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東大寺、奈良の大仏は建立当初、金箔貼りだったそうですが、今の大仏は銅ですよね。
いつ、金箔がはがされたのでしょうか?
また、誰がはがしたのでしょうか?
私の予想では、泥棒が金箔をはがしたのかな?
と思っていますが、どなたか真相を知りませんか?

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A 回答 (3件)

確かに当時、黄金に覆われていたのですが、金箔を貼り付けていたわけではありません。


銅に金は簡単にはくっつきません。

アマルガム法という方法で、水銀に金を投入すると、金と水銀の合金ができマス。
この合金を大仏様の表面に塗りつけ、その後に炭火で加熱し、水銀をとばす今考えると恐ろしく危険な方法でした。

その後は焼失その他でなくなっていきました。
ちなみに当時使用された金の重量は約9tと言われています。
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この回答へのお礼

水銀を使った、という話は聞いていたのですが、
合金を作って、水銀だけ飛ばす・・・
へぇ~×20
といった感じです。
確かに危険な方法ですね。

金の重さまで教えていただきまして
大変勉強になりました。
感謝します!!

お礼日時:2006/04/30 23:12

 こんにちは。



 お書きのように、創建時には金メッキなどが施されていたようですが、二度消失していますから、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代~室町時代の補修だそうです。
 つまり、補修時は金メッキがされなかった、と言う事だと思いますよ。

 ちなみに、金メッキですから、泥棒が簡単にはがす事は出来ないです。一生懸命、削る必要がありますから、そんなことすれば、音がしてお坊さんが駆けつけて来て捕まっちゃいます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7% …
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この回答へのお礼

大仏の身長は少し低くなった
ということを聞いていましたが、
頭部の補修があったからなんですね。
いろんな疑問が解けました。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/04/30 23:10

東大寺の大仏殿は、過去2回焼失しています。


1回目は治承4年(1180)、平重衝によって。
2回目は永禄10年(1567)松永久秀によって焼かれ、共に全焼しています。
現在の大仏殿は宝永6年(1709)に再建されたものです。
2回の焼失によって、表面に張られていた金箔も溶け落ちでしまったのでしょう。
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この回答へのお礼

焼失は聞いていましたが、2回もあったのですか。
情報ありがとうございました。

お礼日時:2006/04/30 23:08

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Q法華経の教えを簡単に言うと

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

どうぞ簡単に簡潔に教えてください m(_ _)m

Aベストアンサー

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦如来が実践したように、衆生伝道も含まれるのですね。これは菩薩が立てる四弘請願で明らかですね。簡単に言えば己を磨き、衆生を助ける「上求菩提下化衆生」ですね。
鎌倉期以降は「上求菩提下化衆生」が「上求菩提」と「下化衆生」型宗教に分かれてなにやらわからなくなってしまってますが、
1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。
3.学んだ教えを広めましょう。
の3点が本来的な主題ですね。仏教では正しく物事を観る、判断することを「正見」といいますがこれは「正信」つまり、正しい信仰を持つことと同じ意味ですね。
仏教では釈迦如来に帰依することが「正信」ですから、本尊は釈迦如来以外にはないですね。
釈迦如来を役割の違いで阿弥陀仏や大日如来と言い換えているだけですね。表現方法は寛容ですね。ということで仏教においては、弟子やお経は本尊には決してなりませんね。

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦...続きを読む

Q横断歩道外で横断歩行者等妨害等で切符を切られました。

お世話になります

今日車を運転中横断歩行者等妨害等で切符を切られました。反則点数2点罰金9千円です。

場所は信号のない交差点の横断歩道付近です。

状況を書きます。
私が気がついた時は横断歩道より2メートルほど手前の位置から突然おじさんが小走りで道路を横断してきていた為、止まることが出来ず、最短距離で2メートルほど接近しましたがおじさんは何もなかったように私の車の後ろを駆け抜けていきました。斜め横断で横断歩道外でのことす。

その後それを見ていた警察官2名がパトカーで追いかけてきて停止させられました。
警察官に横断歩道外でも違反になるのですか?と聞きましたらだめだと言われました。学校も近いし、徐行で交差点には進入してください・・・と。
実際のスピードは法定速度以内でしたが。

警察官の言うことを信じ、あきらめてサインをし、反則金も納付しました。

ところが横断歩道外で横断歩行者等妨害等で切符を切ることは出来ないのではないか?と人に言われました。
本当のところはどうなんですか?

もう済んだこととあきらめるしかないのでしょうか?

もし取り締まりをした警察官が違法な取り締まりをしたと言えるのならば、今からでも警察に行って話をしたいという気持ちもあるのですがいかがでしょうか?
今更ですかね?

お世話になります

今日車を運転中横断歩行者等妨害等で切符を切られました。反則点数2点罰金9千円です。

場所は信号のない交差点の横断歩道付近です。

状況を書きます。
私が気がついた時は横断歩道より2メートルほど手前の位置から突然おじさんが小走りで道路を横断してきていた為、止まることが出来ず、最短距離で2メートルほど接近しましたがおじさんは何もなかったように私の車の後ろを駆け抜けていきました。斜め横断で横断歩道外でのことす。

その後それを見ていた警察官2名がパトカーで...続きを読む

Aベストアンサー

法律では、道路交通法第38条(横断歩道等における歩行者等の優先)第一項

車両等は、横断歩道又は自転車横断帯(以下この条において「横断歩道等」という。)に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができるような速度で進行しなければならない。この場合において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。

となっています。今回歩行者は横断歩道を歩いていたわけではないことから歩行者の通行の妨げには該当しなかったとしても、
「当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができるような速度で進行しなければならない」
に反しているとして切符を切られたということではないかと思います。
つまり法定速度内ではなく、何時でも直ちに止まれる速度(これを徐行といいます)でなければならないのです。

もちろん例外として
「その進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き」
とあるので、争点はこの解釈になると思います。

判例ではかなり余裕のある安全距離があればよいようです。
ただ2mほど前を横断した歩行者がいるということは、もしその歩行者がちょっとだけ歩道に移動して渡ったときに、十分安全な距離が存在したといえなければ例外には該当しないでしょう。

今回は横断歩道のある交差点ですから第38条の2の適用はないでしょう。

法律では、道路交通法第38条(横断歩道等における歩行者等の優先)第一項

車両等は、横断歩道又は自転車横断帯(以下この条において「横断歩道等」という。)に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができる...続きを読む

Q北海道はどうして「道」なのですか?

素朴な疑問ですが、他は県なのに、どうして北海道は「道」なのですか?

Aベストアンサー

 こんばんは。
 
 序ですから都道府県という行政単位の呼称の歴史と違いについても一緒に解説しておきます。
 
 “北海道”は本州・四国・九州とは異なった歴史を有しています。府県は明治政府が江戸幕藩体制の“藩”を国の直轄する地方機関である“県”や“府”に置き換えたものです。いわゆる“廃藩置県”です。
 
 しかし北海道、すなわち当時の蝦夷地には江戸幕府の支配は及んでおらず、藩も存在していませんでした。現在の渡島半島には“松前藩”がありましたが、他の藩とは別格の存在です。新しい一つの地方機関で管轄することになり、明治新政府はそれを“北海道”と命名しました。
 
 “北海道”の名の由来は、奈良時代から平安時代にかけて存在した“五畿七道”という行政区画を参考にしたようです。“五畿七道”とは山城・大和・摂津・河内・和泉の五国と“東海道”・“南海道”・“西海道”・”東山道”・“北陸道”・“山陽道”・“山陰道”です。皇宮周辺の五国は重視され、それ以外の地域は国の上に道という行政区分を敷いていた訳です。

 “府”と“県”は重要度の違いと考えるべきでしょう。“県”は訓読みでは“あがた”と読み、単に“地方”を意味する言葉ですが、“府”という言葉は古代から“役所”の意味で使われてきました。そこで明治政府にとって特に重要な東京(首都)・大阪(商業都市)・京都(旧皇宮所在地)だけは府”とし、 他は“県”と呼ぶことになったようです。

 “都”は戦時体制の生き残りです。戦前は“都”がなく、上記の通り東京も“府”でした。“東京都”は太平洋戦争中の1943年に東京市(現在の23区)と東京府の機能を統合して出来たものです。戦争中は国家総動員体制のため、各種の機関が統合されたのですが、これもその一つです。中央集権主義の当時、東京市は国家機関の一種とされていたようです。
 
 戦後の地方自治制度の再整備によって、都道府県の法的な差異は全く無意味なものとなり、単なる名称の違いだけになりました。北海道という名称は「北海+道」でも「北+海道」でもなく、強いていえば“北海道”という名称で“都府県”のような行政区分の名前と地方の名前を兼ねているということになります。厳密な意味では“都道府県”ではなく“北海道都府県”ですね。 
 
 また、北海道には支庁という制度があります。これは広域な北海道の行政区分を分割するものですが、これを一つの県と考えることも可能でしょう。実際にこの支庁を県として独立させることも検討されたでしょうが、北海道の人口は面積比にして少ないです。分割してしまうと、他の“都府県”との格差も大きいということで白紙にされたと思います。
 
 しかし東京都“Tokyo Metropolitan Government”を除いては、神奈川県も大阪府も全て“Prefecture”です。そこで北海道は“Hokkai Pref.”なのか“Hokkaido Pref.”なのか、言語学者の間では論争となっているようです。北海道庁は後者を採用しています。私は“Hokkaido District”を勧めます。その方が“道州制”施行後の名称統一がスムーズに行えると考えます。
 
北海道庁:http://www.pref.hokkaido.jp/menu.html
 
北海道庁>地方分権・道州制:http://www.pref.hokkaido.jp/skikaku/sk-ssnji/bunken/
 
戸田孝の雑学資料室>「都」と「道」と「府」と「県」の違いについて:http://www.biwa.ne.jp/~toda-m/geo-hist/prefrank.html
 
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 こんばんは。
 
 序ですから都道府県という行政単位の呼称の歴史と違いについても一緒に解説しておきます。
 
 “北海道”は本州・四国・九州とは異なった歴史を有しています。府県は明治政府が江戸幕藩体制の“藩”を国の直轄する地方機関である“県”や“府”に置き換えたものです。いわゆる“廃藩置県”です。
 
 しかし北海道、すなわち当時の蝦夷地には江戸幕府の支配は及んでおらず、藩も存在していませんでした。現在の渡島半島には“松前藩”がありましたが、他の藩とは別格の存在です。新しい一つの地...続きを読む

Q【醤油の歴史】 醤油は日本発祥?中国発祥?韓国発祥?

先日、中国人・台湾人・韓国人、アメリカ人などの友人たちとご飯を食べに行きました。
「醤油はSoy sauceと呼ばれ、世界的に有名な調味料だよ。」とアメリカ人(クリス)が言ったので、
私は「醤油は16世紀に和歌山県(紀州)で発明された日本独自の調味料だよ。」と言うと
隣の中国人(プーチン)が「ちょっと待て!醤油はおよそ3000年前の中国で発祥したんだよ。中国発祥だ。」と言いました。
すると韓国人(パク)が「醤油は韓国発祥だ。」と言いました。
そこにいた全員が「韓国人が言う歴史だから・・・」といつものように無視したのですが、
醤油は日本発祥?中国発祥?韓国発祥?なのでしょうか?


調べてみると、中国にも大豆から作る「ジャンユ」があります。
韓国ではカンジャンと呼ばれる醤油があります。
インドネシアでも大豆を原料としたケチャップマニス・ケチャップアシンが使われています。
タイでも魚醤であるナンプラーがあり、大豆から作られた醤油(シーユー)もあります。
日本人が多く移民し、現在も日系人が多数在住しているハワイでも独自の醤油が生産されています。
日本では1640年代頃の寛永年間に、1年で製造できるこいくち醤油の生産が開始され、うすくち醤油は、1666年、円尾孫右兵衛によって開発されたとされています。

また「醤油のルーツは、古代中国に伝わる“醤(ジャン)”である。」という説から、「醤油は日本独自の調味料文化である。」という説など、多数ありました。

もし日本の薄口・濃口醤油が中国発祥なら、タイのナンプラーやインドネシアのケチャップマニスも中国発祥ということになりますか?

先日、中国人・台湾人・韓国人、アメリカ人などの友人たちとご飯を食べに行きました。
「醤油はSoy sauceと呼ばれ、世界的に有名な調味料だよ。」とアメリカ人(クリス)が言ったので、
私は「醤油は16世紀に和歌山県(紀州)で発明された日本独自の調味料だよ。」と言うと
隣の中国人(プーチン)が「ちょっと待て!醤油はおよそ3000年前の中国で発祥したんだよ。中国発祥だ。」と言いました。
すると韓国人(パク)が「醤油は韓国発祥だ。」と言いました。
そこにいた全員が「韓国人が言う歴史だから・・...続きを読む

Aベストアンサー

ルーツ・発祥などは「伝搬ルートが解明される事」によって特定出来る物だと言えます。

たとえば日本の麺類、蕎麦・うどんは明らかに中国にルーツを持ち、伝搬時期より前の物はありません。この場合、明確に「日本の蕎麦・うどんは中国に起源を持つ」と言える(うどんは中国で言う「雲呑」の訛ったもの)訳です。

さて、今回の醤油で「明確にルーツを特定出来る」でしょうか。
私は存じませんでしたが、質問者さんの調べた所に寄ると「明確な伝搬ルートは特定出来ず、同時発生的に生まれたとしても無理はない」のではないでしょうか。

先に生まれていたとしても伝搬がつまびらかでなければ、起源を名乗るのは異な物なのではないでしょうか。
これはたとえば日本の足軽と、イングランドのKnightについて、どちらかが先に生まれたとしてもそれを以て起源とする事は無理がある事と似ています。醤油について先に生まれたという事だけではなく、交易・文化交流の有無、文化伝搬などと併せて考える必要があるのではないでしょうか。

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む


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