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 「無常といふもの」小林秀雄さんのこの本の言っていることがぜんぜん判りません。
 小林秀雄さんはこの本の中で何をおっしゃりたいのでしょうか?
 また、参考になる解説本などありましたら、ご紹介していただけますでしょうか。
 よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

曖昧模糊たる質問で、手のつけようが無い、といった印象ですね。


しかも「無常といふもの」とおっしゃいますが、正確には「無常という事」ではないですか?

おそらく(失礼ながら)「ぜんぜん判りません」という以上、先の回答者が紹介されたサイトを覗いてみても、やっぱり変わらないでしょう。いや、余計に混乱するに違いありません。

そこで私見を、ごく簡単に、あっけらかんと述べてみます。
(小林流韜晦に感染する手合いは、見ていてうんざりですから)

まず、「無常といふもの」というタイトルに誤魔化されないほうが良いですよ。小林は、「無常感」などにテーマを絞って論述していませんから。
むしろ、一種の「タイムスリップ体験」を繰り返し述べている。そこに潜む得意げな口調に耳を澄ますべきです。小林は、自分のタイムスリップを自慢しているのです。
まずそこを押さえてください。

それを彼は、「思い出す」というキーワードを駆使して語ります。
たとえば、エッセイ「無常という事」によれば、比叡山を散策中、彼はトリップ状態に入ります――「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。」
エッセイ「蘇我馬子の墓」によれば、飛鳥を歩きつつ、トリップ状態に入る――「山が美しいと思った時、私はそこに健全な古代人を見つけただけだ。」
また、別の本ですが「モオツァルト」によれば、小林は、大阪の道頓堀をぶらついている最中、トリップ状態に入ります。逆説的な表現ですが、「モオツァルトの音楽を思い出すというようなことは出来ない。それは、いつも生れたばかりの姿で現れ」るという風に書いています。

小林秀雄は、それらの瞬間、瞬間を非常にいとおしむわけです。
「無常という事」では、それを「美学の萌芽とも呼ぶべき状態」と名づけ、「蘇我馬子の墓」では「芸術の始原とでもいうべきものに立ち会っ」たのと言い、「モオツァルト」では、音楽が「絶対的な新鮮さとでもいうべきもので、僕を驚か」したと言う。
すべて、彼に言わせれば、始原的瞬間「とでもいうべきもの」なわけです。
小林は、そのつど、始原的な時空へスリップし、自慢する。
(あたかも、極めて困難な月面への有人飛行から帰ってきた英雄気取りで)

そしてこれを、歴史(的人物)をめぐる様々な解釈に対する「解毒剤」というか、根本的な批判にしているつもりなわけです、彼は。
言いかえれば、テクニックを駆使して対象に切りこんでいったり、アプローチしたりする研究方法を、嫌っているわけです。
具体的には、同時代的に勢力のあったマルクス主義とかヘーゲルとかが仮想敵なのでしょうね。私はよく知らないですけれど。

要するに、特殊な「思い出し」方で始原的な時空へスリップするほうが、考察の対象をまざまざと把握できるよ、というのが小林の言いたいことです。
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この回答へのお礼

 うまい説明ですね~。
 感動しました。
 スリップしてトリップしているわけですね。
 なるほどなあ~、と思いました。
 理詰めではなく、ピカソのような芸術なのかなあ、と理解していますが、いかがでしょうか。
 ありがとうございました。
 感謝しております。

お礼日時:2006/03/30 12:04

前回の小林秀雄の質問で回答した者です。


どういうふうに書いたらいいか、しばらく考えていました。
おそらくこういう書き方はまだるっこしいと思われるでしょうが、それしか思いつかないので、しばらくおつきあいください。

まず、商取引ということを考えてください。
物を売り買いするときというのは、売り手は、これは何のための商品であって、いくらの価値を持つものだ、と、まず宣言します。こうして買い手が売り手の条件を認めたとき、取引は成立します。

本の場合は、これとは逆に、読者はまず先に取引を成立させてしまってから、条件をさがします。これは「何のための本」なのだろう、と。
よくわからない機械を「おもしろそう」と買ってしまうのに近いのかもしれません。

読んだのはいいけれど、書いてあったことがよくわからなかったとき、不安になりますね。
それは、その「何のため」がわからないからの不安です。自分はお金を払って本を買って、おまけに時間もかけて、苦労しながら字を追いかけ、ページをめくったのに、これはムダだったのか?

「著者の言いたかったことは何か」というのは、「何のため」かを知ろうとする問いのひとつのバリエーションです。
よくわからない機械を買ったら、まず考えることはそれでしょう。これは何のための機械なんだろう。

ところで、この「何のため」に答えられない種類のものがあります。
たとえば、わけのわからない彫刻とか、抽象画とか。
ひとつの納得の仕方は、「これは芸術だ」というやりかたです。
これは、芸術だから、「何のため」ではなくてもいいんだ。
芸術だから、価値があるんだ。そういって、わからなくても「ムダ」ではなかった、と納得するやりかたです。そう思って、飾っておきます。そのうち、ほこりをかぶって忘れられてしまいますが。そんな彫刻、駅前にたくさんありますね。

もうひとつは、「わからないけれど、好き」っていう納得の仕方です。
変なことを言うようですが、人を好きになることに理由はありません。理由があるような相手の場合、たいがい、そのうち好きじゃなくなってしまいます。つまり、なんで好きなんだろう、って考え続けることが、相手が好きだ、ということの要素のひとつなんです。
わからないけれど、好き、なんじゃなくて、わからないから好きなんです。

さて、小林秀雄の評論は、「何のため」かわからない機械のようなものです。
だから、ひとつのやりかたとして、「難解なもの」「ありがたいもの」「芸術」「詩」とレッテルを貼って、ありがたがって、忘れてしまう、という方法があります。

もうひとつは、「わからないけれど、好き」と納得してしまうことです。

詩ならば、それでもいいかもしれない。
評論という文章で、それをやるのは反則じゃないか、と小林秀雄の批判者は、昔からそう言い続けてきました。
それはそうです。
けれども、それだけではおさまりきらない魅力があるのも、また事実なんです。

さて、前置きが長くなりました。
まず、小林の評論で「筆者は何が言いたかったのか」という質問に意味がないことは、おわかりいただけたでしょうか。

それでは、どういう質問が正しいか。
それは、「何が書いてあるか」を読むことです。

まず、『一言芳談抄』の引用から始まります。

『一言芳談抄』を読んでみましょう。ちくま学芸文庫から『一言芳談』として出ています(いま検索してみたら、手に入れるのがむずかしいみたいですが図書館に行ったらあります)。仏教の話で、わたしは読んだってちっともわからなかったんですが、それでも、この冒頭に引用された部分だけは、このよくわからないなかで、独特の色合いを持って浮かび上がってくるものであることは感じられます。おぼろげに、小林が「いい」と思ったのは、ここらへんを言っているのかな……ぐらいの感じはつかめるかもしれません。

つぎに小林は、この部分を思い出したときのことを書いています。
青葉や石垣を眺めながら、同時に、「この短文が絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび」とあります。
だから、絵巻物を見てみます。なんでもいいです。図書館に行って、画集を探してみましょう。『源氏物語絵巻』でもなんでも、よくよく見て、「古びた絵の細勁な描線を辿る」ことをやってみます。

そうして、「古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわた」る、というのが、どういう感じなのか。そんなふうに、本のある一節が、「心に滲みわた」る、というのを、追体験してみます。

「何が書いてあるか」を読む、ということは、そういうことです。
多くの論説文というのは、そうしたことの説明が書いてあります。けれども、小林の文章には、そうしたこと一切が落としてあるために、この短文に「何が書いてあるか」を理解するためには、膨大な読書と知識と経験が要求されます。

「あまり早く理解される文章は長続きしない」と小林が言った、と中村光夫の評論『小林秀雄(小林秀雄小論I)』(中村光夫全集第六巻)に書いてあるのですが、まさにそういうものとして、あるのだと。
もし、理解しようと思うなら、どうか時間をかけて、理解していってください。
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この回答へのお礼

 すばらしい解説ですね。
 う~ん、この解説に感動してしまいました。
 前回に引き続き、回答していただいてありがとうございます。
 小林秀雄、ドストエフスキーなどについてこれからも質問していくかもしれません。
 また、なにか教えていただければうれしく思います。 
 ありがとうございました。
 

お礼日時:2006/03/30 11:56

【ある世代の人々には周知のことであろうが、小林秀雄はその随筆、「無常といふ事」を、『一言芳談抄』の中のある一節の引用から始める。

それをまず、小林の引いている通りに引用し、紹介しておこう。それはこうである(1):】

上記のような書き出しで始まる「無常といふ事」の内容を解説したURLがありましたのでご紹介致します。

http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/tohoku/tamayori …

参考URL:http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/tohoku/tamayori …
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この回答へのお礼

 教えていただいてありがとうございました。
 けっこう、小林秀雄さんの解説のサイトは少ないんですね。
 とても参考になります。
 ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/28 10:49

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Q小林秀雄さんの無常ということがわかりません

今、学校で無常ということについてやっていてもうすぐテストなのですが、分からない事があるのでいくつか教えていただけるとありがたいです。

1.どうして作者は、鎌倉時代に生きていないのに「あの時は実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかもしれぬ。」となるのですか。
この、「あの時」とは、比叡山に行って短文が突如心に浮かんだ時でいいのですよね?

2.筆者は「歴史」と「思い出す」ということの関係をどうあるべきだと思っているのか。
筆者は「歴史」も「思い出す」ことも肯定的に見ていると私は読み取ったのですが、関係をどうあるべきか、と問われるとわかりません。

3.「この世は無常(全てのものは移り変わる?)とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。」とありますが、「一種の動物」とは、「鑑賞に堪えないしかたのない代物」でいいのですよね?そうなると、いついかなる時代でも人間が一種の動物的状態に置かれるというのは、過去・歴史にはあてはまらず矛盾するとおもってしまったのですがどうですか。

4.「現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである」とありますが、それは、現代人は動く事無い固定点を失ってしまったので、移り変わるものの基準を認識できないということ、でいいですか。


質問がわかりにくくなってしまってすみません。
どなたか分かる方は教えてください、よろしくおねがいします。

今、学校で無常ということについてやっていてもうすぐテストなのですが、分からない事があるのでいくつか教えていただけるとありがたいです。

1.どうして作者は、鎌倉時代に生きていないのに「あの時は実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかもしれぬ。」となるのですか。
この、「あの時」とは、比叡山に行って短文が突如心に浮かんだ時でいいのですよね?

2.筆者は「歴史」と「思い出す」ということの関係をどうあるべきだと思っているのか。
筆者は「歴史」も「思い出す...続きを読む

Aベストアンサー

小林秀雄を読むときには、本当の意味で素直になって考えたり、自分自身の頭で考えたりするのがいかに難しいかを身に沁みてわきまえることが、そのためにも、自分の頭がいかに余計な先入観、偏見、雑念等々に囚われすぎているかをきちんと自覚できることが強く求められるのではないでしょうか。
もっとも、実際には、かく言う私自身にとってもなかなか難しいことではありますが。

>1.どうして作者は、鎌倉時代に生きていないのに「あの時は実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかもしれぬ。」となるのですか。
>この、「あの時」とは、比叡山に行って短文が突如心に浮かんだ時でいいのですよね?

小林は、「あの時」にこそ、鎌倉時代の人々の切実な本物の思想、つまり「なま女房」の心を自分自身の心として感じ取っていたからでしょうね。
なお、われわれが歴史と向き合うというのは、それが鎌倉時代であろうと、他の時代であろうと、とにかくその時代を生きた人々の魂に参入することだ、と小林は言いたいようです。

>2.筆者は「歴史」と「思い出す」ということの関係をどうあるべきだと思っているのか。
>筆者は「歴史」も「思い出す」ことも肯定的に見ていると私は読み取ったのですが、関係をどうあるべきか、と問われるとわかりません。

小林は、「歴史」という言葉をめぐるこれまでの呪縛から自分の頭を解き放ち、過去の人々の生きた証や痕跡(ここでは『一言芳談抄』のなま女房のエピソードや『徒然草』といった歴史資料や遺品のこと)をよすがにして、当時の人々の心をありありと「思い出す」ことが本当の意味での「歴史」だと言いたいのです。

>3.「この世は無常(全てのものは移り変わる?)とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。」とありますが、「一種の動物」とは、「鑑賞に堪えないしかたのない代物」でいいのですよね?そうなると、いついかなる時代でも人間が一種の動物的状態に置かれるというのは、過去・歴史にはあてはまらず矛盾するとおもってしまったのですがどうですか。

「人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」という言葉が示しているように、小林は、いつの時代であろうと、生きている人間はまだ発展途上の動物状態にあり、死んではじめて完成された、本当の意味での人間になると言いたいわけです。
その意味では、まだ動物段階にある、人間としては中途半端なわれわれが軽々に「自分の価値観」などという怪しげなものを振りかざさない方が賢明だ、ということになるかもしれませんね。

4.「現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである」とありますが、それは、現代人は動く事無い固定点を失ってしまったので、移り変わるものの基準を認識できないということ、でいいですか。

「固定点を失ってしまった」と言うよりは、現代人が人生における確たる目的や生き甲斐を見失い、時代の表層現象に流されているという自覚がないということでしょうね。
それに較べると、鎌倉時代の「なま女房」は、「此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へ」と念じ、浄土欣求という確たる目標だけを信じて「此世」を生きられたということになります。

テスト、頑張って下さいね。

小林秀雄を読むときには、本当の意味で素直になって考えたり、自分自身の頭で考えたりするのがいかに難しいかを身に沁みてわきまえることが、そのためにも、自分の頭がいかに余計な先入観、偏見、雑念等々に囚われすぎているかをきちんと自覚できることが強く求められるのではないでしょうか。
もっとも、実際には、かく言う私自身にとってもなかなか難しいことではありますが。

>1.どうして作者は、鎌倉時代に生きていないのに「あの時は実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そう...続きを読む

Q小林秀雄のやさしい解説書

 小林秀雄を理解したいと思います。
 「様々なる意匠」「無常といふこと」を読んでもほとんど意味がわかりませんでした。
 小林秀雄に関する解説書が少なくて見つけるのに苦労しています。
 高校生にもわかるようなやさしい解説書、またはサイトがあれば紹介してください。
 
 

Aベストアンサー

小林秀雄は、フランスの十九世紀から二十世紀の文学や思想(ランボー、ヴァレリー、ベルクソン)を学ぶことから出発し、西洋思想そのものの研究に向かうのではなくて、自分自身の問題意識に向かっていった人です。

文芸批評の分野でおもに活躍したけれど、モーツァルトやゴッホ、あるいは実朝や本居宣長、といった「創造的な天才」を語りながら、そのじつ、つねに自分自身を語っていた。
小林秀雄のむずかしさもおもしろさも、そういうところにあると思います。

たとえば、加藤周一は『日本文学史序説(下)』(ちくま学芸文庫)のなかで、このようにいっています。

「小林秀雄の文章は、おそらく芸術的創造の機微触れて正確に語ることのできた最初の日本語の散文である。その意味で批評を文学作品にしたのは、小林である。しかしそれほどの画期的な事業は、代償なしには行われない。代償とは、人間の内面性に超越するところの外在的世界――自然的および社会的な世界――の秩序を認識するために、有効で精密な方法の断念である。」(p.501)

批評文、あるいは論説文というのは、ひとつないしはひとつながりの問題から出発するものです。
その答えを得るために、確実なところから出発し、論理を積み上げていきます。そうして、本に書かれているのは、その答えです。

多くはその「問い」は書かれていませんから、読み手は、読むことを通じて、逆にその「問い」を、自分の手で作り上げていかなければなりません。

ところがフィクションは、そういうものではありません。
全体が問いであり、同時に答えでもある。
もちろんわたしたちは筋道をたどりながら読んでいくわけですが、その問いも答えも、自分で見つけ、答えていかなければなりません。

小林の評論は、「創造的な天才」が芸術作品を作り出すその現場、たとえば吉田兼好が『徒然草』を書いた動機、本居宣長が古代文献の研究に向かった動機を、自らに重ね合わせつつ洞察し、それを非常にいきいきとした描写で描く。わたしたちはこれを読むと、ハッとするし、おそらくそうだったにちがいないと思い、感動するし、兼行や宣長を「生きた人間」として感じることができる。けれども、それが批評のありかたとして、どこまで有効なのか。

小林秀雄の作品は、そういうものであると思います。

たとえば、小林の著作のなかでも比較的読みやすい『蘇我馬子の墓』を見てみると(いや、単にわたしが好きだというだけなんですが…)、こんな文章から始まっています。

「岡寺から多武峰へ通ずる街道のほとりに、石舞台と呼ばれている大規模な古墳がある。この辺りを島の庄と言う。島の大臣馬子の墓であろうという説も学者の間にはあるそうだ。私はその説に賛成である。無論、学問上の根拠があって言うのではないので、ただ感情の上から賛成して置くのである。この辺りの風光は朝鮮の慶州辺りにいかにもよく似た趣があると思いながらうろつき廻っていると、どうもこの墓は、馬子の墓という事にして貰わないと具合が悪い気持になってきたのである。」

文章の展開のさせかたも、断定も、実に小林秀雄らしい文章ではないかと思います。
このなかには、蘇我馬子のことも、聖徳太子のことも、聖徳太子の仏教思想のことも、馬子の墓が当時珍しい石造り建築であることも、日本の木造建築の繊細さ、滅びやすさも、歴史ということも、伝統ということも書いてあります。そういったさまざまなことがらが、一種の模様のように織り上げられた、美しい布を見ているようです。

「理解したい」とおっしゃる質問に、こう回答するのも、とぼけた話なのですが、わたしもまた、「理解したい」と思います。そうして、その理解というのは「著者は何が言いたかったのか」ではなく、たとえばこんな文章「ある種の記憶を持った一人の男が生きて行く音調を聞いただけである」(『蘇我馬子の墓』)を。
おそらく、心に残った部分を胸の内で反芻し、忘れ、また読み返し、そうやって少しずつわかっていくようなものではないか、と思います。

なお、小林秀雄に関しての評論というと、中村光夫が比較的まとまったものを書いています。大きい図書館に行ったら、筑摩から出ている『中村光夫全集』の第六巻「作家論(四)」に「さまざまな意匠」含め、いくつかの評論が収められています。

小林秀雄は、フランスの十九世紀から二十世紀の文学や思想(ランボー、ヴァレリー、ベルクソン)を学ぶことから出発し、西洋思想そのものの研究に向かうのではなくて、自分自身の問題意識に向かっていった人です。

文芸批評の分野でおもに活躍したけれど、モーツァルトやゴッホ、あるいは実朝や本居宣長、といった「創造的な天才」を語りながら、そのじつ、つねに自分自身を語っていた。
小林秀雄のむずかしさもおもしろさも、そういうところにあると思います。

たとえば、加藤周一は『日本文学史序説(下...続きを読む

Q小林秀雄「無常という事」より「徒然草」について

30年来の疑問です。自分なりに分かったつもりで長年、過ぎていました。
 
「兼好の苦がい心が、洒落た名前の後に隠れた」とか「物が見えすぎる目をいかに御すか」とか、小林秀雄流の心をくすぐるすてきなアフォリズムで、勝手に理解した気になってしまいました。

短文の最後に「鈍刀を使って彫られた名作」として40段の「因幡の国の栗好きな娘」のストーリーが載っています。小林がこのストーリーを提出することで何をいいたいのかがわからぬまま30年経ってしまいました。

小林自身の回答でなくともいいのですが、「無常という事」を読んだ方々の個人的な回答が知りたいです。どうか、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

信ずる事と知る事、に通じるのではないでしょうか。

単純な解かもしれませんが、米を常食とする通念的なエートスと、栗が好きだという全く個人的な嗜好を並べてみて、他人様は勝手な判断を、あたかも公理のように打ち立てる、という、世間の不思議というものを、風刺的な口調を排して、指したのでは。
(風し的口調を使っていない、という所が鈍刀という訳です。)

例えば、世の中の人は皆人魂を信じないが、僕は信じる。世の中の人が皆信じないという事実を以って、僕もまた信じないとする事には意味がない。いや、もっと言えば、そういう事をする人というのは、そもそも、信じるという事に無知な人だと言えよう。万人に例外なく理解されるが如く知り、自分自身が実感を持って信じられる事を、たとえそれがどんなに他の人から見たら(通念に毒されている人から見たら)異様な事であっても、信じるものは信じるという、そのままの生き方やあり方の態度は、それ自体で美しい筈である、と、小林は言いたいのです。

と、そんな風に思います。
そして、このことは、晩年の「本居宣長」にそのままつながっている、小林の深い確信であったに違いありません。

信ずる事と知る事、に通じるのではないでしょうか。

単純な解かもしれませんが、米を常食とする通念的なエートスと、栗が好きだという全く個人的な嗜好を並べてみて、他人様は勝手な判断を、あたかも公理のように打ち立てる、という、世間の不思議というものを、風刺的な口調を排して、指したのでは。
(風し的口調を使っていない、という所が鈍刀という訳です。)

例えば、世の中の人は皆人魂を信じないが、僕は信じる。世の中の人が皆信じないという事実を以って、僕もまた信じないとする事には意味がな...続きを読む

Qサークル勧誘の上手な断り方

四月から大学生になるため先日入学手続きのため大学へ行きました。

そこで色々なサークルから勧誘を受けました。そこで私は断れない性格であるため色々なサークルに自分の名前、学部、電話番号、メールアドレス等を教えてしまいました。特にアメフト部の勧誘がすごかったんです。私がラグビーをやっていた(←言わなきゃ良かった)と言ったためものすごく手厚い歓迎をしてもらいました。胴上げに、部室に連れて行かれて長い時間、大学、アメフトのこと、また写真も撮りましたし、お菓子などをご馳走になりました。その日はこれで終わりました。

正直まだサークルをやるかどうかも決めていません。しかしこのアメフト部のやさしい歓迎を断るとなんか正直怖いです。アメフト部ってごつい人が多いし、断って大学に入学した後、アメフト部の人に目をつけられてもいやです。
でもおそらく上手な断り方をすれば納得してもらえるような雰囲気のサークルでした。

また4月に入ればバーベキューやお花見など新入生歓迎のイベントを用意しているとのメールも届きどうしていいのか分かりません。
サークル勧誘の上手な断り方を誰か教えてください。よろしくお願いします。

四月から大学生になるため先日入学手続きのため大学へ行きました。

そこで色々なサークルから勧誘を受けました。そこで私は断れない性格であるため色々なサークルに自分の名前、学部、電話番号、メールアドレス等を教えてしまいました。特にアメフト部の勧誘がすごかったんです。私がラグビーをやっていた(←言わなきゃ良かった)と言ったためものすごく手厚い歓迎をしてもらいました。胴上げに、部室に連れて行かれて長い時間、大学、アメフトのこと、また写真も撮りましたし、お菓子などをご馳走になりました。...続きを読む

Aベストアンサー

他の方もかかれてますが、入りたくなければ黙って消えるなり、バイトなどを理由に断るなり、ちゃんと言えば大丈夫です。
歓迎が優しいのはあなたにだけではなく全ての新入生に対してそうですし、入部を断る人なんて多分山ほどいるのでいちいち覚えていません。
仕返しされることもありませんよ☆

新歓は他学部の友達を作ったり、学部に関する情報を仕入れたり、色々役に立ちます。私も半ば強引に誘われ嫌々行ったお花見で知り合った人と今も(今春より3回生)いい友達ですし、これまた渋々行った別の飲み会の雰囲気がすばらしく気に入って今ではそのサークルで楽しんでいます。
なので、イベントには色々参加してみることをおススメします。入る気がなくたっていいんです。誘う側からすれば人数多ければそれだけでうれしいので!!ただ飯食いまくりましょう!!笑

ただ、部なんかは早いところで5月くらいに入部を締め切ったりするので、入りたいなーと思ったらえいやっと決めてしまう覚悟も時には必要かもしれません。

あと一つ。もし質問者さんが本当に新歓とかイベントが苦手で、そういう連絡ですら困惑のもとになってしまうようなら、ウソのアドレス・番号を書くのです。さすがに飲み会とかで「交換しよ~」って雰囲気ならNGですが、ビラ勧誘で「じゃあ紙に名前と連絡先書いてっ」ってときはこの手で逃れましょう。

長々と失礼しました。大学は自分次第で楽しいものにもつまらないものにもできます。ぜひよい大学生活を♪

他の方もかかれてますが、入りたくなければ黙って消えるなり、バイトなどを理由に断るなり、ちゃんと言えば大丈夫です。
歓迎が優しいのはあなたにだけではなく全ての新入生に対してそうですし、入部を断る人なんて多分山ほどいるのでいちいち覚えていません。
仕返しされることもありませんよ☆

新歓は他学部の友達を作ったり、学部に関する情報を仕入れたり、色々役に立ちます。私も半ば強引に誘われ嫌々行ったお花見で知り合った人と今も(今春より3回生)いい友達ですし、これまた渋々行った別の飲み会の雰...続きを読む

Q「適確」と「的確」の違い

「適確」と「的確」の違いを教えてください。辞書では同義となっていますが・・・。

Aベストアンサー

No.4です。再び失礼します。
あれからいろいろ調べてみたことをまとめてみます。

「適」と「的」の違いを考えてみます。
「適」は「かなう」という意味で、「その条件」に合うかどうかということ。
「的」は「まと」ですから、「その条件」自体が「まと」であり、「的を射ている(条件に合っている)」ということでしょうね。

だから、意味がとても似ているのでしょう。

●適格・・・「格」は資格の格。「適」は「かなう」。資格に合っている、という意味。反対語は「失格」(「不適格」もありますね)。

●的確・・・「的」という字を用いていますので、「的を射た」あるいは「的を外さない」という意味。大事な点は押さえている(あるいは外していない)状態。いずれにせよ、「的」には面積がありますので、「ぴったり」(的の中心)から一定の許容範囲があります。

●適確・・・ほぼ「的確」と同義だけれど、あえて使い分けをするならば、「最善の」、「必要かつ十分な」という意味。法令用語としても、こう解釈すれば理解しやすいですね。あるいは、No.2様のご回答にある「適正確実」、「適切確実」と読み替えるのも一法。

http://www.bsmanner.net/2007/07/post-226.html
http://www.kyoiku-shuppan.co.jp/kokugo/tebiki.html

http://www.nararoudoukyoku.go.jp/gaiyou/h19gaiyou/04.html
ちなみに、このサイトでは、「適確」を「適正かつ効率的」、「的確」を「迅速・適正」の意味で使用しているようです。もっとも、国語として吟味されたわけではないでしょうが・・・。(さて、「適確」と「的確」はどこにあるでしょう?探してみてください。笑)

No.4です。再び失礼します。
あれからいろいろ調べてみたことをまとめてみます。

「適」と「的」の違いを考えてみます。
「適」は「かなう」という意味で、「その条件」に合うかどうかということ。
「的」は「まと」ですから、「その条件」自体が「まと」であり、「的を射ている(条件に合っている)」ということでしょうね。

だから、意味がとても似ているのでしょう。

●適格・・・「格」は資格の格。「適」は「かなう」。資格に合っている、という意味。反対語は「失格」(「不適格」もありますね)...続きを読む


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