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テレビなどを見てもそうですが、英語をしゃべる人たちは顔の表情の動きやジェスチャーが日本人に比べて激しいように思います。
私はこれを言語的な理由があると思うのですが、この考えは正しいでしょうか?
英語圏の人たちの表情が極端なのはどうしてなのでしょうか?

専門的意見も個人的意見も歓迎です。

A 回答 (7件)

Gです。

 補足質問を読ませてもらいました。 遅くなりすみませんでした。

>2番目にご回答いただいたamiigonnさんのご回答にもあるように、あるフランス人女性の方は言語の性質の差によってジェスチャーなどの必要性も変わると証言しています。

これはその人個人の感想・せりふであって英語をしゃべる人すべてが心底から感じている(いわれてみてやっと考えるレベルであっても)いることではないと思います。 もっと人間性が伴っているはずだと私は思うわけです。 それが、人間社会と言う非常に複雑な環境からの「影響」によるものだと私は感じるわけです。(#4で書いたことと同じです)

このカテで時々見ますが、おかしな言葉遣いをする回答を見るときがありますが、匿名の社会だからできることであって、人前でするような表現ではないでしょう。 何故って、そのようなしゃべり方をしたらその社会での「反応」がいいものではないということを知っているはずだと思うわけですね。 (もっとも、そのようなことも知らない人なのかもしれませんが) また、職場で上司にそのようなしゃべり方をしたり、誰かに何かをしてもらいたいときにそのようなしゃべり方をしたらとてもしてはくれないでしょうし、街中で「ある社会の人」にそのようなしゃべり方をしたら「夜道は暗いよ」だけではすまないことにもなるでしょう。

ひとつの例としてあげましたが、「悪い反応」を心配しない「匿名の社会」だからできることで、普通の社会ではその社会の「暗黙の決まり」に従ってしゃべり方、態度・姿勢などを「要求」され、それが、今回の表情と言うことにも影響しているのだと私は信じるわけです。

>それに、日本語は感情や個性の表現にすぐれていると聞きます。

これはほとんどの近代言語で言えることだと思います。 日本語の母音の数が少ないと言うことからひとつの発音のに広い幅を持たせても通じる、と言うこともあるでしょう。 また、逆に感情や個性の表現が優れていると言っても、社会がそれを支配すると言う「昔ながらの」事実からしてみれば、「その社会に応じていろいろな表現を知らなくてはならない」と言うことになり、それ自体が常識の一部として認識され、上に書いたようにおかしな表現に対しての人格的判断も下されることになり結局本人にとってよくないことがおきるわけですね。

これは「私」の意味を持つ表現だけでも、それらの表現に伴う社会的に求められた・認識されたフィーリングがあるため、このカテで「俺は」と言う表現を使えばそれなりに「回答自体の評価につながる」と言うことになるわけですね。

だからこそ、英語を習い始めたときに日本語の警護についての質問も当然出てくるわけです。 丁寧な表現は良い、下手をすると、正しいと言う人も出てくるわけです。

表情と言うことから少しはなれてしまったと感じるかもしれませんが、表情が表現方法のひとつと考える私としては、言語がそうしているのではなく社会がそうしているのだということを書かせてもらいました。

>Ganbatteruyoさんは日本語と英語を両方体得されている方だと思いますが、英語と日本語をしゃべる時を比べてみて、英語をしゃべる時は相手に感情を伝えにくいなどの感覚はありませんか? 私が思うには、英語では言語的性質から感情を相手に伝えにくいから、ジェスチャーや眉の動きなどをオーバーにして表現しきれない部分を補っていると考えています。そんな感覚はないでしょうか

私にとって英語はしゃべれれば良いと言うレベルではないのです。 日本語はしゃべれれば良いというレベルです。 英語では日本語に多い「あいまいな」感情の表現が少ないですね。 本音の感情を感じるのは日本語の方が難しいです。

もっとも私の場合は英語と言う言葉を媒体としてアメリカ人以上のことをしなくてはならないという立場から言葉の技術的なことは知識の一部にしなくてはなりません。 文法と言う「分類学的解釈」を何故私は遠のけるのかお分かりだと思います。 大雑把に物事を分け始めそれを「頼り」にしていては言葉からの「判断」はできなくなるのです。 判断ができなくては私がしているようなことはまったく無理とも言えるでしょう。 しかし、上には上がゴサマンといます。 彼らから前向きにその技能を吸収し続けることは必須ともいえるでしょう。

つまり、人間の持つフィーリングを表現できなくてはその言語には「疎い」と言う結果になってしまうということを身にしみて経験しています。 だからこそ、このカテで、英語を使いこなせるようになりたいなら(試験英語ではなく)フィーリングと言うものをもう一度見直さない限り夢は達成しないとまで私は言うわけです。

ではまたの機会に(そのときは私の日本語はよくなっているかもしれません<g>)
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この回答へのお礼

二度目の質問に答えてくださってありがとうございます。
実はちょっとした論文を書いていたのですが、おかげさまでたくさんの誤った記述の発見ができました。そして新たに書くべきことまで見つけることができました。

力を貸してくださってありがとうございました。

お礼日時:2006/04/12 19:40

#2ですが、


「英語ではフランス語ほどにはニュアンスの違いを語法で表すことができないので、イントネーションや言い方、表情や身振りも含めて・・・」これはフランス語を勉強しているが、まだそれほど使いこなしているわけではない一人のアメリカ人の個人的な「感想」で、専門家の意見でもなくほかのアメリカ人がみな同意するとも思えません。
単に彼女は、「フランス語は複雑な文法でニュアンスの差異をあらわせるなんて素晴らしいですね」とお世辞か、あるいは皮肉を言ったのかもしれないですし。

私は今は日常的には英語もフランス語も使わないですが、先日街でATMの場所を英語で教えてあげたことを思い出しました。
「日本以外で発行されたカードでの現金引き出しなら、日本では普通の銀行ATMでは使えないので郵便局へ行かないといけなくて・・」などといつもの単純な道案内よりも話が長くなったので、そのときの状況を覚えています。
みょうに口の形をはっきりさせて自分が発音していたことと、声の出し方も違っていたと思います。ふだんより「言葉をはっきりと発音する」ようにしゃべっていました。
日本語ならそんなしゃべり方をしたら変、みたいな身振りもしていたかもしれません。

日本語が「感情や個性の表現にすぐれている」のではなく、むしろ日本語でしゃべると日本社会で善しとされているような「感情や個性をあまり表にださない」話し方になるのではないか、あるいは日本語は感情や個性を表現するのが下手なのではと思います。

日本語を話すときは、本当ならもっと簡単に「私はそれは嫌いです」と言いたい場合でも、そんな言い方をしたら「わがままで自己中心的な人だ」と思われないだろうかと、婉曲的に断る。泣いたりわめいたりしたくても、そうはしない。そんな態度が身についてしまっています。
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この回答へのお礼

たびたびの回答ありがとうございます。

どうやら、一概に結論はだせない、という気がしてまいりました。

お礼日時:2006/04/12 19:24

前の方々と共通する意見になるかと思いますが、日本では暗黙の了解ということがたくさんあります。

言語的にも、主語を使わなくても、話していることが、「わたし」のことなのか、「わたしたち」のことなのか、「あなた」のことなのか等、誰のことを話しているのかがわかります。

私はフランスに長く住んでいますが、フランス語でも英語と同じように、ほぼ必ず主語を入れないと、文になりません。そういう文法的意味からも、自分自身の主張をはっきりいわざるを得なくなり、それにともない顔の表情も激しく変わることもあるかと思います。また、言語によって、子音や母音の数も違ってきますし、発音する音によって息の出し方、吸い方、口の中で使う場所や、使う顔の筋肉も変わってきますよ。そんなことも、表情の違いに関係するかもしれませんね。

また、言語だけでなく地域による違いも出てくるかと思います。例えば、フランスでは北の人より南の人の方が、ジェスチャーも大きかったり、話すスピードも速かったり、アメリカではどうでしょうか。

いずれにしても、生活している社会の影響が大きいのは確かで、私もフランスで生活するうちに、フランス人と同じジェスチャーを使うようになりました。

「英語では言語的性質から感情を相手に伝えにくいからジェスチャーや眉の動きなどをオーバーにして表現しきれない部分を補っていると考えています。」というご意見ですが、日本語と比べてしまうとそう言えるのかも知れませんが、英語だけで、あるいは他の外国語だけの世界で、生まれた時から育ったとしたなら、その与えられた言語で感情の表現の仕方も習得するわけで、もちろんその人たちは感情が伝えにくいと言う感覚はないでしょうし、日本人同士で日本語でしゃべっていても、感情が伝わらないことも多々ありますよね。また、2ヶ国語以上ある程度話せる場合、日本語より外国語の方が率直に自分の感情を伝えやすいと言う場合もあるかと思います。

英語圏の話でなくてごめんなさい。お考えの参考になればと思い書きました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

>言語によって、子音や母音の数も違ってきますし、発音する音によって息の出し方、吸い方、口の中で使う場所や、使う顔の筋肉も変わってきますよ

このところがたいへん参考になりました。

お礼日時:2006/04/12 19:11

アメリカに37年半住んでいる者です。

 私なりに書かせてくださいね。

はい、言語的な理由があります。 しかし、言語歴史的ではありません。 使われている言語の社会に影響されていると言う言語的と言う意味です。

英語だから、アメリカ人だから、と言う事ではなく、アメリカ人のほとんどが顔の表情の動きやジェスチャーはフィーリングを伝えるためのものであり言葉と一緒に遣うもの、と言う社会に育って生きているからと言う事なのです。

ですから、このカテでも何回も書きましたが、英語を習うときに文字だけでなく、発音だけでなく、イントネーション、顔つき、口調、ジェスチャーと一緒に習いなさい、そうでないと英語として支えないときがありますよ、と。 だからCDよりもDVDで英語を勉強してください、と言うわけです。

この社会の影響と言う事は変化する社会ではその変化も言語的に影響を与えます。

例えば、昔から結婚式では喜びを表すな、といわれてきましたね。 しかし、いつの間にか、うれしいはずの式場では当然そのうれしさを出している人が増えましたね。 

逆にアメリカに来てジェスチャーやしぐさを覚えた人が帰国し日本でそのジェスチャーもするとおかしく感じますね。 しかし、これが多くなり、社会的にも定着してくればそれなりに体全体での日本語表現方法と言うものも変わるわけです。

その逆がこちらでも起こっています。 ご存知かもしれませんが、私はこちらで空手を教えています。 「神妙さ」を尊ぶ道場の雰囲気では普通どおりの素振りや顔つきをしないで英語をみんながしゃべります。 これは、茶道や華道をしている人たちもその状況では「同情と言う社会」の基準に基づいて言語を使います。 ひとつの躾、つまり、その社会での「育ち」なわけですね。

つまり、日本でもアメリカでも顔の表情をどのように大人の人たちはしているかと言う事を自然に子供の頃から習得して言っていくわけですね。 

また、同じ日本でありながら、ラップなのの歌手たちが歌っているときの顔の表情をどうでしょうか。 同じ日本人でありながら、その社会での基準になっているのかは私は知りませんが、結構アメリカ人以上に顔の表現が豊かです。

顔の表現を言葉の表現と重ねない事を美徳としてきた日本では、つまり、顔の表現が言葉の表現の一部としていなかった日本での社会が逆のアメリカではその社会的文化がなかったということに過ぎない、と言う事なのですね。

しかし私はこの「押さえつけられてきた体での表現」は他の押さえつけられてきた「人間だから出来る」社会的束縛とも言えるもろもろのことはもう既に戦後から始まってきているように減少していく道を歩んでいると思い、また、遠くない将来には日本語も多くの所(社会)で自由に顔の表現を「激しく」しても誰もなんとも言わない時代になると信じます。

つまり、文字による言葉の表現だけでは十分な表現とはならなく「あいまいな日本語表現」からフィーリングを「読み取る」と言う「面倒くさい」事をしたがらなくなっていくでしょうね。 結局、「はっきり言ってもらった方が楽なのよね」と言う愚痴がだんだん少なくなっていくと思うわけです。

と言う事で、子供の頃からの社会的影響でほかの人と同じことをすれば誤解がなくなるということを習ってきたからご指摘のような事が起きていると言う事です。

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。 

この回答への補足

たいへんわかりやすかったです。

要するに子供が周囲のマネをするのだということがわかりました。


ただ、せっかく37年もの間アメリカ暮らしをしている方なので、あなたの感覚について質問させてください。
2番目にご回答いただいたamiigonnさんのご回答にもあるように、あるフランス人女性の方は言語の性質の差によってジェスチャーなどの必要性も変わると証言しています。
それに、日本語は感情や個性の表現にすぐれていると聞きます。

Ganbatteruyoさんは日本語と英語を両方体得されている方だと思いますが、英語と日本語をしゃべる時を比べてみて、英語をしゃべる時は相手に感情を伝えにくいなどの感覚はありませんか?
私が思うには、英語では言語的性質から感情を相手に伝えにくいから、ジェスチャーや眉の動きなどをオーバーにして表現しきれない部分を補っていると考えています。そんな感覚はないでしょうか?

私がこの質問たてたのも、これを確認するためでした。

補足日時:2006/04/04 01:00
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この質問は裏を返して言えば、


「日本人の表情は、
 英語圏の人間に比べて変化がないのでしょうか」
ということになります。

この視点から考えてみると、
解りやすいのではないかと思います。

様々な言い方があると思いますが、
日本人は感情を表に出さない事を美徳だと、
無意識的にたずさえている民族です。

…といったような事がよく言われます。

どっちが優れているかという考えはともかく、
思いを伝える為に、
わざわざ表情に出さなくても以心伝心できる、
感情を出さなくても、OKな社会なんですね。

英語圏に限らず、韓国などは、葬式の時に泣くのが仕事の人がいて、泣く時は、わんわんと、感情を隠さないで泣く人がいます。泣くと言う感情表現は他人に理解されないと、意味が無いものだという考えを持っていて、泣きわめかないと感情を伝えた事にならないので、泣く時は泣くというように、表情を大切にしているんですね。逆に、日本人は泣くときは、普通はしくしくと泣き、わめくように泣くのは、みっともないイメージに感じる人もいるのではないでしょうか。

葬式の時、わめくように泣く未亡人と、目じりをハンカチで押さえて静かに泣く未亡人、どっちが美か?(…すみません変な例えで)といったような、長年にわたる感性や習慣でうかがい知ることができるかも。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
詳しい説明をどうも。

それから、
>韓国などは、葬式の時に泣くのが仕事の人がいて、泣く時は、わんわんと、感情を隠さないで泣く人がいます。

これトリビアにだせそうですね

お礼日時:2006/04/02 19:37

フランスにいた時のことですが、フランス語の文法の時間にアメリカから来ていた女性が「英語ではフランス語ほどにはニュアンスの違いを語法で表すことができないので、イントネーションや言い方、表情や身振りも含めて気持ちを表現することになる」のようなことを言っていたのを思い出しました。



なるほど、とその時は思いましたがそれだけでは説明できない部分もあります。
たとえばアメリカ人に比べるとイギリス人はそれほど表情豊かには思えないのです。
英語圏のなかでもアメリカは多種多様なルーツを持った人たちによって作られた社会なので、異なった文化的背景を持った人たちと円滑に暮らしていくために、表情が重要な要素になったのではないかと思います。

日本人は別の文化的ルーツを持つ人たちと接することなく暮らしてきたことと、感情を表立って外に出すことが善しとされていなかったので、比較するとその差異がよりはっきり感じられるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
アメリカの女性の言葉、たいへん参考になりました。

お礼日時:2006/04/02 19:21

英語はヨーロッパで発達した言語ですが、ご存じの通りヨーロッパには複数の民族や国家がモザイクのように入り交じり、昔から他の国や多言語民族との交流が盛んでした。



つまり日本の様な閉鎖的で単一言語を所有する国家と異なり、日常会話も満足に話せない人たちと日々意思疎通を行う必要が歴史的にずっといまも続いています。

その為に、自分の意志や感情を言葉を補う意味も含めて顔の動きやジェスチャーで表現する文化が育ったのだと思います。
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この回答へのお礼

そうでしたか・・・
英語は日本語に比べて感情や個性を表現するのに優れていない為に、それを補うために顔などの表情の動きが激しいのだと思っていました。

いずれにしても回答ありがとうございました

お礼日時:2006/04/02 16:49

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