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仏教の教えの本質は、執着からの脱却で、その目的は人生の苦しみから逃れるため、と解釈しています。
では、キリスト教の教えの本質は何でしょうか?
隣人を愛せよと説いていますが、その目的はなんでしょうか?
平和な世の中を作るためでしょうか?
魂の浄化に関わってくるのでしょうか?

物事に執着するなという仏教の教えと、隣人を愛しなさいというキリスト教の教えが、ふと相反する考えのように思えたので質問します。
(仏教で愛を説かないのは、その人物に執着しすぎてしまう恐れがあるからと解釈しています)

よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

みんな神様から生まれた人間ですよね。



だから書いているように「愛せよ」
ここは命令形みたいな形ですから本質も何もない

みんなが愛しあえば(許しあえば)この世に平和がくるはずなんだけど・・・・

愛というのは好きになれと言う意味ではなく、その人を
その人なりに認めなさい。こんな感じかな?
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イエスの語りかける所の本質は、ゆるしじゃないかな。


シッダールタの無我と言う所で共通していると思います。
執着の根本は、執着する対象にあるのでなく、対象を捉える主体にあります。
主体が消える、無我になることで、ゆるし(愛)が起こる、このようなステップが、悟りや愛といったものの道になります。
幸せ、不幸せということに惑うこと無く、本質的であることが、宗教の目的であるのではないでしょうか。
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こんばんは。

私は宗教家ではありません。
なので独断的私見になりますが・・・

まず、単に「隣人を愛せよ」ではなく
「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」だったと思います。
前者はただのスローガンにしかなりませんが、
後者は本人に対する問いかけを含むのではないでしょうか?
後者のような指針を自らの内に持つとき、
自分や人にどう関わっているかを吟味することが要求されます。
自ずと、自分を愛するとは、人を愛するとはどういうことなのかと自らに問うことになります。
それは具体的で誰にでもわかる台詞でありながら本質に迫る問いであり、
人間を成長させる力を持っている言葉だと私は思いました。

私は、キリスト教も仏教も人間の幸福を希求していると思います。
より深く人を愛するには 慈悲と悟りの両面のレベルアップが求められる気がします。 
執着するなではなく、執着が無意味に思えるレベルまで認識が拡大することが悟り・解脱ではないでしょうか。
キリストの言行は、シンプルでありながら矛盾を含むようでもあり、
愛への認識の拡大を迫る。
個々の局面で自分の中の執着や冷酷さと向き合うことを要求する。

キリスト教の愛と、「愛別離苦」といった使い方をする仏教的な愛とでは、そもそも概念が違うと思います。
キリストの問いた愛は執着を超えた大きな愛であり、
キリストの言動は、そういう愛への示唆に満ちていると私は思います。
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No.5さんに続き、私も違った意見です。



まずキリストが隣人を愛せよと教えたのは、ユダヤ人に対してであって、その他の民族やクリスチャンに対してではありません。この教えを守るべき人は、当時のユダヤ人と、後の時代のユダヤ人です。(後の時代については話が長くなるのでここでは書きません。)

では今の時代、ユダヤ人ではない人に対してこの教えは何の意味があるのかということになってきます。キリストは隣人を愛せよと教えた時に具体例も挙げました。右の頬をたたく者には左の頬をも向けよ。下着を告訴して取ろうとする者には、上着をも差し出せ。自分に敵対する者を愛せよ。等です。

敵対する者を愛するということを説明するために、サマリア人の例えも語りました。その死に掛かっている人を無視して過ぎ去ったのは、祭司と律法学者(当時の宗教の先生)で、いわゆる良いとみなされていた人です。

サマリア人は、ユダヤ人と異邦人(ユダヤ教を信仰しない他の民族)との混血です。ユダヤ教では異邦人との結婚が許されないので、彼らはユダヤ人にとっては異端児で、異邦人以下に扱われていました。

ですのでユダヤ人とサマリア人の関係を説明するなら、ユダヤ人がサマリア人を迫害していたというのが正しい立場です。

さて、ここまでの事を教えていますが、正直みながそれだけのことが出来れば、世の中平和に丸く収まることは明らかでしょう。だけど出来る訳ないのです。自分を馬鹿にする人に対して、絶対に腹を立てないでいられますか?貸した金を全く返すつもりもなく、反省もしていない人に、続けて金を貸すなんてことはできますか?

無茶な話です!少なくとも私にはできませんし、少し考えたら誰がそんなことできるでしょうか。神の子キリストにしかできない事です。

ではキリストな何のためにそのような教えを説いたのかと言えば、世界平和のためにではなく、自分が良い人となるためでもなく、自分自身には人を愛する力などない者だと気付かされるためです。自分は正しいと思っている人に対して、本当は何も正しくないということを教えるためです。

キリストの教えに一貫していることは、神の御国(いわゆる天国)に入ることです。それにはまず第一に、自分の無力さに気付く必要があることから、人間にはできない教えを説いたという訳です。自分の力ではなく、キリストを通してのみ神の御国に入れるのだとも教えています。
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みんなとちょっと違う意見です。



隣人愛についてイエスは、サマリアの人を例え話にして説明しています。

ある人が暴力を受けて死にかかっていたとき、自分が所属する共同体の人たちは、その死にかかっている人を無視をした。
司祭などは大きく道をそれて近寄らないようにして避けて通りました。

しかし 普段死に掛かっていた人が軽蔑していたサマリア人は、死に掛かっている人を宿屋まで運び、宿屋代まで払い、宿屋の主人に看病を頼みました。
イエスはこのサマリア人はよい事をやった隣人だと説明しています。


隣人とはどういう意味か。

私なりの解釈では、この種族は12支族です。
しかし、身内同士でありながら、内部分裂や争いが絶えなかった。
隣人でありながら敵対していたわけです。

その敵対相手(サマリア人)は、日頃自分たちを侮辱している人の命を助けた。
普通に考えれば、日頃自分を侮辱している人を助けないはずだが、元々は親戚同士。 つまり隣人愛から助けたのだと思います。

祖先を辿れば同じ人から枝分かれした親戚です。
異邦人となってしまったが元を辿れば同一民族。 隣人です。 

つまり 親戚同士 仲良くしましょうってことじゃないかと。


蛇足です。
ディアスポラでユダヤ人は各地に離散しました。
多くのユダヤひとたちはエルサレム以外の土地に住み、母国エルサレムより豊かな暮らしをしていました。

ペトロだったと思いますが、ペンテコステの時に、各地に散ってもはやヘブル語を話せなくなってしまったユダヤ人たちが同じ場所に集まって、ユダヤ教の祈りを捧げたとき、みんな言葉は違うが、同一の言語のように感じたと述べています。

結局 話す言葉は違っても、祈る対象は同一だと確認した事件だったのでしょう。
同じユダヤ人の血が騒いで興奮したってことだと思います。

集まった司祭たちは他国に市民権を持っているが、全員ユダヤ人。
親戚同士、隣人なわけですね。

「これからはイエスの元、今までのように同一民族でありながら敵対するのはやめよう。」

「離散したユダヤ人たちよ みんなエルサレムに集まれ」となり、各地に散ったユダヤ人たちの結束を図るために、伝道が始まったのだと思います。
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キリスト教の教えでも、究極的に神は「愛」である。


しかし日本語に翻訳された時、「愛」よいう日本語の
ちょっと誤解を招く訳で、ヘブライ語では限りなく
「慈悲、慈愛」の意味だそうです。
私はカトリックで、先日神父様からの教えの中でそう
いう講義を受けました。
だからユダヤ教の神も「怒れる神」でなく本質は「慈
悲」の神なのだとのことで、宗教行き着くところは同
じではないでしょうか。
今講義で聖書の言葉を原語の意味に直して解釈するの
を聞いています。
「隣人を愛せよ」と言うのも、「愛」の意味を思いや
る慈悲の心と解釈すべきなのです。

平和な世界がくれば良いですが、この世は残念ながら
そういう具合にいきません。
互いに憎しみあっていくのではなく、お互い認め合い
ながら生きていきなさいとのことです。

キリストは徹底的に人のため、弱者のためにご自分を
お捨てになって生きました。
我々信者もそれに倣って生きていく努力をするので
す。
そのためには心を「無」にして神(慈悲)を受け入れる
というこてです。
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仏教にもキリスト教にも、あまり詳しくはないのですけれど


>物事に執着するなという仏教の教えと、隣人を愛しなさいというキリスト教の教えが、ふと相反する考えのように思えた

これは私は逆のように捉えております。
結局は同じことを言っているのではないかと。

仏教で言う苦とは執着から生み出される…執着とは個我から生み出されるもの。

キリスト教が要求するところの「隣人を愛す」ということは個我に捕われていては不可能である…何となれば愛に反する憎しみ、そして争いは個我から生み出されるもの故に。

そもそもキリスト教が我が国に伝来した頃はキリスト教に沿った「愛」の適当な訳語が見当たらなかったため最初は「御大切」と訳したそうですね。つまり一般的に連想される恋愛や愛着の「愛」ではなく、もっと大きなレベルの意味、敬愛ということが含まれてくると思います。

仏教で「愛を説かない」というのは、何によらず捕われの心を持たずサラサラと流れる清水のような心境を最上のこととするからでしょうか。「愛」という言葉に相当するのが「慈悲」ではないでしょうか。

しかし個我というものに対する処しかたについては詰まるところ同じことを説いているように思います。
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仏教も、キリスト教も行き着くところは、魂の浄化だと思います。



魂の浄化という僕なりの意味は、仏心、霊体、魂の苦しみの基となる欲望をなくし、穏やかで、前向きに、生きれることだと思います。

仏教に関してあまり詳しくないですが、
仏教の執着というのは、煩悩から出るものだと思います。人の行動には、良い欲望と悪い欲望があり、悪い欲望が煩悩でその煩悩で行動するから、苦しみを伴う生き方をしてしまうのだと思います。
 その執着を捨てる、悪い欲望をなくす、煩悩を断つ、そうなるために、仏教の修行をしたり、隣人を愛しなさいと言っているのではないでしょうか?

仏教も、煩悩がなくなってくると、隣人を愛せるようになると思います。
ただ、「愛する」ということは、恋愛感情などではなくて、相手のことを考えて気持ち良く付き合うということではないでしょうか?これなら、仏教の修行で僕はできるようになりました。

ただ、キリスト教の教えは、隣人を愛するだけというものではないし、隣人を愛せれるようにに常にそういう意識を持って修行をしなさいということではないでしょうか?
 仏教でも、仏教を信じなさいといわれますが、はい、信じますと言える人は少ないのではないでしょうか?むしろ、否定に否定を繰り返しまうのが人というものです。

キリスト教であれ、仏教であれ、
本質は、魂の浄化、
行為は、修行方法であり、目指す意識のため
目的は、安穏とした境涯になり、さらに深い教えを体得するためと、この世の平和を実現するためだと思います。
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慈悲は仏教でもっとも大切な教えの一つです、菩薩になるための修行の徳目の第一が布施波羅蜜多(キリスト教でいう愛の実践)です



イエスが隣人愛を説いたのは自分も他人も等しく神の子だからです。他人(神の子)を愛することは神を愛することであり、自分(神の子)を愛することだからです。これを仏教では無我といいます
神と神の子を愛することが真の幸せへの道だからです
神は愛です、神の子は神と同じ行為をする(=神の子を愛する)ことで本当の幸せを得ることができます、ゆえにイエスは隣人愛を説きました

キリスト教の隣人愛と仏教の慈悲の違いをいうならば、キリスト教の愛は水平的な愛であり、慈悲とは万物を照らし育む太陽のような愛のことをいいます
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