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 私(女)は、何年か前、東京大学卒業生(男子)とおつきあいしたことがあります。私の人生で東大生(卒業生含む。以下、同じ)とかかわったのは、それが最初で最後になっています。
 つきあう前の私は、東大生というと、「ひとり残らず神のような天才ばかり」と思ってました。実際につきあってみると、特別な“オーラ”もなく、ごくフツーの感じでした。そこである日、彼個人に対する印象は伏せたまま、一般論として、その方向に話題をふると、彼はこんな意味のことを言いました。
「東大生にも優等生から劣等生まで、ピンからキリまで、いろいろいる。ぼくなんか、天才どころか秀才ですらなく、凡才、へたすると鈍才だ。劣等生以下の落ちこぼれだ」
「東大って、1学年何人いるか知ってる? 3000人以上もいるんだよ。天才ってのは、ひとつの世代に1人とか2人とか、せいぜい10人~20人じゃないか? 3000人もいるんじゃ、天才のバーゲンセールだ」

 はじめに書いたように、私は彼以外の東大生を知らないので、彼のいったことが事実なのか、一種の謙遜・逆説・自虐なのか、わかりません。「東京大学にも、鈍才・劣等性や落ちこぼれがいる」というのは事実なのでしょうか。
 もしそうなら、マスコミ(とくに出版・テレビ)で、「東大生は全員天才(少なくとも秀才)」のごとく扱われているのはなぜなのでしょうか。

A 回答 (17件中1~10件)

実際のところ、ドラマ「ドラゴン桜」にもあったように、東大受験のテクニックを身に着ければ、合格の可能性は出てきます。



運だけでは受からないでしょうが、運が無ければ、また受からないのだと思います。

ただ、受かるのが難しい大学であることは事実で、そのために難関を潜り抜けたという意味で、秀才扱いしているだけです。

問題は、入った後、何を学ぶかだと思います。
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この回答へのお礼

 さっそくのご回答ありがとうございます。
 ご回答の主旨は「高校段階の落ちこぼれも、東大に入ることがある」でしょうか。
 もしそうなら、私の質問が悪かったようです。申し訳ありません。
 彼が言っていたのは「かりに高校では秀才でも、東大での授業についていけず、落ちこぼれてしまう者が多数いる」ということのようでした。

お礼日時:2006/04/11 14:22

入学するまでは国内でもトップレベルの人たちが集まっているからです。



以前東大卒業生が入社してきたことがありますが余りにも使えなくて困ったことがありました。
彼のおかげで教育ではなく教養が必要なことを解りやすく教えて貰った気がします。

全てではないと思いますが少数はそのような方がいらっしゃるかも知れませんね。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 おっしゃっているのは、人格とか性格のことではないでしょうか。お尋ねしたのは、学問的能力(ペーパーテストでいい点をとる能力とは別)のことなのですが。
 よく言われるように「天才は、天才であるがゆえに、人づきあいには問題がありがち」ですよね。
 皮肉にも、私の元カレは、人格円満・対人関係良好でしたが…… 

お礼日時:2006/04/11 14:28

>はじめに書いたように、私は彼以外の東大生を知らないので、彼のいったことが事実なのか、


>一種の謙遜・逆説・自虐なのか、わかりません。「東京大学にも、鈍才・劣等性や落ちこぼれがいる」というのは事実なのでしょうか。

事実です。

入学試験での難易度が高いのは事実なので、要領のいい人・努力を苦にしない人・頭の回転がよい人が
集まりやすいことは確かですが、実際中には色々な人がいます。


> もしそうなら、マスコミ(とくに出版・テレビ)で、「東大生は全員天才(少なくとも秀才)」のごとく扱われているのはなぜなのでしょうか。

人間には、他者・違う人間の集まりを、一つに括ろうとする性質があります。内部の多様性を見ようとすれば見られるのに、グループ化して
レッテルを貼る。一つにはそのほうが楽であるということ、
それから、マスコミであれば、そのときに扱うテーマが関係してくるのでしょう。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 マスコミの件、ひとまず分かりましたが、だとすれば他の大学──京都・上智・芸大etc──がマスコミにあまり上らない(東大に比べて)のはなぜなんでしょうね。私の基準では、それらの大学も、「全員天才(少なくとも秀才)」なんですが。

お礼日時:2006/04/11 14:33

マスコミは、得てして大げさなものです。



確かに東大生は、全国の優秀な生徒が難関を突破して入学してきますので、秀才の集団であることは確実です。しかし、秀才も集まれば、その中でトップもできれば、最下位もできる。全員が全く同じ成績で卒業、がありえないことと同じです。

彼の言っていることは、自己評価以外は、真実だと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

>その中でトップもできれば、最下位もできる

 理屈ではその通りだと思いますが、世間一般のイメージ(先入観)とは、やはりズレがありますよね。

お礼日時:2006/04/11 14:38

入るのは大変でしょうが、入ってからは落ちこぼれる人もいるでしょう。



東大生の風俗嬢だっていますしね。

とうことで、優秀な人が多いが、必ずしもそういう人たちばかりとは限らないと思いますね。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 東大生の平均像と他大学生(たとえば一ツ橋、たとえば早慶etc)の平均像とをくらべたとき、何がどの程度ちがう(あるいは、ちがわない)のでしょうか。

お礼日時:2006/04/11 14:41

それは基準が違います。



少なくても、同じ学年(同じ年齢)で百万人とかいるわけですから、その中の3,000人というと狭き門なわけで、そこに入った人は「一般的に見れば」秀才だと思います。

で、当然その3,000人で比較すれば、中でもデキる奴や、できない奴がいると思います。

つまり、そのマスコミと東大生の言っている比較基準(分母)が違うだけで、両方ともある意味正しいと思います。

まぁ何が劣等生で、何が優等生で、何が秀才かの基準はわからないですけどね。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 比較基準(分母)が違うということは私も考えたのですが、彼が言っていたのは、それだけではない、もっと深い、もっと本質的な意味合いのニュアンスを含んでいたような……すみません、うまく表現できません。

お礼日時:2006/04/11 14:47

 東大OB♂です。

質問者の元カレではない(たぶん)ですが、劣等生・鈍才です。
 それはともかく、元カレさんの言ったこと(言いたかったであろうこと)はよく分かります。

 在学中、東大生の友人知人はたくさんできました。その中には「ああ、こいつは、オレとも、ほかのやつらとも、アタマのできがちがう。才能には勝てない。才能とは残酷なものだ」と感じるほどのやつもいました。その比率はざっと100人に1人ぐらいでした。
 つまり3000人中30人ぐらいは天才(その定義はともかく)がいるのでしょう。残る99%は、私=鈍才や他大学生とさほど変わる点もなく、「よくて秀才、へたすりゃ凡才」でしたね。

 何がいいたいかと言うと、「3000人いれば1番から3000番までいる」ということではなく、「1%は神に選ばれた者であり、99%は選ばれなかった者である。その間には、ランキングなど無意味な、超えることのできない“断絶”がある」ということです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

 神に選ばれた者とそうでない者、超えることのできない“断絶”……ですか。
 あまりにもレベルがちがって、私には無縁の世界ですが、おっしゃること(そして、元カレが言いたかったであろうこと)は、分かったような気がします。

お礼日時:2006/04/11 17:06

一般論として、東大生と言えば秀才ということになるでしょうが、やはり、そのなかでも優秀な人とそうでない人がいます。



東大生の中でも、何年かに一人しか東大合格者をださない高校の出身者も入れば、超一流進学校の出身者で、東大に入ることは普通のことであり、学内(高校)で人並みの成績があれば入れる大学であると言う認識を持っている人もいます。

前者の人たちは、高校をずっとトップに近い成績で過ごし、身近に自分よりも優秀な人はいなかったかもしれません。しかし、後者の人たちは、高校の頃から、自分では到底太刀打ちできないほど優秀な、まさに天才的な人と接してきています。そうすると、「自分は東大生だけれども劣等生(謙遜もあるでしょうが)」という意識になるのも理解できます。
また、他人にできても、自分にできないことが多くあるということに気づいて、劣等生だと思うようになったのかもしれません。
ひょっとすると、大学の数学があまりにも難しくて、そう思うようになったのかもしれません。「かりに高校では秀才でも、東大での授業についていけず、落ちこぼれてしまう者が多数いる」とも関係します。東大合格者の頭脳を持ってしても、理解不可能な数学の授業が現実に行われたりします。そういう人が数学科に進もうとすると、落ちこぼれが現実のものになります。

いずれにせよ、彼は、上には上がいて、誰しも万能ではないと言うことを理解し、若干の自虐あるいは謙遜を込めてそのように言ったのかもしれません。

なお、一橋などのいわゆる一流大学の学生と、「天才ではない東大生」を比較した場合には、両者の能力はさほど違わないと思います。しかし、普通の大学との比較では、やはり、「天才ではない東大生」の方が平均としては優秀だと思います。

「東大生は全員天才(少なくとも秀才)」の「全員」というのを一人残らずという意味とするならば「?」ですが、「大部分」という意味であれば妥当だと思います。

私は東大OBではないですが、No.7のご意見はよく理解できます。東大生の意識としては、まさにその通りだと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

>高校をずっとトップに近い成績で過ごし、身近に自分よりも優秀な人はいなかった

 そういうかたたちが、初めて自分以上の“才能”に出会ったら、どんな気持ちなのでしょうね。ショック? 屈辱感? ぼうぜん? 元カレもそれを経験したのかなあ。

お礼日時:2006/04/11 17:13

#3です。

芸大はジャンルが違うので別の話だと思いますが。

京大・上智を東大とひとくくりにするのであれば、
あなたはある一定のレベルでレッテルを貼っていることになり
その階層がマスコミと違うのでしょう。(彼とも全く違う。)

マスコミに限らず、一番と他者との間に明確な線を引くのは、大学だけじゃない。たとえば競技でもそうですよね。
ある人にとっては、オリンピックに出るだけで天才というかもしれない、
でも入賞しか意味がないと思う人もいるし、世の中は一位に注目するものです。

元彼の気持ちは、#7さんの言うように、
1パーセントの天才とそれ以外の普通の人間がいるということなんだと思う。でもほかにも思い当たることがあって、

高校の頃までは、どの教科もそこそこ適当にこなせてきたのに、
大学入学後は、急に壁にぶちあたるケースがあります。
俺にはどうしてもこの分野はむいていない、授業に出るのがつらいしついてゆくだけで必死と思う授業に関して、
それほど頭がよいと思えない
クラスメートがやすやすとこなすのを見ると、挫折感を覚えることがありますよ。
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この回答へのお礼

 再度のご回答ありがとうございます。
 今、読み直してみると、3のお礼はちょっと不適切でした。
 ただ、うろ覚えですが、イギリスではオックスフォードとケンブリッジはほぼ同格のイメージときいたような気がします。
 日本では、イメージにおいて、東大の“1人勝ち”なんですね。

お礼日時:2006/04/11 17:19

私は半東大附属のような高校に通っていますが


その中には、本当に天才だという人がいます。
一人だけですけどね。その人ははっきり言って違う人種だと思ってしまいます。でもそういう人を除いても東大に行けそうだなという人と、
この人は無理だなという人に分かれます。
つまり天才の線引きの位置が、本当の天才を見た後と並の東大生しか見たことのない時では異なってしまうのだと思います。
だから一般大衆を念頭に置いているマスコミは線引きの位置を一般の視点すなわち東大生という位置にするので、東大生はみんな天才だということになるのだと思います。
つまり、東大生の中にも東大生にとっての東大生がいるということです
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 No.9さんとも重なると思うのですが、「どこに境界線を引くか」ということなんですね。
 もっとも、一般大衆の多くは、「並みの東大生」すらじっくり見たことがない(と私は思う)ので、イメージだけ=レッテルだけで線を引いているのではないでしょうか。

 ところで、「名人は、名人を知る」とか、「天才は、天才を知る」とかいうことばをきいたことがあります。「本当の天才を見た後……」といっても、凡人は、相手が天才であることにすら気がつかない(あるいは理解できない)こともあるでしょう。もしそうなら、例の1%と99%の区別ができないということもあるんでしょうね。

 東大の劣等性といっても、他人の才能(凡人には理解できない)を“知る/理解できる”レベルにはある!?

お礼日時:2006/04/11 17:32

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