痔になりやすい生活習慣とは?

以前、読んだ本の中に書かれていたことです。
(題名や著者名は忘れてしまっています)

「江戸時代の多くの農民(小作)は滅多に米を食べることは出来ずに稗や粟などの雑穀を食べていたとされている。しかしながら、日本全国で生産された米の総量から算出すると酒や味噌などで消費される米の分を差し引きしても、当時の総人口2000~3000万人が主食として食べるのに十分な量があったはずである。」

ということでした。確かに米は貨幣の代わりに売買・流通していても、貨幣なら保存できても米はいつまでも保存は出来ないでしょう。腐って捨てる位なら小作農民もそれなりに(月に数回程度は)食べて消費していてもおかしくないと思います。

江戸時代の米は最終的にはどのように消費されていたのでしょうか。

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A 回答 (9件)

もし粟や稗を常食にしていたのならそれらを育てる広大な農地が必要です。

それだけの農地があるならまず稲を作ることを考えたはずです。つまり江戸時代の農民は米を常食にしていたと小生は考えています。(気候等の理由で稲が作れない所は別ですが)
しかし農民は米は高価で売れるためできるだけ売るようにし、麦を多く食べていたようです。
年貢については五公五民とか四公六民といわれますが、小生が生まれた村は八公ニ民という”悲惨な”村でした。しかしこの数字は収量に対するものでなく、高に対する割合です。
高は江戸初期に検地で決まりますが、その後は総検地でもない限り変わりません。一方生産量は時代とともに増加します。武士は実際の生産量を正確に把握しており、適宜年貢を課します。その結果八公ニ民というとんでもない数値が出てくるわけです。当村の実際の生産量は正確には不明ですが、村高の5~6倍あったと推定しています。その結果実際の年貢率は生産量の15%程度でした。
こういったことを推定する数値として私は村高を村人口で割った「一人あたりの村高」を使用しています。その根拠ですが、まず年貢はいくつかの村で調べてみたところあまり差はなく一人あたり5斗程度。食糧は1石。これに最小限の雑費を加えた2石が最低必要な生活費と考えたからです。農民が生きていた以上これだけ生産量は絶対にあったと思っています。
「一人あたりの村高」を近隣の村で調べたところ、だいたい A:5斗前後の村、B:1石前後、C:2~3石 がありました。そしておもしろいことに貧乏村ほど年貢率が高い傾向にあり、A(当村)は80%、Bは50%、Cは25%程度なのです。しかし実際の生産量に対してはどの村もせいぜい20%止まりだったと考えています。
江戸時代はホンネとタテマエに大きな差がありました。現在に残る記録は武士が残したものが多く農民の状況を正確に記していません。年貢については不思議なことが多いですから貴兄も調べてみてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

具体的な事例や数値でのご指摘感謝いたします。
私も、素人なりに調査しようかなと思います。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 11:04

こんにちは、ultramannexusさん。

仮説社「歴史の見方考え方」板倉聖宣著の中に書いてありました。板倉きよのぶさんは、自然科学者で理科教育で授業書をたくさん書いています。歴史の先生ではありませんが、理科の先生、数学の先生が歴史を研究すると、このようになるという本です。おもしろいですよ。ぜひ、お友達や、ご家族に教えてあげてください。

参考URL:http://www.kasetu.co.jp/shop/index.html
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この回答へのお礼

回答もありがとうございます。

教えていただいた本が、私が昔本屋で立ち読みして読んだ本だったのかはっきりしませんが、興味がありますので今度はしっかり購入しようと思っています。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 10:53

http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history100.htm
http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kok …
http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kok …
http://lian.webup.co.jp/edosemi/1/shoku/index.htm
http://lian.webup.co.jp/edosemi/1/foods/index.htm
http://bakumatu.727.net/iroha/mamekome.htm
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M246L100.HTM

かなりベタベタと張付けてしまいましたが単に江戸時代といっても300年も有るので時代によって状況は変わるとは思いますが・・・

 結論から言うとやはり一般農民の口には殆ど入らなかったと思います。

 まともな収穫で人口の半分、もし石高の25%がそのほかの産物による税だとすれば人口の30%の人数しか米を食べれないことになります。江戸時代農民は人口の80%だったと言われてますので農民のうち1割強の人しか米を食べれないことになります。(庄屋様の分しか無い)

 実際戦前までの日本では小作人と呼ばれる人が農民の9割を占めこの人たちは云わば農奴なので牛馬以下の待遇とてもまともな食事が出来たとは思えません(もちろん良心的な庄屋様や名主様は居たでしょうが)

 腐って捨てる位なら小作農民もそれなりに(月に数回程度は)食べて消費していてもおかしくないと思います。

>もちろん幾分かの配給はあったでしょうが月に数回食べる程度なら毎日少しづつ雑穀と混ぜて食べたのではないでしょうか?腐った捨てるほどはとてもとても

 此処で大事なのは農村と都市(江戸大阪)等ではまったく別の国と考えなければいけないことです。大都市ではまるっきり事情が変わり幕府などは古くなった貯蔵米を幾たびか市民に安く吐き出したりしています。江戸患い(脚気)が流行するぐらい庶民の間でも白米が食べられて居たわけですから。

米価高騰は藩財政を好転させる好機として,江戸・大坂への廻米を推進した。>とご紹介のページにも有るように江戸中期以降には多くの藩が借金返済の為自国農民の命など考えず米を他国に送っています。

 この辺のことは白土三平著カムイ伝にリアルに書かれています。漫画ですがかなり事実に則した内容だと私は思います。


 今まで書いたことは 通常の石高が有った時の話で天候等によって不作の時も多く享保の大飢饉(1732年)等では人口の1割の人が餓死する訳ですから大飢饉でなくとも当時天候によって直ぐに食糧難に陥った事は容易に想像できます。他の食べ物も有るのに餓死者が出る中で米が当時の人口を養うのに十分な量が有ったとはとても思えません。裕福な時代裕福な国に生れた人の思い込みに思えます。

 フランス貴族が昔パンが無ければ御菓子を食べれば良いのにと言ったのと変わらないかな?

 蛇足ですが現在地球全人口を養うとするとアメリカ人の摂取カロリーでは地球が3.5個必要になるそうですその他の消費燃料も換算するとアメリカ人並の生活水準を全人類がする為には地球が5.5個必要なそうです。其のしわ寄せが何処に行っているのか先進国に住む私たちは考えるべきではないでしょうか?歴史は繰り返されています って言うか続いてる?!

 話が少しずれてしまいましたね。すいませんでした。

参考URL:http://contest2002.thinkquest.jp/tqj2002/50538/r …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

詳しく説明していただき感謝いたします。参照のサイトはじっくり確認させていただきます。

私も白土三平著カムイ伝は第1部、第2部とも購入して何度も読んでいますので、イメージ的にもよく分かります。ただ、前の回答者の方が「マルクス史観的」と指摘されていましたように、この有名な漫画も指摘されている箇所は多々あると思われますので、歴史というものの表現がいかに難しいのかがつくづく痛感させられます。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 11:00

キビ飯、アワ飯、麦飯とは、それぞれが100%という意味ではなく、


米にその他の雑穀を混ぜた雑穀まぜ飯(又は粥)という意味で、
(偉い)侍が農民は計画性が無いからと節約を義務づけたものでは?

http://www.n-museum.jp/kikakuten/h11-fa/kurashi. …

>腐って捨てる位なら
米は種なのでそうそう腐りません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

個人レベルでの節約は美徳ですし大事なことですが、国家レベルでの節約の徹底は、経済の縮小化ということになりますので、かえって国家が豊かにならないという逆説的な結果になってしまうことがあります。
全く、政治や経済などの治世は難しいものです。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 10:48

 百姓はキビ、アワの飯、というのは、実はフィクションストーリーです。

そういうステロタイプは、戦後教育のプログラムが共産主義者によって作られたため、マルクス史観に則って「労働者は搾取されていて酷い生活をしていたに違いない」という思い込みを元に空想されて作られた代物です。
 まともな調査研究に基づいたものではありません。

 あなたの言うように、生産された米は最終的には百姓の口にも入ってきていたのは間違いありませんが、No.2 でも述べられているように、具体的な食べ方などの記録はほとんど残っていないのでよく分からないというのが現状です。
 ただ、精米したいわゆる「白米」はあまり庶民の口に入ってなかったのは間違いなく、日露戦争の頃に兵士が陸軍で支給される白米を喜んで食べたという記録からこれは言えます。その結果、胚芽部分にはあったビタミンBが摂取できず、脚気が蔓延して20個師団分くらいの戦力が失われるのですが、これは余談。

 精米という作業自体がかなりの重労働であることは事実ですから、この点と、そもそも精米すると嵩が減ってもったいない、ということから白米はめったに食べられるものではなかったとは、推定できます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

言われてみれば知らず知らずのうちに指摘された通りのマルクス主義的史観の歴史教育を子供の頃から受けてきたのかもしれません。

>具体的な食べ方などの記録はほとんど残っていないのでよく分からないというのが現状です。

歴史家の方々は、このようなことは興味がないのでしょうか。


どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 10:43

江戸時代ははっきり言ってそれほど昔じゃないけど かなり謎が多く食文化もわかっていないのが事実です。

ただ 現代のわれわれが思うほどひどくはないと思う。根拠として華美なものや贅沢は隠れて人々は楽しんでいた事からそれらの事の資料がそもそも存在しないのではないかと思う。確かにひどい時期や飢饉や
不作の時はあったでしょうが 遊郭とかの遊びについやすお足にしてもかなりな金額である。おしんみたいなのは極端な例に思えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>華美なものや贅沢は隠れて人々は楽しんでいた
城下町などの町人と農民では生活様式はかなり違っていたようですね。

>ひどい時期や飢饉や不作の時はあったでしょうが 
昭和初期の東北地方の米飢饉でもかなり悲惨だったそうですから、江戸時代の米飢饉はまさにとんでもない状態だったのでしょうね。土を団子状にして食べたり、赤子を食べたりしたそうですからね。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 10:35

 徳川吉宗以降は、5公5民以上の税がとられ、また検見法から定免法に変わりました。

農民にとって米は通過の役割があったので、農民はあまり米を食べていません。

 本百姓の食事は、麦飯に野菜のおかずで、白米だけのご飯は、正月などめでたいときに食べるご馳走でした。水呑百姓になると、野菜を入れたぞうすいやキビ、アワの飯という食事でした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

現代社会なら、食べ物が余ったら残飯で焼却されるでしょうが、江戸時代なら食べ物は粗末にはされないと思いますが、どうなっているのでしょうね。

参考になる本やURLがあれば教えてもらいたいです。


どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/14 02:43

江戸時代というより 米=税と捕らえるのと


食文化は分けて考えないとまずいと思う。
一般的な意見として江戸時代にはたしてどんな食事をしていたかと言うとかなり曖昧なのと案外おいしい物を食べて居たのじゃないかと推察されていて、はっきり解ってない事が多いじゃないかな。
飢饉なんかがクローズアップされてひもじいと連想されている事や 各大名は米は備蓄していただろうし、
江戸時代にどのくらいの収量があったのかとかも大事な事でないかな、今だから品種改良されてかなりな収量があるけど江戸時代あたりだと かなり環境に左右された事は間違いないと思う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

米が税金の代わりだったり、流通価値(米1石=小判1両)が高いのなら、農民は米ばっかり作っていてもよさそうなのに、実際は米以外の作物もしっかり作っていたようなので不思議です。

あたり前だろうと思っていたことがそうではないことに驚きます。

江戸時代の米の生産量のデータ等があればいいんですけどなかなかいいのが見つけられません。


どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/14 02:33

 下記サイト参考になりませんか?



参考URL:http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-58.htm
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この回答へのお礼

回答どうもありがとうございます。

提示していただいたサイト読みました。なかなか楽しめそうなサイトですね。
ところで、お米の件に関してはやはりはっきりしていないようですね。

小学生の頃からの学校の教科書では米は年貢として4公6民とか5公5民の割合でお上に納めていたと学んでいたので、当たり前と思っていたのですがいろいろ解明されていないことがあると知りあらためて驚きました。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/14 02:23

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Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む

Qなぜ、大昔は農民でも米なのにその後は違うのですか?

 教科書の情報でいくと

 古墳時代や飛鳥時代の頃の農民は、玄米を食べていたとありますが

 その後、戦国とか江戸になると

 農民は年貢で苦しいので、あわ・ひえを食べていたとありますが

 なぜ、昔は農民でも米が食べれたのでしょうか?

 逆にあわ・ひえが貴重だった?

 

Aベストアンサー

いや、古墳時代や飛鳥時代は玄米のほかにも、小麦・大麦・蕎麦・粟・稗も食べられていました。ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民なら誰でも玄米を食べていたと勝手に思い込んでしまう。日本は狭いようでも広く気象・水利・土壌の条件が同じではありませんから、地域特性に応じて作付けされていました。
戦国時代や江戸時代だって同じです。粟や稗も食べたでしょうが、玄米だって食べています。小麦・大麦・蕎麦だって食べています。ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民は領主に搾取されて貧しかったと勝手に思い込んでいるわけです。

米は収穫量も大きく美味なのですが、その分気象・水利・土壌に求める条件が厳しく、わずかな気象の変動で大凶作になってしまうのです。米はハイリスク・ハイリターンな農産物です。大凶作になると、わずかな収穫も年貢に取られてしまうので、農民は米を食べられない。それが何年も続くと粟や稗さえ食べるものがなくなってしまう。それが飢饉です。米に対して粟や稗は、収穫量も食味も劣ります。しかし稗や粟は、米が育たないような気象条件でも育つのです。雨が降らない、気温が上がらない、そんな時でも粟や稗は育つのです。だから米が取れない時の保険として農民は粟や稗も育てていました。凶作・飢饉の備えて、粟や稗を倉庫に備蓄していました。

そういったことは古墳時代や飛鳥時代も戦国時代や江戸時代も同じです。リスク分散なんですね。米一辺倒では、米が取れなかったときにお手上げですから、万一の保険をかけておく。

品種改良、土壌改良、農薬、肥料の進歩によって米の収穫量が安定するようになったのは戦後のことに過ぎません。1993年は北海道・東北地方で戦後最悪の不作となり、平成の米騒動と呼ばれる問題になりましたが、その程度の不作は江戸時代以前はごく普通のことで、珍しくもなんともなかったのです。まず質問者さんに認識してもらいたいのは米は収穫量が安定しない不安定な作物だったということです。現代人は何でも現代基準にものごとを考えて、現代のことが当たり前なのだと思い込んでいるから歴史を正しく捉えれないのです。1993年の平成の米騒動は長く続く安定に慢心して保険をかけることを忘れてしまったことが一因です。舌が贅沢になった現代人は、冷害に強い品種でも、味に劣る品種の米を食べようとしない。ましてや粟や稗なんか食べません。そういう消費者に合わせて、北海道や東北地方といった歴史的に冷害が多い地域でも冷害に強い品種の作付けをやめてしまっていた。ましてや粟や稗など、もう誰も育てては居ない。米価が高騰し、問屋は売り惜しみ・売り渋りで市場に出荷しない。それが平成の米騒動でした。

ただし古墳時代や飛鳥時代の頃と戦国時代・江戸時代で何も違いが無かった訳ではありません。

1点目は人口が違います。古墳時代や飛鳥時代は日本の人口は500万人前後だったと推定されていますが、戦国時代には1000万人を超えていたと推定されています。古墳時代や飛鳥時代は条件に恵まれた土地しか開拓されていなかったということです。北海道や東北地方では、まだ稲作は行われていない。もっとも北海道は江戸時代でも稲作は行われていない。

2点目は気象が違います。1400年から1850年は世界的に寒冷化が進んだと考えられています。寒冷化といって平均気温が1,2度下がるぐらいで、氷河期になるわけではありませんが、それでも温暖な気候を好む稲の作況を不安定にする重大要因でありました。

戦国時代・江戸時代は人口が増えて、条件が不利な土地でも稲作が行われている上に、気温が下がるわけですから、より米は不作になりやすく、その影響が大きかったわけです。

3点目は戦国時代・江戸時代は、作付けの品目に農民の裁量権が無かったことです。1643年に田畑勝手作禁止令が発せられたように、農民が栽培する品目を自分で決める権利が無いのです。何事も領主の承認が必要。というのは建前で、実際は時代が進むと田畑勝手作禁止令は形骸化して、やはり農民は換金性が高い作物を育てようとしていました。

4点目は貨幣経済の進展です。米は大阪に運べば高く売れますが、稗や粟などは売れません。領主(大名)は、商人からの借金を返済する為にたとえ凶作であっても情け容赦なく年貢を取り立てる必要があった。また農民も米より高く売れる商品作物を栽培したがった。中には米を全く作らずに木綿・煙草・菜種といった米より高く売れる商品作物だけを栽培して、その販売代金の一部で他所から米を買ってきて年貢として領主に納める農民もいたぐらいです。それは貨幣経済が進展したから、可能になったことです。

そんな具合に農民が米作りをおろそかにして、金儲けに夢中になってしまったことが田畑勝手作禁止令が発せられた社会背景であり、米不足になり粟や稗などの雑穀を食べざるを得なくなった背景です。貨幣経済が進展すると、貧富の格差が拡大します。要領のいい人間にはいくらでも儲けるチャンスが生まれる。その一方で要領の悪い人間は、農業や商売に失敗して借金を作ってしまう。借金を返済する為に食べる米があるくらいなら、市場で売って返済原資にして、自分たちは売れない稗や粟を食べようと考えます。

以上のように、教科書では説明していないでしょうが、古墳時代や飛鳥時代と戦国時代・江戸時代では共通点もありますし、相違点もあります。

歴史の勉強は、教科書の解釈学ではない。頭の悪い人が書いた文章の言葉の上っ面だけをとらえて、妄想を繰り広げることが歴史の勉強ではない。文章をどう理解するかが歴史の勉強ではない。

教科書は、これから始める勉強のとっかかり、出発地点に過ぎないということです。出鱈目な海図でも何も地図がないと東に行けばよいか西に行けばよいか分からない。それでは未知の大海に船出することはできません。教科書の役割はそうしたものなのです。

日本人は古来より五穀豊穣を神に祈願してきました。五穀とは何か。古事記によれば、稲・麦・粟・大豆・小豆。日本書紀によれば、稲・麦・粟・稗・豆。

五穀豊穣にご利益がある神社を護国神社といいます。これは嘘ですけど。

米が採れない土地、米が採れない気象でも粟や稗は実るのです。こういう大事なことを教えない日本の教科書って何なのでしょうか。

いや、古墳時代や飛鳥時代は玄米のほかにも、小麦・大麦・蕎麦・粟・稗も食べられていました。ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民なら誰でも玄米を食べていたと勝手に思い込んでしまう。日本は狭いようでも広く気象・水利・土壌の条件が同じではありませんから、地域特性に応じて作付けされていました。
戦国時代や江戸時代だって同じです。粟や稗も食べたでしょうが、玄米だって食べています。小麦・大麦・蕎麦だって食べています。ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民は領主に搾取されて貧しか...続きを読む

Q江戸時代の税金について

江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Q昔の日本は貧しくても少子化にならなかった訳

晩婚化、少子化の理由は若い世代の所得が落ちているからとよく言われます。

しかし、戦前戦後の日本は今より貧しかったにも関わらず、なぜ子沢山だったんでしょうか?

Aベストアンサー

若い世代の所得が落ちているからではないと思います。

ざっくりとしたイメージですが生物学とかで使われる r戦略 k戦略というのがあります。
子孫を残すに一個体にそれほど投資しなくて数を増やすのがr戦略 数は少なくひとつに多く投資するのがk戦略
魚とかはr戦略、哺乳類とかK戦略かな
(正式にはちがうかもしれないが)

乳幼児の死亡率を見てみましょう。
更生労働省
図7 乳児死亡数及び乳児死亡率の年次推移 -昭和30~平成18年-
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/gaikoku07/05.html

戦前の資料はないですがこれより高いと思います。つまり先進国になることや医学の進歩(抗生物質など)で子供が死ななくなっています。

つまり多く育てて万が一子供が死亡しても他の子が残るという戦略をとる必要がなくなったということです。


もうひとつの要因として先進国になると教育に投資が必要になり1人当たり多くのお金が必要になるということです。
文部科学省
大学・短期大学等の入学者数及び進学率の推移
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/gijiroku/03090201/003/002.pdf

戦前は数%程度で限られた人が大学に行っていましたが、最近は大学進学で40%以上短大や専門学校を入れると70%以上です。義務教育の基本は無料でも教科書や塾は有料です。高校は最近実質無料でも100%に近い進学率では厳しいものがあると思います。

結論として先進国になったことが少子化になった原因と思われます。

若い世代の所得が落ちているからではないと思います。

ざっくりとしたイメージですが生物学とかで使われる r戦略 k戦略というのがあります。
子孫を残すに一個体にそれほど投資しなくて数を増やすのがr戦略 数は少なくひとつに多く投資するのがk戦略
魚とかはr戦略、哺乳類とかK戦略かな
(正式にはちがうかもしれないが)

乳幼児の死亡率を見てみましょう。
更生労働省
図7 乳児死亡数及び乳児死亡率の年次推移 -昭和30~平成18年-
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/gaiko...続きを読む

Q米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

山本博文著の江戸学講座を興味深く読んでおりますが、次の説明に出会いました。
<江戸時代の初めは、家禄だけで食べていける旗本・御家人も多かったのですが、中期以降は、米の値段が下がりますから難しかったでしょう。>
一般的には、物価は長期的にみると、漸進的に上昇します。(もちろん、技術革新などによって、低下する場合がありますが)。
米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

Aベストアンサー

中期以後というと、暴れん坊将軍の吉宗さんの時ですね。お堅い日本史では、米将軍と呼ばれ、米を中心とした物価の安定で有名です。米が日本酒の原料として使われる量を調整するなどで、品不足による物価上昇を抑えたといいます。

長期でみると、実際は上がったり下がったりだったでしょう。

江戸時代、米がお金代わりでしたから、どの藩も米の生産に力を入れます。運送業も発展し、西日本で生産された米が流通。他の物の価格と比べ、比較的安くなったのでしょう。
 米=扶持だった武士にとっては、物価上昇+収入ダウンでしょうけど。。

Q刺身こんにゃくについて教えてください。

 普通のこんにゃくと刺身こんにゃくはどう違うのですか?
 普通のこんにゃくを薄くスライスして、そのまま酢味噌で食べる事は出来ないのですか?

Aベストアンサー

刺身こんにゃくは、比較的組織が粗くなっています。これが食感を良くするのでしょう。
また、刺身こんにゃくには、青海苔などで見た目を良くしていますね(そうでないものもありますが)

普通のこんにゃくも、刺身で食べられますよ。
もともとそれほど癖は無いものなので、いくらでもやり方はあります。
たとえば、こんにゃくの薄作り(てっさ@河豚刺しもどき)
酢味噌も良いけどポン酢もおいしいですよ。
胡麻だれなんかも良いですね。

下の方もおっしゃっているように、そのままだと臭いが気になりますので、ボイルしたほうが良いと思います。

Q山形新幹線はどのようにして在来線が走れるのでしょうか

新幹線と在来線はレール幅がちがいますよね。違うレールの幅の上をどの様にして同じ列車が走ることが出来るのですか?思うにレールが3本敷いてあるのか?それとも、同じ車軸上に3輪付いているのか、教えてください。

Aベストアンサー

 #2です。補足です。

 山形新幹線の線路は、福島~山形間の奥羽本線(在来線)を改軌したものです。すなわち、在来線の線路幅1067mm(狭軌)を新幹線の線路幅1435mm(標準軌)に広げたものです。
 もともとは在来線なので、在来線の車両と、新幹線が同じ線路を走っているんです(「形新幹線」は、新幹線と言う名称が使われていますが、これは「愛称」であり、正式な名前は「奥羽本線」のままです)。

 どうして、違う幅の列車が走れるのかと言いますと、在来線の列車は、車両と台車が別々のパーツで、簡単に交換が出来るそうなんです。ですから、在来線は台車を標準軌の幅のやつに交換して走らせているんです。
 
(結論)
 線路は2本、在来線の台車を標準軌にして、同一線路を「新幹線」と「在来線」が走っている。


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