お酒好きのおしりトラブル対策とは

中国文明にしても南米文明にしても古代にはいけにえという儀式が盛んに行われていましたが、これはどういうことなのでしょうか。死にたくないとか殺されたくないというのは現在と余り変りがなかったと思うのですが、どうも古代文明に共通なことのようなので、不思議に思いました。この質問は歴史というより哲学とか心理学の問題であろうと思ってここに質問を投稿しました。よろしくお願いいたします。

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A 回答 (15件中1~10件)

某宗教団体の信者達による自爆テロにも、


同様の意図が託されているのではないでしょうか?
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生け贄への単なる責任転嫁です。



原因が分からない事象との遭遇への諒察の為には、
必要になったのでしょう。
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一言でいうと,集団を守るための「トカゲの尻尾きり」だと思います。



キリストは,罪を背負って死んだとか言われています。古代ユダヤでは,贖罪の日に,ヤギに罪を負わせて荒野に放したらしい。「スケープゴート」ってやつですね。要は「身代わり」です。(ところで,ユダの福音書ってのが見つかりましたね。イエスの死は自作自演?)

罪を他のものになすり付けてチャラにする発想ですな。「身代わり」は,罪以外にも,あらゆる責任を負わせることができる便利な万能アイテムだと思います。

例えば,大きいものだとドイツが不景気なのはユダヤ人の責任だということで,ホロコーストやポグロムになったりする。魔女狩りなんてのもありましたね。

もちろん,天災や飢饉の責任に,「生け贄」を使う。アステカやインカですな。日本でも,建造物を立てるときに,犠牲になった人を「人柱」にした。戦争中は朝鮮人が「人柱」になることもあったようですが。

政治の世界では良く使う手で,今も何かが隠されている気がする。民主党が勝手に(?)「スケープゴート」になったせいで,色々なことが隠れてしまった。四点セットの問題の責任は,うやむやになった。

歴史的には,アステカやインカの「生け贄」はもちろん有名ですね。日本では「人柱」の他に,埴輪や饅頭なんてのも人の代わりだったようですね。お供え物に饅頭ですって言われても,人の首かと思うとゾッとしますね。

経済でも,中小企業を犠牲にして,大企業だけを肥え太らせる。これをグローバルによろうと。弱肉強食の世界では,どうやら,弱者が生け贄になりやすい。今の日本は,努力して競争しろというのは分かるが,弱者を生け贄にするような社会では人でなしだ。
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一口にこの概念は言えないのですが、 一つには一体化するという概念があったようなんです。



ギリシャのなに文明だったか忘れましたが、古代文明の遺跡が見つかり、そこからいく体かの子供の人骨が見つかったそうです。
骨には不自然な傷跡がある。

分析した結果 恐ろしいことがわかりました。

食べていたんです。

古代では生け贄に捧げたものの血を飲み肉を食べて一体化するという観念を持っていたようなんです。

キリスト教の最後の晩餐にもその概念が残っていますよね。

「葡萄酒をとって飲みなさい これは私の血である」

「パンを取って食べなさい これは私の肉である。」

ユダヤ教は他の地域がとうにやめた生け贄儀式をいつまでもやっていたようなんです。


あるところでは生命のスープに還元するという概念もありようです。
輪廻転生するという概念です。

飢饉が起こり、作物が取れなくなった場合、神の力が弱まったとして、その原因はその民族の王であるとされ、王は神への生け贄 つまり神がまたパワーを持つために王を食べてもらうということで、王を殺して捧げていたようなんです。

力を失った王は通常 若い次の王(血筋は関係ない)が生け贄の儀式をとり行っていたようなんです。

そうやって人を自然に捧げることでまた神の力が回復し、作物が豊穣になり、それで飢える人が減り、人口が増えるとされていた。

人口=労働力=兵力 ですから。


それで新しい王が誕生するのだが、これが秘密裏に行われていれば、永遠に生きる王とされるわけです。

実際は何回も変わっているんですけどね。 下々は直に王がどんな顔か知ることもない場合は、変わったと知ることもない。
つまり永遠に生きる王を崇拝するわけで、その人並みはずれたもはや神を人々は崇拝するわけです。

永遠の命 生命のスープに還元される者にはのろいがかけられていたようなんです。

そうなると恐怖心も思考も停止してしまっていたのではないでしょうか?

古代は今以上に薬物に対する規制がちゃんと敷かれておらず、毒物で麻痺させることをやっていたのかもしれません。

今のブードゥー教の呪いも薬物によって仮死状態にするため、蘇生するのだそうです。
ところが仮死状態になったので、だいぶ脳が死滅してしまい、薬物が切れて仮死状態から回復して墓から抜け出られたものは野獣のようになり それがゾンビ伝説となったようなんです。
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 神に活力を与えるという意味もあるようです。

たとえばアリを殺すと晴れになるという俗信は、アリが太陽を象徴する生き物なので、アリを殺せばその(アリが太陽から借りている?)霊力が天に帰って太陽の力が活性される、という考えなのではないでしょうか。カエルを殺すと雨になる、というのも同じでしょう。
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個人的な勝手な想像です。


素人の戯言ですが聞いて下さい。

 古代洪水や天災により多くの人が死んだとき人々は神が多くの命を欲していると感じたのではないでしょうか?そしてそれが毎年のように起こるとしたら?

 神の怒り?欲求?を何とか少なくする為には 予め命を捧げて満足してもらおうとしたのではないかな。
例えば川が氾濫する時期の前に生贄を捧げて、もう人は死にましただから全滅だけは勘弁してって。

 だから生贄になる人も自分が仲間の変わりに死んで多くの仲間が助かるならこんな良いことは無いと思って名誉の生贄なんてものがあるのではないでしょうか

 多分とても簡単に多くの人が死んでしまうので生贄になる人もどうせ自分も死ぬんだろうから先に死ぬことによって本当に被害が小さくなるならと言うあきらめもあったんで無いでしょうか?

 んで以って自然現象だから当然小規模なときもあって するってえと やっぱ先に人が死んでおいたのが効いたんだなんていう奴が出てきて、被害が大きいと やっぱ生贄が足りないんだ見たいな・・・・

 最初は動物だったところも人になったり段々エスカレートして人数が増えてきたり、挙句の果ては自分たちの集落だけでは足らなくなって、違う集落から連れてきたり違う集落丸ごと全部とか・・・・

 古代人たちが天災をを恐れていたことは想像に容易いので収まるべくして収まった氾濫も生贄のお陰だなんて話は広まるのも早く皆真似したのではないでしょうか?

 逆の話で諸葛亮孔明が人の変わりに万頭を生贄として河に捧げ生贄の風習をなくさせたって話もあるし。

 それも孔明の偉大さが薄れた頃に土地の権力者か何かが被害が大きい時に やっぱり生きた人間じゃなきゃダメだとか言ってその年被害が少なかったら又元に戻るのではないでしょうか。

 人間は弱い生き物で 自然を恐れ戦いを恐れ死ぬのが怖いからこそ生贄を捧げたのでは無いでしょうか。

 生贄が減ってきたのは自然現象が解明されそんなことをしてもしなくても結果は変わらないと解ってきたからで他に理由なんて無いと思います。
 
 逆にどっかのオカルト集団では現在でも生贄はあるんではないでしょうか?今の科学では説明できないことに関しては今でも人間は臆病でそして残酷なものだと思います。
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この回答へのお礼

説得力のあるご意見であると思いました。根底では人間が存在するということに不安を持っていることに繋がるかなと思いました。

お礼日時:2006/03/26 08:12

難しい問題ですが、「生贄は(超越者への)プレゼントである」というような捉え方と比べてみると、少しはその意義がはっきりしてくるのではないでしょうか。



プレゼントがプレゼントであるためには、相手が生贄を価値あるものとして「消費」することが肝心です。少なくとも、送り手の側がそう納得していなければならないでしょう。しかし、いろいろな生贄のありようを見ると、どうも生贄は先方に「消費」されることよりも、生贄が「破壊」されることに意義があるらしいのです。

バタイユという思想家は、「生贄とは有用な富の総体から取り除かれる一種の剰余である。そしてそれは利得なしに蕩尽されるためにしか、従って永久に破壊されるためにしかそこから抽出されない」と書いています(『呪われた部分』)。
生贄の目的とは、社会の富を何の役にも立たないことに無駄づかいすることだ、というのです。

例えば、古代中国の儒家で行われた生贄儀礼では、祭主自らが犠牲獣を屠殺してそれを神前に供えたのですが、生贄の全体ではなく血と毛だけを供えれば足りたといいます。これは、毛によってどんな色のどんな動物が殺されたのかがわかり、また生き血によって、生きていた動物がわざわざ神のために殺されたことを示せるから、だったそうです。つまり、ここでは明らかに、神の消費のためではなく、犠牲獣が殺されること、そしてそれを神に見せるという、一見すると無駄でしかない儀礼にウェイトがおかれているのです。

こういったことはおそらく古代ユダヤでも共通していたでしょう。捧げられるのが血だけであるという場合も多かったようですし、血を抜いたあとの肉を食べる儀礼も、あまり重要なものとはされていません。まさに破壊こそが生贄の供犠の核心なのです。

牛や羊といった重要な財産である家畜を、他の目的ではなくて神のためだけに殺す。それを「神の意向に沿って行うこと」と観念することによって初めて、人は自分たちが自分たちのために家畜を処分することを許されると考えたのでしょう。大いなる富が、神のためだけに浪費されることが肝要だったのです。
つまり生贄は、神が所望するご馳走となるべく殺されるのではなく、まさに殺されるために、もっと言えば破壊を見せつけるためにこそ殺されるのだ、ということです。

このような生贄は、牧畜を生業とする地域で古来から見られるものです。
これに対して、共同体の秩序を守るための生贄というものもあります。ムラや地域のなかで不安定要因と考えられたもの、例えば宗教的なケガレなどを担わされた、いわばスケープゴートとしての人間や動物が破壊されることによって、ケガレを象徴的に外部に追い出し、共同体内部を守ろうとするものです。(民俗学の分野では赤坂憲雄がこういう分析をしていることで知られています)

ほかにも色々書かないといけないと思いますが、ここまでにしておきます。いずれにしても、生贄はなかなか一口の分析を許さない、難しくも面白い事象だと思います。わかりやすい説明でわかった気にならないことが大事ではないか(笑)と思います。何かのレポートならば、参考文献をご紹介します。
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この回答へのお礼

中身の濃いご教示を有難うございます。生贄にもいくつかの異なる意味があるのでしょうか。私は人間の存在理由を知りたいという欲求と関係はないだろうかなどと考えたのですが・・・

お礼日時:2006/03/26 06:40

プレゼントですよ。

価値交換です。

カワセミのオスはメスに小魚を獲ってあげて、ご丁寧にも骨を砕いてプレゼントします。
男が求愛しようとすれば、相手に指輪や他のいろんなものをプレゼントします。
男が結婚しようとすれば、結納と称して相手の両親へ金品をプレゼントします。
金印の見返りに、倭の奴国王は奴隷160人を漢王にプレゼントしました。
国会や会社でもめごとがおきれば、腹心や若手のクビをプレゼントします。
学校や政治家のセンセイにせっせとプレゼントする人もいます。
日本他(キリスト教以外)の多くの神様や仏様には酒や米、お土産の饅頭などをプレゼントします。
2月14日になれば、女は身近な男たちに「お世話になってます」といってチョコをプレゼントします。
12月になれば24日までに、みんながみんなをちょっとだけ幸せにしたくていろんなプレゼントをします。
……等々キリがありません。

人間に限らず、この世はプレゼントの行為に満ちている気がします。なぜでしょう?

いろんな意味があると思われますが、カワセミ他、交尾のために巣をプレゼントする魚や鳥の例から考えると、利己的行為を保障する利他的なコストという面があることは明らかです。

家族、求愛対象、上司、地域有力者、王、神とエスカレートしていけばプレゼントもエスカレートしていくのは道理でしょう。望みが大きければそれだけコストも嵩みます。

プレゼント対象について、身近な人から神までの間に特別な境界はなさそうです。地鎮祭で酒を土地に撒いてプレゼントするのも、人柱を差し出すのも、根本的違いはないのです。
コストをかければかけるほど、より困難な問題を克服し、より高い願望はかなえられると考える。とてもありがちなことです。
自分の利他的な行動には見返りが欲しい、いうことは、逆の場合、相手も見返りを求めているにだろう、たとえそれが神であっても何かを欲しているに違いない、という思考だと思われます。

現代において、黒部ダムなみの難工事にあたっても、生きた人間を穴に埋めて工事の無事を祈ろうと考える人はまずいません。科学によってそれだけのコストをかける価値がないことを知ったから、というだけのことです。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167138 …
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この回答へのお礼

プレゼントが無駄になったということも多かったと思いますが、それを権力によって続行させていたのでしょうか。ご教示に感謝いたします。

お礼日時:2006/03/25 07:15

「生贄」は神への捧げ物でしょうが、神とは自然の摂理そのものと言えるように思います。


自然はあくまで純粋な科学的反応の結果にすぎないはずですが、人智の及ばないものであることは今も昔も大差は無いような気がします。

この「人智の及ばない」ことが神たる所以ではありますが、そこを人は恐れると同時に、人智の及ばない解決方法も持っているはずだと考えたのだろうと思います。
科学が発達していなかった古代においては、その度合が高かったということではないでしょうか。
「人智の及ばない解決方法」を得るためには、「人智を超えた捧げ物」が必要だ、という考えに至っても不思議ではないかもしれません。

人智を超えた最たるものは「死」と言えるでしょう。
無知な人間が神の恩恵(あるいは力)を得るために、闇雲に編み出したなりふり構わぬ生きるための智恵だったように思います。
ただ、程度の差こそあれ現代においても尾てい骨のようにその名残は残っていて、時折(実は常にかもしれませんが)似たような捧げ物を神は享受しているような気もします。
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この回答へのお礼

含蓄のあるご教示だと思いました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/25 07:13

人命を軽視していたという文脈で捉えてしまいそうになりますが、むしろ“生贄”を、気象変動のような人智を超えた領域を統べる“神”に捧げるほどの価値がある存在だと考えていたと認識すべきなのでしょう。

交換価値の高い家畜や奴隷の生命、場合によっては高い地位の人間の血や手足といった肉体の一部、もしくは生命を捧げることもありました。

貨幣システムはまだありません。今なら高額の寄付をするところでしょう。現代の科学的因果関係の知識を持たない時代のことです。なぜこんなに長期間雨が降らないのかということに対し、それだけのコストを払う意味があると信じていたのです。また、人権思想もなく、他の価値と人命は比較・交換が可能でした。ある意味、人命のみを絶対化せず、他と平等に扱っていたとも言えます。

社会学的な視点で私は理解可能だと思っています。
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この回答へのお礼

自分なりに反芻させていただきます。ありがとうございます。

お礼日時:2006/03/25 07:11

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