インドネシアの海で第2次世界大戦中の沈没船と思われる船がありました。船名が焼け落ちていえ船の由来がわかりません。どういう方法で調べればわかるのでしょうか?
船の正体がわかれば遺骨がもしあれば関係者の方の元に戻ることができると思っています。

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A 回答 (2件)

ご参考になるかどうかわかりませんが、まず沈船の場所(緯度と経度)を確認する必要があります。


次に、沈船の特定ですが、防衛庁防衛研究所資料閲覧室(防衛庁のホームページからリンクが張られています)を利用されてはいかがでしょうか?
ここには、旧日本陸海軍の戦闘詳細が残されており、一般の閲覧も可能です。
あとは、地道に、その場所で沈んだ船を特定していきます。
ただし、必ず情報があるという保証は出来ません。
事前に、軍籍・民間籍の船の沈没記録がありますか?と問い合わせてみたほうが良いでしょう。
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もし軍艦であれば、着底した日時・経緯度などが、各艦種ごとに載っている書籍で艦影を参考にある程度は判るかも知れませんが、商船や輸送船の詳しいものは見た事がありません。


軍艦なのでしょうか?
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Q第二次大戦中、日本統治下のインドネシアで民間人の死者が300~400万人って、どうしてそんなことに?

日本語ウィキペディアによると、第二次大戦中の日本の民間人の死者は50~100万人です。 ものすごい数とは思いますが、じゅうたん爆撃や原爆で理解可能です。 しかし、インドネシアの300~400万人という数字はみな民間人で(軍人の欄は死者なしです)ちょっと訳が分かりません。 日本軍がインドネシア人をじゅうたん爆撃したはずはないし。

Aベストアンサー

まず、インドネシアの犠牲者が400万人という説の元記事があれば
提示していただけれれば幸いです。
おそらく、インド350万人、ベトナム200万人、ビルマ15万人、
中国は1000万人、ニュージーランドやシンガポールなども
それなりの数字かもしれません。
そうそうたる数字が並んでいるなら、注意が必要です。



・インドネシア

インドネシアの場合、開戦初頭に戦闘はありましたが、
ほとんど戦死者は無く、その後は連合軍の戦略で取り残され、
終戦まで大きな戦闘はありませんでした。
では、この数字はどこから来たかというと戦時徴用による
労務者の数字が大部分と思われます。

少し古いのですが、インドネシアの教科書から引用します。

「全訳 世界の歴史教科書シリーズ32 インドネシア/その人々の歴史」
(帝国書院 1983年 原本は1977年)P134-135
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3...

 数百万《一説に30万》人のわが青年が捕らえられて,タイ・ビルマ
 といった外国で労務者(苦力)としてこき使われた。わが青年の
 大部分《一説に23万人》は再び祖国を見ることがなかった
 《後日,これらの人的被害は賠償請求の算定基準となる》。
 日本は残忍でその行動は横暴であったけれども,占領時代は
 われわれにとって利点もあった。

(以前の私の回答から一部抜粋しています。興味があれば回答履歴から
「大東亜戦争における東南アジアの人への対応」を参照してください)

この中にある労務者として使役されたのが一説で400万人です。
戦時中は過酷な使役でそれなりの犠牲者が出ましたが、
当たり前ですが使役された労務者が全員死亡した訳ではありません。
ところが、以前に日本の戦争犯罪を追及する方々が最大数として
提示して、それが流布されたものです。
ちなみに、戦後の賠償交渉で日本が主張した動員数は14~16万人で、
犠牲者数になるとさらに少なくなります。
実数の研究は未見ですので不明ですが、400万人説は誤りです。



本来の回答はここまでなのですが、参考意見も追記しておきます。

・ベトナム

ベトナムは開戦前に、宗主国であるフランスがドイツに降伏して
その関係で日本が無血で進駐したので本格的な戦闘すらありません。
200万人は餓死者で、ベトナムの独立宣言で主張されたものですが、
その根拠は不明で、一節には当時の人口(700万人)に最大の
被害を出した村の餓死した割合をあてはめたもの。
これも、賠償交渉時の数は20~30万人です。
実際に独立宣言で引用された時期は「昨年(1944年)末から
今年(1945年)はじめ」なので、この期間はフランス植民地政府が
統治していました。飢饉も政策も日本は関与していません。



・インド

有名なベンガル飢饉で350万人が餓死したとされていますが、
日本はインドまで到達すらしていません。



・ニュージーランド

最近のものには記載がなくなりましたが、
約1.2万人の戦死者が出ました。
ただし、これは第二次大戦を通じての数字で、
その大部分は欧州・中東戦線での数字です。



・フィリピン

現在は100万人が定説となっていますが、その根拠は不明です。
東京裁判の公式統計は軍人27258人、民間人91184人ですが、
いつのまにか10倍になりました。
公式統計は少なすぎると思いますが、日本より少ない人口で
日本の惨状と同等規模の大きな被害がまかり通っています。
フィリピンは、戦前は当時として希少なアメリカの海外領で、
開戦時に住民を巻き込んで抵抗し、多くの犠牲者をだしました。
その後もフィリピン奪還に傾注したので、大量の砲爆撃をしました。
市民の犠牲者の多くはその犠牲者とされているので、
日本軍だけの責任にするのはいかがなものでしょうか。



・中国

東京裁判で出された何応欽報告では軍人の死者が132万人、
1978年9月9日、台湾が終戦33周年式典で述べられたのが
「民間人の死者578万人」でした
 「1950年代までは六百数十万人、1991年に2100万人、
  1995年に3500万人、こういうふうに増えてきている」
(季刊戦争責任研究 9号(孫引きです))
というように、どんどん増えています。
まともな根拠は見ませんので、個人的にはあり得ない数字です。


日本が悪い事をしていないという説ではありません。
日本の戦争責任を追及するのに、根拠の無いものを
日本が悪いからと言ってすべて受け入れる必要はありません。

まず、インドネシアの犠牲者が400万人という説の元記事があれば
提示していただけれれば幸いです。
おそらく、インド350万人、ベトナム200万人、ビルマ15万人、
中国は1000万人、ニュージーランドやシンガポールなども
それなりの数字かもしれません。
そうそうたる数字が並んでいるなら、注意が必要です。



・インドネシア

インドネシアの場合、開戦初頭に戦闘はありましたが、
ほとんど戦死者は無く、その後は連合軍の戦略で取り残され、
終戦まで大きな戦闘はありませんでした。
では、この数字はどこから来...続きを読む

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http://www.isn.ne.jp/~ym/miyagi/tunenaga.html#santjuanbauthist

上記サイトには下記の内容が含まれています。
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2・出陣していた場合、制海権は互角ぐらいにはなっていたはずなのにボロ負けしているのはなぜ?
3・その文禄の役で、李舜臣率いる朝鮮水軍に亀甲船なるものが登場し、日本軍を打ち負かすのですが、予め日本の侵略対抗策として用意していたと考えてよいのでしょうか?急造したとは思えませんが。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

1) 信長の作らせた鉄甲船は、玄界灘を渡れるような航洋性を持ちません。あくまで、瀬戸内海専用の軍船です。

構造的には、欧州の地中海で軍船として使われていた櫂で漕いで進退する喫水の浅いガレー船に、巨大な上部構造を載せたようなものとされています。海上での機動力はほとんど無視して「浮かぶ要塞」として使われたものでしょう。櫂で動かせる限度を超えた重さと大きさと思われますので。

上部構造が鉄の板(数ミリ)で覆われているため、当時の海戦で敵の船に火をつけるために多用された火矢を跳ね返すのが最大の威力です。さらに、数ミリの鉄の板が硬い木の「装甲」に裏打ちされているため、合成するとかなりの強度があり、火縄銃の弾も跳ね返したはずです。

信長の水軍(伊勢水軍主体)と戦った瀬戸内海の毛利水軍は、火矢と火縄銃以上の攻撃力を持ちませんので、鉄甲船を攻撃する手段を持たなかったことになります。

志摩の海賊大名である九鬼氏が建造して熊野灘を経由して大阪湾に回航したという話もありますが、果たしてどうでしょう。熊野灘回航は、上部構造を取り付けない船体だけの状態で行なったのではと個人的に考えます。それでも、竜骨のない日本式の船舶ですからかなり困難な回航になりますが。

2) 仮に玄界灘を超える鉄甲軍船を作るとすれば、
* 西洋式の竜骨を備えた構造でなければ、上部構造が重い鉄甲船は玄界灘を渡れない。
* 櫂で人力で動かすのではなく、西洋の帆船と同様に風力で動かすのでなければやはり玄界灘を渡れない。
となり、当時の日本では建造不可能です。日本で建造された最初の西洋式帆船は、江戸時代になって、イギリス人ウィリアム・アダムスが浦賀付近で建造したものです。徳川家康の求めによるものです。

朝鮮出兵当時に日本と接触していたポルトガル人やスペイン人は、西洋帆船の売却も建造技術の提供も一切拒否していました。ついでに言うと、大砲の売却や大砲鋳造技術の提供も一切拒否していました。日本が大砲を装備した西洋帆船を持てば、東洋の両国の植民地(フィリピン、マカオ等)があっという間に日本の手に落ちてしまうからです。

私は、玄界灘を渡った日本水軍の軍船や兵員輸送船がどのようなものだったのか非常に疑問なのですが、その中に鉄甲船が入る可能性はゼロです。

3) 日本水軍と朝鮮水軍の戦いは、文禄の役の最初は日本の方が優勢でした。だから、物資や兵員を無事に朝鮮に渡して快調に進撃できました。

「文禄の役で、李舜臣率いる朝鮮水軍に亀甲船なるものが登場し、日本軍を打ち負かす」と質問者様はお考えですが、そもそも日本水軍はそんなに弱くなく、「李舜臣の朝鮮水軍が日本水軍を打ち負かした」という話はかなり朝鮮側に有利に誇張されたものです。

李舜臣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%88%9C%E8%87%A3

質問者様が重視しておられる亀甲船が具体的にどのようなものだったのかは明らかではありませんし、どの程度の威力があったのかも良く分かりません。伝説の中の存在であり、韓国文化の常として、史実とは関係なく誇張して伝えられていると考えた方が良さそうです。

亀甲船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B2%E8%88%B9

信長の建造させた鉄甲船については、外国の宣教師が現物を見てローマに報告した手紙がありますので、「当時のヨーロッパにも存在しない、鉄で装甲した軍船が実在し、ヨーロッパ人の目で見ても強力な(強力に見える)軍船であった」のは確かです。

1) 信長の作らせた鉄甲船は、玄界灘を渡れるような航洋性を持ちません。あくまで、瀬戸内海専用の軍船です。

構造的には、欧州の地中海で軍船として使われていた櫂で漕いで進退する喫水の浅いガレー船に、巨大な上部構造を載せたようなものとされています。海上での機動力はほとんど無視して「浮かぶ要塞」として使われたものでしょう。櫂で動かせる限度を超えた重さと大きさと思われますので。

上部構造が鉄の板(数ミリ)で覆われているため、当時の海戦で敵の船に火をつけるために多用された火矢を跳ね返す...続きを読む

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Aベストアンサー

>第一次世界大戦はどういう経緯でおきたのですか?
ぎりぎりの緊張した場所がひょこっと誕生し、どこも望んでもいない戦争が突然発生して、ヨーロッパ中を巻き込んでしまった、という雰囲気ですね。
>あと第二次では中国はアメリカ側だったのに、
>なんで日本より中国は発展が遅いんですか?
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