団の長のことで武士一般ではありません)に囲まれた頼朝の立場と言うものは実にもろいものでした。

それを一番良く知っていたのは頼朝本人です。
なんせ周りは全員外様なのですから。
関東での源氏のもっとも華々しかったのは奥州での前九年、後三年の役での源の頼義、義家です。
頼朝が鎌倉に入って最初にしたことは、その源頼義が建てた由比の若宮を鎌倉の中心にうつし鶴岡八幡宮としたことです。自分の館より優先します。
そして、自分を御輿に担いだ関東の武士団の長に対して、前九年、後三年の役での源の頼義、義家を思い出せ、あのときよりお主らは源氏の代々の家人なのだぞ。と言う演出をします。
それを自分への求心力とした頼朝にとって奥州藤原氏は最初から討つべき相手です。有る意味平家以上にと言って良いでしょう。
北条執権の時代に鎌倉幕府がまとめた記録「吾妻鏡」には平家がまだ健在、義経もまだ鎌倉に居た段階で、義経には内密に江ノ島の弁天の参拝との口実で有力御家人数名を集め、対奥州戦略会議を開いています。
何年何日かは忘れましたが。

また、頼朝が自ら大軍を率いて出陣したのはこの奥州攻めだけです。
そしてその奥州攻めの時が頼朝が一番輝いて意気高揚としているのが「吾妻鏡」にも見て取れます。
そして頼朝の奥州攻め、泰衡らの首の処遇は悉く源の頼義、義家の前九年、後三年の役の故事を模しています。
ひとつの例が、前九年の役の源頼義例が安部貞任の首を晒したときと同じに「長八寸の鉄釘を以て、これを打ち付く」です、おまけに前九年の役の時にそれをやった横山野大夫経兼の子孫をわざわざ探し出してそれをやらせました。

奥州を攻め亡ぼすことで、頼朝は真に源頼義、義家の後継者であることを示せる、また関東の武士は源氏の御家人と強く印象付けることが出来た訳です。
勿論、背後の巨大勢力の脅威を取り除く、と言うこともあります。
もうひとつは奥州藤原氏が関東での将軍、つまり当時は征夷大将軍より知名度のあった鎮守府将軍藤原秀郷の子孫であったと言うこともあります。
鎮守府将軍は最初は大多数の鎌倉御家人の先祖である関東平氏、その後藤原秀郷流、清和源氏がその地位に付きますが、藤原秀郷流は何代にも渡って鎮守府将軍を勤めた関東武士の名門です。
後三年の役の経緯、朝廷からの恩賞でも清和源氏と対等の立場です。
元々足場の弱い、直属軍事力を持たない頼朝が、権威によってそれを克服し、関東武士団の上に立とうとするときに、その藤原秀郷流の名声に打ち勝つことは彼にとっての死活問題であったと考えて良いでしょう。
ちなみに関東でも藤原秀郷流の本家は藤性足利氏(足利尊氏の足利氏とは別)で、これは初期の段階で亡ぼしています。

義経を討たなければ源氏は3代で終わることはなかっただろうと良く言われますが、義経を討たなければ鎌倉幕府は出来ず、3代も続くことは無かっただろうと私は思います。

頼朝にとっての本当の一番の敵(?)、克服しなければならなかった相手は平家でも奥州藤原氏でもなく、自分の周りに居て自分を御神輿に担いだ関東の御家人だったろうと思います。
それを克服し、いつまでも自分を御神輿に担がせる為に、平家も義経も甲斐源氏も奥州藤原氏も倒さなければならなかったと。
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事の発端は、源義経でしょう。


義経は朝廷側に付き、

打倒頼朝を企て、頼朝討伐の院宣を朝廷からもらいます。しかし、殆ど兵も集まらない状態で逃亡します。

一時期頼朝は朝敵になりますが、義経討伐の大軍を率いて京に上り、

朝廷に院宣を取り下げさせ、逆に義経討伐の院宣を頂きます。

ここで義経は朝敵となりました。

聞きしに勝る
すさまじい兄弟喧嘩ですぅ。^_^;

奥州藤原氏が義経をかくまうのを、相当朝廷との結びつきが強いと判断するのは当然でしょう。

またこの軍隊と財力は、いずれ自分をまた脅威にさらす恐れがあり、放ってはおけません。

二度も三度も朝敵になってしまいます。
何故ならば、

彼は政治の権限を朝廷から初めて奪った人間です。
朝廷の暗躍も相当なものだったでしょう。

西国、東北の全ては叩き潰し、
全ての朝廷に見方する国は叩き潰します。

ここで鎌倉幕府は安泰するのです。

かわいそうなのは義経です。

摂関政治とは違い遠隔地の幕府に対して、
政権を奪われたくない朝廷派からおそらく、
「お前の兄は平将門と同じ事をしようとしている朝敵ぞ」
などと吹き込まれ、挙兵しようと試みたのでしょう。
いいだけ利用されてしまった訳です。

しかし、
源氏の血縁はたえてしまいますから、
とんだ兄弟喧嘩、
朝廷の野望もすさまじかったようです。
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経緯は参照ページを見て下さい。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E% …
つまるところ、鎌倉政権とは何か、という問題になると思います。

平安末期、朝廷と結びついたのが桓武平氏清盛流。これに対し、特に東国の諸勢力が連合してあたったのが源平合戦の真相でしょう。鎌倉政権は実の所かなりの多くの平氏(たとえば北条氏)も含んでいますね。
で、その後東国連合の中での権力争いが起きたと考えるのがいいでしょう。奥州藤原氏と鎌倉武士団との戦いです。ここで考えたいのは、鎌倉の支配権力はなお不安定であったと思われる事です。源氏の嫡流とかいっても清和源氏の格があがったのはむしろ後世の事で、頼朝の当時、源氏といえばまず公家源氏、すなわち特に村上源氏であったわけですし。鎌倉の力とはすなわち武力そのものなわけです。したがって西国になお残っていたであろう旧勢力や、朝廷のなかの必ずしも鎌倉政権に好意的とは言えない勢力との戦いを控えていたわけで、その前に粛清を行った、ということでしょう。頼朝から見ればそもそも義経自体が奥州勢力のまわしものなわけで、本音は奥州の政治権力そのものが邪魔だったにすぎないわけです。大規模な戦いは終わったので奥州の戦力は不要、むしろ不安要因ですから。で、強引に藤原氏を除いたわけでしょう。義経のことは一石二鳥を狙った口実でしょう。義経自身の武名は高く、正面から戦うと鎌倉武士団のなかにも動揺が生まれる事さえありえます。それを相手の手で除かせたうえで、さらにそれを口実に攻められるのですから笑いが止まらないとはまさにこの事でしょうね。
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 「頼朝の命令に従い」とありますが、頼朝が奥州藤原氏に対して「義経を討て」という圧力は以前からかけていたのに、これに従わなかったのですから、「義経を討つのが遅い!」というのが、理由付けにはなります。

理屈は何でもつきますから。
 奥州藤原氏は、秀衡が生きていた時には頼朝もうかつに手を出すことができませんでしたが、秀衡が亡くなり、後継の泰衡が資質に欠ける人物だったため、頼朝にチャンスが巡ってきたということも言えます。
 泰衡は、父の遺言に背き、兄頼衡や弟忠衡を殺しました。こうした内紛により、奥州藤原氏は一枚岩ではなくなったわけです。この動揺で弱体化した奥州藤原氏の状況に、頼朝はつけいったのです。
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Q奥州藤原氏討伐のときに落ち延びた藤原一族はいますか?

奥州藤原氏のことを調べ始めたばかりなのですが、
鎌倉勢が攻めてきてた時や泰衡が討たれた後、
一族はどこかへ(酒田湊以外)落ち延びていったと言うことはあるのでしょうか。

Aベストアンサー

津軽藩の藩祖・津軽為信は
奥州藤原氏の末裔と称しているので、いたかも(^-^)/

・落ち延びたのではなく、鎌倉勢に臣従し、本領安堵された
藤原一族には、
藤原秀衡の四男・本吉四郎高(隆)衡
が、います。
現在の宮城県と岩手県の県境の「本吉郡」が、その領地です。

義経の首を鎌倉に運んだ人としても、有名です。
(梶原景時が、頼朝の時のように義侠心で
助命嘆願してくれたので、
景時死後、その一族を奥州に
招いたそうです。)

・藤原秀衡の従兄弟(2代、藤原基衡の子)で、
紫波の比爪に住んだ藤原俊衡の一族は、老齢のため不戦につき、
その後、源頼朝によって宇都宮の宮司に補され、現在も、栃木県に御子孫が在住である

Q藤原氏と奥州藤原氏の関

中臣鎌足の子孫である藤原家と、義経をかくまったので有名な奥州藤原氏(三代目の藤原秀衡など)は、どういった関係なんでしょうか?

Aベストアンサー

奥州藤原氏の前身は、東北の豪族であった清原氏で、
その地盤を引き継いで基礎を固めたのが、藤原(清原)清衡です。

その清衡ですが、もともとは藤原経清の息子で、
父親の死亡後に母親が再婚して清原氏に嫁いだため、
連れ後として清原氏に入った事情があります。

後三年の役で、清原氏の内紛を制した後で、
出自のために清原氏で冷遇されていたこともあり、
元々の姓である藤原を改めて名乗りました。
「藤原」と名前がつくのはこのためです。

そして藤原本家との関係ですね。
一番の祖先である藤原経清ですが、
これは鎌足以来の藤原氏の末裔である秀郷流藤原氏の流れを汲みます。
本家からは相当はなれているので、傍系もいいところですが…。
藤原氏には傍系がたくさんあって、
その中には武家となったものもあり、
秀郷流藤原氏はその中でも比較的名門の部類に入ります。
残念ながら、そこでの経清の位置まではわかりません。

というわけで、名前が示すと通り、
奥州藤原氏と藤原本家には一応の血縁関係があります。

Q藤原道長と奥州藤原氏?

はじめまして。ちょっと疑問があります。
奥州藤原氏は、東北らへんに住んでいたんですよね。でも、藤原道長は京都で摂政をしていたってことは、藤原一族は京都から東北地方まで移り住んだってことですか??徒歩で?!@@
それとも藤原道長と奥州藤原氏は親戚ではないんでしょうか,,,
教えてください。

Aベストアンサー

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、結構な数が藤原氏後裔を名乗っています。

理由は二つです。
1つ目は後裔を名乗っている家の独自改竄。
当時家系図といっても、あちこちに散逸している一族の家系図をすべてまとめてはいません。そういうわけで「自分たちのさかのぼれる先祖を、ここにくっつけてしまおう」というのが横行しました。
なお、架空の人物が家系図に入っているわけではないため、どこがどう改竄されたのかがわからないのです(そもそも改竄した家、つまり勝手に名乗っている家は、それより前の記録がない)。
2つ目は、藤原氏が売り渡したもの。藤原摂関家は没落して財政難となったのですが、そのため自分たちの戸籍を売り渡して、ばら撒いていたようです。
こちらもどう改竄されたのかはわからないのです。

奥州藤原氏は前者ですね。実際に本当の家系と認識されるのは清衡までです。それ以前は怪しい、というのが現状です。
でも、ある程度家系図がしっかりしていると、そうであると認められるのが世の常。奥州藤原氏もそうです。

なお、実際に藤原氏は日本中に散布しています。理由は律令官制の国主などのせいです。また、嫡男以外は別系列を作るしかないですから、子孫が別家系を作り、またその子孫が別家系を・・・という具合に、どんどん増えたのです。で、もちろん嫡男以外は中央からは遠ざかりますから、端のほうはどんどん遠ざかります。
その中には守、介を拝領してその地に赴いて、そこに土着した人もいました、中には罪人となり僻地に流された人もいました。中には敗戦したのちに落ち延びた人もいました。次男がそのまま土着した例も数多いです。
で、そういった人の実際の子孫か、それを利用して家系をくっつけた家が全国には大量にいるのです。奥州藤原氏もその一つです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、...続きを読む

Q奥州藤原氏は東北弁だった?

当時奥州藤原氏は京に負けないような華麗な文化を誇っていたといわれていますが、日常の言葉は現在の東北弁に似たものだったのでしょうか、それとも京都弁のようなものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

私見です。

奥州藤原氏は近年「五代」といわれるようになり、その期間は百年をこえますが、ご質問は最盛期秀衡の時代のことで宜しいのでしょうね。

一般的なイメージよりも、都と奥州との人的交流は活発だったようです。
元々多賀城国府とのやりとりは密だったでしょう。また秀衡の舅は都の貴族ですし、多賀城国府の元官人や、追放刑に処された下級貴族などが平泉に留まり、藤原氏に仕えるようになったりしたこともあったらしいです。
また商人も盛んに行き来しています。新猿楽記という古典は平安末期の各種職業のカタログ的な内容ですが、その中の商人は「北は陸奥から南は貴賀島 (鬼界ケ島)まで」を行動範囲にしています。
また平泉には大きな寺がいくつもあったので、僧侶の交流もあったことでしょう。都ではありませんが、熊野や白山とのつながりも指摘されていますね。

こういう状況であれば、当時の平泉で京言葉を聞く機会はそれなりにあったのではないでしょうか。それならばコミュニケーションのために言葉の上でお互いが歩み寄ることはあったと思います。しかしそれは理念的に言葉を取り入れるのではなく、必要に迫られて・あるいは日常生活上、少しずつ影響を受けたものではないかと感じます。基本的には地元の言葉を使っていたのではないでしょうか。秀衡はおそらく奥さんが京言葉でしょうから、多少バイリンガルかと……

この件について言語的な資料を見つけることは難しいかと思います。ご存知のように、奥州合戦で平泉はほとんど焼けておりますので。行政資料も焼けてしまって困ったという話もありますし。……目下奥州が書いた文字資料はほとんど寺関係のものばかりで、今ひとつ日常を伝えてはくれません。
毛越寺では曲水の宴が開かれたといいますから、和歌の一つも詠まなかったはずはないのですが、今後の発掘に期待をかけるしかないようです。

ちなみに「東北弁」のようなという部分ですが、質問者さまは多分「地元の言葉」という意味を仰りたいのですよね。
というのは、現東北弁と当時の地元の言葉がどれだけ似ていて、また違っているかというのはまた別の問題になるかと思うので。#1の方が仰っていることですね。

では失礼します。

私見です。

奥州藤原氏は近年「五代」といわれるようになり、その期間は百年をこえますが、ご質問は最盛期秀衡の時代のことで宜しいのでしょうね。

一般的なイメージよりも、都と奥州との人的交流は活発だったようです。
元々多賀城国府とのやりとりは密だったでしょう。また秀衡の舅は都の貴族ですし、多賀城国府の元官人や、追放刑に処された下級貴族などが平泉に留まり、藤原氏に仕えるようになったりしたこともあったらしいです。
また商人も盛んに行き来しています。新猿楽記という古典は平安末期の...続きを読む

Q義経VS頼朝で、なぜ義経に加勢する武将が少なかったのでしょうか

義経は1185年3月に壇ノ浦の戦いで勝利し、平家滅亡の立役者
となったが、兄弟共通の敵がいなくなったために兄弟の対立が

表面化、義経は頼朝に恭順するかそれとも敵対するかの選択を
迫られました。

義経は頼朝とならぶ清和源氏の主流であり、後白河法皇の支持
を受けていたし、実際に法皇から頼朝追悼の院旨も受けていた。

一方、頼朝は平家を滅亡させて源氏の世の中になったとは言え、
まだまだ日本の中心は京であり、東国の田舎でようやく地盤を
固めたに過ぎず、東北には藤原氏が依然として勢力を保持して
いた。徳川家康のような、その力を誰もが認めるような存在で
はまだなかったと思います。また家康のような力を持ってい
ても、関ヶ原では西軍側にも拮抗した軍勢が集まっています。

このような状況で、義経が反旗をひるがえした後、義経に味方
する軍勢はほとんど集まらず、最後は後白河からも見放され、
あっという間に転落してしまいました。

私としては、なぜ義経がかくも短期間でヒーローからあまりにも
みじめな最後をとげることにnってしまったのかがどうしても分か
りませんし、そこの ところをうまく説明した、解説本も知りません。

1. 義経に人徳がなかったのでしょうか(人徳でいえばむしろ頼朝の
方が冷徹であったといわれています)
2. 周囲の大半の勢力は冷静に頼朝と義経の力量を計算して頼朝を
選んだのでしょうか(しかし戦でいえば義経の評判が高かった
わけだし、強い方に加勢する心理が働いてもおかしくなかったのでは)
3. 源平の合戦が続いて、世間に厭戦気分が強く、また日本を二分する
ような戦を誰も望まなかったので、既に地盤を固めている頼朝を支持
したのでしょうか

それとも、他に何か理由があるのでしょうか?

よろしくお願いいたします

義経は1185年3月に壇ノ浦の戦いで勝利し、平家滅亡の立役者
となったが、兄弟共通の敵がいなくなったために兄弟の対立が

表面化、義経は頼朝に恭順するかそれとも敵対するかの選択を
迫られました。

義経は頼朝とならぶ清和源氏の主流であり、後白河法皇の支持
を受けていたし、実際に法皇から頼朝追悼の院旨も受けていた。

一方、頼朝は平家を滅亡させて源氏の世の中になったとは言え、
まだまだ日本の中心は京であり、東国の田舎でようやく地盤を
固めたに過ぎず、東北には藤原氏が依然として...続きを読む

Aベストアンサー

当時の武士というのは、読んで字の如くの戦闘員・戦いのプロというより、普段は自分の土地を家来や領民に耕させ、米など農作物で生活する人々。当然武士の関心事は田畑にあるわけです。

当たり前ですが武士も人間なので子が生まれやがて死にます。

となると気になるのは土地を誰が相続するのか?長男?それとも親に可愛がられた次男?子供たちは若すぎるから叔父さん?とその土地を誰が継ぐの?系の問題が鎌倉幕府開設前からありました。鎌倉開府前には藤原氏や院、時にはお寺。誰々の土地だからその土地の持ち主が決める。けど時代の流れでもって藤原氏が強かったり院が強かったりで誰に相続されるかが安定せず、またその主に気に入られた三男が継ぐことになったり、と安定しないわけです。

こんな不安定な制度は誰でも嫌なもの。公平な相続お裁きをしてくれる機関が欲しく、そのボスには高貴な血筋の人間を据えて説得力を増したい。そんなわけで清和源氏ブランドのボス・源頼朝に白羽の矢が立ち、鎌倉開府となったわけです。



さてこの裁定機関が二つあったらどうでしょう?二つとはもちろんご質問の頼朝と義経です。例えばあの土地について頼朝は長男が継げと言い、義経は次男が継げと言い…武士達にとっては裁定機関は一つでよく、彼ら目線で支離滅裂になっては困るのです。源氏の長者は一人でよく、二人も要らんのです。

また頼朝は源義仲や平氏追討は義経らに丸投げし、自分は関東に残っています。頼朝は別に関東で酒池肉林のドンチャン騒ぎで遊んでいたわけではなく、裁定機関の準備を進めるわけです。源義仲や平氏が滅んだ頃には準備がかなり進んでいたでしょう。周りの武士たちにしてみれば、これで俺達の裁定機関ができるぞって時期に、頼朝の指示を聞かない義経くん。彼は頼朝=裁定機関=武士達の指示を聞かないわけです。

武士たちにとって邪魔ですよね?義経くん。

頼朝と義経各個人の人徳や力量比較は(どちらかというと)武士達にはどうでもよく、例え頼朝の弟と言えど裁定機関の指示に従ってもらわなければ困るんです。折角、平和な世の中に向かっているというのに、いわばKYな義経くん…困りますよね?

戦場での奇想天外な発想…というより、誰が見ても無理そうな課題を発想力で解決する能力は、頼朝よりも…というより日本史上最高の武将でしょう義経は。中でも騎馬による奇襲など戦闘指揮官としては義経の才能は、世界に誇ってもいいくらい。

ですがそんなものは武士たちの土地相続問題には要らない才能。武士達の希望は公平なお裁き、公平な論功行賞。それらに戦闘指揮官の才能は不要です。もっと言えば冷徹にどちらが正しいか判断してくれる人や機関の方が必要なのです。

ご質問には記載はありませんが、範頼も義経に似たような雰囲気を醸しています。紆余曲折の末、源実朝を最後に清和源氏の嫡流は滅んでいます。にもかかわらず、裁定機関の鎌倉幕府はその後も続いています。武士たちにとって源氏が大事だったのではなく、裁定機関が公平に活動してくれればそれで良かったのです。



と長文で申し訳ありませんが、回答としては次のようになります。

4. KYな義経くんは鎌倉幕府=武士達の指示に従わなかったから、もしくは要らない子だったから。

当時の武士というのは、読んで字の如くの戦闘員・戦いのプロというより、普段は自分の土地を家来や領民に耕させ、米など農作物で生活する人々。当然武士の関心事は田畑にあるわけです。

当たり前ですが武士も人間なので子が生まれやがて死にます。

となると気になるのは土地を誰が相続するのか?長男?それとも親に可愛がられた次男?子供たちは若すぎるから叔父さん?とその土地を誰が継ぐの?系の問題が鎌倉幕府開設前からありました。鎌倉開府前には藤原氏や院、時にはお寺。誰々の土地だからその土地の持ち...続きを読む


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