信長の後を襲って天下人となった秀吉ですが、彼の紋所は通称「五七の桐紋」と呼ばれています。
もっと早く気付くべきでしたが、最近織田信長の肖像画を見て、疑問に思う事があります。教科書やTVでよく見る信長の肖像画の裃の紋、どう見ても五七桐紋ですよね。
合戦などに見る信長の紋所は確か「五つ(五葉)木瓜紋」だったと思うのですが、どうして装束の紋は五七桐紋なのでしょうか?
また、秀吉が五七桐紋を採用したのは、この信長が由来なのでしょうか?詳しい方教えて下さい。

A 回答 (1件)

第一に、桐は菊と並んで天皇家のものです。

桐の紋を使うには天皇から拝領しなければならなかったのです。つまり桐が使えるという事は、天皇公認と言う訳なのです。信長の肖像は死後描かれた物ですが、木瓜よりも桐のほうにどう考えても権威があります。権威の為の肖像といえましょう。合戦の場合は信長軍とわからねばなりませんので木瓜と永楽通宝の旗を用いたわけです。
第二に、秀吉の場合も同じで天皇から桐を拝領しましたが、桐は桐でも太閤桐というものを使っていました。天皇拝領の桐に、オリジナリティーを加えたといえましょう。
取敢えず、知っている事を。
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この回答へのお礼

遅くなりました。
お説によりますと信長像に描かれているのは死後、権威を高める為、天皇家の許しを得て描かれたという事ですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/18 17:48

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Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

織田信長本人は奥の間に移動して、明智光秀が攻め込む前に自害することを決意してすぐに自害用に家臣を連れて奥の間に行き介錯(かいしゃく)=自ら切腹した織田信長の首を跳ねる役の家臣を同行させて奥の間で自害した。

明智光秀がまだ攻め込こんでいないのになぜ明智光秀が攻め込むという一報を聞いて、明智光秀が攻め込む前に奥の間で自害したのか。

自害する必要がどこにあった?

なぜ織田信長は明智光秀と戦うという選択ではなく、最初から自害の道を選んでいたのか不思議じゃないですか?

おかしな話ですよね。

何かひっかかりませんか?

Aベストアンサー

光秀が攻めるときは、理詰めの確実な方法を取るはず。信長が前に出て戦闘状態になったら光秀の注文通り。
信長自身がしばらく生死不明という状況にするのが、あの夜の最善手だったからでしょう。
 事実、秀吉が引き返して山崎の合戦になったとき、秀吉側は、信長は脱出に成功、自分は信長の指示で指揮を取るという噂を流して、精神的動揺を誘ってます。

Q織田信長、羽柴秀吉、徳川家康のガチシーン

ガチでヤバかった戦のベスト3を教えてください。

※当人が参戦したものに限る
タイムリーな説明あれば嬉しいです

ちなみに・・・・・・

織田信長
1位 本能寺の変 (というか死んでいる) 
2位 金ケ崎の逃げ (雑賀孫一により足に銃弾浴びたとか?)
3位 姉川の戦い (13段構えなのに恐ろしい)

羽柴秀吉
1位 金ケ崎のシンガリ、大逃げ(死を覚悟してたらしい)
2位 山崎の合戦 (戦場に着くまでのハラハラ感)
3位 小牧・長久手の戦い (家康やっぱりつおい)

徳川家康
1位 武田信玄チームと戦いクソ漏らした時のやつ (絵とか書いてもらった)
2位 関ヶ原の戦い(秀忠がまだこないと知った瞬間)
3位 大阪・夏の陣(真田が突っ込んできた時間帯)

当ってます??

回答、宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

では補足を
この辺は私の一番の得意分野でして


実は家康は大阪夏の陣で死亡していた
という説が最近は通説になりつつあります
実は大阪の南宗寺という寺に家康の墓があるのです
大阪夏の陣で決死の攻撃を仕掛けた後藤又兵衛から逃れるために
家康は葬儀の棺に入って逃げるのですが 怪しんだ又兵衛に棺を槍で突かれ
南宗寺にたどり着いて絶命したそうです

ただ 真田幸村の壮絶な戦いぶりが徳川家で語り草となったので
幸村に追い詰められた と現代に伝わっているようです

実際家康は大阪の陣後消えました
影武者が現れたんですね
小笠原秀政という人物が替え玉だと言われています

秀忠と家光も南宗寺に参拝しているし
歴代将軍が何故か後藤又兵衛の墓にも参っているのです

Q秀吉の肖像画

派手好みの秀吉にしては、地味な装束のようです。
「白」に何か特別な意味がありますか。
例えば、関白太政大臣を表すとか…、実は秀吉の好みの色だったとか…。
袖口に赤いものが見えますが、この装束は「重ね着のかさね色目」なので、これで結構おしゃれで、派手なのでしょうか。
ちょっと、気になったので質問しました。
よろしくお願いします。

大阪市立美術館所蔵「秀吉像」
http://www.museum.city.osaka.jp/flat/a/GrandChildCommentPrint.cgi?no=060302

Aベストアンサー

上級貴族にのみ許された

冠(垂纓繁文) 直衣(白地浮線綾文) 単(紅) 指貫(鳥襷文)
これではないでしょうかね

http://genjiito.blog.eonet.jp/default/2012/07/post-71d0.html
光源氏が40前後の准太上天皇となったころに着ているらしい。
ほかは柏木や男宮などの最上級。

http://www.osaka-art-museum.jp/special/past_18_osakajin_tenji.html
慶長5年の6月の 讃 が見えます

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%93%E3%82%8A

晩年、源氏物語を好んだそうです。

Q偉人の肖像画(写真)はどこを見てるのでしょう。

偉人の肖像画(写真)はどこを見てるのでしょう。
ほとんどの肖像画は目線が来ていません。
書いて(撮って)もらってる時、どこを見てポーズしてるのですか?
また、なぜ、どれもこれも、よそ見をしているモノばかりで、キリッと正面を向いたモノがないのでしょう?
なにか訳でもあるのでしょうか?

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

イタリアのルネッサンスの頃、貴族の夫人の肖像画など真横向きが多いのですが、それは「画板に横向きの影を映してそれを木炭などでなぞって絵を描いたから」と言うことを聞いたことがあります。
今でも、ハサミで黒い紙を切り取る影絵のテクニックにその技術が使われています。

昔、写真技術が良くなかった頃、前向きに映すと表情がはっきりせず本人と判断しにくく、証明写真などは外国では必ず片耳を写すと聞いたことがあります。 耳の形は個人判断にとても良いそうです。

また、日本は記念写真など皆きちんと同じ格好をしてカメラを見て写しますが、写真や自画像を部屋に飾る習慣のあるヨーロッパなどでは、わざと自然体で、目線などはカメラを向いているより、向かいあっていたり、その人の人柄まで写真から感じられるような視線や姿勢で写すのだと思います。
龍馬の時代はそのような視線で写真を撮るのが流行だったのではないでしょうか。

Q徳川幕臣の桐紋使用について

徳川幕臣のうち、桐の家紋を使用する家は全体の5分の1にも及んだそうですが、他ならぬ徳川将軍家は天皇からの桐紋下賜を辞退していますし、桐紋は徳川家と対立した豊臣家の家紋でもあります。そういういわば徳川向きではない家紋を徳川家の家臣が使用することに関して、幕臣の間に躊躇いや矛盾を感じることはなかったのでしょうか? 家紋は先祖代々のものだから…といっても、他にもいくつか家紋を持っているのにわざわざ桐紋を定紋として幕府に届け出た家が多数あります。

また、wikipedia百科事典の「桐紋」の項には、「徳川家は桐紋の下賜を辞退したが、家康個人は大御所時代に桐紋を使用したことがある」というような記述がありましたが、何かそれを証拠立てるようなものはあるでしょうか?

実は私も庶流ながら桐紋を使用した幕臣の末裔なので、自分の家紋と家康公を尊敬する気持ちがどうも矛盾しているような気がしてすっきりしないでいます。御回答をお願いします。

Aベストアンサー

bungetsuです。

>>ところで、先の後藤家以外に、徳川幕府からどこかの家へ桐紋を下賜したという事例はあるでしょうか? 

武士ではありませんが、国学者で医師の「本居宣長」五三の桐紋。絵師「円山応挙」葉っぱは桐でその上に花を三つ描いている。大奥女中「幾島」やはり葉っぱはそのままで五三の部分は、やや変形させている。
などがいます。
「幾島」は、正徳4年の「絵島生島」ではありません。幾島は幕末間近に天璋院(篤姫)の教育掛かりであり、朝廷との和解に尽力し、「桐紋」が贈呈されました。

>>天皇からの下賜を断っている時点で桐紋は徳川家の物ではなく、したがって自分の所有物でもないものを臣下に下賜するというのは少し不自然に感じるのですが。

確かに、おっしゃる通りですが、天皇家の「副紋」である「桐紋」を下賜されることは、この上ない「名誉」だったのです。
やはり、「三つ葉葵」は譲れないが、その次に「権威のある?」「桐紋」を下賜して喜ばせたのでしょうね。何かこう、天皇家の一員になったような「喜び」だったのではないでしょうか。

>>後藤家の場合にしても、豊臣家から認可を受けていたものを追認したというだけのことで、徳川家から直接後藤家へ桐紋を下賜したわけではないですよね。

前回に回答したように、家康は後藤家に関が原の戦いで、多大な「借り」を作ってしまい、後藤家には「恩義」があり、「命令」を控えたのではないでしょうか。

bungetsuです。

>>ところで、先の後藤家以外に、徳川幕府からどこかの家へ桐紋を下賜したという事例はあるでしょうか? 

武士ではありませんが、国学者で医師の「本居宣長」五三の桐紋。絵師「円山応挙」葉っぱは桐でその上に花を三つ描いている。大奥女中「幾島」やはり葉っぱはそのままで五三の部分は、やや変形させている。
などがいます。
「幾島」は、正徳4年の「絵島生島」ではありません。幾島は幕末間近に天璋院(篤姫)の教育掛かりであり、朝廷との和解に尽力し、「桐紋」が贈呈されました...続きを読む


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