歴史上の人物だと思うのですが、

神?に「我に七難八苦を与えたまえ」という有名な言葉を残した人は誰ですか? 
できればその出典、エピソードなども教えてください。

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A 回答 (5件)

山中鹿助さんのことですね。


神ではなく、三日月に祈っていたそうです。

エピソードは、こちらのH.Pをご覧ください。

http://www.cosmo-oil.co.jp/inf/kankyo/dagian/37/ …

http://ww3.tiki.ne.jp/~yamaken/a/a-human_yamanak …

参考URL:http://ww3.tiki.ne.jp/~yamaken/a/a-human_yamanak …
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あっという間の回答、ありがとうございました!

お礼日時:2002/02/06 21:09

戦国時代の尼子家の家臣、山中鹿之助幸盛の言葉です。



参考URL:http://www1.odn.ne.jp/~akasi/meigen/yamanaka-mei …
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この回答へのお礼

みなさん、回答ありがとうございました。
ここのところ、誰の言葉だったかな、と気になっていたんです。解決しました!

お礼日時:2002/02/06 21:12

一途に意志を貫いた武将



参考URL:http://www.m-network.com/sengoku/sen-07.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

お礼日時:2002/02/06 21:11
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

お礼日時:2002/02/06 21:10

 出雲・尼子家の名将「山中鹿之介幸盛」ですね。



参考URL:http://www2.ocn.ne.jp/~inokou/sikanosuke.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

お礼日時:2002/02/06 21:09

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Q「我に七難八苦を与えたまえ」

歴史上の人物だと思うのですが、

神?に「我に七難八苦を与えたまえ」という有名な言葉を残した人は誰ですか? 
できればその出典、エピソードなども教えてください。

Aベストアンサー

山中鹿助さんのことですね。
神ではなく、三日月に祈っていたそうです。

エピソードは、こちらのH.Pをご覧ください。

http://www.cosmo-oil.co.jp/inf/kankyo/dagian/37/21.html

http://ww3.tiki.ne.jp/~yamaken/a/a-human_yamanaka.htm

参考URL:http://ww3.tiki.ne.jp/~yamaken/a/a-human_yamanaka.htm

Qレポートにオススメな人物 歴史を大きく変えた人物 おもしろい歴史人物

などなど、題名の通りです。
レポートを書く時にまとめたらすごく良いものが仕上げられそうな人物はいないでしょうか?
どの時代でも結構です、歴史を大きく変えた、有名な人物はいないでしょうか?
また、調べたらおもしろい、私たちの知らないことが分かるような奥が深い人物はいないでしょうか?

なぜいいのかということも添えてもらえたら非常に嬉しいです。
では、どうか宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

こういったレポートの類では割と有名人が日本全国津々浦々の学生さん達に資料上でストーキングされていそうですね~歴史上のアイドル(?)には現実のアイドルと同様に私生活はあって無い様な物かもしれません。


とまぁ、余談はさて置いてこう言った課題で余り教科書には出てこない人物に親しむというのも有りとは思いませんか?


幾つか僕の個人的趣味丸出しなんですが・・・

山田方谷
時代は幕末!!日本全国の三百諸侯は財政難に喘いでいた。ある藩は密貿易に精を出し、またある藩は借金の踏み倒しに突っ走る!!彼の祖国「備中松山藩」もその一つだった。改革に成功すれば武士らしからぬ大悪人として天誅の刃。失敗すれば切腹という時代に生きた異端者の生き様とは?

ユリアヌス帝
ローマがローマで無くなる時代・・・4世紀。それは暗黒の中世の到来である。幼少の頃に実の従兄弟によって家族を失った少年はそれでも健やかに育ち、哲学を愛する健全な若者となった。
譲れない想い。守りたかった物。そして、幸せで満たされた過ぎ去った日々。彼は暗黒の時代の招来を阻止する事ができるのか?
彼に敵対した人は後にこう記している。
「彼は神の教えに対する裏切り者であったが、人類に対する裏切り者では無かった」と・・・



光武帝
数百年も続いた栄光ある帝国。だがどんな存在であれ永遠たり得ない。落日の後は古今東西繰り返されるであろう混沌。
倹しく、変化なんて有り得ない。故郷の村で晴耕雨読の毎日を過ごし、平凡ではあるけれど幸せな家庭を築き、孫に囲まれて往生する・・・漠然と思い描いていた未来。 しかし時代はそれを許さなかった。兄と共に兵を興し勝ち取った栄光の数々とその代償としての兄弟の死。彼の元に集いし将は二十八人。
後に名君として称えられ、中興の祖として帝国の再現を果たした唯一の人となった平凡な若者が歩んだ非凡な物語。


立見尚文
先駆者達は死に絶え、共に歩んだ戦友達が時代の彼方に飲み込まれた後に訪れた新時代「明治」。その時代を駆け抜けた武士(もののふ)が居た。
戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争・・・
近代国家「日本」は常に硝煙の詩と共にあった。
かつて手にしていた剣を小銃に換え、駆け抜ける日々。
其の時、老将の胸に去来したのは何だったのか?
若き日々の誓い?かつての戦友達の鎮魂?
「明治」の元勲達に最も恐れられた武士は皮肉にもその彼らを救う事になる。
何故、黒溝台の惨劇は広く知られること無く、陸奥の囲炉裏端で細々と語られる二十世紀最初で最後の「御伽話」となったのか?





んーついつい長文になってしまいましたね。
僕はミーハーなので熱く語りすぎた様ですね~
他の時代や国にも素敵な人は沢山いるからついつい目移りしちゃうんですよね~

こういったレポートの類では割と有名人が日本全国津々浦々の学生さん達に資料上でストーキングされていそうですね~歴史上のアイドル(?)には現実のアイドルと同様に私生活はあって無い様な物かもしれません。


とまぁ、余談はさて置いてこう言った課題で余り教科書には出てこない人物に親しむというのも有りとは思いませんか?


幾つか僕の個人的趣味丸出しなんですが・・・

山田方谷
時代は幕末!!日本全国の三百諸侯は財政難に喘いでいた。ある藩は密貿易に精を出し、またある藩は借金の踏み倒...続きを読む

Q仏教の分類について

仏教は、観光仏教・民俗仏教・葬式仏教・信仰仏教に分類されるそうですが、具体的にはどのような違いがあるのですか?できれば、その成立の過程や、現在の日本仏教への影響についても教えてください。

Aベストアンサー

 これは仏教の内容による分類というよりは、位相による分類だと思います。成立の過程や影響もなにも、現在の日本仏教をさまざまなレベルで区切るとこういったものに分類できる、ということでしょう。
 観光仏教というのは、京都や奈良の有名な寺院のように観光客集めの目玉として仏教を利用すること。拝観料と称して入場料を取ったり、縁結びのお守りを出したり、写経ツアーを組んだり、といったことでしょう。今のようにひどくなったのは戦後、ことに高度経済成長期以降旅行が手軽になってからですが、信心のお客さんを集めてお金にするという意味では善光寺や清水寺なんかは江戸時代からそうかもしれません。また巡礼も見方を変えれば観光仏教と言えるでしょう。
 民俗仏教というのは、お寺を離れて民俗信仰として息づいている仏教的なもののこと。京都の地蔵盆や各地に残っている百万念仏、あるいはお盆やお彼岸の地域的な風習といったものから、葬儀にかかわるその地域だけの習俗なども含まれると思います。山伏や修験も仏教的な要素を多く持っているという面で民俗仏教と言えるかもしれません。この起源はどこまでさかのぼれるか不明であるとしかいえませんが、多くの場合中世期に現在のかたちが完成しているようです。
 葬式仏教というのは、お寺もしくは仏教は葬式と法事だけをやればいい、という発想や信仰のこと。多くの日本人がそうであるように人が死んだときだけ仏教にかかわるという態度のことであり、一方お坊さんの側ではそうした人生の不幸に際して相手にたかるたちの悪い売僧への悪罵として用いられることもあるようです。これも今のような状況になったのは戦中から戦後にかけてですが、度合いこそ違え日本人は江戸時代ごろからそういう傾向がありました。幕府がキリシタン禁制を行うために、すべての日本人(神道者も含めて)はどこかのお寺に属し、そこで葬式をあげなくてはならない、という制度を作ったあたりに淵源があるといえます。
 信仰仏教は以上のいずれでもない、人間の苦しみを救うための信仰としての仏教のことでしょう。ここまでゆくとその淵源は聖徳太子あたりにさかのぼってしまいます。

 これは仏教の内容による分類というよりは、位相による分類だと思います。成立の過程や影響もなにも、現在の日本仏教をさまざまなレベルで区切るとこういったものに分類できる、ということでしょう。
 観光仏教というのは、京都や奈良の有名な寺院のように観光客集めの目玉として仏教を利用すること。拝観料と称して入場料を取ったり、縁結びのお守りを出したり、写経ツアーを組んだり、といったことでしょう。今のようにひどくなったのは戦後、ことに高度経済成長期以降旅行が手軽になってからですが、信心の...続きを読む

Q歴史上の人物で「勉強しづらい環境なのに必死に勉強した人」のエピソードを教えてください!!

私は今浪人生です。
受験生にとっては夏が終わりラストスパートがかかるときなのですが、
伸び悩んだり不安になる事が多く、
私もその一人で、過去問を見ても「こんなの解けるわけない」なんて負の感情をもってしまいます
そういうときは昔から自分より大変な人たちを思い浮かべる事で自分にやる気を出させてきたので今回もそうしてみようと思って質問しました!


歴史で有名な人物で(国内外&ジャンル問わず)

・子供でも働かなければいけないほど家が貧しかったり、普通ならとても勉強ができる環境ではない

・なのに必死に勉強して一流大学に入ったり大学教授になったり、その他なにかを成し遂げた

そんな人物のエピソードを教えてください

例:二宮尊徳
 勉強をすることを伯父に邪魔された為に、薪を拾う道中に勉強をしたりして農民を救い幕府に用いられた。など

Aベストアンサー

孔明は、どうやって自分をつくったのか。後年の大活躍の「原因」は、どこにあったのか。孔明の生い立ちには諸説があるので、それらを勘案して語りたい。
 孔明は九歳くらいで母を亡くした。少年には大変なショックであった。この世から光が消えたような─。父は後妻を迎える。父は、ある郡の副知事(丞)であった。その父も、孔明が十二歳くらいで死んだ。孔明は、こうして幼くして母を失い、父を亡くした。特別の財産があるわけでもない。残されたのは、父の後妻である継母、そして孔明の兄、姉、弟であった。どう生きるべきか、一家は途方に暮れた。相談の結果、叔父の諸葛玄を頼ることになった。一家は徐州の故郷を捨て、叔父の住む荊州へ向かった。南へ、南へ。中国は広い。移動の途中、少年は多くの流民と出会った。世は乱世である。戦乱によって殺された人々。焼かれ、破壊された町々。流浪する難民の数も限りなかった。〈後漢末期。王朝は衰え、群雄が覇を競っていた〉少年は、民衆の惨状を目の当たりにした。「何ということか。人間は幸福になるために生まれてきたのではないのか?なのに、どうして人間は、こんなにも不幸なのか?」「国はどうしてこんなにも乱れているのか?」少年は悩んだにちがいない。そして、乱れた世を救う"何か"を求めていった。
 やっと叔父の家に着いた。しかし、ここにも落ち着くことはできなかった。叔父が、さらに南の揚州の知事(太守)に任命されたからである。また移転 ─ 孔明は、兄とも別れ、さらに南へ、叔父とともに移っていった。  
 
 生きた学問智慧の学問
 このように広い中国の各地を転々としながら、生命の危険を乗り越え、風雨と闘い、空腹を耐え、そのなかで孔明は勉強したのである。豊かな自宅の、きれいな机で、悠々と学んだのではない。それでは、あの「常勝将軍・孔明」は絶対にできなかったであろう。孔明の学問は「生きた学問」であった。苦しむ民衆と交わり、語り、庶民の心の機微も学んだ。自分の生命を守る智慧も身につけた。精神を練った。肉体を鍛えた。渡り歩く各地の風土・地理・人情・風俗を調べ、鋭い目で観察し、自分のものとしていった。また各地の様子から指導者の善しあしを見抜いた。「我れ以外、皆我が師」 ─ 作家・吉川英治氏の言葉の通りであった。そのなかで、彼は「書物」を学んだ。書物の教えを、体験を通して、ひとつひとつ身につけていった。「知識」を「智慧」に変えていった。ここが偉大である。   
 しかも彼の「学び」は、目的がはっきりしていた。この乱れた世の中をどう救うか。未来をどうすれば一番よいか ─ ここに焦点があった。目的が明確だったゆえに、学んだことが何ひとつ無駄にならなかった。こうして苦労が全部、孔明の成長の「こやし」となったのである。
 孔明は、叔父とともに、叔父の任地・揚州についた。しかし、そこには思いもかけぬ事件が待っていた。他の実力者から任命された別の「知事」がやってきたのだ。「私こそ本当の知事だ」「いや私こそ」.…。そのころ国の命令系統が乱れ、こうした混乱が少なくなかった。
 "二人の知事"が争うことになった。戦争が始まった。実力で決着をつける以外になかった。しかし叔父は敗れた。追放されてしまった。孔明は敗戦の惨めさを骨身に徹して知った。
 彼は敗れた兵隊たちとともに、命からがら逃げ回った。叔父も逃走中に殺されたという説もある。「よし!」。孔明は誓った。血涙にまみれて、我が身に言い聞かせた。「二度と負けてはならない。絶対に勝たねばならない。負ければ、これ以上の不幸はない」
 孔明は再び、流浪の身になった。その時、十七歳と言われる。荊州に戻り、その後、十年間、晴耕雨読の生活で、弟妹を養いながら、自分を鍛えに鍛え、「一剣」を磨きに磨いた。「不敗」「常勝」の智慧と力を養った。立ち上がる「その時」を目指して、苦労し、勉強し、あらゆるものを吸収した。そういう彼を知るものは、例えば村の長者は娘と結婚させ、親友徐庶は、劉備に、彼の登用を薦めた。ついに「その時」が訪れた。二十七歳、主君となる劉備玄徳と出会う。ここから「三国志」の、あの大活躍が始まるのである。
   
 
 「鞠躬して尽力し、死して後、已む」と。身をかがめて真剣に尽力し、死ぬまで戦いをやめない、との意味であります。鞠躬─頭を下げ、礼をもって接する。偉くなればなるほど、身をかがめて、相手を敬い、力のかぎりを尽くしていく。



 あの「三国志」の大英雄・諸葛孔明も、名指導者の要件として、「天よりも曇りのない目をもって、人物の善悪を見極めること」を挙げていた。
 そして、国土のすみずみまで心を配りながら、公平かつ厳正な目をもってへ優秀で善良な人間を登用し、貪欲で惰性の人間は退けていくことを強調した。
 そうすれば、良き人材は雲のように集まってくるというのである。
 孔明は、恩を忘れて自分の繁栄ばかりを考え、全体のことを心配する気持ちを全く持たない人間、また、自分は何もしないくせに、威張って他の人々を非難する人間に対しては、まことに厳しかった。
 そうした人間を放置しておいたら、将来に破滅と禍をもたらしてしまうからである。厳しいようであるが、大切な歴史の教訓である。  
〈『中国古典新書続編 諸葛孔明語録』中林史朗著・明徳出版社、『諸葛孔明の兵法』守屋洋編訳、徳間書店などを参照〉

※徐庶は水鏡先生(司馬徽の翁)の弟子でしたが、孔明は
働きながら学んだ刻苦勉励の人です、偉いな(^-^)

孔明は、どうやって自分をつくったのか。後年の大活躍の「原因」は、どこにあったのか。孔明の生い立ちには諸説があるので、それらを勘案して語りたい。
 孔明は九歳くらいで母を亡くした。少年には大変なショックであった。この世から光が消えたような─。父は後妻を迎える。父は、ある郡の副知事(丞)であった。その父も、孔明が十二歳くらいで死んだ。孔明は、こうして幼くして母を失い、父を亡くした。特別の財産があるわけでもない。残されたのは、父の後妻である継母、そして孔明の兄、姉、弟であった。ど...続きを読む

Q「小乗仏教」という言葉の使用が適切でない理由

「小乗仏教」という言葉の使用が適切でない理由とは何ですか?

以前、仏教について「仏教は主に小乗仏教と大乗仏教に分類されるが、小乗仏教という言葉の使用は適切ではない」という話を聞きました。
イマイチこの意味がわからないのですが…。

小乗仏教は上座部仏教の蔑称であるから適切ではない、のでしょうか?

どなたか回答お願いします。

Aベストアンサー

もともと「大乗仏教」と「小乗仏教」が存在したわけではありません。
釈迦の教えを忠実に守る上座部仏教というのがあり、
それに対し後から出てきた一派(つまり新興宗教)が自らを大乗(仏教)と名乗り、先に存在する上座部仏教のことを古くて小さな考えしか持たない小乗(仏教)だと罵った言い方をしたものです。

上座部仏教にすれば、大乗と名乗る団体こそ新参者に過ぎない軽蔑すべき団体ですが、いかにせん大衆を味方につけた大乗側の圧倒的な勝利に、上座部仏教は小乗との汚名を着せられた格好になったものです。

歴史的に考えても、釈迦の教えを忠実に守る上座部仏教は決して低く見られる存在でなく、大乗側が勝手に付けた蔑称は好ましくないと言うことです。

Qケチで有名な歴史上の人物

徳川家康は幼少時代の経験からか、かなりのケチで知られていますが、国内外の歴史上の有名人で、吝嗇家の興味深い逸話がありましたら教えて下さい。

Aベストアンサー

 【徳川吉宗】もそうだと言われていますが、江戸時代の名君と称えられている人は、この傾向が強いように思います。、財政のことを考えれば、まだこの時代ではそうならざるを得ないでしょうね。
 【浅野内匠頭】が吉良上野介に意地悪されたのは、同役よりも吉良さんへの贈り物が少なかったということと、勅使接待の予算をケチったからだといわれていますが、本当なんでしょうか。
 幕末の探検家として有名な【松浦武四郎】の死ぬ前の言葉は『煎り豆を腹一杯食べてみたい』であったそうです。
 貧乏のどん底にあったように想像されますが、実はしっかりと600坪の屋敷を残した資産家でした。伊勢の人はケチという評判があるらしいですね。↓
http://shanshando.exblog.jp/m2006-02-01/#3503038
 阪神タイガースの【吉田義男】、まだお元気で歴史上の人物とは言い難いですが、牛若丸といわれたその名手振りは、伝説になっていますので、監督時代のケチ伝説も披露させてもらいます。
 まあ、有名税ということで我慢してもらいましょう。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%BE%A9%E7%94%B7
 歴史上の大人物の面白いケチケチ伝説というのは、なかなか無いものですね。

 【徳川吉宗】もそうだと言われていますが、江戸時代の名君と称えられている人は、この傾向が強いように思います。、財政のことを考えれば、まだこの時代ではそうならざるを得ないでしょうね。
 【浅野内匠頭】が吉良上野介に意地悪されたのは、同役よりも吉良さんへの贈り物が少なかったということと、勅使接待の予算をケチったからだといわれていますが、本当なんでしょうか。
 幕末の探検家として有名な【松浦武四郎】の死ぬ前の言葉は『煎り豆を腹一杯食べてみたい』であったそうです。
 貧乏のどん底...続きを読む

Qなぜ仏教は力を失ってしまったのか

 
問う人:
なぜ仏教は力を失ってしまった。

「人の道」:
それは仏教が本来の理念と哲学を失い、安々とビッグバン理論の上に居座り、一神教世界の仲間入りをしたからである。
これでもー仏教は仏教でなくなった。
これで仏教は理念と哲学を完全に失い、ただ南無妙法蓮華経とかお経を唱えるだけの安物になってしもーた。

問う人:
仏教が力を取戻すことはできるのか。

「人の道」:
いや、こーなってしまった以上、仏教が力を取戻すこと出来まい。
仏教は安々とビッグバン理論の上に居座り、宇宙の偉大さを忘れ、創造主を求めるよーなった。
もはや仏教は仏教ではなくなった。
仏教はミーハーになってしもーた。

問う人:
あ~、哀れ仏教。
皆はどー思う。
 

Aベストアンサー

とうほぐの被災地で、ある曹洞宗の寺の檀家が30名も亡くなったんだと。

で、30名に戒名付けて、ひとり当たり平均30万円として、「被災遺族から900万円もの戒名料を巻き上げんのかい?と友人に聞かれた坊主は、さすがに欲ボケ、焼け太りはイケないと戒名料を無料にしたとさ。

その話を聞いた、情動信州の葬式坊主がの、「そんな話を広められて、戒名料を取れなくなるのは困る」って談話を発表しただと。

これが、仏教の実態やで。たまたま曹洞宗が慈悲を持ち、浄土真宗が無慈悲ということになっちょるが、これは偶々じゃて。みんな、出家坊主の葬式ビジネスの話じゃ。

Q有名歴史上人物の名言一覧を探しています。

教員採用試験に備えて歴史上の哲学者、思想家、教育者、政治家などの人物が残した名言や●●論などの「一覧」を探しています(書写、著書、名言)
HPなどを知っていたら教えてください。
よろしくお願致します。



ソクラテス(無知の血)
私は自分が無知だという事実以外は何も知らない。

福沢諭吉(学問のすすめ)
天は人の上に人を作らず、

ルソー(社会契約論)
人は生れながら自由で,しかもいたるところで鎖に縛られている

Aベストアンサー

ずばり【名言一覧】どうぞ。

参考URL:http://www1.ocn.ne.jp/~iyasiro/kikou/meigen0.htm

Qヒンズー教、バラモン教、仏教

インドは零の発見など文明として数々の発明発見をしてきた土地だと思います。また、宗教上でも多くの宗教が芽生え発展してきたように思います。

現在、ヒンズー教がインドで最も盛んな宗教のようですが、ヒンズー教の前身にバラモン教があると勉強しました。

質問:現在、日本で私を含め信仰の深い仏教もインドから中国、朝鮮を通じて日本に入ってきましたが、この仏教はヒンズー教より歴史は古いのでしょうか?

質問:今、仏教はインドではどうして多数派では無いのでしょうか?
昔から仏教を信仰してきた私には、発祥の地のインドで仏教が盛んではないないというのが残念です。

また、お隣の中国は逆に現在仏教に関してはかなり研究が盛んに行われているようです。
質問:チベットは密教として仏教が盛んのようですが、チベットの仏教とインドの仏教の接点を教えてください。

Aベストアンサー

インドでは今から3000年ほど前にヴェーダやウパニシャッドという
聖典がすでに成立しています。結局のところインドの宗教はすべて
これらのインド哲学の聖典が元になっています。同じ聖典を基にしている点
ではインド宗教は、ユダヤ教とキリスト教・イスラム教のような関係と言えます。


ヴェーダに登場する火の神(アグニ)を信仰していた彼らは森を焼き、
農地を拡大していきました。その結果として洪水被害や塩害のような
環境被害が繰り返されます。当時のの哲学に共通する特色としては
「なんでこんなに苦しまなきゃいけないの?」というものです。
現代の我々はそれが化学作用によるもので人間が原因だと理解できますが、
これに近い明確な答えを出したのがインド哲学です。
つまりこれらの原因を「業(カルマ)」であるとしました。



数百年後、仏教の開祖「シャカ」が誕生します。
彼はヴェーダの思想どおり、「殺すからその報いを受けている」と考えました。
ところが彼の思索はさらにその先に突き抜けてしまいます。つまり
「我々の食事は動物を殺して食べている。だから植物を食べて生きよう」
という凄まじい結論に達します。この<<不殺>>の考えはヴェーダの「業」を信じ、
環境被害に苦しんでいたインドの人々に広く受け入れられ、
急速に勢力を拡大していきます。




ここから様々な分派が生まれますがインドにおいてはヴェーダの思想が強く、
カーストを否定した仏教徒との対立が次第に多くなります。
とはいえ、「業」の思想に明確な答え<<不殺>>を出した仏教も支持され
カースト(前世の業による階級制)の思想と仏教の不殺の思想が融合していきます。
こうして成立したのがヒンドゥー教です。



一方で中国にわたった仏教は、儒教や道教の思想と出会い、
やはり融合をすることになります。この中国仏教が日本に伝わっている仏教です。
統治論としての政治手法や組織宗教としての完成度は高まっていますが
一方で最初の理想である<<不殺>>は大部分で失われており、ほぼ別物です。
つまり原始仏教の成立は早いものの、日本に伝来した中国仏教は
成立がかなり後期ということになります。



これ以外にも様々な宗教が仏教との融合により生まれています。
チベット土着の宗教であるボン教は巫女による神との交信を行っていた宗教ですが、
これが仏教と出会い儀式性の強いチベット仏教へと変化していったのです。

インドでは今から3000年ほど前にヴェーダやウパニシャッドという
聖典がすでに成立しています。結局のところインドの宗教はすべて
これらのインド哲学の聖典が元になっています。同じ聖典を基にしている点
ではインド宗教は、ユダヤ教とキリスト教・イスラム教のような関係と言えます。


ヴェーダに登場する火の神(アグニ)を信仰していた彼らは森を焼き、
農地を拡大していきました。その結果として洪水被害や塩害のような
環境被害が繰り返されます。当時のの哲学に共通する特色としては
「なんでこ...続きを読む

Q赤ひげ、あるいは赤毛で有名な歴史人物を教えてください

今思いつくのは
赤毛のエリック(バイキング)
フリードリヒ1世(赤ひげ王?)
南北戦争のユニオン側の将軍(名前は忘れました)
ユダ
だけです。他に有名な赤毛、あるいは赤ひげの人物はいますか?

Aベストアンサー

ハイレッディン・レイス
「バルバロッサ(赤ヒゲ)」というあだ名を持つ海賊
地中海を荒らしまくった


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