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哲学のカテか歴史のカテかわからないのですが。
とりあえず、哲学者といういうことで、このカテで質問します。

ジャンジャックルソーは、パリのパンテオンに偉人としてまつられていますが、没地のエルムノンビルには、今は何もないのでしょうか。
つまり、荼毘にふされた分骨が残っているとか。あるいは、当時は火葬でなく遺骸をそのままパンテオンに移葬したのか、そのあたりの事情をご存じの方は、お教え下さい。
また、その遺骸をジュネーヴ市が返還要求したというようなことがあったと何かの本で読んだような気がしますが、どこで読んだのか忘れてしまいました。勘違いかも知れません。そのあたりもご存じの方がお出ででしたら、教えてください。

A 回答 (3件)

エルムノンビル(Ermenonville)には、最初白鳥の島と言われ、今はポプラの島と言われる(Une "ile aux cygnes" y deviendra bientot "aux peupliers" et celebre...)島の中央にフランス人画家Hubert Robertによって1780年にデザインされた彼のお墓があります。



彼の信奉者であり,彼の教育思想にそって子供を育てたと言われ、彼を呼寄せた侯爵(le marquis de Girardin)によって彼の遺体は、領地内のポプラの島に埋葬(1778年)された。その後1793年10月11日にパンテオンに移葬(遺灰です。les cendres de Jean-Jacques Rousseau sont transferees d'Ermenonville au Pantheon.) された。分骨は無いようです。

下記サイトの画像が、エルムノンビルにあるポプラの島の彼のお墓です。
http://www.terresdecrivains.com/article.php3?id_ …

ジュネーヴ市とのやり取りは、残念ながらよく分かりません。
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この回答へのお礼

早速、ご回答いただいて有り難うございます。
やはり、分骨はないのですね。確かに、エルムノンビルは終焉の地ということだけで、そこに葬られることをジャンジャック自身望んでいたのではないのかも知れませんね。

ひとつの疑問は解けましたが、「ジュネーヴ市民」とまで、エミールなどに署名したルソーがその後のジュネーヴの対応から市民権を放棄下にも拘わらず。ルソーの名声が上がった後のジュネーヴの対応がちょっと知りたかったもので…
ともかく、有り難うございました m(..)m

お礼日時:2006/04/03 21:49

返還要求については分かりませんが,参考urlを見ますと,パンテオンの評価も紆余曲折しているようですね。



始めは教会として建てられ,1791年に非宗教化され、「偉人」の霊廟となる。19世紀には、右派勢力が抱く共和国への憎しみがパンテオンに向けられ,1814~1830年、1851~1885年には再び教会に戻され、左派の著名人(ヴォルテールとルソー、ヴィクトル・ユゴーとエミール・ゾラ、マルセラン・ベルトローとジャン・ジョレス)の遺骸が納められているために軽んじられた。とあります。

参考URL:http://www.ambafrance-jp.org/article.php3?id_art …
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。

パンテオンのボルテールの遺骸は、暴かれたとか、書かれていた資料を見たことが、ありますが、ルソーの遺骸もどうなんでしょうか。

お礼日時:2006/04/06 22:22

ルソーに関することでしたら,下記のサイトの本が簡潔にまとめられていると思います。


http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569623824/250-29 …

これにある記述をまとめますと,「エルムノンヴィルの邸内にある小さな島に埋葬された。その後,フランス革命が起こり,1794年10月にパンテオンに移送され祀られた。
1814年のブルボン王家復古後,ルソーの遺骸は,ヴォルテールのそれとともに,パンテオンから撤去されバラバラに捨てられた。」とあります。

ルソーはジュネーヴ(カルバン共和国,現スイス)出身です。当時,ジュネーヴは反カソリックの町でしたが,「エミール」は当時のジュネーヴとオランダでも発禁処分になっています。パリの大司教から逮捕状が出たあと,フランスを放浪し,ジュネーヴ市民権を放棄し,モティエやビエンヌに逃亡し,イギリスに亡命した後,エルムノンヴィルへ戻り晩年をすごしました。

ルソーがジュネーブ市民権の放棄を述べた書簡は,現ジュネーブ市(市立図書館)が買い取りました。日本や韓国では啓蒙思想家ルソーとして知られていますが,米英ではエドモンド・バーグの功績によりルソー否定を正統としているようです。

ちなみに,ルソーの胸像はデスマスクにもとづくそうです。額にある傷は死んだきにベットから落ちてできたものらしい。
http://opoponax.mo-blog.jp/curiositesphysinomiqu …

http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~ino/LaPeur.html

参考URL:http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=1 …

この回答への補足

回答有り難うございます。
ジュネーヴ市民の放棄の書簡がジュネーヴの図書館が競り落としたとうことは、知っているのですが、遺骸の召還があったのかないのか、やや私の記憶がはっきりとしないのです。
つまり、ブルボン家の復活の時にジャンジャックの遺骸は無くなってしまったのでしょうか。そうすれば、ジュネーヴ市からの召還の要求はそれ以前のことですよね。どうなのでしょう?

補足日時:2006/04/04 20:14
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